紫灰の日時計

二月ほづみ

文字の大きさ
89 / 126
十五

影-5

しおりを挟む
 陽の光からすっかり熱の抜けた秋の午後、滞在先で皇女は長い午睡をとる。午前中いっぱいを視察に充てて、その後、毎日のように開かれる夜会までの時間をひたすら眠って過ごすのだ。そうして、体調を安定させていた。
 先日の襲撃事件のおかげで、彼女の周辺警備は普段よりずっと厳重になっていたから、エリンにとっても午後の時間は、静かに休息のできる貴重な時間になっていた。午前中は視察先でいつもより神経を使って過ごしているから、眠っていいとなるととたんに身体が重くなる。束の間の眠りが知らぬうちに訪れ――そして、ふっと意識が浮上すると、自分の髪を弄って遊ぶ、主の指の感触。
「お前の寝ているところ、久しぶりに見た気がするわね」
 言って彼女は、自分も寝起きらしく気だるげに横たわったまま、エリンの髪を編んで遊んでいる。
「……すみません」
 起き上がろうと思ったが、主の手遊びのせいで動けなかった。
「いいのよ。お前もたまにはゆっくり眠れば」
「ご機嫌ですね」
「そうよ?」
「珍しい」
「どうして?」
「……あれからもう二週間以上経ちますが、カルサス様のお名前をろくに聞いておりません」
 城を抜けだしたあの日以来、彼女は恋人に会っていない。普段ならば、会いたいとうるさく駄々をこねられて然るべき時期だ。
「ふふふ、平気よ」
 アーシュラは得意気に微笑むが、その秘密を、実はエリンは知っている。
「文字のやりとりだけではなくて、城に戻られたらお会いになればいい」
「えっ?」
「されますよ。浮気」
「されないわよ!」
 アーシュラはパッと赤くなってそう言ってから、すぐに気がつく。
「どうして知ってるの!?」
 エリンは呆れたように目を細めた。
「気付かないわけが無いでしょう。隠れておりませんから」
 彼女が隠し持っているつもりのものは、小さな通信機だった。城から抜けだしたあの日に、ゲオルグが街で買って彼女にプレゼントしたのだろう。アーシュラは日に何度もそれを触って、たぶん、彼に何やらメールを送っている。隠しているつもりだからと黙っていたのだけれど。
「……見た?」
「何をですか?」
「だから、メール……」
 さすがにそれは見ていない。そんなものを見ても気が滅入るだけだということくらい、エリンだって理解している。
「さあ……」
「エリン!」
「見られて困るようなやりとりをなさっているのですか?」
 とぼけてみると、アーシュラはますます慌てて起き上がると、主の寝台で仰向けになったままの従者を揺さぶる。耳まで赤くなった彼女に、エリンは少し笑った。
「見てませんよ」
「ほ……ほんとに?」
「嘘などつきません」
「ついていたじゃない。気付いてたくせに」
「通信機のことですか?」
「意地悪だわ」
「……邪魔をしてはいけないと思っただけです」
「えっ……」
 エリンの言葉に、アーシュラは少し意外そうに目を丸くした。
「アーシュラに嫌われるのは嫌です」
「お前……」
 こちらを覗きこむ紫の瞳が二三度ゆっくり瞬きをして、
「案外ばかね」
 そして笑う。
「は?」
「うふふふ、まあいいわ。見てないなら」
 アーシュラは機嫌を直した様子でクスクスと笑いながら、起き上がろうとするエリンを押しとどめると、その傍らに細い体を折りたたむように丸くなり、昼寝の続きを決め込んだのだった。

 そうして、未遂に終わった襲撃事件の後も、アーシュラは暫く城に戻らず、体調の許す限りエウロ各地を見て回った。
 それは、彼女にとって生まれて初めての旅だった。ひと目姿を見たいという民衆の希望を、アーシュラは最大限の努力をもって叶え続けた。
 皇女の旅は自治区内だけでなく世界中で報道され、エウロの次期皇帝は人々に愛される美しい姫なのだと、強く印象付けるものになった。
 しかし一方、彼女を付け狙う者の存在も明らかになった。
 ミュンヘンでの事件後、プラハ、ワルシャワと、大都市において、アーシュラは立て続けに暴漢に襲われた。幸い、城の外での身の処し方に慣れはじめたエリンのおかげでどちらも事なきを得たが、その知らせを聞いたエウロ貴族の多くは、長らく刃を差し挟む隙のなかった帝室の威光に、影の差す気配を感じたのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

辺境伯夫人は領地を紡ぐ

やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。 しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。 物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。 戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。 これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。 全50話の予定です ※表紙はイメージです ※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)

【完結】あなたを忘れたい

やまぐちこはる
恋愛
子爵令嬢ナミリアは愛し合う婚約者ディルーストと結婚する日を待ち侘びていた。 そんな時、不幸が訪れる。 ■□■ 【毎日更新】毎日8時と18時更新です。 【完結保証】最終話まで書き終えています。 最後までお付き合い頂けたらうれしいです(_ _)

処理中です...