身代わり濃姫~若き織田信長と高校生ヒロインが、結婚してから恋に落ちる物語~

梵天丸

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第三章

身代わり濃姫(65)

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 その日も信長が寝室に戻ったのは夜半を過ぎてからのことだった。
 きっともう美夜みやは眠っていると思ったのだが……。
「まだ起きていたのか……」
 眠っていると思い込んでいた美夜が起きていたので、信長は驚いてしまう。
「はい。何となく眠れなくて……」
 すでに各所で戦が始まっており、信長が城にいるとはいえ、城内の空気は殺気立っている。
 だから美夜が落ち着くことができないのも無理はないだろうと信長は思った。
「すまぬな。もう少し辛抱してくれ……」
 信長はそう告げて、美夜の肩を抱き寄せる。
「いえ……あの、私が眠れなかったのは、今日各務野かがみのに教えてもらった和歌がとても素敵だったので、それが頭に残っていて……だから、戦のこととは何も関係がないです」
 戦と何も関係ない……とは言い切れない部分もあったのだろうが、あまり信長に心配をかけてはいけないと美夜は考えたのだろう……そう信長は思い、美夜の話に乗ってみた。
「ほう、どのような和歌なのだ?」
「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな」
 美夜が覚えたばかりの和歌をすらんずると、信長が笑った。
 この歌は有名な後朝きぬぎぬの歌で、あなたと会うためなら命さえ惜しくないと思っていたけれど、いざこうして会ってしまうと、少しでも長く生きたいと思うようになりました……という意味がある。
「藤原義孝の歌だな。俺も昔、覚えた記憶がある」
「昔って……そんな昔にこんな恋の歌を覚えていたんですか?」
 美夜が本気で驚くので、信長は逆に問い返してみた。
「何が不思議か?」
「いえ……その……信長様はとてもおませな子どもだったんだなと思って……」
「馬鹿を言え。覚えたくて覚えたわけではない。覚えさせられたのだ。俺とて覚えるなら兵法や軍略のひとつでも余計に覚えたかったが、そういう教養も身につけよとの父上の方針だったからな……」
 信長がそう言うと、美夜はようやく合点がてんがいったようだった。
「そうだったんですね。お勉強ということなら理解できます」
「そうだ。俺が好き好んでそんな和歌を選んで覚えるとでも思うておるのか?」
「いえ……思いませんけど……」
 少し怯み気味の美夜に、信長は笑った。
「だが、今となれば、確かにその歌の意味がよく分かる。不思議なものだな」
「私も……すごく分かります。信長様に対して、何度もこんな気持ちになりましたから」
「俺もだ……戦に出るたびに、そういう気持ちになる……」
 信長はそう言って微笑むと、美夜に軽く唇を重ねてくる。
 その感触に、美夜はいつもと違うものを感じたようだった。
「あの、信長様……もしかして、今日は何か良いことがあったのですか?」
 美夜に問われた信長は、素直に頷いた。
「そうだな、あった。懐かしい友人から久しぶりに手紙をもらったのだ」
「そうなんですか。それは良かったですね」
 美夜はそれ以上深く聞いては来なかったが、信長は何となく竹千代の話をしたい気持ちになった。
「そなたがまだ眠くないのであれば、寝物語として、その友人の話をしようか」
「はい、聞かせていただけるのなら、ぜひ」
 美夜がそう答えると、信長は布団に潜り込んで美夜の身体を抱き寄せた。
「友人の名は竹千代たけちよという」
「竹千代……」
 どこかで聞いたことがある名だと思ったが、美夜の日本史知識ではそれを思い出すことはできなさそうだった。
「俺が竹千代と出会ったのは、あやつが六つの時だ。俺もちょうどその頃、里に入れられたばかりで、外の世界が恋しい時期だったから、父上から紹介された竹千代とはすぐに仲良くなった」
「そのとき信長様はおいくつだったんですか?」
「俺は十二だな」
 十二歳と六歳といえば、小学校の六年生と一年生だな……と美夜は頭の中で思った。
 しかし二人とも、小学生の年齢の頃にはすでに過酷な環境を強いられていたのだと思うと、美夜は何ともいえない気持ちになる。
 信長は話を続けた。
「俺と竹千代は年は離れていたが、竹千代は妙に大人びた子どもで、子どもと話をしているという感じはまったくしなかった」
「六つの子がそんなに大人びているというのも……何だか気の毒ですね」
「そうだな。俺もそうだったが、周りが子どものままではいさせてくれないという事情もあったのだろうと思う」
 信長はさらに竹千代との思い出を美夜に語って聞かせながら、当時のことを思い出していった……。

 竹千代は当時は背も同じ年頃の子たちと比べると低めで、身体つきも華奢きゃしゃだったが、その顔は少しふっくらとしていて愛らしく、まるで女童めわらべのようだと信長は初めて彼を見た時に思った。
「初めまして、吉法師きっぽうし殿。私は松平竹千代と申します。どうやら、今川家の人質から織田家の人質になったようです。しばらくの間、厄介になりますので、よろしくお願いいたします」
 初対面の竹千代の挨拶に、まず信長は面食らった。
 竹千代は六歳という年齢でありながら、自分の状況と立ち場を正確に理解していた。
 父の信秀は竹千代を保護したと言っていたが、実質的に竹千代は織田家の人質扱いで、基本的にその行動に自由は与えられない。
 そもそもこの里に預けられたということ自体が一種の監禁であり、我が父ながら、信秀のやり方に信長はいきどおりも感じていた。
 だが、それが戦国の世を生きていくための処世術なのだといわれたら、信長は父に何も言い返すことはできないだろう。
 信長が未熟なだけで父のやり方が正しいのかもしれないし、逆に父のやり方が非道で、信長の考えが正しいのかもしれない。
 けれども、この頃の信長には、どちらが正しいという判断はまだできなかった。
 ともあれ、初対面の竹千代の言葉で、信長は『この子どもは油断できない相手だぞ』ということをしっかり胸に刻み込んだのだった。

