紫灰の日時計

二月ほづみ

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揺れる心-3

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「――おや?」
 夜半過ぎ。従者が落とした小さなつぶやきに、腰掛けたまま目を閉じていたアドルフは薄く目を開けた。
「何だ」
 低い問いに、ツヴァイは顔を上げる。
「いいえ、何でもありません。耳をひとつ、貸していたみたいで」
「……何だ、それは」
「ふふ、大丈夫です。すぐに戻ってくるでしょうから」
 そう言って、白の剣は微笑んだ。


 月夜のジュネーヴを、影が走る。
 込み入った路地も華やかな大通りも関係なく、ほんの煉瓦一本分の幅しか無い棟の上を、エリンは軽やかに駆けていく。高層ビルの無いこの街で、その夜彼の姿を目にしたものは居なかっただろう。いや、たとえ居たとしても、屋根の上を疾走する影など、それが人間だとは思わないのが道理である。とにかく、エリンは深夜の街を走りぬけ、目的の屋敷にたどり着いていた。高い壁や鋭い鉄柵などは、無論、彼の行動を微塵も阻みはしない。
(当主の部屋は……)
 屋敷の構造は分からないけれど、ここは要塞ではなくて普通の住宅だ。おそらく家人の部屋は、庭に面した眺めの良い場所の部屋だろうと推測される。外壁伝いに人の気配のある場所を探った。
 やがて、明かりのついた部屋の一つに、バシリオらしい大人の男の姿を見つける。客が居るのか、誰かと話しているようだった。
 都合の良いことに、庭に面した窓がいくつか開いている。エリンは、こっそり拝借してきたツヴァイの『耳』を取り出して身につけると、音の漏れる方へ調整して、微かな話し声に聞き耳を立てた。
 バシリオと、誰かもう一人。どうやら仕事仲間のようだ。
 コルティス家の主力商品であるワインの販売量や、販売先について、大きなテーブルに資料を広げて、延々と話をしている。エリンには専門的な内容はよく分からない。とりあえず彼らの商売がかなり順調らしい、ということくらいしか理解できなかった。
 その後、随分と遅い時間になってから彼らは酒を酌み交わしはじめ、今度は貴族たちの話をはじめた。こちらは、エリンも知っている名前がちょくちょく登場する。ゲオルグが話した通り、随分あちこちの貴族と取り引きをしているようだ。
「しかし、あの皇子、帝室の状況をみるに、賭けるにしては大穴ですよ?」
 ――そして深夜、唐突にその話題が登場した。
「それが良いのだよ。当たれば大きい」
「あっはっは、さすがに大胆ですなあ。恐れいります」
「そうでもない。よしんば殿下を帝位につけることが出来なかったとしても、アヴァロン直系の皇子なら、そこそこの領地を与えられて公爵位を授かるのが通例だ。それならばそれで、充分に良い客となるだろうさ」
「なるほど! どう転んでも損は無いと」
「それが正しい商人というものだろう」
(皇子を……帝位に……?)
 思わず耳を疑った。あまりに剣呑な話だ。アドルフが継承者の指名をやり直さない限り、ベネディクトが帝位に就くということは、アーシュラが死亡するということに他ならないからだ。
「幸い、クーロと趣味が合うようで、すっかり友人になって、遊びに来てくださるから、慌てずやっていくつもりさ」
「子供は子供同士が一番ですからな」
「全くそのとおりだ。今回は、子供も持ってみるものだとつくづく思ったよ」
 身体が冷えていくような嫌な感覚に身を固くして、その後も暫く男たちのやりとりを聞いていた。彼らの話を聞く限り、バシリオ・コルティスは己の野心のためにベネディクトに近づいたのだと、そう考えるしか無いようだった。
 ――つまり、アーシュラの予感は見事に当たったのだ。
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