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第一章 少年の日々

3.聖ミヒャルケ修道院

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『……様、ラルフ様。……ラルフ様!』
「うわぁっ!?」

 耳元で大きな声がし、ラルフははね起きた。夜露で背中が濡れており、冷たさで身震いする。
 声の主を探して周りを見渡すが、誰もいない。

『私です。今は、霊体としてあなたのお側に』

 どうやら、昨晩森であったことは夢ではなかったらしい。薔薇としてあの土地を見守っていたと語った狼は、森を出て野宿をした後もラルフのそばにいたようだ。

『悪しきものを寄せ付けないようにしておりました』
「いつも狼なんじゃないのか……」
『あの姿は、ラルフ様のお名前が狼由来でしたので、相応しいよう変えていたまでのことです』
「へ、へぇ……」

 淡々と告げる自称薔薇の精霊に、ラルフも困惑を隠せない。というより、信じ難いことが次々と起きて頭の整理が追いつかないという方が正しい。

「と、ところでさ、名前は?」
『私に名前などはありません。ヒトではないのですから』
「でも、それじゃ呼びにくいような……」
『お気になさらず』
「……なんか、素っ気ないな」
『そうでしょうか』
「まあ、守ってもらってるんだし文句とかはないけど」

 よいしょ、と体を起こしながら、ラルフは明るくなった地平に目凝らす。しばらく何か目印を探して、遠くに建物があるのを見つけた。

「……よく見えないけど、あの建物なんだろう……」
『街ですね。かなり遠いですが、歩けますか?』
「どっちみち、生き延びるには歩くしかない……のかな」
『わかりました。……木こりの子にしては、臆病なのですね』
「わ、悪かったな! 友達にもさんざん言われたし……」
『ですが、それはお優しいからこそかも知れません』

 冷淡に吐き出される言葉の中にも、確かにわずかな温もりがあった。

「……名前、考えとく」
『お気になさらずともよろしいのですが』
「俺が考えたいんだよ。……時間はかかるかもだけど」

 ふと、彼は思い返す。つややかな白銀の毛並みと、気高く光る銀の瞳……美しい、というより神々しいあの狼に、ふさわしい名前など自分に考えられるだろうか……?
 悩み出したラルフの袖を、何かが引っ張った。見ると、袖を狼がぱっくりとくわえている。

「うわっ!? ……って、その姿、昨日の……」
『背中にお乗り下さい。安全なところまでお運びします』
「……人に見つかるなよ?」
『わかりました。善処します』

 背中に乗ると、毛並みがくすぐったく、なんとも心地いい。

『では』
「うん。……って、うわぁぁぁ!? 速いっ!?」

 そのまま狼は、全速力で走り出した。幸い振り落とされなかったのは、ラルフが曲がりなりにも山村育ちだったからだろう。
 ……降りた時は泣きべそをかいていたが。

 街に着くと、狼は再び姿を消した。ラルフはおずおずと一歩踏み出し、歩き出す。見たこともないほど綺麗な建物が立ち並んでいるのに、思わず目を輝かせた。

『……街に来たことは?』
「そ、そんなに」
『ラルフ様は身寄りのない孤児。ここは、教会を頼るべきでは』
「……最近は、教会だって生きるのに必死だよ」

 ラルフの村の近くにも教会はあった。もしそこが引き取れたのなら、ラルフはこうして路頭になど迷っていない。
 だが、このままフラフラしていても、何も状況は変わらない。

「……前途多難、ってやつなのかな」
『大きな教会であれば、可能性はあるのでは。信仰が本物であれば、見捨てたりはしないはず』
「…………本物であれば、だけどね」

 沈んだ足取りで、ラルフは目に付いた教会に向かった。


 ***


「そんでここに迎えられたってことは、運が良かったんじゃねぇの?」
「……うん、俺もそう思う」

 ガチガチに緊張したラルフが教会に助けを求めると、もう少し大きな街にある「聖ミヒャルケ修道院」に空きがあると言われ、そのまま修道士に連れられて寝食にありつける場所を手に入れた。

「なんか、うまく行きすぎて怖いよ、逆に」
「貰えるもんは貰っとけ貰っとけ」

 話を聞くに、その修道院は正規に教会に認められたものではないらしい。創設者はカトリックの神父だが、追放も覚悟で「孤児を救える場所」を独断で作り上げたとのことで……

「表向きはエセ宗教のエセ教会。聖人の名前にここらの権力者の名前使ってるしな? でも、作ったヤツは本物。なかなか賢いやり口じゃねぇの」
「……それでいいのかなぁ」
「実際、お前さんは救われてんだろ?」
「う、確かに」 

 その土地はフリッツ・ミヒャルケという富豪が実質統治を担っていた。修道院の名に冠すれば、表向きは金持ちの道楽ということに出来る。……ある意味では豪商と教会の癒着とも言えるのだろうが……

『私は、どんな手段であれ恵まれぬ孤児を救おうと英断を下したその神父様こそ、信心深く素晴らしいお方だと思います』

 ラルフの隣で、うんうんと頷くような声が聞こえる。
 ……ほかの人間には聞こえない声である以上、下手に反応はできない。

「……それで、さ」
「ん?」
「君も、ここの孤児なの?」

 ラルフはじっ、と、目の前で説明役を買って出ている少年を見た。年齢はおそらく自分より2つか3つほど年上だろう。傷んでボサボサの赤毛はともかくとして、口調や所作が明らかに「修道院の孤児」という印象ではない。というか、胡散臭い。

「ああ俺? ここに屋根のある寝床とくすねられる飯を求めてたどり着いた、いわば迷える子羊ってとこだな」
「それ、どう考えても盗ぞ」
「こまけぇことは気にすんな。名前はオスカーとでも呼んでくれや。今考えた名前だけど」
「…………」

 なんで賊のくせに堂々と居座ってるんだよ……とラルフは心の中で突っ込むが、周りの孤児たちは気にしていない。むしろ……

「イワン~! またお話聞かせてよ!」
「おう、いいぜ? どこの国の話がいい」

 とてとてと歩いてきた少女が、頭を撫でられて花が咲いたような笑顔を見せる。隣にいる少年も、何も言わないがニコニコと楽しそうだ。
 孤児たちはこの明らかに不審な乱入者を、既に仲間と見なしているらしい。

『一種の才能かもしれません。人たらしとでも言うべきか……』
「お前、あいつのことどう思う?」
『少なくとも、ラルフ様に不幸をもたらすような存在ではないでしょう』

 小声で尋ねると、冷静な声音が返ってくる。
 ひとまずは身の安全を確保できたことに、ラルフはようやくほっと胸を撫で下ろした。

 たとえこの世の中そのものが不安定だったとしても、とにかく今は、暖かな寝床で眠りたい。
 隣でヘラヘラと笑いながら各地の伝承を語る少年にも、その話を聞いている脚の悪い少女と声の出せない少年にも、その思いはおそらく共通している。

「……名前、どうしようかな」

 この場所に導いた恩人は、姿は見えずとも確かに凛とした気配で、ラルフを守っているように感じられる。
 彼は、それに欠片でも報いたいと誓った。たとえ、当人がそれを必要ないと告げたとしても。
 なぜなら、

「なぁオスカー、ちょっとここ寒くない?」
「お前の周りはちっと寒ぃな。隙間風かも?」
「……す、隙間風、かな、うん」

 自分以上に周りを警戒している精霊に、どこか親しみを感じていたから。
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