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十七
家族-4
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翌日。エリンは困惑していた。
数日寝込んでしまうのではないかと思っていたアーシュラが、翌日には元気に起き出してきて、そして、全くじっとしてくれずに自分を引っ張って、離宮を出てきてしまったからだ。
「そんなに慌てなくとも、こちらには六月いっぱいまで滞在するのですから、何も今日慌てて外出をしなくても……」
「早いほうが良いこともあるのよ」
一面の明るい緑色に、色とりどりに咲き乱れる初夏の草花。エリンの黒衣は高原の風景には全くなじまず、彼だけまるで別世界の存在のようだ。
「無理をなさると今度こそ長く伏せる羽目になります」
「ならないわよ」
「アーシュラ……」
心配そうなエリンの言葉に、アーシュラは耳を貸さない。
「エリン、いいから大人しく付いていらっしゃい。ここへは、お前のためにはるばる来たようなものなのだから」
澄み切った青空に、驚いたエリンの彼らしくない素っ頓狂な声が響いた。
てっきり、彼女は恋人と二人きりの時間を過ごすために、ここにやって来たのだと思っていた。だからエリンはここでは今まで以上に、主に嫌がられないよう、二人の邪魔にならないように過ごさなければならないと――覚悟していたのに。
「あの……」
「行きましょう」
「ど……どこへ?」
「秘密に決まっているわ」
澄み渡った青が、遠い山脈の切り立った形を、切り取ったようにくっきりと浮かび上がらせる。
アーシュラは上機嫌で、弾んだ足取りのまま迷いなくどんどん歩いて行く。
日差しが強い。こんな時に出歩いて本当に大丈夫だろうかと不安になってしまう。主の気まぐれには慣れているつもりだけれど、一体どこへ行こうというのだろう。
「ああ、見えてきたわ……っ!」
「息が上がっています。もう少しゆっくり歩いて――」
「あれね。カスタニエ家の別荘」
明るい声で、アーシュラが言った。
エリンははじめ、その言葉の指し示すことの意味を、全く理解しなかった。そんな家名を、思い出すことすら無くなっていたからだ。
誰かと会う約束でもあるのか、と、問おうとして初めて、それに気付く。
「あ……」
エリンの足が止まった。
「あ! やっと来たね!」
丘の向こうから、二人の姿を見つけたらしいゲオルグが、手を振りながら駆けてくる。エリンは、何が起きているのか飲み込めないまま、ゲオルグの後ろからゆっくりと姿を見せたその人の遠い姿を、呆然と見つめていた。
風に揺れる短い髪に、背筋の伸びた立ち姿。逆光で、表情は見えない。決して見知った人影ではなかったけれど、なぜか、エリンには分かった。
あれは――兄だ。
三歳で別れたきり、会ったことのない兄セルジュ。それはどことなく、遠い記憶の中の父に似ていた。
「ゲオルグ、待たせてしまった?」
「いや、全然。カスタニエ卿の奥様にケーキを頂いちゃったよ。それより君は疲れてない? 平気?」
「大丈夫よ。少し休めば」
「エリン、びっくりしてる」
「ふふふ、そのようね」
ゲオルグとコソコソと会話して笑い合うと、傍らのエリンをちょっと見て、アーシュラは進み出る。そして、戸惑ったような表情で彼らを見ている青年に、とびきり嬉しそうな顔で、優雅なお辞儀をした。
「お久しぶり、やっと会えましたね。セルジュ・カスタニエ様」
それを受け、慌ててセルジュは跪き、頭を垂れる。
「……お会いできて光栄です、殿下。ですが……驚きました」
「連絡も無しに突然ごめんなさい。でも、お招きしてもちっとも夜会にはお出ましくださらないのだもの」
「……申し訳ありません」
「お嫌いなのよね、知っています。だから良いのです。お会いできましたし」
「はい……」
セルジュとアーシュラの文通は途切れること無く続けられており、二人はほとんど顔を合わせることのないまま親交を深めていた。彼が夏の間、家族とともにこの別荘に滞在するのだということも、手紙で知ったことだった。
「セルジュ、お顔を上げてくださいな。わたくしたち、友達同士でしょう?」
「殿下……」
「わたくしのことは、どうかアーシュラと」
セルジュは少し迷うような素振りを見せたが、やがて立ち上がって微笑んだ。
「分かりました……アーシュラ、お会いできて嬉しい」
「わたくしもです」
言って、アーシュラはおもむろに振り返ってエリンを見た。
「エリン、こっちにいらっしゃい」
「あ、の……」
「いいから」
兄の姿を見た瞬間から、一歩も動けないままでいたエリンであったが、有無を言わせぬ主の命に仕方なく従う。
実家や兄に対して特別に何かを思っているわけではない。けれど、遥か昔の幼い自分が、年の離れた兄をとても慕っていたことは、良い思い出として、今でも憶えていた。
