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後編
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「友達と……彼女、舞美っていうんですけど……舞美とは、二年のクラス替えで一緒になって」
綺麗な子だと思っていた。
けれど接点もないから別段交流もなく。
そんな時だった。
放課後帰り支度をして下駄箱へと歩いていると声がしたのだ。
「……みぃ、どこなのみぃ」
「どうかした?」
「わぁっ!」
何の気なしに声をかけた。
だから舞美だとは気づかなくて杏奈も驚いたらしく、二人して固まってしまった。
彼女は、どうやら泣いているらしかった。
何をしたのか制服のあちらこちらが薄汚れている。
「どうしたの」
「キーホルダーのみぃが、落ちちゃったみたいで」
見ると手には、千切れたらしいキーホルダーの留め具があった。
「どんなやつ?」
「え?」
「だから、特徴は? 一緒に探すって言ってるのよ」
「あ……ありがとう」
嬉しそうに笑う彼女は、それはとても綺麗で。
「えっと、白色のねこの形しててぬいぐるみなんだけど、胸元にピンクのリボンをつけてるの」
「どの辺歩いた?」
「えっと、教室から、ここまでかな?」
舞美は身振り手振りをつけて説明をした。
じゃあ手分けしようと言って、方々探して、杏奈が見つけたのだ。
キーホルダーについていた白いねこを。
なのに――
杏奈の眉間に皺がよった。
奥歯がぎりり、鳴ったかもしれなかった。
杏奈に自覚はなかったが。
「それは、本当に?」
「え? どういう、ことですか?」
「いや。続けて?」
杏奈は何だか落ち着かなくなって手に持ったカップを口へと傾ける。
ごくん、と喉から音がした。
むせかえるようだ。
だけど。
何が?
「続けてごらん」
「そう、私は取られたんです」
言いながら杏奈は、お皿に置かれたチョコレートへと手を伸ばし、口に、含んだ。
舌で転がしてその甘露を溶かす。
焼け付くように、甘い。
「何を?
「私は、取られたの、彼を」
杏奈の目からポタポタと涙が落ちた。
舌で舐めとかしたチョコレートは、その中が少しビターだ。
「本当に?」
綺麗な瞳が彼女を見透かすように煌めいた。
両肘を机につき、両手を組んで顎を当てつつ杏奈を見つめる。
その瞳に、ランタンの光が艶めいている。
赤、青、緑、黄、紫、色とりどりのそれは、花の香りも相まってなんだかとても美味しそうにも見えた。
「本当に」
「本当に?」
「本当、に?」
彼女は、自分の口から甘やかな香りがすることに気がついた。
気がつきはしたが、もう、その目は彼の瞳の奥底を見ている。
「ほんとう、は」
「うん」
「付き合ってたのは、舞美の方、で」
そう、入学してひと月もしたら彼は舞美と付き合っていた。
キーホルダーを拾ったのも、彼。
彼女は舞美と水族館へは行ったしそこでイルカショーを見たりお土産をああでもないこうでもないと、二人きゃらきゃらしながら選んだ。
映画は恋愛ものやアクション系、懐かしのアニメとか結構観に行ったし、カラオケにも行ってどんな歌が好きかを知った。
どんどん距離は縮んでいって、仲はとても良くなったと杏奈は思う。
けれど、直接聞いたことはなかった。
「彼氏がいるなんて聞いてなくて」
だから、杏奈は腹がたった。
一人何も知らなかったのか、と。
本人にそれとなく聞きもした。
けれど気恥ずかしいのか話す必要はないと思ったのか、濁されてその会話は終わってしまった。
杏奈にはわからなかった。
何故自分がそのような対応をされなければならなかったのか。
悔しくて悔しくて。
入学してから友人作りには余念がなかった彼女は、舞美が彼との仲を隠していることをいいことに、二年生に上がると同じクラスになったのもあって彼に近づき仲良くなった。
必要以上にひっついたり、話し込んだりを繰り返す。
そうして、少しずつ少しずつ目に見える形を変えていく。
