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八
恋の季節-2
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「こっちこっち、見て、ゲオルグ!」
「本当だ、こういう可愛い感じの花畑もあるんですね」
可憐な花が咲き乱れる春の小道を、アーシュラが笑いながら駆けてゆく。
彼女は疲れやすいし、視界も狭いので、日ごろは元気でも出来るだけ走らないようにしているというのに、そんなことは忘れているようだ。久しぶりにゲオルグが顔を見せたことがよっぽど嬉しいらしい。
いつもなら、走るなと小言を挟む従者が居るのだけれど、今日はなぜか、エリンの姿は見えなかった。
「ふふふふふ、まるで、どこかの山のお花畑みたいでしょ、わたくしがお願いして、作ってもらったのよ」
得意げに言って、クルリと回ってみせる。金の髪と、フワフワしたドレスの軽い生地が、柔らかい風のように広がって、まるで春の妖精のようだ。
「ここのお花の名前なら、わたくし、全部知っているの。どんな風に花が枯れて、種がなるのかもよ、すごいでしょう、ねぇ」
長い睫毛に飾られた、この庭のスミレのような紫の瞳がキラキラ光って、ゲオルグを見ている。ヒラヒラとよく動く手のひらは白く、スッと伸びた腕はどきりとするほど細かった。
「……それは、すごいな」
すっかり見とれていたらしい少年は、ようやくそれだけ口にする。
もう今年は十八歳になるというのに、時を拒絶しているかのように幼く見える皇女は、その容姿どおり世間知らずで、だからこそ信じがたいほどに美しい。ゲオルグは、数カ月ぶりに会ったこの夢のような人を、言葉少なに見つめていた。
「今日はねえ、わたくし……」
気持ちの良い風に髪をなびかせながら、アーシュラは少し迷うように口を開き、数歩少年に歩み寄ろうとした。気に留めるようなところの無い何気ない所作、美しく手入れされた小道には躓くようなものは無い。けれど――
「――――っ」
唐突に少女の身体がぐらりと傾く。
「あっ……!」
何が起きたかと思うより先に、少年は手を伸ばした。咄嗟に腕を掴んで引き寄せる。次の瞬間、綿が詰まっているんじゃないかと思えるくらい、軽くて柔らかい体が彼の腕に収まった。
「え……あ……っ、と、その……」
ゲオルグは狼狽する。彼女の身体に触れたのはこれが初めてだった。
「す、すみません、つい……」
無礼な振る舞いをしてしまったと思ったらしい。少年はすぐ彼女から離れようとするけれど、アーシュラはぼんやりと彼の顔を見つめたまま、赤子のように身体の力を全部抜いてしまっていて、手を離すと崩れ落ちてしまう。だから、離れることはできなかった。困った顔の友人に、アーシュラはふわりと笑う。
「ゲオルグ、わたくし、決心がついたかも」
「え?」
「あなたに、わたくしの秘密をひとつ、教えてあげる」
言葉の意味が分からず、ゲオルグは首をかしげる。皇女は、自らのふたつの紫のうち、見える方の一つを指した。
「こっちの目、隠してみて」
「何を……」
「いいから」
訳の分からない命令に、少年は皇女を支えたまま、おずおずと従う。
「こう、ですか?」
エリンの手とは少し形の違う、大きな手のひらは暖かい。アーシュラは微笑んだままで、ほうと息をつく。
「ええ。真っ暗ね」
片方の目は、ゲオルグの顔を見ているのに。何を言っているのだろうか。少年がそう言いたげなのを見越したように、アーシュラは続けた。
「見えないの。あと、耳もね、わたくしの世界は、半分だけ」
「え……」
「ずっと、言えなかったの」
「どうして……」
「あなたに、わたくしが普通じゃないって、思われるのが嫌だったからかしら」
「殿下……」
「びっくりした?」
「それはまぁ……驚きます」
片目を塞がせたままで、アーシュラはゲオルグの声を聞いた。彼女なりに、不安だったのだ。彼の顔を見るのが。
「だけど殿下、違いますよ、たぶん」
「何が?」
「あなたの世界です。半分じゃないでしょ。全部見えても、半分でも、きっと……見えてなくても、消えて無くなるわけじゃないんだから」
「見えなく……なっても?」
「楽観的すぎるかな」
「……ううん、そんなことはないわ」
言って、アーシュラは身体を起こした。それから、少し眩しそうに空を仰ぐ。
「良かった。ちょっと安心したわ」
「……僕は、エリンがいつも、あなたに走るなと言っている意味がやっとわかりましたよ」
「エリンは大げさなのよ」
「そんなことはない、これからは僕も言いますよ」
苦笑するゲオルグに、アーシュラは不満気な声を上げるが、少年は駄目ですよと念を押した。
「お顔に怪我でもしたら大変でしょ」
「しないわよ、気をつけてるし、もう随分慣れたもの」
「今さっき転んだくせに」
「……わざとよ、わざと」
「へぇ」
「もう!」
そして、花畑の真ん中で、二人で笑った。
「本当だ、こういう可愛い感じの花畑もあるんですね」
可憐な花が咲き乱れる春の小道を、アーシュラが笑いながら駆けてゆく。
彼女は疲れやすいし、視界も狭いので、日ごろは元気でも出来るだけ走らないようにしているというのに、そんなことは忘れているようだ。久しぶりにゲオルグが顔を見せたことがよっぽど嬉しいらしい。
いつもなら、走るなと小言を挟む従者が居るのだけれど、今日はなぜか、エリンの姿は見えなかった。
「ふふふふふ、まるで、どこかの山のお花畑みたいでしょ、わたくしがお願いして、作ってもらったのよ」
得意げに言って、クルリと回ってみせる。金の髪と、フワフワしたドレスの軽い生地が、柔らかい風のように広がって、まるで春の妖精のようだ。
「ここのお花の名前なら、わたくし、全部知っているの。どんな風に花が枯れて、種がなるのかもよ、すごいでしょう、ねぇ」
長い睫毛に飾られた、この庭のスミレのような紫の瞳がキラキラ光って、ゲオルグを見ている。ヒラヒラとよく動く手のひらは白く、スッと伸びた腕はどきりとするほど細かった。
「……それは、すごいな」
すっかり見とれていたらしい少年は、ようやくそれだけ口にする。
もう今年は十八歳になるというのに、時を拒絶しているかのように幼く見える皇女は、その容姿どおり世間知らずで、だからこそ信じがたいほどに美しい。ゲオルグは、数カ月ぶりに会ったこの夢のような人を、言葉少なに見つめていた。
「今日はねえ、わたくし……」
気持ちの良い風に髪をなびかせながら、アーシュラは少し迷うように口を開き、数歩少年に歩み寄ろうとした。気に留めるようなところの無い何気ない所作、美しく手入れされた小道には躓くようなものは無い。けれど――
「――――っ」
唐突に少女の身体がぐらりと傾く。
「あっ……!」
何が起きたかと思うより先に、少年は手を伸ばした。咄嗟に腕を掴んで引き寄せる。次の瞬間、綿が詰まっているんじゃないかと思えるくらい、軽くて柔らかい体が彼の腕に収まった。
「え……あ……っ、と、その……」
ゲオルグは狼狽する。彼女の身体に触れたのはこれが初めてだった。
「す、すみません、つい……」
無礼な振る舞いをしてしまったと思ったらしい。少年はすぐ彼女から離れようとするけれど、アーシュラはぼんやりと彼の顔を見つめたまま、赤子のように身体の力を全部抜いてしまっていて、手を離すと崩れ落ちてしまう。だから、離れることはできなかった。困った顔の友人に、アーシュラはふわりと笑う。
「ゲオルグ、わたくし、決心がついたかも」
「え?」
「あなたに、わたくしの秘密をひとつ、教えてあげる」
言葉の意味が分からず、ゲオルグは首をかしげる。皇女は、自らのふたつの紫のうち、見える方の一つを指した。
「こっちの目、隠してみて」
「何を……」
「いいから」
訳の分からない命令に、少年は皇女を支えたまま、おずおずと従う。
「こう、ですか?」
エリンの手とは少し形の違う、大きな手のひらは暖かい。アーシュラは微笑んだままで、ほうと息をつく。
「ええ。真っ暗ね」
片方の目は、ゲオルグの顔を見ているのに。何を言っているのだろうか。少年がそう言いたげなのを見越したように、アーシュラは続けた。
「見えないの。あと、耳もね、わたくしの世界は、半分だけ」
「え……」
「ずっと、言えなかったの」
「どうして……」
「あなたに、わたくしが普通じゃないって、思われるのが嫌だったからかしら」
「殿下……」
「びっくりした?」
「それはまぁ……驚きます」
片目を塞がせたままで、アーシュラはゲオルグの声を聞いた。彼女なりに、不安だったのだ。彼の顔を見るのが。
「だけど殿下、違いますよ、たぶん」
「何が?」
「あなたの世界です。半分じゃないでしょ。全部見えても、半分でも、きっと……見えてなくても、消えて無くなるわけじゃないんだから」
「見えなく……なっても?」
「楽観的すぎるかな」
「……ううん、そんなことはないわ」
言って、アーシュラは身体を起こした。それから、少し眩しそうに空を仰ぐ。
「良かった。ちょっと安心したわ」
「……僕は、エリンがいつも、あなたに走るなと言っている意味がやっとわかりましたよ」
「エリンは大げさなのよ」
「そんなことはない、これからは僕も言いますよ」
苦笑するゲオルグに、アーシュラは不満気な声を上げるが、少年は駄目ですよと念を押した。
「お顔に怪我でもしたら大変でしょ」
「しないわよ、気をつけてるし、もう随分慣れたもの」
「今さっき転んだくせに」
「……わざとよ、わざと」
「へぇ」
「もう!」
そして、花畑の真ん中で、二人で笑った。
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