112 / 126
二十
願い-3
しおりを挟む
エリンは、何かを所有するということがない。
城で暮らす上で、必要なものは何でも与えられたけれど、それらは全て、実際には主人であるアーシュラの持ち物だ。彼個人のものなど何一つない。そのことは、エリンにとっては、太陽が東から昇るのと同じくらい、当然で、何の違和感も感じないことだ。
しかし、そんな彼が唯一自分のものとして手元に置いている品が一つだけある。
それは、立派な緑色の宝石が埋め込まれた、女物の指輪だった。元の持ち主は彼の母、マイ=ブリット・カスタニエ。幼い息子と引き離される際、彼女が泣きながらエリンに手渡したものだ。
けれど、母親が恋しい時分にはその指輪に込められた想いが理解できず、それが分かるようになった頃には、既に母親への思慕は形を失っていた。
だから、指輪は長いこと、私室の引き出しに無造作に入れっぱなしになっていた。今まで、忘れていたといってもいい。
その指輪を、エリンは最近、取り出して眺めることが多くなっていた。手入れのされていない金細工はすっかり色あせ、全くみすぼらしいものになっていたけれど、埋め込まれた宝石は相変わらず美しく輝いて――そして、なぜか不思議なことに、記憶の中の緑色とは違う、赤紫色をしていた。
この指輪は、エリンが剣としてではなく、人として生まれついたことを証し立てる、唯一の品である。茜色の宝石は、そのことを静かにエリンに伝えようとしているような気がした。
サイズの合わない指輪を小指につけて、ランプにかざして覗きこむ。窓を叩く音が耳に届いたのは、そんな刹那のことだった。
「……?」
外を見ると、もう一時間も前に眠りについたはずの主が、寝間着のままバルコニーからこちらを覗いていた。驚いたエリンと目が合うと、彼女は窓を指してここを開けろと身振りする。
「ど……うか、なさいましたか?」
慌てて窓を開けて迎え入れた。
「ここのところ、お前が捕まらないのだもの。寝たふりをしてみたのよ」
夜気をまとって、アーシュラは悪戯が成功した子供のように笑う。
「お風邪を召されたらどうなさるつもりです」
「そうなればお前のせいね」
「殿下……」
どことなく他人行儀な物言いに、アーシュラは不満そうにエリンを見る。そして、彼の小指に嵌まったままの指輪に気がついたようだった。
「その指輪……」
「これは、その……」
あまり、彼女にそれを見せたことは無かったような気がする。何と説明すればよいかと悩むエリンだったが、アーシュラは呆れた様子で目を細めた。
「大切な指輪なのに、手入れもしていないのね」
「……ご存知で?」
「指輪のこと?」
「お話したことは無かったような……」
「呆れた。小さいころなくして大泣きしたの、忘れたのね」
「えっ……」
エリンが驚くと、アーシュラは小さく苦笑して言った。
「それが無いとお母様が迎えに来てくださらないって、言っていたわよ。わたくしも、可哀想になってしまって、ツヴァイと一緒に探してあげたの。覚えていない?」
「……いつ頃の話でしょうか」
「いつだったかしら。お前が城に来て、最初の頃だと思うけれど……」
「そんなことが……」
「お前は小さかったものね」
「そういえば……その……この石、こんな色をしておりましたでしょうか?」
「え?」
「記憶では、緑色だったような……」
「まぁ……エリン」
アーシュラはくすくす笑って、エリンの手を掴み、指輪を奪う。冷たい指が何気なく触れたことに、なぜか心臓が跳ねる。
「この宝石(アレクサンドライト)は、太陽の下で見ると緑色なのよ」
言われてみれば、そのことを誰かから聞いたことがあるような気がする。師だっただろうか。分からない。幼い頃のことは、自分では全部記憶しているようなつもりでいるのに。
「……殿下は、よく憶えておいでなのですね」
「当たり前でしょう。お前より二歳も年上なのだから」
久しぶりに歳上なのを威張るアーシュラに、ずっとずっと昔の彼女の面影を見つけて気が遠くなる。かつてあった自分と、今ここにいる自分が、まるで別の生き物のように思われた。
「ねぇ……エリン?」
呆然として佇む従者に、アーシュラは心配そうに首を傾げ、そして――おそらくは、指輪を返そうとしたのだろう――彼の手を取ろうとした。
「……!」
反射的に振りほどいて逃げてしまうエリンを、彼女は睨む。
「お前、最近へんよ。どうしてわたくしを避けるの?」
言いながら一歩進み出る。その歩幅の分、エリンは無意識に逃げていた。
「……避けてなどおりません。お側におります」
言葉はまるっきり言い訳めいた響きをはらむ。アーシュラは、いつもの彼女であれば、ますます不機嫌になるところだったが、今夜は逆に、悲しそうに肩を落とした。
「だけど……だけど、姿が見えない時が多すぎるし、話もしないようにしてるでしょう?」
弁解の言葉がない。あからさまな態度をとってしまっている自覚はあるし、アーシュラが気付かないとも思っていない。
「……申し訳ありません」
けれど、理由は言えないのだ。
「エリン……お前、もしかして本当に、わたくしの結婚に反対なの?」
「え……?」
暗い顔で恐る恐るそう口にするアーシュラに、エリンは目を丸くする。