半年もすれば、陰で誰と誰が付き合ってるだのの耳年増な友人の間では、杏奈と彼との噂で持ちきりになった。
そこで彼女は思わせぶりに言って回ることにした。
「あのね、実は今困ってて」
噂では杏奈と正吾が付き合っていることになっていたものの、現実には彼と付き合っているのは舞美である。
ちょこちょことあちらこちらで、仲良く話しているのを、杏奈は知っていた。
それをいいように言いかえる。
「彼が少し困ってたの、付きまとわれてるって」
実際にはそんなことはない。
むしろ杏奈が付きまとっているとも言えた。
けれどそんな事実は、口さがない友人たちには関係ないのだ。
「最近、物がなくなってる気がする。ううん、きっと私の気のせいだよね」
わざと落として無くしたものを、さも誰かが何かをやったかのように吹聴してみたりもした。
ちょっと怯えたように青ざめれば、味方である友人たちは勝手に想像して勝手に触れ回って勝手に味方を増やしてくれた。
そこから女子の反感を舞美は買ってしまったらしく、いじめが始まった。
最初は物がなくなる、ついで、悪口。
杏奈は舞美を陰で励ました。
泣いている彼女の瞳の煌めきにゾクゾクした。
その儚げな様子を見たくて段々と噂をエスカレートさせていった。
ノートをビリビリにしたり、彼が舞美と寝たんじゃないかと証拠かのように自分の髪ゴムを手の平に握りながら。
この頃になると、目に見えて舞美が落ち込んでいるのをたびたび見かけた。
気丈そうに振る舞っても、親友の杏奈には舞美の気持ちが手に取るようにわかる。
自分から、何かあったのかとたびたび尋ねてはよく話を聞いてあげたものだった。
「ねぇ杏奈、私何かしたかなぁ?」
「舞美は何も悪くないよ」
そう言って、肩を抱き寄せ背中をさすった。
華奢な肩、震える瞳に溜まってゆく聖水は、舐めたらきっと甘かっただろうに。
あの時杏奈は確かに楽しかった。
「友人が悲しんでるのに、楽しかったのかい?」
目の前の美貌の人が、杏奈に尋ねた。
その声は呆れたようにも、ただ興味があるだけのようにも聞こえたが、彼女の心内には意味をなさない。
ランタンの柔らかな光が煌々と彼女に降り注いでいる。
風も吹いていないのに、室内に置かれた花たちは、どこか揺れているかのようにも見えた。
クラクラと花の香りが彼女の鼻をつく。
「だって」
「だって?」
「だっ、て」
むせかえるように甘い。
「私は舞美に頼られていたかった。必要とされていたかった」
そういつだって。
杏奈は舞美から杏奈、と呼ばれるのが嬉しかった。
キーホルダーは探せなかったけれど、隠されたノートや筆記用具や体操服を探して見つけ、綻ぶように笑う、その顔を見つめていたかった。
「おかしいね、君は彼が好きだったのではないかい?」
「そうね、私は彼が好きだったんじゃない」
彼が好きならば話は単純だった。
正攻法でも裏技でも使って奪えばいい。
やり方ならいくらでもある。
「そうなのかい?」
「うん、ただ羨ましかったの。舞美に、頼られていることが」
「立場がってことか」
「そう、彼になりたかった」
遠巻きに見る彼は、いつも舞美を笑わせていた。
水族館のイルカショーにはしゃぐ彼女が肩を叩くのは私であるべきだし。恋愛映画を観終わった後グジュグジュと泣く舞美の肩を抱き、ティッシュを差し出しながら微笑み合うそれは私のものであるべきで。カラオケで歌いすぎて喉を枯らした舞美に、飲み物をそっと差し出しお礼を言われるべきは私だったのだ。その淡くみずみずしい肌をいだくさまを想像しながら向かいの喫茶店で潰す時間の、なんと薄暗く悲しかったことか。出入り口で見た舞美のその無防備な笑顔は、私には向けられたことのないもので――だから、それごともう奪うしかないと思ったのだ。
杏奈の目から雫が溢れた。
薄ピンク色のそれはカップのコーヒーへと落ち、やがて、溶けて消えた。
「後悔しているの」
「わからない」
けれど杏奈の暗躍は彼女に知られてしまった。
舞美には理由がさっぱりわからなかったのだろう。
授業の全部済んだ放課後、呼び止められて責められなじられ、聞かれたのだ。
