【完結済】蛇神譚 犬首村六道繪巻 ― 誰そ彼の契り ―

譚月遊生季

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第三巡 業ノ章 ― 地獄道 ―

第二十話 罪業

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 一歩、一歩と進むたびに、床のきしむ音がする。
 板張りの狭い境内を進むと、金色の観音像がぽつんと佇んでいるのが見えた。

「……え?」

 近付いたことで、ようやく観音像の全貌が見えたけれど――「違和感」どころじゃない。明らかな「異変」が、私の足を止めた。

 観音像の足元に、真っ赤な血の手形が付いている。

「愚僧の血だ。刺されてしもうてな」

 平然と語る「外法僧正」。その言葉に、後ろめたさなんてものはない。

「その観音像を造るのに、少々かかってな。荘園内の税をかさ増しし、上前うわまえを少しいただいた。しかし、払えんと申す者が思うたより増えてしもうてな……」

 罪業ざいごうを語るにしては、その口調はあまりに軽く、その態度は、あまりにも砕けている。

「だから、娘や息子で代わりに

 何も悪びれていない。
 何も悔いていない。
 そんな、晴れやかな笑顔だった。

 おぞましい。心の底から、そう思う。

「いやぁ、酒池肉林を目指したは、さすがに向こう見ずであったか」

 ――欲も、煩悩ぼんのうも否定せぬ。あるがままに生きることを否定せぬ。世のすべては、どう足掻あがいても御仏みほとけの掌の上。人は人として、浅ましく醜く生きて構わんのだ

 先程の「説法」を思い出す。
 それは、つまり。
 自らの果てのない「欲」を、肯定した弁で……

 それによる犠牲をも、この男は「否定しない」んだ。

「……あなた、言ってたよね。この村を救うって」
「何を言うか。救う? ……それはおりんが勝手に申したことであろう。愚僧は――あくまで、自らが求道くどう者として『相応しい』器であると述べたまで。救ってやるなどと、たわけたことを申した覚えは……ああ、いや、おりんには言うたかもしれんな。その方が、ゆえ、まあ、言うたか」

 この人は。
 この人は、いったい、何を言っているんだろう。

「どれほどかれようと、どれほど溺れようと、どれほどさいなまれようと……愚僧の求むるものは変わらん」

 気が付けば、やけに部屋の中が熱くなっている。
 足元に燃え盛る炎が見える。ぬかるむ血の池が見える。突き出た針の山が、救いを求めるあまたの手が、見える――

「酒に、女に――富に、栄誉! 嗚呼――どれほど浴びてもいものぞ!!」

 気が付けば、金色の袈裟は血にまみれ、僧形の頭は醜くただれ、ごつごつとした手のひらからは針の穴が空き、赤黒い血がだらだらと流れ出している。

 針山に囲まれ、動けない。動けないのに、熱い。炎がだんだん、近くに迫ってくる。

 やっと、気が付いた。この宮寺は、地獄だ。
 愚かな僧正の業が作り上げた、正真正銘の地獄だ。

「さぁ……ようやく手に入れたぞ。蛇神の寵愛ちょうあいを受けし魂よ」
「……寵、愛……?」
「お主をかどわかせば、蛇神は間違いなく助けに来るであろう。……その時にこそ、愚僧の悲願は成る」
「悲願、って……」

 その瞬間。
 覚范は、心の底から愉快そうに、口角を吊り上げてわらう。
 ……もはや取り繕えないほどに歪んだ、醜悪な笑みだった。

「神を堕とし! わが手中に治める! そして……そして! 再びこの地を、わが極楽浄土とするのだ……!」

 ようやく、気が付いた。
「外法僧正」の名は、決して軽いものじゃない。
 あまたの罪が……拭い去ることのできない業が、この宮寺には渦巻いている。

「さぁ……まずは、血の池に沈むか? それとも炎に灼かれるか? 泣いて縋って媚びれば、救ってやろう。さすれば、愚僧の愛人いろとして、極楽を見せてやるのも良かろうなあ」

 血の池が、足首にまでせり上る。 
 思わず、唇を噛み締める。
 ……外道。
 その言葉すら、この男には生ぬるい。

「……蛇神が助けに来る前に私が死ねば、おまえの目論見もくろみ通りにはならない……?」

 血の池が、太ももにまで迫る。 
 煮えたぎる怒りをどうにか押し殺し、覚范を睨む。
 理由はどうあれ、蛇神の忠告を無視し、ここに着いてきたのは私だ。……責め苦を負うくらいなら、この男の好きにされるくらいなら……

 死んだ方が、いいに決まっている。

 けれど、覚范は、呆気あっけにとられたようにぽかんと口を開けた。

「……何を言うておる?」

 血の池に、腰まで沈み――
 嫌な予感が、背筋を駆け抜ける。
 足を引かれ、一気に引きずり込まれ、口の中に鉄の味がいっぱいに広がる。生ぬるい液体の感触が……呼吸を奪われ、空を切る手の感覚が、封じられた記憶の蓋をこじ開ける。

「お主――既に、亡者もうじゃであろうに」

 ――ああ、そうだ。
 山を走っていた時、私は足を滑らせて……。

 意識が遠のく。
 池の中で苔藻こけもが絡みつくように、誰かの髪や手指が絡みつく。
 わらをも掴もうと伸ばす手は空を切り、もがけばもがくほど、沈んでいく。

 私が、帰れないのも当然だ。
 ……蛇神が、真実を話せないのも、当然だ。

 でも。嫌だよ。

 私、まだ、死にたくないよ――
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