 それから信長は、竹千代を見つけては話しかけたり、面倒を見てやったりした。
 何となく放っておけないという気持ちもあったし、信長自身、竹千代という子どもに興味がわいたというのもあった。
 そして何よりもっとも大きな理由として、信長がこの里にまったく馴染むことができていなかったというものがあった。
 里に来るまでは、友達にも恵まれていたと思うし、皆が自分を慕ってくれていた。
 それは自分が織田家の嫡男ちゃくなんだという理由も多分にあったとは思うが、それでも居心地の悪さを感じたことはなかった。
 だが、この里の子どもたちは、とにかくかわいげのないのが多い。
 信長がかなり譲歩して話しかけてみても、愛想のない返事が返ってくるばかりで、一向に手応えがない。
 しかも信長を特別扱いしないという約束で受け入れているから、たとえ信長のほうから話しかけてみても、遊びの仲間にも入れてもらえなかった。
 自分から声をかけてすら遊んでもらえないことなど、信長は生まれて初めて経験することだった。
 そんなわけで、自然と信長の足は、いつも一人でいることの多い竹千代のほうに向かってしまうというわけだった。
 とはいえ、信長が里に預けられているのは、自身の身を守る術を身につけるためということでもあり、一日の大半は、里の子たちと一緒にさまざまな剣技や体術の稽古だの、特殊な薬の知識だの、兵法の授業だのに費やされるから、信長とて竹千代の相手をできる時間は限られていた。
 竹千代は人質という立ち場であるから、信長のように何か課題を課せられるということはない。
 信長が忙しく剣技の稽古などをしている間、竹千代は本を読んだり、里の中を散策したりして過ごしているようだった。
 この日も竹千代は、信長たちの体術の稽古が終わる夕刻まで、里の中にある田んぼの近くで、植えられたばかりの稲を眺めたり、そこに住む生き物を観察したりして過ごしていた。
 ようやく自由になった信長は、竹千代の姿を見つけて話しかけた。
「竹千代、珍しいものでもおるのか?」
「はい。アメンボがいます」
「アメンボか。それが珍しいのか?」
 信長は思わず首をかしげてしまう。
 アメンボなど、田畑があればどこにでもいるような生き物だ。
 竹千代の住んでいた場所には、田畑がなかったのだろうかと、信長は不思議に思った。
 そんな信長の疑問に応えるように、竹千代は笑った。
「私は城の外に出ることがなかったので、アメンボを見たことがありませんでした。先ほど里の人に、これがアメンボだと教えてもらい、初めてアメンボという生き物を覚えました」
 竹千代のその言葉に、信長はさらに面食らった。
「そなた、城の外に出たことがなかったのか……」
「はい。城の庭には出ることができましたが、アメンボはいませんでしたので」
 信長自身も嫡子ちゃくしということで窮屈さや不自由さを感じることはたびたびあったが、それは竹千代に比べるとまったくましなものだという事を思い知った。
 今は一時的に不自由を強いられているとはいえ、信長のこれまでの日々は、城の外へも勝手に出かけるし、悪童どもを連れて今川の領内にまで足を伸ばすという危険な旅をしたこともある。
 海に行けば漁師たちが船にも乗せてくれるし、さすがに遠出はできなくとも、開放感は味わえた。
 そうした信長がしてきた経験のほとんどを、この子どもはしていないのだと思うと、信長は竹千代が気の毒に思えてきたのだった。
「竹千代、そなた海を見たことがあるか?」
「はい。海は生まれ育った岡崎城の天守から、小さくではありますが、見えましたので」
 竹千代は嬉しそうにそう答えたが、それでは潮の匂いを感じることも、潮風に触れることも、波の上の揺れを体験することもできない。
 本当の海というのを、竹千代はまだ知らないのだ。
「では、俺がいつかそなたを海に連れて行き、船に乗せてやる。海は広くて良いぞ」
 信長がそう告げると、竹千代は本当に嬉しそうに顔をほころばせた。
「ありがとうございます。それはとても楽しみです」
「他にどこか、そなたが行きたいところはないのか?」
 信長はふと思いついて聞いてみた。
 どうせ海に連れて行ってやるなら、竹千代が他に行きたいところにも連れて行ってやろうと考えたのだ。
 気がつくと、竹千代は寂しそうな顔をしていた。
「行きたいところ……ひとつだけあります」
「どこだ?」
刈谷かりやに行きたいです」
 刈谷といえば、三河みかわにある地名だと信長はすぐに気づいたが、そこに何があるかまでは分からなかった。
「刈谷に何があるのだ?」
「母上が……住んでおられるので……」
「そうか、母が……」
 そう言いかけた信長は、竹千代の顔を見てぎょっとした。
 竹千代の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちたからだ。
 竹千代はただの六つの子どもではない……どこかそんな思い込みが信長の中にはあったのだが、やはり竹千代は六つの子どもでもあったのだと信長はようやく思い知った。
 これまで竹千代の笑った顔しか見たことのなかった信長は、大粒の涙を流しながら泣き出した竹千代を前に、どうして良いか分からなくなった。
 とりあえず信長は、竹千代の小さな身体を抱きしめた。
 そして、こんな約束をしたのだった。
「俺がそなたを母に必ず会わせてやる。すぐには無理かもしれぬが、なるべく早く」
 信長がそう告げると、竹千代はこくりと頷いた。
「はい、ありがとうございます……吉法師殿が会わせてくれるのを、待っています。いつか私は母上にもう一度生きて会うことができるのですね」
「ああ、できる。必ずだ」
「ありがとうございます……」

 それから三年……信長はまだあの時の約束を果たすことができていない。
 それだけが信長の気がかりだった。
「信長様は昔から信長様だったんですね」
 信長の話を聞いた美夜が、そんな感想を言った。
「それはどういう意味だ?」
「とても優しくて……思いが深いというか……うまく言えませんけれど、その時の竹千代さんはとても嬉しかったと思います。どんなに嫌なことや我慢しなくちゃいけないことがあっても、辛抱できるって思えるぐらい、嬉しかったんじゃないかなって……」
「だと良いのだがな……そろそろあの約束もかなえてやらねばならぬ。少し竹千代を待たせすぎておるからな……」
「竹千代さん……お母様に早く会えると良いですね」
「そうだな……」
 竹千代の母がまだ健在であるということは知っている。
 後は彼の身を今川家の束縛から解放し、会わせてやるだけだった。
「またひとつ信長様のことを知ることができて、嬉しかったです。話してくれてありがとうございます」
「俺もそなたに話すことができて良かった。さて、そろそろ眠ろう」
 美夜の顔が眠気をもよおしているのを感じ、信長はそう提案した。
「そうですね。少し眠くなってきました」
「俺もだ。珍しく眠い」
「おやすみなさい、信長様……良い夢を……」
 目を閉じた瞬間には、美夜はもう眠りに落ちてしまったようだった。
(今宵は久しぶりに良い夢がみられそうだな……)
 その寝顔を見つめながら、そっと美夜の手に触れ、信長も目を閉じた。
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