98 / 126
十七
家族-4
しおりを挟む
翌日。エリンは困惑していた。
数日寝込んでしまうのではないかと思っていたアーシュラが、翌日には元気に起き出してきて、そして、全くじっとしてくれずに自分を引っ張って、離宮を出てきてしまったからだ。
「そんなに慌てなくとも、こちらには六月いっぱいまで滞在するのですから、何も今日慌てて外出をしなくても……」
「早いほうが良いこともあるのよ」
一面の明るい緑色に、色とりどりに咲き乱れる初夏の草花。エリンの黒衣は高原の風景には全くなじまず、彼だけまるで別世界の存在のようだ。
「無理をなさると今度こそ長く伏せる羽目になります」
「ならないわよ」
「アーシュラ……」
心配そうなエリンの言葉に、アーシュラは耳を貸さない。
「エリン、いいから大人しく付いていらっしゃい。ここへは、お前のためにはるばる来たようなものなのだから」
澄み切った青空に、驚いたエリンの彼らしくない素っ頓狂な声が響いた。
てっきり、彼女は恋人と二人きりの時間を過ごすために、ここにやって来たのだと思っていた。だからエリンはここでは今まで以上に、主に嫌がられないよう、二人の邪魔にならないように過ごさなければならないと――覚悟していたのに。
「あの……」
「行きましょう」
「ど……どこへ?」
「秘密に決まっているわ」
澄み渡った青が、遠い山脈の切り立った形を、切り取ったようにくっきりと浮かび上がらせる。
アーシュラは上機嫌で、弾んだ足取りのまま迷いなくどんどん歩いて行く。
日差しが強い。こんな時に出歩いて本当に大丈夫だろうかと不安になってしまう。主の気まぐれには慣れているつもりだけれど、一体どこへ行こうというのだろう。
「ああ、見えてきたわ……っ!」
「息が上がっています。もう少しゆっくり歩いて――」
「あれね。カスタニエ家の別荘」
明るい声で、アーシュラが言った。
エリンははじめ、その言葉の指し示すことの意味を、全く理解しなかった。そんな家名を、思い出すことすら無くなっていたからだ。
誰かと会う約束でもあるのか、と、問おうとして初めて、それに気付く。
「あ……」
エリンの足が止まった。
「あ! やっと来たね!」
丘の向こうから、二人の姿を見つけたらしいゲオルグが、手を振りながら駆けてくる。エリンは、何が起きているのか飲み込めないまま、ゲオルグの後ろからゆっくりと姿を見せたその人の遠い姿を、呆然と見つめていた。
風に揺れる短い髪に、背筋の伸びた立ち姿。逆光で、表情は見えない。決して見知った人影ではなかったけれど、なぜか、エリンには分かった。
あれは――兄だ。
三歳で別れたきり、会ったことのない兄セルジュ。それはどことなく、遠い記憶の中の父に似ていた。
「ゲオルグ、待たせてしまった?」
「いや、全然。カスタニエ卿の奥様にケーキを頂いちゃったよ。それより君は疲れてない? 平気?」
「大丈夫よ。少し休めば」
「エリン、びっくりしてる」
「ふふふ、そのようね」
ゲオルグとコソコソと会話して笑い合うと、傍らのエリンをちょっと見て、アーシュラは進み出る。そして、戸惑ったような表情で彼らを見ている青年に、とびきり嬉しそうな顔で、優雅なお辞儀をした。
「お久しぶり、やっと会えましたね。セルジュ・カスタニエ様」
それを受け、慌ててセルジュは跪き、頭を垂れる。
「……お会いできて光栄です、殿下。ですが……驚きました」
「連絡も無しに突然ごめんなさい。でも、お招きしてもちっとも夜会にはお出ましくださらないのだもの」
「……申し訳ありません」
「お嫌いなのよね、知っています。だから良いのです。お会いできましたし」
「はい……」
セルジュとアーシュラの文通は途切れること無く続けられており、二人はほとんど顔を合わせることのないまま親交を深めていた。彼が夏の間、家族とともにこの別荘に滞在するのだということも、手紙で知ったことだった。
「セルジュ、お顔を上げてくださいな。わたくしたち、友達同士でしょう?」
「殿下……」
「わたくしのことは、どうかアーシュラと」
セルジュは少し迷うような素振りを見せたが、やがて立ち上がって微笑んだ。
「分かりました……アーシュラ、お会いできて嬉しい」
「わたくしもです」
言って、アーシュラはおもむろに振り返ってエリンを見た。
「エリン、こっちにいらっしゃい」
「あ、の……」
「いいから」
兄の姿を見た瞬間から、一歩も動けないままでいたエリンであったが、有無を言わせぬ主の命に仕方なく従う。
実家や兄に対して特別に何かを思っているわけではない。けれど、遥か昔の幼い自分が、年の離れた兄をとても慕っていたことは、良い思い出として、今でも憶えていた。
だからたぶん、会えて嬉しいのだと思う。
ただ、どんな顔をすればよいのかが、分からないのだった。
数日寝込んでしまうのではないかと思っていたアーシュラが、翌日には元気に起き出してきて、そして、全くじっとしてくれずに自分を引っ張って、離宮を出てきてしまったからだ。
「そんなに慌てなくとも、こちらには六月いっぱいまで滞在するのですから、何も今日慌てて外出をしなくても……」
「早いほうが良いこともあるのよ」
一面の明るい緑色に、色とりどりに咲き乱れる初夏の草花。エリンの黒衣は高原の風景には全くなじまず、彼だけまるで別世界の存在のようだ。
「無理をなさると今度こそ長く伏せる羽目になります」
「ならないわよ」
「アーシュラ……」
心配そうなエリンの言葉に、アーシュラは耳を貸さない。
「エリン、いいから大人しく付いていらっしゃい。ここへは、お前のためにはるばる来たようなものなのだから」
澄み切った青空に、驚いたエリンの彼らしくない素っ頓狂な声が響いた。
てっきり、彼女は恋人と二人きりの時間を過ごすために、ここにやって来たのだと思っていた。だからエリンはここでは今まで以上に、主に嫌がられないよう、二人の邪魔にならないように過ごさなければならないと――覚悟していたのに。
「あの……」
「行きましょう」
「ど……どこへ?」
「秘密に決まっているわ」
澄み渡った青が、遠い山脈の切り立った形を、切り取ったようにくっきりと浮かび上がらせる。
アーシュラは上機嫌で、弾んだ足取りのまま迷いなくどんどん歩いて行く。
日差しが強い。こんな時に出歩いて本当に大丈夫だろうかと不安になってしまう。主の気まぐれには慣れているつもりだけれど、一体どこへ行こうというのだろう。
「ああ、見えてきたわ……っ!」
「息が上がっています。もう少しゆっくり歩いて――」
「あれね。カスタニエ家の別荘」
明るい声で、アーシュラが言った。
エリンははじめ、その言葉の指し示すことの意味を、全く理解しなかった。そんな家名を、思い出すことすら無くなっていたからだ。
誰かと会う約束でもあるのか、と、問おうとして初めて、それに気付く。
「あ……」
エリンの足が止まった。
「あ! やっと来たね!」
丘の向こうから、二人の姿を見つけたらしいゲオルグが、手を振りながら駆けてくる。エリンは、何が起きているのか飲み込めないまま、ゲオルグの後ろからゆっくりと姿を見せたその人の遠い姿を、呆然と見つめていた。
風に揺れる短い髪に、背筋の伸びた立ち姿。逆光で、表情は見えない。決して見知った人影ではなかったけれど、なぜか、エリンには分かった。
あれは――兄だ。
三歳で別れたきり、会ったことのない兄セルジュ。それはどことなく、遠い記憶の中の父に似ていた。
「ゲオルグ、待たせてしまった?」
「いや、全然。カスタニエ卿の奥様にケーキを頂いちゃったよ。それより君は疲れてない? 平気?」
「大丈夫よ。少し休めば」
「エリン、びっくりしてる」
「ふふふ、そのようね」
ゲオルグとコソコソと会話して笑い合うと、傍らのエリンをちょっと見て、アーシュラは進み出る。そして、戸惑ったような表情で彼らを見ている青年に、とびきり嬉しそうな顔で、優雅なお辞儀をした。
「お久しぶり、やっと会えましたね。セルジュ・カスタニエ様」
それを受け、慌ててセルジュは跪き、頭を垂れる。
「……お会いできて光栄です、殿下。ですが……驚きました」
「連絡も無しに突然ごめんなさい。でも、お招きしてもちっとも夜会にはお出ましくださらないのだもの」
「……申し訳ありません」
「お嫌いなのよね、知っています。だから良いのです。お会いできましたし」
「はい……」
セルジュとアーシュラの文通は途切れること無く続けられており、二人はほとんど顔を合わせることのないまま親交を深めていた。彼が夏の間、家族とともにこの別荘に滞在するのだということも、手紙で知ったことだった。
「セルジュ、お顔を上げてくださいな。わたくしたち、友達同士でしょう?」
「殿下……」
「わたくしのことは、どうかアーシュラと」
セルジュは少し迷うような素振りを見せたが、やがて立ち上がって微笑んだ。
「分かりました……アーシュラ、お会いできて嬉しい」
「わたくしもです」
言って、アーシュラはおもむろに振り返ってエリンを見た。
「エリン、こっちにいらっしゃい」
「あ、の……」
「いいから」
兄の姿を見た瞬間から、一歩も動けないままでいたエリンであったが、有無を言わせぬ主の命に仕方なく従う。
実家や兄に対して特別に何かを思っているわけではない。けれど、遥か昔の幼い自分が、年の離れた兄をとても慕っていたことは、良い思い出として、今でも憶えていた。
だからたぶん、会えて嬉しいのだと思う。
ただ、どんな顔をすればよいのかが、分からないのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
そのご寵愛、理由が分かりません
秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。
幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに——
「君との婚約はなかったことに」
卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り!
え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー!
領地に帰ってスローライフしよう!
そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて——
「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」
……は???
お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!?
刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり——
気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。
でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……?
夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー!
理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。
※毎朝6時、夕方18時更新!
※他のサイトにも掲載しています。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
白い結婚のはずが、旦那様の溺愛が止まりません!――冷徹領主と政略令嬢の甘すぎる夫婦生活
しおしお
恋愛
政略結婚の末、侯爵家から「価値がない」と切り捨てられた令嬢リオラ。
新しい夫となったのは、噂で“冷徹”と囁かれる辺境領主ラディス。
二人は互いの自由のため――**干渉しない“白い結婚”**を結ぶことに。
ところが。
◆市場に行けばついてくる
◆荷物は全部持ちたがる
◆雨の日は仕事を早退して帰ってくる
◆ちょっと笑うだけで顔が真っ赤になる
……どう見ても、干渉しまくり。
「旦那様、これは白い結婚のはずでは……?」
「……君のことを、放っておけない」
距離はゆっくり縮まり、
優しすぎる態度にリオラの心も揺れ始める。
そんな時、彼女を利用しようと実家が再び手を伸ばす。
“冷徹”と呼ばれた旦那様の怒りが静かに燃え――
「二度と妻を侮辱するな」
守られ、支え合い、やがて惹かれ合う二人の想いは、
いつしか“形だけの夫婦”を超えていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる