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八
恋の季節-3
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日没が来てゲオルグが城を出るまで、エリンは彼らから少し離れた、けれど二人の様子がよく見える木の上に腰掛けて、黙って見守っていた。
二人はずっと仲良く話をしたり、散歩をしたりして時間を過ごしていた。アーシュラが転びそうになったときは、思わず出ていこうかと思ったけれど、きっと、絶対、後で怒られるだろうと思って我慢した。
今まで、ゲオルグが来る時もいつも一緒だったのに、今日に限ってアーシュラの傍を離れたのは、彼女に頼まれたからに他ならない。ゲオルグが帰るまで寄ってくるなと、きつく申しつけられたのだ。
「…………」
それで、こうして、木の上に隠れて二人を観察している。
主人の命なのだから、従わない選択肢はないのだけれど、何故だか、得体のしれない不満を感じていた。二人が話している内容が妙に気になって、師の『耳』を借りてくればよかったと後悔したりもした。
エリンには分からない。アーシュラがあんなに嬉しそうに笑っているのに、どうして自分は嬉しくないのだろう。こんなことは今まで無かった。自分にとっては、彼女が世界のすべてなのだから、アーシュラが嬉しいことが、自分の歓びであるはずなのに。
自分が、剣として不適格な人間になってしまったような気がして恐ろしい。他のものには決してなれないのに。
何となく、ゲオルグと別れた後もアーシュラの視界に入ることが憚られ、姿を隠したまま、彼女が自室へ戻っていくのを確認して、それから、石の廊下に音もなく降り立つ。
「エリン?」
彼を呼ぶ声がしたのは、その直後のことであった。
「一人なんだ、珍しいね」
にこやかに話しかけてきたのは、ベネディクトだった。
「姉上は?」
「今、部屋に戻られたところです」
「今日もあの……なんて名前だっけ、商人の……」
「ゲオルグ・カルサスのことですか」
「ああ、そんな名前だったね」
「彼がどうかしましたか」
「いや、ちょっと、姉上が心配で……だってほら、今までこういうことって無かったから、さ……」
ベネディクトは言いよどむ。要するに、どこの誰とも知れない平民が姉に頻繁に会いに来るという状況が不安なのだろう。
城に平民が度々招かれることなんて、そう前例の無いことだ。アドルフが口を挟まないため城内の誰も表立って異論を唱えることはなかったが……城で妙にのびのび過ごすゲオルグのことを不審に思う者はおそらく、皇子の他にもいる。
「殿下が彼を気に入っておられますので」
「そうなんだろうけど……どんな人?」
恐る恐る尋ねるベネディクトに、エリンは少し考えて言った。
「明るい方ですよ」
「ふぅん……」
ベネディクトは腑に落ちない様子で曖昧な相槌をうった。
エリンは、小さい頃から姉のことが大好きな皇子の心中を何となく察し、珍しく自分から話題を変える。
「殿下、最近は頻繁に外出されていると伺っていますが、城外に何か楽しみでも見つけられたのですか?」
話題の選定は正解だったらしい。ベネディクトはパッと表情を明るくして顔を上げた。
「ああ、うん、そうなんだよ。僕、友達ができたんだ!」
皇子はにっこりと笑う。
「ご友人……ですか」
「そうだよ、クーロっていってね、僕よりちょっと年下なんだけど、彼もバードウォッチングが好きで、この間は一緒にレマン湖に白鳥を見に行ったんだ」
「ハクチョウ……」
「エリンは見たことない?」
「……城の池には居ないのでしょうか?」
「アヴァロン城には来ないね。でも、麓のレマン湖には冬になると沢山やって来るんだよ。大きくて、白くて、首が長くて、とっても優雅な鳥なんだ。クーロは、とても近くで観察できる場所を知っていたんだよ」
城内でベネディクトが、こんな風に嬉しそうな顔で話をしているのを見るのは久しぶりだ。エリンにとって彼は、唯一の友人ともいえる存在であったから、ベネディクトが元気なのは、単純に喜ばしいことだ。
「それは……良かったですね、殿下」
「うん!」
アドルフの癇癪は、一時のように頻繁ではなくなっていたものの、今も無くなったわけではない。今だって、ベネディクトが顔を腫らしてすすり泣く、辛い夜が時折訪れる。誰も救いの手を差し伸べられないのだって、変わっていない。
けれど、少なくとも、今のようにベネディクトが怯えた顔で過ごさずに居られる時間があるということは、とても、良いことのように思われた。
二人はずっと仲良く話をしたり、散歩をしたりして時間を過ごしていた。アーシュラが転びそうになったときは、思わず出ていこうかと思ったけれど、きっと、絶対、後で怒られるだろうと思って我慢した。
今まで、ゲオルグが来る時もいつも一緒だったのに、今日に限ってアーシュラの傍を離れたのは、彼女に頼まれたからに他ならない。ゲオルグが帰るまで寄ってくるなと、きつく申しつけられたのだ。
「…………」
それで、こうして、木の上に隠れて二人を観察している。
主人の命なのだから、従わない選択肢はないのだけれど、何故だか、得体のしれない不満を感じていた。二人が話している内容が妙に気になって、師の『耳』を借りてくればよかったと後悔したりもした。
エリンには分からない。アーシュラがあんなに嬉しそうに笑っているのに、どうして自分は嬉しくないのだろう。こんなことは今まで無かった。自分にとっては、彼女が世界のすべてなのだから、アーシュラが嬉しいことが、自分の歓びであるはずなのに。
自分が、剣として不適格な人間になってしまったような気がして恐ろしい。他のものには決してなれないのに。
何となく、ゲオルグと別れた後もアーシュラの視界に入ることが憚られ、姿を隠したまま、彼女が自室へ戻っていくのを確認して、それから、石の廊下に音もなく降り立つ。
「エリン?」
彼を呼ぶ声がしたのは、その直後のことであった。
「一人なんだ、珍しいね」
にこやかに話しかけてきたのは、ベネディクトだった。
「姉上は?」
「今、部屋に戻られたところです」
「今日もあの……なんて名前だっけ、商人の……」
「ゲオルグ・カルサスのことですか」
「ああ、そんな名前だったね」
「彼がどうかしましたか」
「いや、ちょっと、姉上が心配で……だってほら、今までこういうことって無かったから、さ……」
ベネディクトは言いよどむ。要するに、どこの誰とも知れない平民が姉に頻繁に会いに来るという状況が不安なのだろう。
城に平民が度々招かれることなんて、そう前例の無いことだ。アドルフが口を挟まないため城内の誰も表立って異論を唱えることはなかったが……城で妙にのびのび過ごすゲオルグのことを不審に思う者はおそらく、皇子の他にもいる。
「殿下が彼を気に入っておられますので」
「そうなんだろうけど……どんな人?」
恐る恐る尋ねるベネディクトに、エリンは少し考えて言った。
「明るい方ですよ」
「ふぅん……」
ベネディクトは腑に落ちない様子で曖昧な相槌をうった。
エリンは、小さい頃から姉のことが大好きな皇子の心中を何となく察し、珍しく自分から話題を変える。
「殿下、最近は頻繁に外出されていると伺っていますが、城外に何か楽しみでも見つけられたのですか?」
話題の選定は正解だったらしい。ベネディクトはパッと表情を明るくして顔を上げた。
「ああ、うん、そうなんだよ。僕、友達ができたんだ!」
皇子はにっこりと笑う。
「ご友人……ですか」
「そうだよ、クーロっていってね、僕よりちょっと年下なんだけど、彼もバードウォッチングが好きで、この間は一緒にレマン湖に白鳥を見に行ったんだ」
「ハクチョウ……」
「エリンは見たことない?」
「……城の池には居ないのでしょうか?」
「アヴァロン城には来ないね。でも、麓のレマン湖には冬になると沢山やって来るんだよ。大きくて、白くて、首が長くて、とっても優雅な鳥なんだ。クーロは、とても近くで観察できる場所を知っていたんだよ」
城内でベネディクトが、こんな風に嬉しそうな顔で話をしているのを見るのは久しぶりだ。エリンにとって彼は、唯一の友人ともいえる存在であったから、ベネディクトが元気なのは、単純に喜ばしいことだ。
「それは……良かったですね、殿下」
「うん!」
アドルフの癇癪は、一時のように頻繁ではなくなっていたものの、今も無くなったわけではない。今だって、ベネディクトが顔を腫らしてすすり泣く、辛い夜が時折訪れる。誰も救いの手を差し伸べられないのだって、変わっていない。
けれど、少なくとも、今のようにベネディクトが怯えた顔で過ごさずに居られる時間があるということは、とても、良いことのように思われた。
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