1 / 10
序章「招かれざる客人」
しおりを挟む
王都の心臓たる王宮、その最も奥深く。
夜の闇が窓の外を支配する頃、宰相の執務室だけが、まるで眠ることを許されないかのように蝋燭の灯りを揺らめかせていた。
室内に満ちるのは、古い羊皮紙の匂いと、溶けた封蝋のかすかな香り。
そして、言葉にされずとも肌を刺すような、重苦しい緊張感。
宰相の前に置かれた一通の報告書。
それは特別な紙に、特殊なインクで書かれ、解読には王家が定めた最高位の暗号鍵を要する――王国で最も機密レベルの高い文書である。
届けた伝令はとうに人払いされ、今この内容を知る者は、玉座にある国王陛下と宰相、そして数えるほどの側近のみ。
報告書の内容は、簡潔にして、破滅的だった。
――隣国より、“保護を求める重要人物”来訪。
その一文に込められた意味は、単なる亡命者の受け入れという次元を遥かに超えていた。
国境を越えてきたのは、隣国の有力貴族、ヴァレンティス公爵家の令嬢にして、つい先日まで同国の王子の正式な婚約者であったイザベラ・ド・ヴァレンティス。その人である。
婚約破棄という醜聞の渦中にある彼女が、なぜこの国へ。
しかも正規の外交ルートを一切通さず、密入国同然の形で姿を現したのは、何を意味するのか。
宰相の脳裏に、両国の間にくすぶり続ける数多の火種が浮かび上がる。
かつては我が国の一地方であった隣国が、忌まわしき動乱の末に独立を果たして以来、領土を巡る対立は絶えない。
そして何より、「失地回復」――すなわち旧領土の奪還を叫ぶ奪還派の存在が、この問題をさらに複雑にしていた。
この一件は、あまりにもデリケートである。
公爵令嬢の身柄を保護すれば、隣国はそれを「不当な拉致」と非難し、開戦の口実としかねない。
かといって、彼女を突き返せば、人道を無視したと内外から批判を受けるだろう。
何より、亡命の裏に隠されたであろう重要な情報を取りこぼす危険もある。
どちらに転んでも国益を損なう危険な賭け。
下手をすれば、大陸全土を巻き込む大戦の引き金にすらなり得る。
「……ゆえに、機密とする」
陛下の静かな、しかし有無を言わせぬ声が、宰相の耳に蘇る。
事実はあらゆる公式記録から抹消され、公爵令嬢の存在は「ないもの」として扱われる。その身柄は王都から遠く離れ、中央の政争とは無縁の地へ密かに移されることとなった。
関わる者は最小限に絞られ、彼らには王の名の下に絶対の箝口令が敷かれる。
王宮は静まり返っている。
だが水面下では、国家という巨大な生き物が、未知の脅威を前に息を潜めていた。
この前代未聞の事態を調査する人選にあたり、誰もが経験豊富な貴族出身のベテランが任に就くものと信じて疑わなかった。宰相自身、当初はその考えに異を唱えなかった。
だが、その決定を覆したのは、ただ一人の人物による、あまりにも型破りな進言であった。
第一王女、ヴィクトリア殿下。
彼女は国王と宰相を前に、普段の軽薄な振る舞いを鳴りを潜め、その瞳に怜悧な光を宿してこう言ったのだ。
『陛下。私に考えがあります。この件、人選を含め一任していただけませんか』
その言葉に宰相は眉を顰めたが、陛下はそれを容れられた。
そして宰相が陛下の裁可を得て、最終的な辞令にサインを記した調査官の名は――貴族名鑑のどこにも載ってはいない。
それは、新しい時代を象徴する「平民登用制度」によって採用されたばかりの、まだ若い一人の女性の名であった。
夜の闇が窓の外を支配する頃、宰相の執務室だけが、まるで眠ることを許されないかのように蝋燭の灯りを揺らめかせていた。
室内に満ちるのは、古い羊皮紙の匂いと、溶けた封蝋のかすかな香り。
そして、言葉にされずとも肌を刺すような、重苦しい緊張感。
宰相の前に置かれた一通の報告書。
それは特別な紙に、特殊なインクで書かれ、解読には王家が定めた最高位の暗号鍵を要する――王国で最も機密レベルの高い文書である。
届けた伝令はとうに人払いされ、今この内容を知る者は、玉座にある国王陛下と宰相、そして数えるほどの側近のみ。
報告書の内容は、簡潔にして、破滅的だった。
――隣国より、“保護を求める重要人物”来訪。
その一文に込められた意味は、単なる亡命者の受け入れという次元を遥かに超えていた。
国境を越えてきたのは、隣国の有力貴族、ヴァレンティス公爵家の令嬢にして、つい先日まで同国の王子の正式な婚約者であったイザベラ・ド・ヴァレンティス。その人である。
婚約破棄という醜聞の渦中にある彼女が、なぜこの国へ。
しかも正規の外交ルートを一切通さず、密入国同然の形で姿を現したのは、何を意味するのか。
宰相の脳裏に、両国の間にくすぶり続ける数多の火種が浮かび上がる。
かつては我が国の一地方であった隣国が、忌まわしき動乱の末に独立を果たして以来、領土を巡る対立は絶えない。
そして何より、「失地回復」――すなわち旧領土の奪還を叫ぶ奪還派の存在が、この問題をさらに複雑にしていた。
この一件は、あまりにもデリケートである。
公爵令嬢の身柄を保護すれば、隣国はそれを「不当な拉致」と非難し、開戦の口実としかねない。
かといって、彼女を突き返せば、人道を無視したと内外から批判を受けるだろう。
何より、亡命の裏に隠されたであろう重要な情報を取りこぼす危険もある。
どちらに転んでも国益を損なう危険な賭け。
下手をすれば、大陸全土を巻き込む大戦の引き金にすらなり得る。
「……ゆえに、機密とする」
陛下の静かな、しかし有無を言わせぬ声が、宰相の耳に蘇る。
事実はあらゆる公式記録から抹消され、公爵令嬢の存在は「ないもの」として扱われる。その身柄は王都から遠く離れ、中央の政争とは無縁の地へ密かに移されることとなった。
関わる者は最小限に絞られ、彼らには王の名の下に絶対の箝口令が敷かれる。
王宮は静まり返っている。
だが水面下では、国家という巨大な生き物が、未知の脅威を前に息を潜めていた。
この前代未聞の事態を調査する人選にあたり、誰もが経験豊富な貴族出身のベテランが任に就くものと信じて疑わなかった。宰相自身、当初はその考えに異を唱えなかった。
だが、その決定を覆したのは、ただ一人の人物による、あまりにも型破りな進言であった。
第一王女、ヴィクトリア殿下。
彼女は国王と宰相を前に、普段の軽薄な振る舞いを鳴りを潜め、その瞳に怜悧な光を宿してこう言ったのだ。
『陛下。私に考えがあります。この件、人選を含め一任していただけませんか』
その言葉に宰相は眉を顰めたが、陛下はそれを容れられた。
そして宰相が陛下の裁可を得て、最終的な辞令にサインを記した調査官の名は――貴族名鑑のどこにも載ってはいない。
それは、新しい時代を象徴する「平民登用制度」によって採用されたばかりの、まだ若い一人の女性の名であった。
0
あなたにおすすめの小説
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
過労死して転生したので絶対に働かないと決めたのに、何をしても才能がバレる件
やんやんつけバー
ファンタジー
過労死して異世界転生。今度こそ絶対に働かないと決めたのに、何をやっても才能がバレてしまう——。農村で静かに暮らすはずが、魔力、農業、医療……気づけば誰も放っておかない。チートで穏やか系の異世界スローライフ。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
【完結】剣聖と聖女の娘はのんびりと(?)後宮暮らしを楽しむ
O.T.I
ファンタジー
かつて王国騎士団にその人ありと言われた剣聖ジスタルは、とある事件をきっかけに引退して辺境の地に引き籠もってしまった。
それから時が過ぎ……彼の娘エステルは、かつての剣聖ジスタルをも超える剣の腕を持つ美少女だと、辺境の村々で噂になっていた。
ある時、その噂を聞きつけた辺境伯領主に呼び出されたエステル。
彼女の実力を目の当たりにした領主は、彼女に王国の騎士にならないか?と誘いかける。
剣術一筋だった彼女は、まだ見ぬ強者との出会いを夢見てそれを了承するのだった。
そして彼女は王都に向かい、騎士となるための試験を受けるはずだったのだが……
無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……
タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。
追放令嬢、辺境王国で無双して王宮を揺るがす
遊鷹太
ファンタジー
王国随一の名門ハーランド公爵家の令嬢エリシアは、第一王子の婚約者でありながら、王宮の陰謀により突然追放される。濡れ衣を着せられ、全てを奪われた彼女は極寒の辺境国家ノルディアへと流される。しかしエリシアには秘密があった――前世の記憶と現代日本の経営知識を持つ転生者だったのだ。荒廃した辺境で、彼女は持ち前の戦略眼と人心掌握術で奇跡の復興を成し遂げる。やがて彼女の手腕は王国全土を震撼させ、自らを追放した者たちに復讐の刃を向ける。だが辺境王ルシアンとの運命的な出会いが、彼女の心に新たな感情を芽生えさせていく。これは、理不尽に奪われた女性が、知略と情熱で世界を変える物語――。
前世ブラックOLの私が転生したら悪役令嬢でした
タマ マコト
ファンタジー
過労で倒れたブラック企業勤めのOLは、目を覚ますと公爵令嬢アーデルハイトとして転生していた。しかも立場は“断罪予定の悪役令嬢”。だが彼女は恋愛や王子の愛を選ばず、社交界を「市場」と見抜く。王家の財政が危ういことを察知し、家の莫大な資産と金融知識を武器に“期限付き融資”という刃を突きつける。理想主義の王太子と衝突しながらも、彼女は決意する――破滅を回避するためではない。国家の金脈を握り、国そのものを立て直すために。悪役令嬢の経済戦争が、静かに幕を開ける。
平民に転落した元令嬢、拾ってくれた騎士がまさかの王族でした
タマ マコト
ファンタジー
没落した公爵令嬢アメリアは、婚約者の裏切りによって家も名も失い、雨の夜に倒れたところを一人の騎士カイルに救われる。
身分を隠し「ミリア」と名乗る彼女は、静かな村で小さな幸せを見つけ、少しずつ心を取り戻していく。
だが、優しくも謎めいたカイルには、王族にしか持ちえない気品と秘密があり――
それが、二人の運命を大きく動かす始まりとなるのであった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる