孤独なオメガは、龍になる。

黒の章

黒の章16

　御令嬢を迎える準備で騒然としている政務室をそっと抜け出し、広場を抜け、更に大門を抜け、葵は紫龍園までやってきた。
　地平線は赤く染まり、天上は紫色を帯びて夕闇の気配が既に辺りを漂い始めている。赤と紫が入り混じったような紫龍園の眺めは、ぞっとするほど美しかった。

(フェイロン……)

　青紫色の花に囲まれて、葵に笑いかけてくれたのが遠い昔のようだ。あの時二人で並んで座った場所に来ると、葵は息が出来ない程の愛おしさに体が震えた。
　鋭い三本の爪で紫龍草を一つ手折り、顔の近くで深く息を吸い込む。甘く爽やかな香りは、愛しい人を思い起こさせた。
　紫龍草を手に握りしめたまま、葵は一度だけ宮殿を振り返る。だが、直ぐに目を背けると、くるりと踵を返し前脚を宙に上げる。
　途端、紫龍園には一陣の風が吹き抜け、青紫色の花々が高く舞い上がった。
　そして、風が収まり──あたりは静寂に包まれた。



　クロは何処に行っても山に繋がっていると言っていたが、ロンワンは東にある国の筈なので、とりあえず葵は太陽が落ちていく西へと進んだ。
　突風を起こしながら通り過ぎて行く風景は、畑や緑が多く、たまに集落のように広がる民家は素朴だが温かみのある風景だ。
　初めて見る外の光景は、全てが目新しかった。だが、今の葵はただの風景以上の感情は湧いてこない。
　とにかく一刻も早く山へ着いて、この身を隠してしまいたい。

　日がすっかり沈むと、民家の類いは一切無くなり、くねくねとうねる坂道が続くようになった。
　さらにそれを登るとトゲが生えた木が斜面一面に広がっている。恐らくここが『山』の麓なのだろう。
　木々の黒い影は何となく、いばら姫の絵本を思い出した。
　葵は跳躍するのをやめ、地にちょこんと足をつける。すると、足元に小さな黒蛇が寄ってきた。

(クロ………じゃないな)

　反射的に一歩下がる。が、後ろにも黒蛇がにょろりと顔を出した。
　気付けば、辺り一面黒蛇に覆われ、ぎょろりとした沢山の目が、葵を囲んでいる。

(なんか、まずくないか？)

　恐怖を感じたその時、突然木の上から声が聞こえた。

「やっと、来たんすか。遅かったっすねぇ。あ、今はあんたちっこいのか。そら、ご苦労様でしたね」

　助かった──と思うのが正解なのか、葵には分からない。

「待ちくたびれましたよ」

　サッと音もなく木から降りてきたのは、闇夜をそのまま溶かしこんだような黒い瞳と髪を持った、ひょろりと背の高い中性的な雰囲気の青年だった。
　真っ黒な服は申し訳程度に肩を隠し、無造作に伸ばした髪の毛が、鎖骨にかかり全体的にだらしない。
　だが、人を小馬鹿にしたような瞳の左眼にある泣き黒子と、林檎のような真っ赤な唇がかえってそれを艶めいた物に変えていた。

「クロ……」

  人の姿は初めて見たが、それがクロだと言う事はすぐに分かった。
　禍々しい程美しく、暗闇から生まれでたような雰囲気は、正に黒蛇のクロそのものだった。

「あははっ！びっくりしてないな。やっぱりあんたはあんたっすね」

　クロは文字通り蛇のように体をくねらせて、ゆっくり葵に近づいてくる。

「俺と一緒に来る覚悟は、決まったんすか？」