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十五
影-2
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十九歳の誕生日を、皇女アーシュラは訪問先のミュンヘンで迎えていた。
体調の良い時間の長くなった彼女は、今まで全く出来なかった、エウロ各地の訪問に乗り気で、特に孤児院や小児病院の慰問には優先して時間を割くようになっていた。
ジュネーヴから出ることのなかった皇女のお出ましとあって、訪問先の施設だけでなく、行く先々の街で、アーシュラは大変な歓迎を受けた。街道には人垣が途絶えず、領主達は競って彼女の滞在先を提供しようと名乗り出る。皇女の名を冠した音楽祭を開く街もあった。
もともと、民衆からの圧倒的な支持を受けて成立したアヴァロン朝である。初代皇帝から三世紀を経た今でも、帝室の人気は高かった。アドルフが頑なにこだわる紫の瞳は、帝位継承の証であるだけでなく、多くのエウロ人にとって、心のよすがともいえるものなのだ。
誰もが待ちわびた、紫の継承者アーシュラの体質が生まれつき弱いことは、以前からよく知られていることだった。だからこそ、美しく成長した彼女が公に姿を現すということは、それだけで皆を安心させ、喜ばせる出来事であった。
そうして、とにかくその年の秋は慌ただしく、賑やかに過ぎていた。
「エリン、いつまでウロウロしているの、着替えを手伝って頂戴」
部屋の周囲をしつこく確認して回るエリンに、アーシュラは呆れたように声をかける。アヴァロン城の外をあまり知らないエリンは、どこへ行っても、いつまでも落ち着かないのだ。
「もう少し、そこで休憩なさっていてください」
城の中ならば、どこにいても彼女を守る自信があるけれど、一歩アヴァロン城の外に出ると勝手が違う。人も死角も多すぎて、どうしても不安が募った。
「全く、まるで犬か猫のようね、エリン」
「……犬も猫もお飼いになったことは無いでしょう」
「そんなに心配しなくても、何もありはしないって言っているのよ」
「何もないに越したことはありません」
エリンは窓の外を注意深く観察しながら言った。落ち着かない。アーシュラが旅に出られるくらい元気なのは嬉しいことだけれど、できることなら、一日も早く城に帰りたかった。
彼女らしい、強気そうな微笑みが、集まった大勢の人の前でひときわ輝く。皇女が街を移動する度、集まる人の数は増えていた。
生まれついての器のなせる業なのか、同年代の少女と比べると随分小柄なアーシュラだけれど、群衆の前に立つと自然と大きく見えた。彼女が小さく手を上げるだけで、辺りは騒然として歓声に包まれる。とても、静かな城を出たことの無い姫とは思えない、堂々とした振る舞いだった。居合わせた者は、彼女こそ次期皇帝に相応しいと喜び、涙する者さえいる。
エリンはそんな熱狂の様子を、少し離れた場所から心寒い思いで見つめていた。 帝室の人間は公の場所に姿を見せる時、決して剣を傍に置かない。だから彼らは必ず主人と離れ、兵や人に紛れてその場を見守ることになる。
そもそも、こういう中での警護は他の兵や地元の警察などの役目なのだ。群衆の中で、エリンが一人でできることなんてほんの僅かのことに過ぎない。
今の皇帝の力は強い。だから、その庇護をうける皇女に敵対する勢力は居ないとされてはいた。アーシュラも、本当に何の心配もしていない様子で旅を楽しんでいる。
けれど、それでも、何度繰り返しても嫌な時間だった。
主の細い腕がやたらと遠く感じられて、どうしようもなく恐ろしい。
「…………」
気分が悪い。もう、こんなのは早く終わらせてほしい。はやく帰りたい。
主と離れていると、否応なしに神経が張り詰めていく。手を伸ばしてもアーシュラに触れられない不安が、エリンをより注意深くするのだ。剣の五感は、そのように使うために鍛えられている。
城にいる時もそれは同じなのだけれど、風の音や、使用人の気配、近衛兵の足音……安全な感じはすぐに分かる。そういうのは無視しても良いものだ。
けれど、ここはそうではない。話をする者、笑う者、泣く者、手を振る者、カメラを持つ者、人を押す者、立ち去ろうとする者――デタラメに歩きまわる人の動き、大人、男、女、子供……あらゆる話し声。こんな膨大な気配の中で、全てを疑っていると、自分は人ではなく、武器なのだと実感する。ほんの些細な異変にも、身体が反応してしまいそうだ。無意味に人を傷つけてはいけないのに。
体調の良い時間の長くなった彼女は、今まで全く出来なかった、エウロ各地の訪問に乗り気で、特に孤児院や小児病院の慰問には優先して時間を割くようになっていた。
ジュネーヴから出ることのなかった皇女のお出ましとあって、訪問先の施設だけでなく、行く先々の街で、アーシュラは大変な歓迎を受けた。街道には人垣が途絶えず、領主達は競って彼女の滞在先を提供しようと名乗り出る。皇女の名を冠した音楽祭を開く街もあった。
もともと、民衆からの圧倒的な支持を受けて成立したアヴァロン朝である。初代皇帝から三世紀を経た今でも、帝室の人気は高かった。アドルフが頑なにこだわる紫の瞳は、帝位継承の証であるだけでなく、多くのエウロ人にとって、心のよすがともいえるものなのだ。
誰もが待ちわびた、紫の継承者アーシュラの体質が生まれつき弱いことは、以前からよく知られていることだった。だからこそ、美しく成長した彼女が公に姿を現すということは、それだけで皆を安心させ、喜ばせる出来事であった。
そうして、とにかくその年の秋は慌ただしく、賑やかに過ぎていた。
「エリン、いつまでウロウロしているの、着替えを手伝って頂戴」
部屋の周囲をしつこく確認して回るエリンに、アーシュラは呆れたように声をかける。アヴァロン城の外をあまり知らないエリンは、どこへ行っても、いつまでも落ち着かないのだ。
「もう少し、そこで休憩なさっていてください」
城の中ならば、どこにいても彼女を守る自信があるけれど、一歩アヴァロン城の外に出ると勝手が違う。人も死角も多すぎて、どうしても不安が募った。
「全く、まるで犬か猫のようね、エリン」
「……犬も猫もお飼いになったことは無いでしょう」
「そんなに心配しなくても、何もありはしないって言っているのよ」
「何もないに越したことはありません」
エリンは窓の外を注意深く観察しながら言った。落ち着かない。アーシュラが旅に出られるくらい元気なのは嬉しいことだけれど、できることなら、一日も早く城に帰りたかった。
彼女らしい、強気そうな微笑みが、集まった大勢の人の前でひときわ輝く。皇女が街を移動する度、集まる人の数は増えていた。
生まれついての器のなせる業なのか、同年代の少女と比べると随分小柄なアーシュラだけれど、群衆の前に立つと自然と大きく見えた。彼女が小さく手を上げるだけで、辺りは騒然として歓声に包まれる。とても、静かな城を出たことの無い姫とは思えない、堂々とした振る舞いだった。居合わせた者は、彼女こそ次期皇帝に相応しいと喜び、涙する者さえいる。
エリンはそんな熱狂の様子を、少し離れた場所から心寒い思いで見つめていた。 帝室の人間は公の場所に姿を見せる時、決して剣を傍に置かない。だから彼らは必ず主人と離れ、兵や人に紛れてその場を見守ることになる。
そもそも、こういう中での警護は他の兵や地元の警察などの役目なのだ。群衆の中で、エリンが一人でできることなんてほんの僅かのことに過ぎない。
今の皇帝の力は強い。だから、その庇護をうける皇女に敵対する勢力は居ないとされてはいた。アーシュラも、本当に何の心配もしていない様子で旅を楽しんでいる。
けれど、それでも、何度繰り返しても嫌な時間だった。
主の細い腕がやたらと遠く感じられて、どうしようもなく恐ろしい。
「…………」
気分が悪い。もう、こんなのは早く終わらせてほしい。はやく帰りたい。
主と離れていると、否応なしに神経が張り詰めていく。手を伸ばしてもアーシュラに触れられない不安が、エリンをより注意深くするのだ。剣の五感は、そのように使うために鍛えられている。
城にいる時もそれは同じなのだけれど、風の音や、使用人の気配、近衛兵の足音……安全な感じはすぐに分かる。そういうのは無視しても良いものだ。
けれど、ここはそうではない。話をする者、笑う者、泣く者、手を振る者、カメラを持つ者、人を押す者、立ち去ろうとする者――デタラメに歩きまわる人の動き、大人、男、女、子供……あらゆる話し声。こんな膨大な気配の中で、全てを疑っていると、自分は人ではなく、武器なのだと実感する。ほんの些細な異変にも、身体が反応してしまいそうだ。無意味に人を傷つけてはいけないのに。
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