「……どうして、そのようなことを?」
問いながら思い出す。そういえば、前に話をした時も、そんなことを言っていたような……
「お前とわたくしは違うんだって、ゲオルグに言われて、考えたの」
珍しくしおらしい調子で、真摯に彼女は続けた。
「わたくしが幸せになれば、お前も必ず幸せになるのだと、わたくしはずっとそう信じていたし、今もそう思っているわ。けれど……」
笑顔は剥がれ、思いつめたような青白い顔が現れる。
「けれどお前が、もしそう思っていないのなら、それは――」
「――アーシュラ」
答えを持たぬまま、エリンはその言葉を遮る。彼女にそんな誤解をさせるわけにはいかないと思った。
「あなたの幸せを……私が、喜ばないはずがありません。私の命は全て、あなたのものなのですから」
嘘はつけない。けれど――今言葉にできる真実なんて、このくらいのものだ。こんなもの、アーシュラにとっては当たり前すぎる言葉で、ただ型通りの気休めと取られても仕方がない。
「だったら、どうして今までどおり傍に居てくれないの? おかしいわ、エリン。ずうっと、子供の頃から一緒だったじゃない、わたくしたち。お前が居ないと……」
アーシュラは辛そうに瞳を揺らす。
「不安なのよ。とても」
細い指が改めてエリンの手を捕まえ、精一杯の力で掴む。
「それは……」
今ここで、アドルフの命令を無視して、彼女を安心させる台詞を口にすれば、これ以上主から遠ざかる必要はなくなる。彼女を傷つけることもない。自分たちは、今までどおりの二人でいられる。
それが一番、良いことなのではないのか。
けれど――――エリンの唇は、言葉を紡いでくれない。
「エリン……」
主の悲しげな声に、微かに苛立ちを感じた。
彼女は鈍感だ。今だって自分だけが寂しいようなつもりで……何も分かっていない。寂しいのは自分だって――……
城で暮らす上で、必要なものは何でも与えられたけれど、それらは全て、実際には主人であるアーシュラの持ち物だ。彼個人のものなど何一つない。そのことは、エリンにとっては、太陽が東から昇るのと同じくらい、当然で、何の違和感も感じないことだ。
しかし、そんな彼が唯一自分のものとして手元に置いている品が一つだけある。
それは、立派な緑色の宝石が埋め込まれた、女物の指輪だった。元の持ち主は彼の母、マイ=ブリット・カスタニエ。幼い息子と引き離される際、彼女が泣きながらエリンに手渡したものだ。
けれど、母親が恋しい時分にはその指輪に込められた想いが理解できず、それが分かるようになった頃には、既に母親への思慕は形を失っていた。
だから、指輪は長いこと、私室の引き出しに無造作に入れっぱなしになっていた。今まで、忘れていたといってもいい。
その指輪を、エリンは最近、取り出して眺めることが多くなっていた。手入れのされていない金細工はすっかり色あせ、全くみすぼらしいものになっていたけれど、埋め込まれた宝石は相変わらず美しく輝いて――そして、なぜか不思議なことに、記憶の中の緑色とは違う、赤紫色をしていた。
この指輪は、エリンが剣としてではなく、人として生まれついたことを証し立てる、唯一の品である。茜色の宝石は、そのことを静かにエリンに伝えようとしているような気がした。
サイズの合わない指輪を小指につけて、ランプにかざして覗きこむ。窓を叩く音が耳に届いたのは、そんな刹那のことだった。
「……?」
外を見ると、もう一時間も前に眠りについたはずの主が、寝間着のままバルコニーからこちらを覗いていた。驚いたエリンと目が合うと、彼女は窓を指してここを開けろと身振りする。
「ど……うか、なさいましたか?」
慌てて窓を開けて迎え入れた。
「ここのところ、お前が捕まらないのだもの。寝たふりをしてみたのよ」
夜気をまとって、アーシュラは悪戯が成功した子供のように笑う。
「お風邪を召されたらどうなさるつもりです」
「そうなればお前のせいね」
「殿下……」
どことなく他人行儀な物言いに、アーシュラは不満そうにエリンを見る。そして、彼の小指に嵌まったままの指輪に気がついたようだった。
「その指輪……」
「これは、その……」
あまり、彼女にそれを見せたことは無かったような気がする。何と説明すればよいかと悩むエリンだったが、アーシュラは呆れた様子で目を細めた。
「大切な指輪なのに、手入れもしていないのね」
「……ご存知で?」
「指輪のこと?」
「お話したことは無かったような……」
「呆れた。小さいころなくして大泣きしたの、忘れたのね」
「えっ……」
エリンが驚くと、アーシュラは小さく苦笑して言った。
「それが無いとお母様が迎えに来てくださらないって、言っていたわよ。わたくしも、可哀想になってしまって、ツヴァイと一緒に探してあげたの。覚えていない?」
「……いつ頃の話でしょうか」
「いつだったかしら。お前が城に来て、最初の頃だと思うけれど……」
「そんなことが……」
「お前は小さかったものね」
「そういえば……その……この石、こんな色をしておりましたでしょうか?」
「え?」
「記憶では、緑色だったような……」
「まぁ……エリン」
アーシュラはくすくす笑って、エリンの手を掴み、指輪を奪う。冷たい指が何気なく触れたことに、なぜか心臓が跳ねる。
「この宝石(アレクサンドライト)は、太陽の下で見ると緑色なのよ」
言われてみれば、そのことを誰かから聞いたことがあるような気がする。師だっただろうか。分からない。幼い頃のことは、自分では全部記憶しているようなつもりでいるのに。
「……殿下は、よく憶えておいでなのですね」
「当たり前でしょう。お前より二歳も年上なのだから」
久しぶりに歳上なのを威張るアーシュラに、ずっとずっと昔の彼女の面影を見つけて気が遠くなる。かつてあった自分と、今ここにいる自分が、まるで別の生き物のように思われた。
「ねぇ……エリン?」
呆然として佇む従者に、アーシュラは心配そうに首を傾げ、そして――おそらくは、指輪を返そうとしたのだろう――彼の手を取ろうとした。
「……!」
反射的に振りほどいて逃げてしまうエリンを、彼女は睨む。
「お前、最近へんよ。どうしてわたくしを避けるの?」
言いながら一歩進み出る。その歩幅の分、エリンは無意識に逃げていた。
「……避けてなどおりません。お側におります」
言葉はまるっきり言い訳めいた響きをはらむ。アーシュラは、いつもの彼女であれば、ますます不機嫌になるところだったが、今夜は逆に、悲しそうに肩を落とした。
「だけど……だけど、姿が見えない時が多すぎるし、話もしないようにしてるでしょう?」
弁解の言葉がない。あからさまな態度をとってしまっている自覚はあるし、アーシュラが気付かないとも思っていない。
「……申し訳ありません」
けれど、理由は言えないのだ。
「エリン……お前、もしかして本当に、わたくしの結婚に反対なの?」
「え……?」
暗い顔で恐る恐るそう口にするアーシュラに、エリンは目を丸くする。
「……どうして、そのようなことを?」
問いながら思い出す。そういえば、前に話をした時も、そんなことを言っていたような……
「お前とわたくしは違うんだって、ゲオルグに言われて、考えたの」
珍しくしおらしい調子で、真摯に彼女は続けた。
「わたくしが幸せになれば、お前も必ず幸せになるのだと、わたくしはずっとそう信じていたし、今もそう思っているわ。けれど……」
笑顔は剥がれ、思いつめたような青白い顔が現れる。
「けれどお前が、もしそう思っていないのなら、それは――」
「――アーシュラ」
答えを持たぬまま、エリンはその言葉を遮る。彼女にそんな誤解をさせるわけにはいかないと思った。
「あなたの幸せを……私が、喜ばないはずがありません。私の命は全て、あなたのものなのですから」
嘘はつけない。けれど――今言葉にできる真実なんて、このくらいのものだ。こんなもの、アーシュラにとっては当たり前すぎる言葉で、ただ型通りの気休めと取られても仕方がない。
「だったら、どうして今までどおり傍に居てくれないの? おかしいわ、エリン。ずうっと、子供の頃から一緒だったじゃない、わたくしたち。お前が居ないと……」
アーシュラは辛そうに瞳を揺らす。
「不安なのよ。とても」
細い指が改めてエリンの手を捕まえ、精一杯の力で掴む。
「それは……」
今ここで、アドルフの命令を無視して、彼女を安心させる台詞を口にすれば、これ以上主から遠ざかる必要はなくなる。彼女を傷つけることもない。自分たちは、今までどおりの二人でいられる。
それが一番、良いことなのではないのか。
けれど――――エリンの唇は、言葉を紡いでくれない。
「エリン……」
主の悲しげな声に、微かに苛立ちを感じた。
彼女は鈍感だ。今だって自分だけが寂しいようなつもりで……何も分かっていない。寂しいのは自分だって――……
0
あなたにおすすめの小説
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
辺境伯夫人は領地を紡ぐ
やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。
しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。
物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。
戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。
これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。
全50話の予定です
※表紙はイメージです
※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)
【完結】あなたを忘れたい
やまぐちこはる
恋愛
子爵令嬢ナミリアは愛し合う婚約者ディルーストと結婚する日を待ち侘びていた。
そんな時、不幸が訪れる。
■□■
【毎日更新】毎日8時と18時更新です。
【完結保証】最終話まで書き終えています。
最後までお付き合い頂けたらうれしいです(_ _)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる