平蜘蛛と姫――歪んだ愛

梵天丸

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平蜘蛛と姫――歪んだ愛(3)

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 十兵衛からあらかじめ聞いていたとおり、松永久秀は三好三人衆の長である三好長逸を連れ、四国の足利家の屋敷へとやって来た。
 義輝のことなどおくびにも出さず、ずうずうしく義栄に謁見を求めてきたのだ。
 可那はまだ義栄を説得することが出来ていなかった。
 話は続けているが、義栄が怖がるので、それ以上踏み込んだことを話す事ができないでいる。そして、今日がやって来てしまった。
「やはり義栄様に出ていただくしかないと思いますが……」
 義栄の代わりに可那が三好の者たちに応対すると聞いて、十兵衛は顔を曇らせた。
「いえ……私が代わりに応対します」
「でも、先方はそれで納得しないでしょう」
「でも……お義兄さまはまだ納得していないの」
「説得は出来なかったのですか?」
 どこか咎めるような十兵衛の言葉に、可那は少し苛立った。
「事情を話してみるわ。四国を出ずに済む方法がないかも聞いてみる」
「でも……さすがにそれは……」
「言ってみなければ、どうなるか分からないでしょう? 名目だけの将軍で良いのなら、四国にいたままでも問題はないでしょうし」
「しかし……」
「どうしても納得いただけない場合は、その時に考えます。十兵衛、奥の部屋にお義兄様を隠して、何があっても絶対に守って」
「可那姫様……」
 十兵衛の怪訝そうな顔に気づき、可那は慌てて笑みを作ってみせる。
「あ、大丈夫よ。いくら極悪人の松永久秀でも、若い娘をわざわざ殺したりはしないでしょう。お義兄さまに事情があって、人と会うのが難しいことをちゃんとお伝えするわ。その上でお義兄さまに負担のかからない形で会ってもらう……」
 可那がそう説明すると、十兵衛もようやく納得し、安堵したようだった。
「分かりました。そういうことでしたら、私は義栄様をお守りしております」
「ええ、よろしくね」

 可那は懐に兄の形見の小刀をしのばせ、会見の席へと臨んだ。義栄の義妹であるという素性を告げ、可那は義栄の名代として久秀及び三好長逸と会うことになった。
(この場で……刺し違えてでも殺してやる……!)
 可那はそう心の中で念じるようにしながら、久秀を迎えた。
 義栄のことは気にかかる。出来ればずっと可那が傍についていてあげたい。
 でも、義輝を殺した人間をそのまま見過ごすことは、可那には出来そうになかった。きっとここで彼を殺さなければ、可那は生涯にわたって後悔しそうな気がした。
「お初にお目にかかります。三好家当主義継の名代として参りました、松永久秀と申します」
 この男が……と可那はまじまじとその人物を見る。
 想像していたよりも、あまりにも若い。可那の想像の中の松永久秀は、壮年から老人の間の印象だった。まさかこんな若者が、四国にまで轟くほどの悪名を響かせるなど、想像もつかない。
 それに、武士というよりは、雰囲気的には公家にも似たものを感じる。まるで剣など振るうようには見えない。立ち合いを挑めば、可那でも勝てそうな気がした。
(隙を突けば……私にも殺せるかも……)
 可那は胸元に手をやり、その懐にある小刀の存在を確認する。小刀はいつでもすぐに取り出せる。
(でも……油断は出来ない。私に与えられる機会は一度だけ……)
 この場には久秀だけではない。三好三人衆の長逸もいる。それに、次の間には彼らの連れて来た兵たちの気配もあった。
「このような田舎までわざわざご苦労様です」
 可那が皮肉たっぷりに言うと、久秀は涼しげな笑みでその皮肉を受け流した。
 表情からはまったく何を考えているのか読み取れない。
 可那はふと義輝のことを思い出した。
 義輝もある時期から、表情から考えを読み取ることが出来なくなった。少年期はわりと考えていることが顔に出る性質だったのに。
 それはたぶん、さまざまな駆け引きの世界で義輝が覚えた処世術なのだろうと可那は理解した。理解しつつも、悲しい気持ちになったことを覚えている。
「可那姫様、よろしいでしょうか?」
 気がつくと、久秀が首をかしげるようにして可那を見つめていた。可那は慌てて首を頷かせる。どうやらぼんやりとしてしまっていたらしい。
 ふっと久秀が笑みを零した。何だか馬鹿にされたみたいで腹が立ったけれど、その笑みは思わず見とれてしまうほどに完璧だった。
 すべての表情や仕草が、計算されたもののように思えるほど優雅で美しい。
(この人……本当は女なんじゃないの?)
 可那は首を傾げたくなる気分だった。
 貴族のような整った面と落ち着いた雰囲気をかもし出している。まるで色がないのではないかと思うほどに色が白く、全体的には華奢な印象だった。
 けれども、喉仏はちゃんと出てるし、膝の上に乗せた手も綺麗だけど節ばっていて、やはり男性のものだ。
「こちらは、三好家家老の三好長逸殿です。私とともに当主義継様の名代として参りました」
 久秀がそう紹介すると、背後の長逸が軽く頭を下げる。
「三好長逸と申します。どうぞお見知りおきを」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね」
 可那は形式的に答えつつ、長逸を観察する。長逸は見た感じでは久秀よりも少し年上のように見える。それでも想像していたよりもずっと若い。
 先ごろ亡くなった長慶も四十二だったというから、その後に続くものがさらに若いというのは不思議なことではないのだろう。
 確か、三好三人衆は皆、三好家の血筋に繋がる者のはず。その紹介を久秀が代わりにするなんて、彼は三好家の中でどれだけ大きな権力を握っているのだろう……可那はそう思うと同時に、やはり兄の仇はこの松永久秀で間違いないと確信した。
 久秀が三好家を動かし、義輝を殺させた……。
 可那は膝に置いた手をぎゅっと握り締める。
(待っていて、お兄様……もうすぐ彼を傍に送り込んでやるから……!)
「庭の蘭は貴方が?」
 不意打ちのように花のことを聞かれ、可那はびくんと体を震わせた。現実に引き戻されたように、慌ててその質問に答える。
「え、ええ……私が植えて育てているものです」
「とても美しい」
「でも、まだ花の時期ではありません」
 花が咲いていれば、美しいと褒めるのも分かる。でも今は緑の茎と葉しかない状態だ。それを美しいという久秀の目を可那は疑いたくなった。
「あれはけっこう手間のかかる花です。きちんと手入れをしてやらねば、美しく咲きません。土も茎も、皆手入れされている。とても美しいです」
 妙なことを言う男だと思いつつも、とりあえず可那は彼に話を合わせる。今はまだ、油断させておいたほうがいい。
「京とは違う片田舎のことですから、花の手入れ以外にすることもありませんし」
「花の手入れは、することがないという程度の気持ちではつとまらないものです」
(この人……何の話をしに来たのかしら……)
 可那はだんだん腹が立ってきた。兄を殺した人間が、花の美しさについて語ることも許せない。でも、膝の上に置いた手をぎゅっと握り締め、心の中の声を隠す。
 上手く隠せているかどうかは分からない。可那はこういう駆け引きとは無縁の世界で育った。兄のように上手に、とは行かないかもしれない。
「あの……ご用件をお伺いします。本日は義兄の加減が思わしくないので、私が代理でお話を伺います」
 可那は本題に話を戻すように言った。
 この調子では花の話だけで日が暮れてしまいそうな気がした。
「大事なお話ですので、ぜひご本人にお目にかかりたいのですが」
 久秀は静かな笑みを浮かべながら、そう言った。特に威圧的な態度に出る様子もない。今のところは。
「ですから……義兄は具合が悪いのです。お話は私が伺います」
 可那は重ねてそう告げた。
 久秀と長逸は顔を近づけ、何かを相談するようにひそひそと話をしている。
「義輝将軍が亡くなられたことはもうお聞き及びと思いますが?」
 可那の胸がずきんと痛んだ。そうだ……義輝はもうこの世にいない。この男に殺された。
 可那は唇をかみ締めつつも、静かに頷いた。
「ええ、聞いております。義輝は私の実兄でもありました」
「聞いております。残念なことでした」
 あくまでも静かに、その死を悼むように久秀は言う。
(あなたが殺したくせに……!)
 可那はそう叫んでやりたい気持ちを必死に堪える。それにしても、可那が義輝の実妹だということを、彼はどうして知っているのだろう。そのことが可那の胸の中で引っかかった。
「現在、この国は将軍が不在の状態です。速やかに将軍を立てなければ、無用な争いが起こる心配があります。今のところ、速やかに将軍となれる権利があるのは、義栄様だけです」
 ようやく本題を切り出してきた。
 可那はさまざまな苛立ちや悔しさを堪えつつ、冷静に口を開いた。
「実は、義兄には少し心の弱いところがあります。ごく一部の人間以外の者とはまともに会話すら成立しません。ですから、貴方がたが望む将軍位に耐えられるとはとうてい思えません」
「……なるほど」
「ですから、出来ればこのままお帰りいただければ幸いに存じます」
 可那は懐の小刀に手を伸ばしかけそうになる手を必死に抑える。もしもこのまま久秀を説得することが出来れば、義栄に負担を強いらなくて済むかもしれない。今まで通りの穏やかな生活を与えてやれるかもしれない。
 でも、そうなると、可那は義輝の仇を討つことは出来なくなってしまう。
「…………」
 可那の心の中には迷いがあった。兄の仇を討ちたい。でも、義栄の平穏は守りたい……。どっちつかずの気持ちを抱えたまま、可那は久秀と対峙している。。
 ただし、久秀らがあくまでも強引に義栄を連れ去るというのなら、可那は迷うことなく目的を果たすことが出来る。
 そうなってほしいという気持ちと、そうならないでほしいという気持ちが、可那の心の中でぶつかりあっている……。
 可那の言葉を聞いた久秀は、笑みを消し、難しい顔をしている。
「しかし……現状で将軍となられるに相応しい人間は義栄様しかおりませんが……」
 背後から控えめに長逸が言った。
 久秀に遠慮しているのだろうか。
 久秀は長逸の言葉に頷いた。
「ええ、その通りです。義栄様をご心配になるお気持ちは分かりますが、これは国の一大事です。義栄様はもちろん、貴方にもご理解を頂きたい」
 今度はかなり威圧感を感じる言葉だった。どうやら彼らに譲歩する気持ちはまったくないようだった。
(何よ……貴方がその将軍……お兄様を殺したくせに……!)
 可那は喉元まででかかった言葉を必死に飲み込んだ。まだ早い。まだ彼らを説き伏せる可能性は残っている。もう少し耐えて様子を見なければ……。もしもそれでも彼らに譲歩する気持ちがなければ、その時は……。
 可那はまた膝の上に置いた手を強く握り締めた。
「国の大事は分かります。だけど、お義兄様にはそれは分かりません。出来れば、お義兄様にはこのまま何も知らず、知らせず、穏やかに過ごして欲しいと私を始め、家中の者一同は願っております」
 可那は反論を許さない強い口調で言った。
 こちら側には譲歩する気持ちはない、ということを伝えたかった。
「困りましたね……」
 久秀は初めて苦笑を浮かべた。
 もっと簡単に話が進むと高をくくって来たのだろう。
 可那も引き下がるつもりはない。
 最良の結果は、彼らを義栄に会わせることなく京へ追い返すことだ。その結果を勝ち取るか、この場で久秀を討つかだ。
 可那は自分の意思を押し殺し、冷静な顔を作り続ける。
「探せばお義兄さまよりも、もっと将軍に相応しい人はいるのではないですか?」
 可那は話を切り替えてみる。何があっても、義栄が将軍などという選択肢はあり得ない。可能性がある限り、その選択肢を回避する方法を探る必要があるだろう。
「申し訳ありませんが、可那姫様。現段階で三好家が次期将軍として相応しいと判断しているのは、足利義栄様のみです。お引き合わせ願いたい」
 久秀の放つ雰囲気が、先ほどまでより少し変化した。
 言葉は丁寧だけど、明らかに脅しにかかってきている。可那は覚悟を決めた。もう作り笑いをする必要もない。
「そんなに将軍がいなくて困るんだったら、将軍を殺さなければ良かったんじゃない? すべては貴方がお兄様を殺したことが原因でしょう?」
 可那はすばやく立ち上がり、懐に忍ばせておいた小刀を手に体ごと久秀に突進する。刺し違えても構わない覚悟だった。
(さようならお義兄さま……ごめんなさい……!)
 心の中で義栄に謝罪と別れを告げる。可那は殺されたとしても、義栄まで命を取られる心配はおそらくない。
 彼らにとっては義栄は大事な手札だ。疎かに扱うようなこともしないだろう……そうあって欲しいと願わずにいられない。
「松永久秀、覚悟ッ!」
 確実に彼の心臓を一突きする計算だった。しかし、久秀はその華奢な体に似合わない強い力で、小刀を持つ可那の手はあっという間に捻りあげた。
「あっ……」
 可那の刀は取り上げられてしまった。
「うっ、くぅ……!」
 捻り上げられた手が悲鳴をあげている。可那の抵抗を防ぐように、久秀はぎりぎりと可那の手を捻り続けている。
「大丈夫ですか、久秀殿?」
 長逸が心配そうに声をかけている。
「ええ、大丈夫です。先ほどから妙に懐を気にする様子をされていましたので、念のために警戒していました」
 笑い含みにそう告げられ、可那は唇をかみ締める。
 自分なりに必死に感情を堪えているつもりでいた。でも、久秀にはすべて見抜かれていたようだった。
「もう少し賢い女性かと思いましたが、残念ですね。少しがっかりしました」
 本当に落胆したような口調で久秀は言い放つ。
「私を殺すつもりなら、もっと周到に準備をする必要があります、貴方はその準備を怠った。こうなるのは必然です」
 まるで説教をされているみたいで不快だった。それよりも捻り上げられた腕が痛い。
「は、離してっ……く……っ……」
「可那姫様っ!」
 奥に控えていた十兵衛が、部屋に飛び込んできた。義栄にはこの光景は見せられない。心配になって背後を見たら、義栄のいる部屋の襖は閉じていて、可那は安堵した。
 松永久秀を殺すことは出来なかったけれど、それでも自分に出来ることはやった。こうなった以上、可那はこのまま殺されてしまうのだろう。義輝のように。
(でも、気は済んだわ……)
 可那は覚悟を決めて瞳を閉じた。早く兄のところへ逝きたい。
「十兵衛殿、ご苦労でした。義栄様は?」
「は、奥の部屋におられます」
「……え……?」
 腕を捻られながら、可那は十兵衛のほうを見る。十兵衛は可那から視線をそらした。
 久秀は十兵衛を知っているようだ。そして、十兵衛も久秀のことを知っているようだった。十兵衛は驚くほど慇懃に、久秀に接している。久秀は義輝の仇なのに……。
「十兵衛……どういうこと?」
 可那は崩れ落ちそうになりながら聞いた。
「も、申し訳ありません……」
 十兵衛は可那のほうを見ようとしない。
「どういうこと? 答えなさい、十兵衛」
 十兵衛が可那に何かを隠していることは明らかだ。十兵衛と久秀の……いや、三好家の間には、可那の知らない何かがある……。
「私が代わりにお答えしましょう。彼は三好家が送り込んだ間者の一人だったのですよ」
「そんな……十兵衛が三好家の間者……」
 許せなかった。味方のふりをして、近くにいたなんて。義輝の死を告げたときは、涙まで見せていた。でも、あの涙もすべて嘘だったのだ。
(許せない十兵衛……でも、それ以上に気づくことが出来なかった自分が許せない……)
 久秀や三好の者たちの前では、可那は完全に子供のようだった。何も出来ない、騙されて当然の子供。世間知らずで無力で……。
「う、うぅ……っ……」
 可那の目から涙が零れ落ちた。
 久秀は捻り上げていた手を放した。
 それと同時に、体が崩れ落ちた。
(お兄様の仇も討てなくて、お義兄さまを守ることも出来なくて……私はどうすればいいの……)
 可那は自分の無力さを思い知らされた気がして、悲しかった。
 これまで自分は役に立っていると思っていた。義栄から唯一信頼され、彼を守り、家の役に立っていると思い込んでいた。
 でも、実際にはそうじゃなかった。まったくそうじゃなかった。
 間者がこんなに傍にいるのにも気づかず、浅はかにたくらんだ仇討ちもあっけなく失敗した。
 可那は世間を知っているつもりでいた。だけど、まったく世間知らずだったという事実にようやく気づいた。
 気づくのが少し遅すぎたのかもしれない。
「可那姫様……申し訳ありませんでした……」
 搾り出すような声で謝罪する十兵衛に、腹を立てる気持ちも薄れていた。可那は誰よりも自分自身に腹を立てていた。
 もっと早くに十兵衛が間者だということに可那が気づいていれば、ひょっとすると義輝を死なせずに済んだのではないか……そうも思えてしまう。
「彼は質を取られています。妻と娘。ですから、その本心まで間者だったのかは分かりかねます。ですが、その体は三好の命令には逆らえません」
 一体どういう思惑があったのか、久秀がそう告げてくる。今ここでそれを可那に告げるのは、まるで十兵衛をかばっているようにも聞こえる。
 だけど、それで十兵衛が裏切った理由が分かる気がした。
 家族を人質にとられていれば、十兵衛にはどうすることも出来なかっただろう。可那だって、もしも義栄を人質に取られるようなことがあれば、相手の言うことを聞かざるを得ないかもしれない。
 だからといって、今すぐ許す気持ちにはなれないけれど。
「…………」
 十兵衛の大きな肩が震えている。
 きっと間者としての働きは、十兵衛が望んだことではなかったのだろう。質を取られて仕方なく久秀らに従うしかなかった。
「卑怯者……!」
 何か言ってやらずにはいられなかった。
 可那は久秀を睨み付ける。今は十兵衛に対する怒りよりも、久秀に対する怒りのほうが強い。
「生憎、私は卑怯という言葉が悪い言葉だとは思えません。なので、褒め言葉として捉えておきましょう」
 可那を見下ろしたまま、相変わらず久秀は涼しげな笑みを浮かべている。
(腹が立つ……でも、何も出来ない……悔しい……)
 力では彼には叶わないことは、さっき思い知らされた。武器も取り上げられた。口で言い負かすことも出来そうにない。
 可那は彼の前で本当に無力だった。
 それをあざ笑うかのように、久秀は薄い笑みを浮かべて可那を見つめていた。
 可那は思わず目をそらした。
(どうしてもっとお兄様のように世間を知ろうとしなかったんだろう……少しでも知っていたら、きっとこんなことには……)
「久秀殿、奥へ行きますか?」
 まるで急かすように長逸が久秀に問う声に、可那ははっと顔を上げた。
(そうだ……お義兄さまを守らないと……)
「ま、待って……お願い……お義兄さまには……」
 可那は立ち上がり、奥の部屋へと続く襖の前へ立ちふさがった。小娘一人が立ちふさがったところで、彼らを止めることは出来ないのだろう。それしか出来ない自分が情けなかったけれど、今の可那にはそれしか出来なかった。
 困ったように久秀と長逸が顔を見合わせる。強引に可那を排除する方法だってあるのに、それをしないのが不思議だった。
 久秀は十兵衛に視線を向ける。
「義栄様が可那姫以外の者を受け付けないという話は、おそらく本当です。そうでしょう、十兵衛?」
「はい。本当です。長年仕えている私でも、お傍まで寄ることが出来ません」
「しかし……それでは船にお乗りいただくことも……」
「船のことは後で考えれば良いでしょう。まずは義栄様
に私たちと一緒に来ていただく了承を得ることが先決です」
 長逸は困惑した表情を浮かべている。三好家としては、一刻も早く義栄の身柄を確保し、畿内へと連れて行きたいのだろう。
 可那も少し驚いていた。
 彼らはもっと強引な方法で事を進めるものだと思い込んでいたからだ。
「では、可那姫。貴方が義栄様のもとへ案内していただけますか?」
「私が? 殺さないの?」
 たった今、久秀の命を奪おうとしたのだ。可那は当然、殺されるものだと思っていた。
 久秀は可那を見つめ、くすりと微笑んだ。
「今はまだ殺しません。貴方にはさまざまな価値があるように見えますので」
「…………」
 価値という言い方が気に食わなかった。どうしてこんな男に値踏みされるような言い方をされなければならないのか。
 でも、とりあえず当面の命の保障はされたようだった。
「義栄様のところへご案内いただけますか?」
 もう一度、丁寧な口調で久秀は可那に促してくる。
「でも……お義兄さまは……」
 この期に及んでも、可那は義栄に彼らを合わせたくなかった。
「ご安心ください。貴方の許可があるまで、私は傍で控えております。決してこちらから義栄様に話しかけたり、近づいたりはしません。それは約束します」
 可那は少し意外な気持ちで久秀を見た。
 久秀はかなり譲歩してくれている。
 義栄を畿内に連れて行くという部分は譲歩してもらえそうにないが、最低限、彼の状態に配慮してくれる気はあるようだ。
 それは正直に言って可那にはありがたいことだった。
 義栄を混乱させずに済む。
 可那はひとつ息を吐き、頷いた。
「……分かった。お義兄さまのところへ一緒に行きます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 まさか礼まで言われるとは思わなかったので、可那はかえって怪訝に思った。
(この人……本当に何を考えているのかしら……)
 礼儀正しい善人でないことは、先ほどまでの態度を見ていれば明らかだ。だけど、まったくの悪人というわけでもなさそうな気がする。
 そう考えかけて、可那は慌てて首を横に振る。
(何を考えているの……こいつはお兄様の仇なのよ……)
「どうしました? まだ何か問題でも?」
「いえ……ついてきてください」
 可那は大きく息を吐き、義栄のいる部屋へと続く襖を開けた。そして、その襖のさらに奥の襖をそっと手を掛ける。この向こうに義栄がいる。
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