だからたぶん、会えて嬉しいのだと思う。
ただ、どんな顔をすればよいのかが、分からないのだった。
数日寝込んでしまうのではないかと思っていたアーシュラが、翌日には元気に起き出してきて、そして、全くじっとしてくれずに自分を引っ張って、離宮を出てきてしまったからだ。
「そんなに慌てなくとも、こちらには六月いっぱいまで滞在するのですから、何も今日慌てて外出をしなくても……」
「早いほうが良いこともあるのよ」
一面の明るい緑色に、色とりどりに咲き乱れる初夏の草花。エリンの黒衣は高原の風景には全くなじまず、彼だけまるで別世界の存在のようだ。
「無理をなさると今度こそ長く伏せる羽目になります」
「ならないわよ」
「アーシュラ……」
心配そうなエリンの言葉に、アーシュラは耳を貸さない。
「エリン、いいから大人しく付いていらっしゃい。ここへは、お前のためにはるばる来たようなものなのだから」
澄み切った青空に、驚いたエリンの彼らしくない素っ頓狂な声が響いた。
てっきり、彼女は恋人と二人きりの時間を過ごすために、ここにやって来たのだと思っていた。だからエリンはここでは今まで以上に、主に嫌がられないよう、二人の邪魔にならないように過ごさなければならないと――覚悟していたのに。
「あの……」
「行きましょう」
「ど……どこへ?」
「秘密に決まっているわ」
澄み渡った青が、遠い山脈の切り立った形を、切り取ったようにくっきりと浮かび上がらせる。
アーシュラは上機嫌で、弾んだ足取りのまま迷いなくどんどん歩いて行く。
日差しが強い。こんな時に出歩いて本当に大丈夫だろうかと不安になってしまう。主の気まぐれには慣れているつもりだけれど、一体どこへ行こうというのだろう。
「ああ、見えてきたわ……っ!」
「息が上がっています。もう少しゆっくり歩いて――」
「あれね。カスタニエ家の別荘」
明るい声で、アーシュラが言った。
エリンははじめ、その言葉の指し示すことの意味を、全く理解しなかった。そんな家名を、思い出すことすら無くなっていたからだ。
誰かと会う約束でもあるのか、と、問おうとして初めて、それに気付く。
「あ……」
エリンの足が止まった。
「あ! やっと来たね!」
丘の向こうから、二人の姿を見つけたらしいゲオルグが、手を振りながら駆けてくる。エリンは、何が起きているのか飲み込めないまま、ゲオルグの後ろからゆっくりと姿を見せたその人の遠い姿を、呆然と見つめていた。
風に揺れる短い髪に、背筋の伸びた立ち姿。逆光で、表情は見えない。決して見知った人影ではなかったけれど、なぜか、エリンには分かった。
あれは――兄だ。
三歳で別れたきり、会ったことのない兄セルジュ。それはどことなく、遠い記憶の中の父に似ていた。
「ゲオルグ、待たせてしまった?」
「いや、全然。カスタニエ卿の奥様にケーキを頂いちゃったよ。それより君は疲れてない? 平気?」
「大丈夫よ。少し休めば」
「エリン、びっくりしてる」
「ふふふ、そのようね」
ゲオルグとコソコソと会話して笑い合うと、傍らのエリンをちょっと見て、アーシュラは進み出る。そして、戸惑ったような表情で彼らを見ている青年に、とびきり嬉しそうな顔で、優雅なお辞儀をした。
「お久しぶり、やっと会えましたね。セルジュ・カスタニエ様」
それを受け、慌ててセルジュは跪き、頭を垂れる。
「……お会いできて光栄です、殿下。ですが……驚きました」
「連絡も無しに突然ごめんなさい。でも、お招きしてもちっとも夜会にはお出ましくださらないのだもの」
「……申し訳ありません」
「お嫌いなのよね、知っています。だから良いのです。お会いできましたし」
「はい……」
セルジュとアーシュラの文通は途切れること無く続けられており、二人はほとんど顔を合わせることのないまま親交を深めていた。彼が夏の間、家族とともにこの別荘に滞在するのだということも、手紙で知ったことだった。
「セルジュ、お顔を上げてくださいな。わたくしたち、友達同士でしょう?」
「殿下……」
「わたくしのことは、どうかアーシュラと」
セルジュは少し迷うような素振りを見せたが、やがて立ち上がって微笑んだ。
「分かりました……アーシュラ、お会いできて嬉しい」
「わたくしもです」
言って、アーシュラはおもむろに振り返ってエリンを見た。
「エリン、こっちにいらっしゃい」
「あ、の……」
「いいから」
兄の姿を見た瞬間から、一歩も動けないままでいたエリンであったが、有無を言わせぬ主の命に仕方なく従う。
実家や兄に対して特別に何かを思っているわけではない。けれど、遥か昔の幼い自分が、年の離れた兄をとても慕っていたことは、良い思い出として、今でも憶えていた。
だからたぶん、会えて嬉しいのだと思う。
ただ、どんな顔をすればよいのかが、分からないのだった。
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