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第5章 After Resounding Requiem
76. 2018年 春
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年が明け、新たな季節が巡る。
ドイツ、ミュンヘンのリヒターヴァルトに建つ療養院にサーラが訪れるのは、もはや恒例行事となっていた。リハビリ中のアンドレアと、毎日のように見舞いに訪れているロデリックの仲を冷やかすのも、毎度のお約束になっている。
「……で、お姫様抱っこはできるようになったのかい?相変わらずでっぷりしてるように見えるけど……」
「そ、そんなに太ってもねぇし……!アンが痩せてるからそう見えるんですよ、なぁ!?」
「ロッドのタプタプしたお腹、結構好きなんだけどな……」
「……そんなにタプタプしてる……?」
サーラはいちいちやり取りに爆笑しながら、見舞いにと菓子や果物を差し入れる。……アンドレアがバナナにケチャップを塗り出す、といった奇行にも慣れてきたのか、うげ、という顔をしつつ突っ込まなくなってきた。
「……ッ」
「! 大丈夫かアン。痛む?」
「う、ん……。ありがと……」
時折、ロデリックは痛みに悶えるアンを抱きしめ、落ち着かせるように腹や背をさする。……アドルフの言った通り、痛みは未だ彼女の肉体に……下手をすれば魂にまでも染み付いているらしい。
「……そういや、ローザとは連絡とってんのかい?」
「はい。ビジネスの方でマクシミリアンっていう新しい部下と、あと、養女を迎えたんだとか。……2人とも精神的にかなり参ってたけど、最近は明るくなった……って」
「言葉責めのために心理的な知識を身につけたらカウンセリングにも生かせるって、そんな感じの本を出そうか悩んでるらしいねぇ」
「……それ……出版社に話通せって言われてるんですけど……売れますかね……?」
世間話をしているうちに、アンドレアの呼吸も落ち着いてくる。縋りついた手を引っ込めようとする彼女に、ロデリックは「落ち着くまでいいから」と静かに声をかけた。
「ロバートは?」
「復帰してバリバリ論文書いてますよ。……あいつ、モチベがあったら行動力も凄まじいんで……。この前も日本で……推し?のイベントがあるっつって、イオリって子に頼んでホームステイしたとか……」
「……そりゃまた……元気だねぇ……」
まあまだ一応20代だしねぇ……という言葉に、ロデリックもアンドレアも苦笑する。
ロジャーが死んだのも、アンドレアが事故に遭ったのも20代前半のことだ。……兄達が過ごせなかった時間を満喫していると思えば羨ましくもあるが、思う存分やれ……という気持ちもある。
「そういやアドルフは、カミーユとの約束を守ってカナダに行ったらしいよ。グリゴリーの医院手伝ってんだってさ。……ブライアンと一緒に」
185センチを超えた男が3人で働く医院を想像し、ロデリックは思わず身震いした。1人はスカーフェイス。1人は隻腕にサングラスの強面。1人はいかめしいフランケン顔。……絶対に、行きたくない。
「……レオナルドは、どこをほっつき歩いてんのか分かったもんじゃない。ま、うちの母さんと付き合ってた時からそんな感じだったけど」
確かあん時は、マフィアに目ぇつけられたって言って逃げたんだったか……と補足のように漏れた呟きに、ロデリックは「やべぇ……」としか返せなかった。
「……ロッド、原稿は進んでるの?」
「ぼちぼち。……たぶん、今年の秋には出せると思う」
アンドレアの言葉に頷き、ロデリックはパソコンを取り出す。……あの掲示板にはもう書き込めないけれど、情報は残っていた。もちろん見やすく整えるには骨が折れるし……何より、自分たちの恥部や闇も多分に含まれている。……それでも、伝える意義はある。
あの街があったからこそ、愛する人は隣に帰ってきたのだから。……過去に向き合い、新たな絆を結ぶことができたのだから。
「……1986年12月22日、か」
「ん?」
「レニーの書き込みやメールにあった数字だよ。……たぶん命日だ。12くらいの時、クリスマスを迎えられずに死んだ……って、言ってたからね」
寂しそうに、サーラは幼い恋の残滓を手繰り寄せる。
気まずそうにする2人に「アンタらは幸せになりな」と激励の言葉を送りつつ、パソコンの画面をトントンと叩く。
「調べたけど、カミーユの命日は2016年の8月末だった。ローランド……じゃない、アンドレア。2016年11月23日は、誰の命日だい?」
レヴィは行方不明扱いだが、彼の死亡した時期そのものは、カミーユの死からそれほど経っていないはずだ。……もしくは、まだ「死んでいない」扱いになるのかもしれない。
きっかけのメールを送った人物……ブライアンの作り出した幻想で自我を繋ぎ止めたコルネリスが、さらに存在を確固たるものにしようと利用した人物……ローランドこと、アンドレアの中に真実がある。少なくとも、サーラはそう踏んだ。
「……俺だと思う」
「えっ!?」
「一度、容態が悪化して心肺停止した日があった……って、母さんから聞いた。……顔は合わせてないから、聞いたって言うのも変だけど……看護師さんにも確認したし、日付もそこら辺だったと思う」
青ざめるロデリックとは対照的に、アンドレアは淡々と自分が死に瀕した日のことを語る。
「……カルテを調べりゃすぐわかるけど……そりゃ精神的なもんかい?」
「自発呼吸を止めたんじゃなかったかな」
サーラの質問にも平然と答えた。……思わず、問うた本人も絶句するほどに。
ぶるぶると唇を震わせ、ロデリックはアンドレアを抱き締める。……嗚咽も隠しきれなかった。
ぽんぽんと、子供のようにロデリックの背中を撫でながら……やがて、アンドレアの声音にも震えが宿る。
「……今は、生きててよかったって……うん、思う」
じわりと、泣きぼくろが本物の涙で滲んだ。
サーラは無言で席を立ちながら、すれ違い続けた2人の、末永い幸福を祈る。
「……調子は良さそうでしたか」
「まあね。あの患者さんは、元気になって良かったねぇ。……ところで」
部屋を出たところで語りかけてきた医師に、それとなく尋ねる。母国語だけでなく英語もわかるから……と、何度か話して、既に顔なじみになっていた。
「2016年の秋に死にかけた……って、本当かい?」
「ええ……。夕刻でしたかね。なんとか息を吹き返したのですが、不思議な話がありまして」
「……不思議な話?」
本当にオカルトじみた話です、と前置きして、医師は半分冗談のように語り出した。
「2016年の……いつ頃でしたか。カウフマンさんの事故の後だった気もしますが……療養院の周りに犬のような影がうろつくようになりまして。……あの患者さんの蘇生処置を我々が諦めかけた時、ひょいっと体の中に潜りこんで……それで、止まっていた心臓も動きだしたんです」
「……犬……?」
「ええ……。私の故郷には狼にまつわる伝承がありますから、印象深くて」
口減らしにあった少年が枯れそうになったバラのために祈ったので、神が一匹の狼を使わして森から救い出した……と、そんな伝承がヴェストファーレンのヴォルフスローゼと呼ばれる森に伝わっているらしい。
「……不思議なこともあるもんだねぇ……」
当然、サーラには一笑に付すことはできない。
本人にとってはより苦痛になる選択であったとしても、アンドレアはロジャーやロバート……家族に愛され、別の「なにか」にも味方され、望まれて生き延びた。……そしてロデリックは、誰より強くそれを望んだ。
「幸せになりなよ、2人とも。……絶対だかんね」
呪詛にも近い祝福を呟く。
きっと、サーラが初恋を忘れる日は来ないだろう。……ゆえに、割り切れるのがいつになるか分からない。
……いつか嫁にもらう、なんて、軽々しく言ったあの少年は、結局顔すら見せに来なかった。つくづく、酷い男に惚れたものだと思う。
「未練は断ち切りな、か……。それができたら苦労しないよ、まったく」
レオナルドは一言「レニーがごめんな」と告げて、再びどこかへと姿を消した。……彼にも分かっているのだ。置いていかれるほうの、張り裂けんばかりの悲しみが……。
「いいさ。もっといい男見つけて、嫉妬させてやる」
家族揃って現れたりいなくなったり忙しいヤツらだ……と内心毒づきながら、サーラは背筋を伸ばして歩き去る。イタリアの実家に帰れば、まず、アンジェロの墓に花を手向けようと決めている。
***
カナダ・モントリオールの端、ブリーズ・ジャルダンに、カミーユの墓はある。
今日もグリゴリーに連れられ、ブライアンは覚束ない足取りで兄の墓参りに訪れた。医院の受け付けは、アドルフに任せてある。
首も、四肢も結局見つからなかったけれど、胴体だけはこの墓碑の下に確かに存在する。
「……ん?」
その紳士に気づいたのは、グリゴリーだった。ロマンスグレーのオールバック。大げさなシルクハットに、白いステッキ。……そして、なぜか顔に覆い被さる能面。
「……不審者……?」
警察に通報しようか迷うグリゴリー。その前にくるり、と紳士が振り返った。
「おや、御機嫌よう。実は僕、この絵師のファンでね」
「あ、ああ、そういう……?」
カミーユのファンなら仕方ねぇな……と、妙に納得する。……ブライアンは小首を傾げ、じっと紳士を見つめていた。
「……どうしたブライアン?……って、爺さん……その腕……」
紳士の腕は、片方が義手だった。精巧だが、アドルフを診慣れている目にはすぐわかる。
「これかい?妻に食いちぎられてしまってね」
いやどんな妻だよ、と、突っ込むのはやめておいた。
「この能面も、妻のために僕が作ったんだ。……まあ、もう遺品になってしまったけど」
「……亡くなったんですか?」
「うん。2016年の……11月23日かな。人間じゃなくなる前にイヌガミの血を役立てたいって、術式を発動して燃え尽きた」
ごめん、何の話? ……と、突っ込むのもなんとか耐えた。真面目な話かどうかも、能面のせいでわからない。
「……ところで、さ。君は、その子が「おおよそ人間とは言えなくなっても」、傍にいてあげられる?」
……どこか、その口調に覚えがあるような気がした。
「例え、ほかに愛する存在ができたって、どれだけ平等に愛そうとしたって、その子が壊す前に引き離すことになるかもしれないし……自分も、つらい選択を迫られるかもしれない。それでも?」
亜麻色の髪と、蒼い瞳が、ロマンスグレーの髪と能面の顔に被さった気がした。
「ブライアンはもう人間じゃないですよ。……天使です」
おおよそ人間とは呼べない……なんて、医学会では散々言われていた。……けれど、グリゴリーは、それを微塵も悪いことだとは思わない。
「人間なんてだいたいろくなもんじゃないんで、大概のことは天使の方選ぶと思います」
「……君、真面目にそういうこと言って恥ずかしくない?」
「それあんたにだけは絶対言われたくないよ!?」
その突っ込みは堪えきれなかった。
くるりと再びステッキを回し、紳士は大仰に礼をする。
「うん、それなら安心した。……じゃあ、Adieu」
ブライアンが何事か声を上げようとする。……が、喉元まで出かかった言葉が紡がれることはなかった。
「……帰ろ。グリゴリーさん」
「ん?……ああ、うん。そうだね。アドルフ待たせてるし」
白衣の袖を引き、ブライアンは未練を振り切るよう歩き出す。
背中を向けたまま紳士は面を外し、
「Bonne chance!」
そう、ハッキリと告げた。
***
「お、久しぶりだな。……えーと……ろ、ローランド」
「惜しい。僕はロバート」
フランス、ストラスブール付近。フルール・ド・コルボ。
カミーユの遺体が発見されたのはその郊外で、レヴィが消息を絶った地でもある。
レオナルドと予期せぬ再会を果たし、ロバートは、傍らに褪せた金髪の少年を視た。……レオナルドやレニーと、どこか似た顔立ちにも思える。
「なんだかんだ言ってよ、生きてりゃ勝ちだと思うぜ、俺は」
「……死んだ人は負け?」
「そりゃ、生き物は死んじゃおしまいだろ」
「あ、それは確かに……。「生き物」の定義から外れちゃうしね」
沈黙が流れる。ロバートもイタリア語は勉強中の身だが、やはり話すとなると難しい。レオナルドは煙草をふかしつつ、ジーパンのポケットから錆びた指輪を取り出した。
「……L.Adamsってよ、アイツらの名前だろ?」
頭文字が彫られた指輪。あまり高級なものには見えないが、おそらく結婚指輪だろう。
……レヴィの父の方の「レオ」の形見だ。と……直感だが、確信できた。
「それ、どこで……」
「茂みで拾った」
「……探したんだ?」
「形見くらい持っときてぇだろ。好きなコなら尚更?」
にしし、と笑い、レオナルドはロバートに指輪を投げ渡す。
しっかりと受け取り、「ありがとう!」と伝えれば、「……何語?」と聞かれた。……どうやら、発音が良くなかったらしい。
「……。Thanks」
これくらいなら分かるだろう、と、英語で伝える。
「あー……?」
ピンと来ていないようなので、もう諦めるより他なかった。
「でも、超ありがとうスッゲー嬉しいメシ奢りてぇって感じなのはわかった」
「……よくわかんないけど、たぶんそこまでは言ってないってこと言われてる気がする!」
傍らの少年が呆れたように肩をすくめる。……レオナルドには見えていないようだが、存在は感じているらしい。頭を撫でるよう、胸の辺りに手を伸ばしている。
「……ねぇ、レオさん」
「んだよ、ロバート」
「……あ!合ってる!今名前合ってたよ!」
「マジで?さっすがオレ」
「寂しくない?」……と、真面目な言葉は他愛のない笑い話に塗り替わる。……が、今はそれでいいのだと、バカバカしい話でもして笑い合おうと、ロバートは錆び付いたリングを握りしめた。
次はリヒターヴァルトに寄って、姉と義兄の仲を冷やかしに行くと決めている。
……そうして、彼らの生は、まだまだ続いていく。
ドイツ、ミュンヘンのリヒターヴァルトに建つ療養院にサーラが訪れるのは、もはや恒例行事となっていた。リハビリ中のアンドレアと、毎日のように見舞いに訪れているロデリックの仲を冷やかすのも、毎度のお約束になっている。
「……で、お姫様抱っこはできるようになったのかい?相変わらずでっぷりしてるように見えるけど……」
「そ、そんなに太ってもねぇし……!アンが痩せてるからそう見えるんですよ、なぁ!?」
「ロッドのタプタプしたお腹、結構好きなんだけどな……」
「……そんなにタプタプしてる……?」
サーラはいちいちやり取りに爆笑しながら、見舞いにと菓子や果物を差し入れる。……アンドレアがバナナにケチャップを塗り出す、といった奇行にも慣れてきたのか、うげ、という顔をしつつ突っ込まなくなってきた。
「……ッ」
「! 大丈夫かアン。痛む?」
「う、ん……。ありがと……」
時折、ロデリックは痛みに悶えるアンを抱きしめ、落ち着かせるように腹や背をさする。……アドルフの言った通り、痛みは未だ彼女の肉体に……下手をすれば魂にまでも染み付いているらしい。
「……そういや、ローザとは連絡とってんのかい?」
「はい。ビジネスの方でマクシミリアンっていう新しい部下と、あと、養女を迎えたんだとか。……2人とも精神的にかなり参ってたけど、最近は明るくなった……って」
「言葉責めのために心理的な知識を身につけたらカウンセリングにも生かせるって、そんな感じの本を出そうか悩んでるらしいねぇ」
「……それ……出版社に話通せって言われてるんですけど……売れますかね……?」
世間話をしているうちに、アンドレアの呼吸も落ち着いてくる。縋りついた手を引っ込めようとする彼女に、ロデリックは「落ち着くまでいいから」と静かに声をかけた。
「ロバートは?」
「復帰してバリバリ論文書いてますよ。……あいつ、モチベがあったら行動力も凄まじいんで……。この前も日本で……推し?のイベントがあるっつって、イオリって子に頼んでホームステイしたとか……」
「……そりゃまた……元気だねぇ……」
まあまだ一応20代だしねぇ……という言葉に、ロデリックもアンドレアも苦笑する。
ロジャーが死んだのも、アンドレアが事故に遭ったのも20代前半のことだ。……兄達が過ごせなかった時間を満喫していると思えば羨ましくもあるが、思う存分やれ……という気持ちもある。
「そういやアドルフは、カミーユとの約束を守ってカナダに行ったらしいよ。グリゴリーの医院手伝ってんだってさ。……ブライアンと一緒に」
185センチを超えた男が3人で働く医院を想像し、ロデリックは思わず身震いした。1人はスカーフェイス。1人は隻腕にサングラスの強面。1人はいかめしいフランケン顔。……絶対に、行きたくない。
「……レオナルドは、どこをほっつき歩いてんのか分かったもんじゃない。ま、うちの母さんと付き合ってた時からそんな感じだったけど」
確かあん時は、マフィアに目ぇつけられたって言って逃げたんだったか……と補足のように漏れた呟きに、ロデリックは「やべぇ……」としか返せなかった。
「……ロッド、原稿は進んでるの?」
「ぼちぼち。……たぶん、今年の秋には出せると思う」
アンドレアの言葉に頷き、ロデリックはパソコンを取り出す。……あの掲示板にはもう書き込めないけれど、情報は残っていた。もちろん見やすく整えるには骨が折れるし……何より、自分たちの恥部や闇も多分に含まれている。……それでも、伝える意義はある。
あの街があったからこそ、愛する人は隣に帰ってきたのだから。……過去に向き合い、新たな絆を結ぶことができたのだから。
「……1986年12月22日、か」
「ん?」
「レニーの書き込みやメールにあった数字だよ。……たぶん命日だ。12くらいの時、クリスマスを迎えられずに死んだ……って、言ってたからね」
寂しそうに、サーラは幼い恋の残滓を手繰り寄せる。
気まずそうにする2人に「アンタらは幸せになりな」と激励の言葉を送りつつ、パソコンの画面をトントンと叩く。
「調べたけど、カミーユの命日は2016年の8月末だった。ローランド……じゃない、アンドレア。2016年11月23日は、誰の命日だい?」
レヴィは行方不明扱いだが、彼の死亡した時期そのものは、カミーユの死からそれほど経っていないはずだ。……もしくは、まだ「死んでいない」扱いになるのかもしれない。
きっかけのメールを送った人物……ブライアンの作り出した幻想で自我を繋ぎ止めたコルネリスが、さらに存在を確固たるものにしようと利用した人物……ローランドこと、アンドレアの中に真実がある。少なくとも、サーラはそう踏んだ。
「……俺だと思う」
「えっ!?」
「一度、容態が悪化して心肺停止した日があった……って、母さんから聞いた。……顔は合わせてないから、聞いたって言うのも変だけど……看護師さんにも確認したし、日付もそこら辺だったと思う」
青ざめるロデリックとは対照的に、アンドレアは淡々と自分が死に瀕した日のことを語る。
「……カルテを調べりゃすぐわかるけど……そりゃ精神的なもんかい?」
「自発呼吸を止めたんじゃなかったかな」
サーラの質問にも平然と答えた。……思わず、問うた本人も絶句するほどに。
ぶるぶると唇を震わせ、ロデリックはアンドレアを抱き締める。……嗚咽も隠しきれなかった。
ぽんぽんと、子供のようにロデリックの背中を撫でながら……やがて、アンドレアの声音にも震えが宿る。
「……今は、生きててよかったって……うん、思う」
じわりと、泣きぼくろが本物の涙で滲んだ。
サーラは無言で席を立ちながら、すれ違い続けた2人の、末永い幸福を祈る。
「……調子は良さそうでしたか」
「まあね。あの患者さんは、元気になって良かったねぇ。……ところで」
部屋を出たところで語りかけてきた医師に、それとなく尋ねる。母国語だけでなく英語もわかるから……と、何度か話して、既に顔なじみになっていた。
「2016年の秋に死にかけた……って、本当かい?」
「ええ……。夕刻でしたかね。なんとか息を吹き返したのですが、不思議な話がありまして」
「……不思議な話?」
本当にオカルトじみた話です、と前置きして、医師は半分冗談のように語り出した。
「2016年の……いつ頃でしたか。カウフマンさんの事故の後だった気もしますが……療養院の周りに犬のような影がうろつくようになりまして。……あの患者さんの蘇生処置を我々が諦めかけた時、ひょいっと体の中に潜りこんで……それで、止まっていた心臓も動きだしたんです」
「……犬……?」
「ええ……。私の故郷には狼にまつわる伝承がありますから、印象深くて」
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「……不思議なこともあるもんだねぇ……」
当然、サーラには一笑に付すことはできない。
本人にとってはより苦痛になる選択であったとしても、アンドレアはロジャーやロバート……家族に愛され、別の「なにか」にも味方され、望まれて生き延びた。……そしてロデリックは、誰より強くそれを望んだ。
「幸せになりなよ、2人とも。……絶対だかんね」
呪詛にも近い祝福を呟く。
きっと、サーラが初恋を忘れる日は来ないだろう。……ゆえに、割り切れるのがいつになるか分からない。
……いつか嫁にもらう、なんて、軽々しく言ったあの少年は、結局顔すら見せに来なかった。つくづく、酷い男に惚れたものだと思う。
「未練は断ち切りな、か……。それができたら苦労しないよ、まったく」
レオナルドは一言「レニーがごめんな」と告げて、再びどこかへと姿を消した。……彼にも分かっているのだ。置いていかれるほうの、張り裂けんばかりの悲しみが……。
「いいさ。もっといい男見つけて、嫉妬させてやる」
家族揃って現れたりいなくなったり忙しいヤツらだ……と内心毒づきながら、サーラは背筋を伸ばして歩き去る。イタリアの実家に帰れば、まず、アンジェロの墓に花を手向けようと決めている。
***
カナダ・モントリオールの端、ブリーズ・ジャルダンに、カミーユの墓はある。
今日もグリゴリーに連れられ、ブライアンは覚束ない足取りで兄の墓参りに訪れた。医院の受け付けは、アドルフに任せてある。
首も、四肢も結局見つからなかったけれど、胴体だけはこの墓碑の下に確かに存在する。
「……ん?」
その紳士に気づいたのは、グリゴリーだった。ロマンスグレーのオールバック。大げさなシルクハットに、白いステッキ。……そして、なぜか顔に覆い被さる能面。
「……不審者……?」
警察に通報しようか迷うグリゴリー。その前にくるり、と紳士が振り返った。
「おや、御機嫌よう。実は僕、この絵師のファンでね」
「あ、ああ、そういう……?」
カミーユのファンなら仕方ねぇな……と、妙に納得する。……ブライアンは小首を傾げ、じっと紳士を見つめていた。
「……どうしたブライアン?……って、爺さん……その腕……」
紳士の腕は、片方が義手だった。精巧だが、アドルフを診慣れている目にはすぐわかる。
「これかい?妻に食いちぎられてしまってね」
いやどんな妻だよ、と、突っ込むのはやめておいた。
「この能面も、妻のために僕が作ったんだ。……まあ、もう遺品になってしまったけど」
「……亡くなったんですか?」
「うん。2016年の……11月23日かな。人間じゃなくなる前にイヌガミの血を役立てたいって、術式を発動して燃え尽きた」
ごめん、何の話? ……と、突っ込むのもなんとか耐えた。真面目な話かどうかも、能面のせいでわからない。
「……ところで、さ。君は、その子が「おおよそ人間とは言えなくなっても」、傍にいてあげられる?」
……どこか、その口調に覚えがあるような気がした。
「例え、ほかに愛する存在ができたって、どれだけ平等に愛そうとしたって、その子が壊す前に引き離すことになるかもしれないし……自分も、つらい選択を迫られるかもしれない。それでも?」
亜麻色の髪と、蒼い瞳が、ロマンスグレーの髪と能面の顔に被さった気がした。
「ブライアンはもう人間じゃないですよ。……天使です」
おおよそ人間とは呼べない……なんて、医学会では散々言われていた。……けれど、グリゴリーは、それを微塵も悪いことだとは思わない。
「人間なんてだいたいろくなもんじゃないんで、大概のことは天使の方選ぶと思います」
「……君、真面目にそういうこと言って恥ずかしくない?」
「それあんたにだけは絶対言われたくないよ!?」
その突っ込みは堪えきれなかった。
くるりと再びステッキを回し、紳士は大仰に礼をする。
「うん、それなら安心した。……じゃあ、Adieu」
ブライアンが何事か声を上げようとする。……が、喉元まで出かかった言葉が紡がれることはなかった。
「……帰ろ。グリゴリーさん」
「ん?……ああ、うん。そうだね。アドルフ待たせてるし」
白衣の袖を引き、ブライアンは未練を振り切るよう歩き出す。
背中を向けたまま紳士は面を外し、
「Bonne chance!」
そう、ハッキリと告げた。
***
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「惜しい。僕はロバート」
フランス、ストラスブール付近。フルール・ド・コルボ。
カミーユの遺体が発見されたのはその郊外で、レヴィが消息を絶った地でもある。
レオナルドと予期せぬ再会を果たし、ロバートは、傍らに褪せた金髪の少年を視た。……レオナルドやレニーと、どこか似た顔立ちにも思える。
「なんだかんだ言ってよ、生きてりゃ勝ちだと思うぜ、俺は」
「……死んだ人は負け?」
「そりゃ、生き物は死んじゃおしまいだろ」
「あ、それは確かに……。「生き物」の定義から外れちゃうしね」
沈黙が流れる。ロバートもイタリア語は勉強中の身だが、やはり話すとなると難しい。レオナルドは煙草をふかしつつ、ジーパンのポケットから錆びた指輪を取り出した。
「……L.Adamsってよ、アイツらの名前だろ?」
頭文字が彫られた指輪。あまり高級なものには見えないが、おそらく結婚指輪だろう。
……レヴィの父の方の「レオ」の形見だ。と……直感だが、確信できた。
「それ、どこで……」
「茂みで拾った」
「……探したんだ?」
「形見くらい持っときてぇだろ。好きなコなら尚更?」
にしし、と笑い、レオナルドはロバートに指輪を投げ渡す。
しっかりと受け取り、「ありがとう!」と伝えれば、「……何語?」と聞かれた。……どうやら、発音が良くなかったらしい。
「……。Thanks」
これくらいなら分かるだろう、と、英語で伝える。
「あー……?」
ピンと来ていないようなので、もう諦めるより他なかった。
「でも、超ありがとうスッゲー嬉しいメシ奢りてぇって感じなのはわかった」
「……よくわかんないけど、たぶんそこまでは言ってないってこと言われてる気がする!」
傍らの少年が呆れたように肩をすくめる。……レオナルドには見えていないようだが、存在は感じているらしい。頭を撫でるよう、胸の辺りに手を伸ばしている。
「……ねぇ、レオさん」
「んだよ、ロバート」
「……あ!合ってる!今名前合ってたよ!」
「マジで?さっすがオレ」
「寂しくない?」……と、真面目な言葉は他愛のない笑い話に塗り替わる。……が、今はそれでいいのだと、バカバカしい話でもして笑い合おうと、ロバートは錆び付いたリングを握りしめた。
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颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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