7 / 32
序章 前日譚
7. ある死者の追憶
しおりを挟む
「じゃあロー兄さん、また何かあったらよろしくね」
「うん、またいつでも呼んで」
心底疲れたが、笑顔を取り繕った。
……取り繕わなければ何か良くないものが溢れ出してしまう気がして、上手く立てなくなる気さえして、後は……これ以上、何も考えたくないからでもあった。
正直、ここ最近は目に映るものも聞こえるものも現実味がない。思い出せない記憶も増えたし、地に足が着く感覚なんかとっくに消え失せている。
数分前の記憶にさえポッカリと穴が空いていて、上手く、思い出せない。
ぐにゃりと世界が歪む。帰ってきた痛みを理性が拒絶し、また何か、大切なものが剥がれ落ちた気がした。
死にたいと思ったことはいくらでもある。
ただ、死のうとしたことは無かった。……と、思う。
底知れない恐怖や苦痛を差し出してまで、願うことでもなかったから。
ああ、だけど、今なら理解できる。死にたいって気持ちが理解できる。もうとっくに死んでいるのに、身に染みてわかる。
この苦痛がこれからも続くのなら、そりゃあ、死んだ方がまだマシだ。
意識が白ずみ、自我が弾け飛ぶ。
抜け殻になってなお作り物の笑顔を浮かべる、張りぼての「俺」だけがそこに残された。
***
ローランドは優しい子だから痛くたって我慢してくれる。
ロー兄さんは苦しくても笑っていて、すごい人だ。
俺は別に自分をそんなふうに評価してるわけじゃないけど、そう思われるならそうでいい。……合わせた方が楽だ。何も考えなくて済む。
だけど、
俺が我慢できるのはそもそも人に期待をしないからで、
苦しくても笑っているのは、腹が立って仕方ないから笑って誤魔化しているからで、
別に、平気なわけじゃなかった。
***
タバコの匂いがする。
「……別に、用はなかったけど……なんて言うのか……」
ボソボソと、歯切れの悪い声がする。……ロッドだ。
ロナルド兄さんの弟で、俺にとっては義弟で、幼馴染。
「なにかして欲しいこと、ある?」
「……して欲しい、とか、そういうんじゃなくて……」
ああ、もう。はっきり喋れよ。……まあ、ロッドが口下手なのは、今に始まったことじゃないか。
「……やっぱ、いい。また痛い思いして欲しいわけじゃねぇから……」
……また?ロッドは、何を嫌がっているんだろう。
「いつもみたいに……そこらへんの、読んでて欲しい」
「それだけでいいの?」
「……いてくれるだけで、いいから」
こちらを向かないまま、パソコンに向かう黒髪。
……肩に触れようとして、やめた。
次々と画面に浮かび上がる文字が、魔法のようにも見える。手元の物語に記された魔法より、ずっと、すごい力に思える。
ガシガシと頭を掻きながら、ロッドは新しいタバコに火をつける。……身体に悪いだろ、そのやり方。
なぁ、ロッド。
ちゃんと立ち直って、未来に進んで、それで……俺のことなんか忘れて、幸せになれよ。……なんて、
そう思っているのに、どうしてだろう。その、たった一言二言が伝えられない。
ピロリ、とメールの着信音が暗がりに響く。
カチリ、とクリック音が響いて、パソコンの画面に表示される「Keith」の文字。
──キース……?
意識の奥で、なにかが蠢く。
「……弱ってんな。仕事、上手く行ってねぇのか……?」
ぽつり、と漏れ出たロッドの呟き。
鳴り響くブレーキの音が、蓋をした記憶を押し上げる。……蘇る。
──こりゃ酷い……
──しっかりしてください!気を確かに!
──ダメだ、息をしてない……!とにかく止血しろ!
──誰の責任だこれ……?それにしてもなんだってこんなところで……
飛び散った内臓と血飛沫と、ゴロンと転がった自分の脚と、ガチャガチャと反響して混ざる声
おまえが悪いんだよ?だって、あなた気づいてたのに。
事故が起こるかもって、気づいてたのに、見て見ぬふりをした。
……だから、今度は君の番。僕達の次は君の番。
続いていけば、いつか変わるさ。私たちの犠牲も報われる。
──手遅れか……もう、死んでる
腹を開いた医者が、なんか、そんなことを言っていたのを聞いたのは、どこでだったっけ。手術室で死にかけてる「俺」を見ていた気もするけど、ダメだ、これ以上は、これ以上思い出したら……
痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
ドロリと粘ついた闇が俺を取り囲んで、引きずるよう連れていく。ロッドに助けを求めようとして……そのまま、叫びも飲み込んだ。
だって、どうせ、もう死んでるんだ。……ロッドには、迷惑かけたくない。
ずるずると闇の中を引きずられながら、俺の意識も闇に溶け出していく。
……ロジャー兄さんは、大丈夫かな。あの人も、すぐ平気なフリするし……。消滅とかしてたら、やだな。神の国にも行けなくなるだろ、それじゃ。
「……何これ。魂ってここまでボロボロになれるもんなの?」
知らない声が降ってくる。
「っていうか、どういう状況これ? 犬っぽいのは消えちゃったんだけど……」
……犬……って、もしかして、俺も見たやつかな。
「とりあえず、大丈夫?生きてる?……生きてる……はおかしいかな。名前言える?」
……俺の名前……って、
なんだったっけ……?
「うん、またいつでも呼んで」
心底疲れたが、笑顔を取り繕った。
……取り繕わなければ何か良くないものが溢れ出してしまう気がして、上手く立てなくなる気さえして、後は……これ以上、何も考えたくないからでもあった。
正直、ここ最近は目に映るものも聞こえるものも現実味がない。思い出せない記憶も増えたし、地に足が着く感覚なんかとっくに消え失せている。
数分前の記憶にさえポッカリと穴が空いていて、上手く、思い出せない。
ぐにゃりと世界が歪む。帰ってきた痛みを理性が拒絶し、また何か、大切なものが剥がれ落ちた気がした。
死にたいと思ったことはいくらでもある。
ただ、死のうとしたことは無かった。……と、思う。
底知れない恐怖や苦痛を差し出してまで、願うことでもなかったから。
ああ、だけど、今なら理解できる。死にたいって気持ちが理解できる。もうとっくに死んでいるのに、身に染みてわかる。
この苦痛がこれからも続くのなら、そりゃあ、死んだ方がまだマシだ。
意識が白ずみ、自我が弾け飛ぶ。
抜け殻になってなお作り物の笑顔を浮かべる、張りぼての「俺」だけがそこに残された。
***
ローランドは優しい子だから痛くたって我慢してくれる。
ロー兄さんは苦しくても笑っていて、すごい人だ。
俺は別に自分をそんなふうに評価してるわけじゃないけど、そう思われるならそうでいい。……合わせた方が楽だ。何も考えなくて済む。
だけど、
俺が我慢できるのはそもそも人に期待をしないからで、
苦しくても笑っているのは、腹が立って仕方ないから笑って誤魔化しているからで、
別に、平気なわけじゃなかった。
***
タバコの匂いがする。
「……別に、用はなかったけど……なんて言うのか……」
ボソボソと、歯切れの悪い声がする。……ロッドだ。
ロナルド兄さんの弟で、俺にとっては義弟で、幼馴染。
「なにかして欲しいこと、ある?」
「……して欲しい、とか、そういうんじゃなくて……」
ああ、もう。はっきり喋れよ。……まあ、ロッドが口下手なのは、今に始まったことじゃないか。
「……やっぱ、いい。また痛い思いして欲しいわけじゃねぇから……」
……また?ロッドは、何を嫌がっているんだろう。
「いつもみたいに……そこらへんの、読んでて欲しい」
「それだけでいいの?」
「……いてくれるだけで、いいから」
こちらを向かないまま、パソコンに向かう黒髪。
……肩に触れようとして、やめた。
次々と画面に浮かび上がる文字が、魔法のようにも見える。手元の物語に記された魔法より、ずっと、すごい力に思える。
ガシガシと頭を掻きながら、ロッドは新しいタバコに火をつける。……身体に悪いだろ、そのやり方。
なぁ、ロッド。
ちゃんと立ち直って、未来に進んで、それで……俺のことなんか忘れて、幸せになれよ。……なんて、
そう思っているのに、どうしてだろう。その、たった一言二言が伝えられない。
ピロリ、とメールの着信音が暗がりに響く。
カチリ、とクリック音が響いて、パソコンの画面に表示される「Keith」の文字。
──キース……?
意識の奥で、なにかが蠢く。
「……弱ってんな。仕事、上手く行ってねぇのか……?」
ぽつり、と漏れ出たロッドの呟き。
鳴り響くブレーキの音が、蓋をした記憶を押し上げる。……蘇る。
──こりゃ酷い……
──しっかりしてください!気を確かに!
──ダメだ、息をしてない……!とにかく止血しろ!
──誰の責任だこれ……?それにしてもなんだってこんなところで……
飛び散った内臓と血飛沫と、ゴロンと転がった自分の脚と、ガチャガチャと反響して混ざる声
おまえが悪いんだよ?だって、あなた気づいてたのに。
事故が起こるかもって、気づいてたのに、見て見ぬふりをした。
……だから、今度は君の番。僕達の次は君の番。
続いていけば、いつか変わるさ。私たちの犠牲も報われる。
──手遅れか……もう、死んでる
腹を開いた医者が、なんか、そんなことを言っていたのを聞いたのは、どこでだったっけ。手術室で死にかけてる「俺」を見ていた気もするけど、ダメだ、これ以上は、これ以上思い出したら……
痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
ドロリと粘ついた闇が俺を取り囲んで、引きずるよう連れていく。ロッドに助けを求めようとして……そのまま、叫びも飲み込んだ。
だって、どうせ、もう死んでるんだ。……ロッドには、迷惑かけたくない。
ずるずると闇の中を引きずられながら、俺の意識も闇に溶け出していく。
……ロジャー兄さんは、大丈夫かな。あの人も、すぐ平気なフリするし……。消滅とかしてたら、やだな。神の国にも行けなくなるだろ、それじゃ。
「……何これ。魂ってここまでボロボロになれるもんなの?」
知らない声が降ってくる。
「っていうか、どういう状況これ? 犬っぽいのは消えちゃったんだけど……」
……犬……って、もしかして、俺も見たやつかな。
「とりあえず、大丈夫?生きてる?……生きてる……はおかしいかな。名前言える?」
……俺の名前……って、
なんだったっけ……?
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
女子切腹同好会
しんいち
ホラー
どこにでもいるような平凡な女の子である新瀬有香は、学校説明会で出会った超絶美人生徒会長に憧れて私立の女子高に入学した。そこで彼女を待っていたのは、オゾマシイ運命。彼女も決して正常とは言えない思考に染まってゆき、流されていってしまう…。
はたして、彼女の行き着く先は・・・。
この話は、切腹場面等、流血を含む残酷シーンがあります。御注意ください。
また・・・。登場人物は、だれもかれも皆、イカレテいます。イカレタ者どものイカレタ話です。決して、マネしてはいけません。
マネしてはいけないのですが……。案外、あなたの近くにも、似たような話があるのかも。
世の中には、知らなくて良いコト…知ってはいけないコト…が、存在するのですよ。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】
絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。
下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。
※全話オリジナル作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる