123 / 126
二十二
花の名-4
しおりを挟む
「お願いだよ! アーシュラ!!」
「……そうです、陛下。どうかお聞き分け下さい」
枕元でゲオルグとエリンが珍しく口を揃える。二人の顔を代わる代わる見て、アーシュラはくすくすと笑う。
「二人とも、心配のしすぎだわ」
青白い顔をして、かれこれ何日も寝込んだままのアーシュラは、しかし、上機嫌だった。
「ここのところ体調が良くないのは、きっとつわりだったのよ」
「そ、そうかもしれないけど、ね……」
「……そんなわけが無いでしょう、馬鹿なことを仰らないで下さい!」
二人は出産に反対していた。もちろん、子供を授かったことは喜ばしい。けれどあまりに彼女の具合が悪すぎるのだ。医者も、現状のままでは妊娠を継続して母子ともに無事で居られる可能性は低いと言う。それなのに。
「大丈夫よ」
こんなことを容易く言うのだ。
主治医から子供を腹に宿したことを伝えられた時、アーシュラはさほど喜ぶような様子は見せなかった。だから主治医も安堵して、今の体調を考慮すると、出産に命の危険を伴う可能性があることを充分説明した上で、今回の出産を見送ることも検討したほうが良いのではないか、と打診した。
アーシュラは黙ってそれを聞いて、そして翌日ゲオルグとエリンに、出産をすることにしたと、あっさり宣言したのだった。
「エリンから何とか言ってよ……」
「……既に申し上げております」
「彼女、ああ言い始めたら聞かないよ?」
「ええ……」
少し話をしてすぐに眠ってしまった皇帝を置いて、ゲオルグとエリンは二人で廊下に出て、顔を突き合わせて息をつく。今まで、ほとんどアーシュラ抜きで話をする機会の無かった二人であるが、彼女の懐妊を知った後からは、こうして二人で頭を悩ませることが多くなっていた。
ゲオルグも、そしてエリンも、彼女の希望は叶えてやりたいのだ。
けれど、危険の方が大きいとなれば話は違う。今回限りと決まった話ではないのだ。出産はまた体調の良い時期を見計らって挑戦すれば良いのではないか。
アーシュラがエウロ皇帝であるという事実を抜きにしても、やはり、大切な彼女の体より、まだ見ぬ子供を優先する気分にはとてもなれなかった。
「っていうかアーシュラ、最近様子もおかしい気がする……」
ゲオルグは心配そうに俯いた。別に、新婚早々夫婦仲がうまくいかないわけではない。むしろ、以前以上に睦まじく過ごしてはいるのだ。
「……そうですね」
エリンもそう言うしか無かった。
確かに、彼女は変わった。どのように変化したかを言葉で説明するのは少し難しいけれど、確実にいえることは、さらに強くなったということだ。泣き言を言わなくなって、我が儘も言わなくなって、癇癪も起こさなくなった。以前より、もっと優しくなった。祖父が殺されたからか、弟に憎まれたからか、子供を宿したからか。それら全部がきっかけのような気もするし、そうではないと言われても不思議には思わない。
彼女の一部であるエリンにはわかる。アーシュラの心のなかには、エリンにも、誰にも、決して手を触れることの出来ない孤独な芯がある。
それはきっと、幼い頃から彼女の体が彼女自身に与え続けた苦痛が育てたものだ。半身であるはずのエリンさえ、彼女の痛みを身代わりに受けることは出来ない。痛みはいつも、彼女に孤独を押し付ける。
痛くて、苦しくて、眠りたくても眠れないような夜、アーシュラはひとりきりでそれに向き合って、そして、ひとりで先に色々なことを知ってしまう。
――そんな時エリンは、彼女に置いて行かれるような気がして、いつも心細く思うのだ。
彼女が臥せりがちとなったせいで、ゲオルグは皇帝の補佐役として、執務の代行をいきなり担当することになり、とても忙しかった。そんな中で、彼女の気分の良い時を見計らっては出産を諦めろと説得するのは気持ちの参ることだ。
けれど、アーシュラは二人が同じことを何度繰り返しても、少しも怒らない。笑う元気のある日はニコニコ笑って、そうでない日でも穏やかな顔で、説得を受け入れることは頑として無かったけれど。
二人の努力が実を結ばないまま、彼女の腹の命は順調に育っていった。そして、アーシュラは胎児に命を与えるように、目に見えて衰えていく。見知らぬ生き物に内側から食われるように痩せ細っていく妻の姿に、日が経つにつれ、ゲオルグは恐怖を抱くようになっていた。
「……エリン、僕はやっぱり、彼女に出産をさせるべきじゃないと思う」
ある夜、彼女を見舞った後、ゲオルグは怖い顔で言った。
「このままでは本当に死んでしまうよ」
彼女の承諾無しに妊娠を終わらせることは出来ない。けれど――父であり、夫であるゲオルグだけは、アーシュラの命を救うという名目で、彼女の意志を無視することができる。
「大公殿下……」
エリンは何も言えなかった。何も言う資格が無いからだ。けれど、彼女の希望と命を天秤にかけるなら、迷わず命をとる。
――生きていてくれないと駄目だ。
「……罪の半分は、私に」
エリンの言葉に、思いつめた様子のゲオルグは少し笑う。
「ありがとう。最初からそのつもり」
そして、緊張した表情に戻って言った。
「――共犯者になろう。彼女のために」
子が育ちすぎるほどに、あらゆる危険は大きくなる。ゲオルグはその夜のうちに主治医と打ち合わせをして、彼女を裏切る手筈を整えた。
彼女を自然に眠らせて、そのまま子を殺してしまうことにしたのだ。昏睡状態のうちに状況が悪くなり、やむを得ず胎児の命を諦めたのだという説明は、彼女の具合から鑑みても充分言い訳として通るものだ。
その罪さえ引き受けてしまえば、今彼女が子のために絶っている薬も使えるようになるし、後は――あらゆる手段を講じて、彼女の健康を取り戻せばいい。
そうすれば、またいつか、子供を授かる機会もあるかもしれない。いや、たとえその機会が永遠に来ないとしても、彼女が命を落とすよりは良いのだから。
秋が訪れていた。
もうじきに、彼女の二十一回目の誕生日がやって来る。
「……そうです、陛下。どうかお聞き分け下さい」
枕元でゲオルグとエリンが珍しく口を揃える。二人の顔を代わる代わる見て、アーシュラはくすくすと笑う。
「二人とも、心配のしすぎだわ」
青白い顔をして、かれこれ何日も寝込んだままのアーシュラは、しかし、上機嫌だった。
「ここのところ体調が良くないのは、きっとつわりだったのよ」
「そ、そうかもしれないけど、ね……」
「……そんなわけが無いでしょう、馬鹿なことを仰らないで下さい!」
二人は出産に反対していた。もちろん、子供を授かったことは喜ばしい。けれどあまりに彼女の具合が悪すぎるのだ。医者も、現状のままでは妊娠を継続して母子ともに無事で居られる可能性は低いと言う。それなのに。
「大丈夫よ」
こんなことを容易く言うのだ。
主治医から子供を腹に宿したことを伝えられた時、アーシュラはさほど喜ぶような様子は見せなかった。だから主治医も安堵して、今の体調を考慮すると、出産に命の危険を伴う可能性があることを充分説明した上で、今回の出産を見送ることも検討したほうが良いのではないか、と打診した。
アーシュラは黙ってそれを聞いて、そして翌日ゲオルグとエリンに、出産をすることにしたと、あっさり宣言したのだった。
「エリンから何とか言ってよ……」
「……既に申し上げております」
「彼女、ああ言い始めたら聞かないよ?」
「ええ……」
少し話をしてすぐに眠ってしまった皇帝を置いて、ゲオルグとエリンは二人で廊下に出て、顔を突き合わせて息をつく。今まで、ほとんどアーシュラ抜きで話をする機会の無かった二人であるが、彼女の懐妊を知った後からは、こうして二人で頭を悩ませることが多くなっていた。
ゲオルグも、そしてエリンも、彼女の希望は叶えてやりたいのだ。
けれど、危険の方が大きいとなれば話は違う。今回限りと決まった話ではないのだ。出産はまた体調の良い時期を見計らって挑戦すれば良いのではないか。
アーシュラがエウロ皇帝であるという事実を抜きにしても、やはり、大切な彼女の体より、まだ見ぬ子供を優先する気分にはとてもなれなかった。
「っていうかアーシュラ、最近様子もおかしい気がする……」
ゲオルグは心配そうに俯いた。別に、新婚早々夫婦仲がうまくいかないわけではない。むしろ、以前以上に睦まじく過ごしてはいるのだ。
「……そうですね」
エリンもそう言うしか無かった。
確かに、彼女は変わった。どのように変化したかを言葉で説明するのは少し難しいけれど、確実にいえることは、さらに強くなったということだ。泣き言を言わなくなって、我が儘も言わなくなって、癇癪も起こさなくなった。以前より、もっと優しくなった。祖父が殺されたからか、弟に憎まれたからか、子供を宿したからか。それら全部がきっかけのような気もするし、そうではないと言われても不思議には思わない。
彼女の一部であるエリンにはわかる。アーシュラの心のなかには、エリンにも、誰にも、決して手を触れることの出来ない孤独な芯がある。
それはきっと、幼い頃から彼女の体が彼女自身に与え続けた苦痛が育てたものだ。半身であるはずのエリンさえ、彼女の痛みを身代わりに受けることは出来ない。痛みはいつも、彼女に孤独を押し付ける。
痛くて、苦しくて、眠りたくても眠れないような夜、アーシュラはひとりきりでそれに向き合って、そして、ひとりで先に色々なことを知ってしまう。
――そんな時エリンは、彼女に置いて行かれるような気がして、いつも心細く思うのだ。
彼女が臥せりがちとなったせいで、ゲオルグは皇帝の補佐役として、執務の代行をいきなり担当することになり、とても忙しかった。そんな中で、彼女の気分の良い時を見計らっては出産を諦めろと説得するのは気持ちの参ることだ。
けれど、アーシュラは二人が同じことを何度繰り返しても、少しも怒らない。笑う元気のある日はニコニコ笑って、そうでない日でも穏やかな顔で、説得を受け入れることは頑として無かったけれど。
二人の努力が実を結ばないまま、彼女の腹の命は順調に育っていった。そして、アーシュラは胎児に命を与えるように、目に見えて衰えていく。見知らぬ生き物に内側から食われるように痩せ細っていく妻の姿に、日が経つにつれ、ゲオルグは恐怖を抱くようになっていた。
「……エリン、僕はやっぱり、彼女に出産をさせるべきじゃないと思う」
ある夜、彼女を見舞った後、ゲオルグは怖い顔で言った。
「このままでは本当に死んでしまうよ」
彼女の承諾無しに妊娠を終わらせることは出来ない。けれど――父であり、夫であるゲオルグだけは、アーシュラの命を救うという名目で、彼女の意志を無視することができる。
「大公殿下……」
エリンは何も言えなかった。何も言う資格が無いからだ。けれど、彼女の希望と命を天秤にかけるなら、迷わず命をとる。
――生きていてくれないと駄目だ。
「……罪の半分は、私に」
エリンの言葉に、思いつめた様子のゲオルグは少し笑う。
「ありがとう。最初からそのつもり」
そして、緊張した表情に戻って言った。
「――共犯者になろう。彼女のために」
子が育ちすぎるほどに、あらゆる危険は大きくなる。ゲオルグはその夜のうちに主治医と打ち合わせをして、彼女を裏切る手筈を整えた。
彼女を自然に眠らせて、そのまま子を殺してしまうことにしたのだ。昏睡状態のうちに状況が悪くなり、やむを得ず胎児の命を諦めたのだという説明は、彼女の具合から鑑みても充分言い訳として通るものだ。
その罪さえ引き受けてしまえば、今彼女が子のために絶っている薬も使えるようになるし、後は――あらゆる手段を講じて、彼女の健康を取り戻せばいい。
そうすれば、またいつか、子供を授かる機会もあるかもしれない。いや、たとえその機会が永遠に来ないとしても、彼女が命を落とすよりは良いのだから。
秋が訪れていた。
もうじきに、彼女の二十一回目の誕生日がやって来る。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
そのご寵愛、理由が分かりません
秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。
幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに——
「君との婚約はなかったことに」
卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り!
え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー!
領地に帰ってスローライフしよう!
そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて——
「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」
……は???
お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!?
刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり——
気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。
でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……?
夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー!
理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。
※毎朝6時、夕方18時更新!
※他のサイトにも掲載しています。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
白い結婚のはずが、旦那様の溺愛が止まりません!――冷徹領主と政略令嬢の甘すぎる夫婦生活
しおしお
恋愛
政略結婚の末、侯爵家から「価値がない」と切り捨てられた令嬢リオラ。
新しい夫となったのは、噂で“冷徹”と囁かれる辺境領主ラディス。
二人は互いの自由のため――**干渉しない“白い結婚”**を結ぶことに。
ところが。
◆市場に行けばついてくる
◆荷物は全部持ちたがる
◆雨の日は仕事を早退して帰ってくる
◆ちょっと笑うだけで顔が真っ赤になる
……どう見ても、干渉しまくり。
「旦那様、これは白い結婚のはずでは……?」
「……君のことを、放っておけない」
距離はゆっくり縮まり、
優しすぎる態度にリオラの心も揺れ始める。
そんな時、彼女を利用しようと実家が再び手を伸ばす。
“冷徹”と呼ばれた旦那様の怒りが静かに燃え――
「二度と妻を侮辱するな」
守られ、支え合い、やがて惹かれ合う二人の想いは、
いつしか“形だけの夫婦”を超えていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる