88 / 126
十五
影-4
しおりを挟む
部屋に戻り、血に濡れた服を脱いだエリンの背中に、どん、と、あまり重くないものがのしかかった。
「……お戻りでしたか」
「お前とは違う車だったのよね。心配したわ」
「申し訳ありません」
いつも通り、普通に答えたつもりだったけれど、その声は妙に重たく落ちた。
皇女の剣として生きることになって十三年。ツヴァイとアドルフが治めるアヴァロンはずっと平和で、エリンが手を汚さねばならないことは無かった。稽古相手の師は強く、殺すつもりでかかっていっても返り討ちに会うことのほうが多い。ずっと、それが当たり前の暮らしになっていたけれど。
「怪我はない?」
「はい」
こうなってみて初めて、自分がどのようなものなのか理解した気がした。皇女に銃を向けた、あの男の身体は脆かった。知っている通りにやれば、容易く命が消え失せた。三歳から繰り返し教えこまれたあらゆる技術は、まさに人の命を奪うためだけのもので、今はもう、エリンの身体と地続きのものになっている。
――あっけない、こんなものか。
そう思う存在こそが、自分という、つまり、アヴァロンの影の剣なのだ。
「……エリン」
アーシュラの冷たい指がピタリと腹に張り付いて、背に静かな口付けが落とされる。主は言った。
「血のにおいがするわ」
優しい声だった。
「離れて下さい」
「駄目よ。あの者の死は、わたくしの背負うべきものだから」
「アーシュラ……」
「……ありがとう。お前に初めて、命を助けられたわね」
その言葉を聞いて、改めて恐ろしくなった。さっきの男の銃弾がアーシュラを撃ちぬいていたら、今、ここに、この人は居なかったかもしれないのだから。
「帰りましょう、アヴァロンへ」
珍しく懇願するような色を含んだ声に、アーシュラは笑って首を振る。それから、改めて彼の正面に立った。出会った頃は自分より高くて、いつの間にか同じくらいになり、今では自分の方が随分高くなってしまった目線。伸びない背をいつも気にしていた、美しい、小さな彼の主。
「逃げたりは出来ないわ。待っている人たちの希望になるのが、わたくしの仕事なのだから」
言って、アーシュラは背伸びをして、返り血のこびりついた頬を撫でる。
「だからお前は、これからもわたくしを見ていてね」
先ほどまではエウロの民に向けられていた微笑みが、今はエリンだけを見ている。二人で一対のものとして、今だけは自分を。
守れて良かった。本当に。
「……はい」
安堵のため息をついた彼の手を、アーシュラはパッと明るく笑って握った。
「では、お風呂に入りましょ」
いつもの我が儘を言う時の調子に戻って、呆気にとられる従者をぐいと引っ張る。
「お前も一緒によ」
「え?」
一呼吸置いて、彼女がまたよく分からないことを言い出していることに気付く。
「ちょ……っと、待ってください、どうして……」
「そんな格好では、お前、いつまでも元気が無いでしょう。わたくしが、きれいにしてあげます」
何となく、子供の頃を思い出した。昔から彼女の入浴の手助けはエリンの仕事だったけれど、幼い頃はよく人形代わりにされて酷い目に遭わされたものだ。
「結構です……!」
口では抵抗しても、本当に彼女に逆らうことは出来ない。エリンは手を引かれるままについて行かざるを得ないのだった。
「……お戻りでしたか」
「お前とは違う車だったのよね。心配したわ」
「申し訳ありません」
いつも通り、普通に答えたつもりだったけれど、その声は妙に重たく落ちた。
皇女の剣として生きることになって十三年。ツヴァイとアドルフが治めるアヴァロンはずっと平和で、エリンが手を汚さねばならないことは無かった。稽古相手の師は強く、殺すつもりでかかっていっても返り討ちに会うことのほうが多い。ずっと、それが当たり前の暮らしになっていたけれど。
「怪我はない?」
「はい」
こうなってみて初めて、自分がどのようなものなのか理解した気がした。皇女に銃を向けた、あの男の身体は脆かった。知っている通りにやれば、容易く命が消え失せた。三歳から繰り返し教えこまれたあらゆる技術は、まさに人の命を奪うためだけのもので、今はもう、エリンの身体と地続きのものになっている。
――あっけない、こんなものか。
そう思う存在こそが、自分という、つまり、アヴァロンの影の剣なのだ。
「……エリン」
アーシュラの冷たい指がピタリと腹に張り付いて、背に静かな口付けが落とされる。主は言った。
「血のにおいがするわ」
優しい声だった。
「離れて下さい」
「駄目よ。あの者の死は、わたくしの背負うべきものだから」
「アーシュラ……」
「……ありがとう。お前に初めて、命を助けられたわね」
その言葉を聞いて、改めて恐ろしくなった。さっきの男の銃弾がアーシュラを撃ちぬいていたら、今、ここに、この人は居なかったかもしれないのだから。
「帰りましょう、アヴァロンへ」
珍しく懇願するような色を含んだ声に、アーシュラは笑って首を振る。それから、改めて彼の正面に立った。出会った頃は自分より高くて、いつの間にか同じくらいになり、今では自分の方が随分高くなってしまった目線。伸びない背をいつも気にしていた、美しい、小さな彼の主。
「逃げたりは出来ないわ。待っている人たちの希望になるのが、わたくしの仕事なのだから」
言って、アーシュラは背伸びをして、返り血のこびりついた頬を撫でる。
「だからお前は、これからもわたくしを見ていてね」
先ほどまではエウロの民に向けられていた微笑みが、今はエリンだけを見ている。二人で一対のものとして、今だけは自分を。
守れて良かった。本当に。
「……はい」
安堵のため息をついた彼の手を、アーシュラはパッと明るく笑って握った。
「では、お風呂に入りましょ」
いつもの我が儘を言う時の調子に戻って、呆気にとられる従者をぐいと引っ張る。
「お前も一緒によ」
「え?」
一呼吸置いて、彼女がまたよく分からないことを言い出していることに気付く。
「ちょ……っと、待ってください、どうして……」
「そんな格好では、お前、いつまでも元気が無いでしょう。わたくしが、きれいにしてあげます」
何となく、子供の頃を思い出した。昔から彼女の入浴の手助けはエリンの仕事だったけれど、幼い頃はよく人形代わりにされて酷い目に遭わされたものだ。
「結構です……!」
口では抵抗しても、本当に彼女に逆らうことは出来ない。エリンは手を引かれるままについて行かざるを得ないのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
そのご寵愛、理由が分かりません
秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。
幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに——
「君との婚約はなかったことに」
卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り!
え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー!
領地に帰ってスローライフしよう!
そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて——
「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」
……は???
お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!?
刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり——
気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。
でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……?
夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー!
理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。
※毎朝6時、夕方18時更新!
※他のサイトにも掲載しています。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
白い結婚のはずが、旦那様の溺愛が止まりません!――冷徹領主と政略令嬢の甘すぎる夫婦生活
しおしお
恋愛
政略結婚の末、侯爵家から「価値がない」と切り捨てられた令嬢リオラ。
新しい夫となったのは、噂で“冷徹”と囁かれる辺境領主ラディス。
二人は互いの自由のため――**干渉しない“白い結婚”**を結ぶことに。
ところが。
◆市場に行けばついてくる
◆荷物は全部持ちたがる
◆雨の日は仕事を早退して帰ってくる
◆ちょっと笑うだけで顔が真っ赤になる
……どう見ても、干渉しまくり。
「旦那様、これは白い結婚のはずでは……?」
「……君のことを、放っておけない」
距離はゆっくり縮まり、
優しすぎる態度にリオラの心も揺れ始める。
そんな時、彼女を利用しようと実家が再び手を伸ばす。
“冷徹”と呼ばれた旦那様の怒りが静かに燃え――
「二度と妻を侮辱するな」
守られ、支え合い、やがて惹かれ合う二人の想いは、
いつしか“形だけの夫婦”を超えていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる