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二十
願い-4
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「……殿下」
抑えた声は、思いの外低く響いた。
「あなたにとって、剣とは……何なのでしょうか」
「え……?」
エリンの言葉にアーシュラは両の紫を見開いて、すっかり背の高くなった年下の従者を見上げる。
「あの時出会ったのがゲオルグ・カルサスだったから、あなたは彼を選び、愛されたのでしょう。けれど……」
こんなことを言うつもりでは無かった、と、後悔をしてももう遅い。
「けれど、私を選んで剣としてくださったわけではない」
足元がぬるりとぬかるんだような、不確かな恐怖が差し込んで、ずっと自分を支えていたものがボロボロと崩れ始めるのを感じた。
エリンは絶望する。これは言葉にするべきではなかった。
「お前、何を言って……」
「陛下のご命令だったから、私を傍に置かれた。あなたを守るのは、私でなくても良かったのに」
「ち、違う……」
「違いません!」
乱れる心に抗えず、エリンは喚いた。こんな風に声を荒らげることなど、今まで無かった。
自分の声の残響が歪み、頭の芯にこだまする。沈んだ心は思考を手放し、気が付くとエリンは、主の細い腕を掴んで、冷たい寝台に押し倒していた。
戸惑いの表情のまま皇女は従者に組み伏せられ――――僅かの沈黙。
彼女は一言も発さなかった。
寝台が軋む音がする。弱いアーシュラの腕は簡単に折れてしまいそうなのに、制御できなくなった心のまま、力を緩めることが出来なかった。
「……どうして陛下が私の命をお助けになったのか、あなたはご存じ無いでしょう」
そして、かろうじてそれだけ口にした。
主に狼藉をはたらくなど、あってはならぬこと。今すぐ彼女を解放しなければいけないと、心は命じているのに。身体はこわばり、言うことをきかない。
夜の闇が深く心を侵して、自分が自分でいられなくなる。ああ、やっぱり、今この人と顔を合わせるべきではなかったのだ。
抵抗しない腕を痛いほどの力で押さえつけられ、やがて皇女は、夢から覚めたような表情でポツリと言った。
「――お祖父様らしいわね」
そして、傷ついた顔で微笑む。
「わたくしが死んだ後のことを案じていらっしゃるなんて」
悲しい言葉はエリンにかけられた魔法を解いた。動かなかった手から力が抜けて、そろりと離れようとする身体に、彼女の手がためらいがちに伸びる。
「ばかな子ね……お前以外にわたくしの剣はいないのに」
いたわるように、慈しむように。おずおずと少女は従者を抱きしめる。ふわりと甘い彼女のにおいがした。
「お前はわたくしを選ぶことは出来なかったけれど、わたくしは違うわ。初めて会った日のことを、覚えていないと思う?」
「アーシュラ……?」
「覚えているわ、わたくしは全部。お前にそばにいてほしいって思った。生きていてほしいって思ったの」
アーシュラはまっすぐエリンを見つめる。
「アヴァロンの紫は、持って生まれた者を孤独にする。お祖父様のように。けれど……わたくしにはお前がいたから。あの日お前に会えたから、わたくしはずっと寂しくなかった。お前が半身だって思っていたから、この身体がどんなに壊れてたって我慢できた。全部お前がいてくれたからなのよ、エリン」
「だから、わたくしは……」
熱っぽく潤んだ瞳が、恥じらうように少し揺れて、けれどすぐに強さを取り戻す。
「だから――お祖父様のご命令とか、次の皇太子とかはどうでもいいわ。お前がそれを望むのなら、お前の子を産んであげます」
そう言ってニコリと笑う。
「な……」
「どうなの?」
「ちょ……っと、待って下さい……」
目を丸くするエリンの首筋に面白がるようにアーシュラが腕を絡める。
「待たないわよ。どうしたい?」
「カルサス様は……?」
「もちろん彼の子も産むわよ。当たり前じゃない」
「アーシュラ……」
事も無げにそう言ってしまう主を前に、何となく悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなって、エリンはため息をついた。絡みついた白い腕をほどいて、乱れた彼女の服の襟元を直す。
「……あなたは、ご自分のことが分かっていない」
そして、どうにか冷静さを取り戻して言った。
「そのお体で、何人も子をお産みになれると思わないほうがいい」
「なっ……そんなこと……」
殺風景なエリンの私室を包む闇が、いつの間にか随分優しい夜へと変わっている。反論の言葉を紡ごうとする唇をそっと塞いで、彼は、少女がくれた答えを続ける。
「あります、アーシュラ。あなたのことは、私の方があなた自身より知っているんだ。他のどんなことより、殿下のお体の方が大切です。私は……反対しますから」
言いながら、寝台に落ちた指輪を拾い上げ、ランプの灯を吸って赤紫に光るそれを見つめる。泣き顔しか思い出せなくなっていた母の笑顔のイメージが、ふと脳裏に浮かんで、消える。そして、もうそれは現れない。
「エリン……?」
「……あなたを愛している」
「知っているわ」
「愛しています」
「……知っているったら」
愛の言葉を不満げに受け取る少女に、彼女の剣は笑った。
「だから……あなたは、あの方の子をお産み下さい」
抑えた声は、思いの外低く響いた。
「あなたにとって、剣とは……何なのでしょうか」
「え……?」
エリンの言葉にアーシュラは両の紫を見開いて、すっかり背の高くなった年下の従者を見上げる。
「あの時出会ったのがゲオルグ・カルサスだったから、あなたは彼を選び、愛されたのでしょう。けれど……」
こんなことを言うつもりでは無かった、と、後悔をしてももう遅い。
「けれど、私を選んで剣としてくださったわけではない」
足元がぬるりとぬかるんだような、不確かな恐怖が差し込んで、ずっと自分を支えていたものがボロボロと崩れ始めるのを感じた。
エリンは絶望する。これは言葉にするべきではなかった。
「お前、何を言って……」
「陛下のご命令だったから、私を傍に置かれた。あなたを守るのは、私でなくても良かったのに」
「ち、違う……」
「違いません!」
乱れる心に抗えず、エリンは喚いた。こんな風に声を荒らげることなど、今まで無かった。
自分の声の残響が歪み、頭の芯にこだまする。沈んだ心は思考を手放し、気が付くとエリンは、主の細い腕を掴んで、冷たい寝台に押し倒していた。
戸惑いの表情のまま皇女は従者に組み伏せられ――――僅かの沈黙。
彼女は一言も発さなかった。
寝台が軋む音がする。弱いアーシュラの腕は簡単に折れてしまいそうなのに、制御できなくなった心のまま、力を緩めることが出来なかった。
「……どうして陛下が私の命をお助けになったのか、あなたはご存じ無いでしょう」
そして、かろうじてそれだけ口にした。
主に狼藉をはたらくなど、あってはならぬこと。今すぐ彼女を解放しなければいけないと、心は命じているのに。身体はこわばり、言うことをきかない。
夜の闇が深く心を侵して、自分が自分でいられなくなる。ああ、やっぱり、今この人と顔を合わせるべきではなかったのだ。
抵抗しない腕を痛いほどの力で押さえつけられ、やがて皇女は、夢から覚めたような表情でポツリと言った。
「――お祖父様らしいわね」
そして、傷ついた顔で微笑む。
「わたくしが死んだ後のことを案じていらっしゃるなんて」
悲しい言葉はエリンにかけられた魔法を解いた。動かなかった手から力が抜けて、そろりと離れようとする身体に、彼女の手がためらいがちに伸びる。
「ばかな子ね……お前以外にわたくしの剣はいないのに」
いたわるように、慈しむように。おずおずと少女は従者を抱きしめる。ふわりと甘い彼女のにおいがした。
「お前はわたくしを選ぶことは出来なかったけれど、わたくしは違うわ。初めて会った日のことを、覚えていないと思う?」
「アーシュラ……?」
「覚えているわ、わたくしは全部。お前にそばにいてほしいって思った。生きていてほしいって思ったの」
アーシュラはまっすぐエリンを見つめる。
「アヴァロンの紫は、持って生まれた者を孤独にする。お祖父様のように。けれど……わたくしにはお前がいたから。あの日お前に会えたから、わたくしはずっと寂しくなかった。お前が半身だって思っていたから、この身体がどんなに壊れてたって我慢できた。全部お前がいてくれたからなのよ、エリン」
「だから、わたくしは……」
熱っぽく潤んだ瞳が、恥じらうように少し揺れて、けれどすぐに強さを取り戻す。
「だから――お祖父様のご命令とか、次の皇太子とかはどうでもいいわ。お前がそれを望むのなら、お前の子を産んであげます」
そう言ってニコリと笑う。
「な……」
「どうなの?」
「ちょ……っと、待って下さい……」
目を丸くするエリンの首筋に面白がるようにアーシュラが腕を絡める。
「待たないわよ。どうしたい?」
「カルサス様は……?」
「もちろん彼の子も産むわよ。当たり前じゃない」
「アーシュラ……」
事も無げにそう言ってしまう主を前に、何となく悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなって、エリンはため息をついた。絡みついた白い腕をほどいて、乱れた彼女の服の襟元を直す。
「……あなたは、ご自分のことが分かっていない」
そして、どうにか冷静さを取り戻して言った。
「そのお体で、何人も子をお産みになれると思わないほうがいい」
「なっ……そんなこと……」
殺風景なエリンの私室を包む闇が、いつの間にか随分優しい夜へと変わっている。反論の言葉を紡ごうとする唇をそっと塞いで、彼は、少女がくれた答えを続ける。
「あります、アーシュラ。あなたのことは、私の方があなた自身より知っているんだ。他のどんなことより、殿下のお体の方が大切です。私は……反対しますから」
言いながら、寝台に落ちた指輪を拾い上げ、ランプの灯を吸って赤紫に光るそれを見つめる。泣き顔しか思い出せなくなっていた母の笑顔のイメージが、ふと脳裏に浮かんで、消える。そして、もうそれは現れない。
「エリン……?」
「……あなたを愛している」
「知っているわ」
「愛しています」
「……知っているったら」
愛の言葉を不満げに受け取る少女に、彼女の剣は笑った。
「だから……あなたは、あの方の子をお産み下さい」
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