どうして、と。
「説明できるわけ、ないじゃない」
杏奈の口から心が零れ落ちる。
初めて出会った時からもう奪われていた。
全身が持っていかれるあの感覚。
入学式。
校門から学校へと続く道で見かけたその横顔。
地面に溜まった桜の死体が復活するかのように、クルクルと舞い上がるなか前を見据えたその眼差しまつ毛の庇。
ほっそりとした肢体、桃色のくちびる。
自分のものにしたい。
その欲望にあらがったあのひと月。
あのひと月の間にまさか横から掻っ攫われるなんて。
今思い出しても悔しくて、杏奈は唇を噛む。
彼女の瞼は閉じられた。
きつくきつく。
「告げないのかい」
麗しの店主は、こともなげに杏奈にそう尋ねた。
彼女の眉毛がピクリと動く。
けれど返事はしなかった。
できるわけがない、とは言いたくなかった。
実際は、できないと杏奈が思っていても。
やがて一つ息を吐いて、杏奈は瞳を開いた。
もうもうとした甘ったるい霞の中にいるような感覚。
ここは、何かがおかしい。
彼女は何故自分がここにいて、今この話をしているのか皆目見当がつかなかった。
そんな杏奈を気にもせずに、店主はまた一口、紅茶を飲むと彼女に声をかけた。
「コーヒーのおかわりはいるかい」
「ううん、もういいの。ありがとう」
杏奈の瞳には爛々とした明かりが灯っていた。
あの綺麗な唇を貪りたい。
杏奈の気持ちはとけ、ただ心からの欲望と渇望それだけが剥き出しになり、
どろりと、咲いた。
大嫌い、という声が耳の奥でこだましている。
誰に言われたんだったろうか。
聞こえる声はけれど鼻奥の甘さへと繋がってやがて混ざった。
いてもたってもいられなくなって、杏奈は椅子から立ち上がると、条件反射のような緩いお辞儀だけで挨拶もろくにせずにドアから外へと飛び出していった。
「しまったな、読み違えてしまった」
店主は少し困り顔をしながら、その長いまつ毛を瞬かせ、杏奈へと出したカップを持ち上げるとひとりごちた。
「まぁ、たまにはこういうのもいいか。酔狂な客がいればこの花も売れて行くだろうしね」
口に含んだコーヒーは、最初こそ甘く。
やがて苦味を帯びて喉の奥へと消えてゆく。
室内には、ゆらゆらとランタンの光が揺らめいている。
店主の向かいの椅子には一輪、エリンジウムの花が咲きほころび、佇んでいた。
綺麗な子だと思っていた。
けれど接点もないから別段交流もなく。
そんな時だった。
放課後帰り支度をして下駄箱へと歩いていると声がしたのだ。
「……みぃ、どこなのみぃ」
「どうかした?」
「わぁっ!」
何の気なしに声をかけた。
だから舞美だとは気づかなくて杏奈も驚いたらしく、二人して固まってしまった。
彼女は、どうやら泣いているらしかった。
何をしたのか制服のあちらこちらが薄汚れている。
「どうしたの」
「キーホルダーのみぃが、落ちちゃったみたいで」
見ると手には、千切れたらしいキーホルダーの留め具があった。
「どんなやつ?」
「え?」
「だから、特徴は? 一緒に探すって言ってるのよ」
「あ……ありがとう」
嬉しそうに笑う彼女は、それはとても綺麗で。
「えっと、白色のねこの形しててぬいぐるみなんだけど、胸元にピンクのリボンをつけてるの」
「どの辺歩いた?」
「えっと、教室から、ここまでかな?」
舞美は身振り手振りをつけて説明をした。
じゃあ手分けしようと言って、方々探して、杏奈が見つけたのだ。
キーホルダーについていた白いねこを。
なのに――
杏奈の眉間に皺がよった。
奥歯がぎりり、鳴ったかもしれなかった。
杏奈に自覚はなかったが。
「それは、本当に?」
「え? どういう、ことですか?」
「いや。続けて?」
杏奈は何だか落ち着かなくなって手に持ったカップを口へと傾ける。
ごくん、と喉から音がした。
むせかえるようだ。
だけど。
何が?
「続けてごらん」
「そう、私は取られたんです」
言いながら杏奈は、お皿に置かれたチョコレートへと手を伸ばし、口に、含んだ。
舌で転がしてその甘露を溶かす。
焼け付くように、甘い。
「何を?
「私は、取られたの、彼を」
杏奈の目からポタポタと涙が落ちた。
舌で舐めとかしたチョコレートは、その中が少しビターだ。
「本当に?」
綺麗な瞳が彼女を見透かすように煌めいた。
両肘を机につき、両手を組んで顎を当てつつ杏奈を見つめる。
その瞳に、ランタンの光が艶めいている。
赤、青、緑、黄、紫、色とりどりのそれは、花の香りも相まってなんだかとても美味しそうにも見えた。
「本当に」
「本当に?」
「本当、に?」
彼女は、自分の口から甘やかな香りがすることに気がついた。
気がつきはしたが、もう、その目は彼の瞳の奥底を見ている。
「ほんとう、は」
「うん」
「付き合ってたのは、舞美の方、で」
そう、入学してひと月もしたら彼は舞美と付き合っていた。
キーホルダーを拾ったのも、彼。
彼女は舞美と水族館へは行ったしそこでイルカショーを見たりお土産をああでもないこうでもないと、二人きゃらきゃらしながら選んだ。
映画は恋愛ものやアクション系、懐かしのアニメとか結構観に行ったし、カラオケにも行ってどんな歌が好きかを知った。
どんどん距離は縮んでいって、仲はとても良くなったと杏奈は思う。
けれど、直接聞いたことはなかった。
「彼氏がいるなんて聞いてなくて」
だから、杏奈は腹がたった。
一人何も知らなかったのか、と。
本人にそれとなく聞きもした。
けれど気恥ずかしいのか話す必要はないと思ったのか、濁されてその会話は終わってしまった。
杏奈にはわからなかった。
何故自分がそのような対応をされなければならなかったのか。
悔しくて悔しくて。
入学してから友人作りには余念がなかった彼女は、舞美が彼との仲を隠していることをいいことに、二年生に上がると同じクラスになったのもあって彼に近づき仲良くなった。
必要以上にひっついたり、話し込んだりを繰り返す。
そうして、少しずつ少しずつ目に見える形を変えていく。
半年もすれば、陰で誰と誰が付き合ってるだのの耳年増な友人の間では、杏奈と彼との噂で持ちきりになった。
そこで彼女は思わせぶりに言って回ることにした。
「あのね、実は今困ってて」
噂では杏奈と正吾が付き合っていることになっていたものの、現実には彼と付き合っているのは舞美である。
ちょこちょことあちらこちらで、仲良く話しているのを、杏奈は知っていた。
それをいいように言いかえる。
「彼が少し困ってたの、付きまとわれてるって」
実際にはそんなことはない。
むしろ杏奈が付きまとっているとも言えた。
けれどそんな事実は、口さがない友人たちには関係ないのだ。
「最近、物がなくなってる気がする。ううん、きっと私の気のせいだよね」
わざと落として無くしたものを、さも誰かが何かをやったかのように吹聴してみたりもした。
ちょっと怯えたように青ざめれば、味方である友人たちは勝手に想像して勝手に触れ回って勝手に味方を増やしてくれた。
そこから女子の反感を舞美は買ってしまったらしく、いじめが始まった。
最初は物がなくなる、ついで、悪口。
杏奈は舞美を陰で励ました。
泣いている彼女の瞳の煌めきにゾクゾクした。
その儚げな様子を見たくて段々と噂をエスカレートさせていった。
ノートをビリビリにしたり、彼が舞美と寝たんじゃないかと証拠かのように自分の髪ゴムを手の平に握りながら。
この頃になると、目に見えて舞美が落ち込んでいるのをたびたび見かけた。
気丈そうに振る舞っても、親友の杏奈には舞美の気持ちが手に取るようにわかる。
自分から、何かあったのかとたびたび尋ねてはよく話を聞いてあげたものだった。
「ねぇ杏奈、私何かしたかなぁ?」
「舞美は何も悪くないよ」
そう言って、肩を抱き寄せ背中をさすった。
華奢な肩、震える瞳に溜まってゆく聖水は、舐めたらきっと甘かっただろうに。
あの時杏奈は確かに楽しかった。
「友人が悲しんでるのに、楽しかったのかい?」
目の前の美貌の人が、杏奈に尋ねた。
その声は呆れたようにも、ただ興味があるだけのようにも聞こえたが、彼女の心内には意味をなさない。
ランタンの柔らかな光が煌々と彼女に降り注いでいる。
風も吹いていないのに、室内に置かれた花たちは、どこか揺れているかのようにも見えた。
クラクラと花の香りが彼女の鼻をつく。
「だって」
「だって?」
「だっ、て」
むせかえるように甘い。
「私は舞美に頼られていたかった。必要とされていたかった」
そういつだって。
杏奈は舞美から杏奈、と呼ばれるのが嬉しかった。
キーホルダーは探せなかったけれど、隠されたノートや筆記用具や体操服を探して見つけ、綻ぶように笑う、その顔を見つめていたかった。
「おかしいね、君は彼が好きだったのではないかい?」
「そうね、私は彼が好きだったんじゃない」
彼が好きならば話は単純だった。
正攻法でも裏技でも使って奪えばいい。
やり方ならいくらでもある。
「そうなのかい?」
「うん、ただ羨ましかったの。舞美に、頼られていることが」
「立場がってことか」
「そう、彼になりたかった」
遠巻きに見る彼は、いつも舞美を笑わせていた。
水族館のイルカショーにはしゃぐ彼女が肩を叩くのは私であるべきだし。恋愛映画を観終わった後グジュグジュと泣く舞美の肩を抱き、ティッシュを差し出しながら微笑み合うそれは私のものであるべきで。カラオケで歌いすぎて喉を枯らした舞美に、飲み物をそっと差し出しお礼を言われるべきは私だったのだ。その淡くみずみずしい肌をいだくさまを想像しながら向かいの喫茶店で潰す時間の、なんと薄暗く悲しかったことか。出入り口で見た舞美のその無防備な笑顔は、私には向けられたことのないもので――だから、それごともう奪うしかないと思ったのだ。
杏奈の目から雫が溢れた。
薄ピンク色のそれはカップのコーヒーへと落ち、やがて、溶けて消えた。
「後悔しているの」
「わからない」
けれど杏奈の暗躍は彼女に知られてしまった。
舞美には理由がさっぱりわからなかったのだろう。
授業の全部済んだ放課後、呼び止められて責められなじられ、聞かれたのだ。
どうして、と。
「説明できるわけ、ないじゃない」
杏奈の口から心が零れ落ちる。
初めて出会った時からもう奪われていた。
全身が持っていかれるあの感覚。
入学式。
校門から学校へと続く道で見かけたその横顔。
地面に溜まった桜の死体が復活するかのように、クルクルと舞い上がるなか前を見据えたその眼差しまつ毛の庇。
ほっそりとした肢体、桃色のくちびる。
自分のものにしたい。
その欲望にあらがったあのひと月。
あのひと月の間にまさか横から掻っ攫われるなんて。
今思い出しても悔しくて、杏奈は唇を噛む。
彼女の瞼は閉じられた。
きつくきつく。
「告げないのかい」
麗しの店主は、こともなげに杏奈にそう尋ねた。
彼女の眉毛がピクリと動く。
けれど返事はしなかった。
できるわけがない、とは言いたくなかった。
実際は、できないと杏奈が思っていても。
やがて一つ息を吐いて、杏奈は瞳を開いた。
もうもうとした甘ったるい霞の中にいるような感覚。
ここは、何かがおかしい。
彼女は何故自分がここにいて、今この話をしているのか皆目見当がつかなかった。
そんな杏奈を気にもせずに、店主はまた一口、紅茶を飲むと彼女に声をかけた。
「コーヒーのおかわりはいるかい」
「ううん、もういいの。ありがとう」
杏奈の瞳には爛々とした明かりが灯っていた。
あの綺麗な唇を貪りたい。
杏奈の気持ちはとけ、ただ心からの欲望と渇望それだけが剥き出しになり、
どろりと、咲いた。
大嫌い、という声が耳の奥でこだましている。
誰に言われたんだったろうか。
聞こえる声はけれど鼻奥の甘さへと繋がってやがて混ざった。
いてもたってもいられなくなって、杏奈は椅子から立ち上がると、条件反射のような緩いお辞儀だけで挨拶もろくにせずにドアから外へと飛び出していった。
「しまったな、読み違えてしまった」
店主は少し困り顔をしながら、その長いまつ毛を瞬かせ、杏奈へと出したカップを持ち上げるとひとりごちた。
「まぁ、たまにはこういうのもいいか。酔狂な客がいればこの花も売れて行くだろうしね」
口に含んだコーヒーは、最初こそ甘く。
やがて苦味を帯びて喉の奥へと消えてゆく。
室内には、ゆらゆらとランタンの光が揺らめいている。
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