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しおりを挟むだから――三年前、精霊の名を呼んだのだ。自分と契約する、彼の名を。
「ダスク」
ひどく幼い頃、それが務めだからと、二日間食事を抜き、朝夕と神聖な泉で身を清めて――ほとんど言われるまま、姿も見えない「彼」と契約を交わした。
その日以来、ルーンハルトが持つ水属性の『魔力の泉』は、傍らに海を擁するようになった。……その『海』は、普段は水門によって堅く閉ざされている。海の主である:彼|の名を呼ぶと、少しだけ門を開けられることが出来た。だが門自体もひどく重く、開けられたとしても、やっと数センチほど。
途方もない魔力の『海』を持つ「彼」は、精霊だった。
いまも暦として親しまれている、七つで一巡りの精霊の日。日、猫、火、水、木、金、土。遠い昔、そこから意図的に消された名前がある。それは日の次、火の前。……現在用いる「猫」は、アナグラムで適当に名付けられたもの。元の言葉を組み替えたら、偶然、猫の鳴き声になった。
その名は、闇。
闇の精霊が司るは、死だ。
『アイゼン、アイゼン……っ』
三年前、ルーンハルトは精霊の水門をすべて開け放った。否、破壊したのだ。
死の国へと渡ってしまったアイゼンを取り戻すには、それしか方法がなかった。
死の国に住まう精霊へ、契約の力を持って命じる。――喪われてはならない魂を、取り返せ、と。
それは、重たく頑丈な水門自体を力尽くで打ち砕き、自分の『泉』と精霊の『海』を一つにする作業に他ならなかった。満足に姿も捉えられず、声だけでやり取りをしていた精霊を――アイゼンの魂ごと、こちらの世界に引き受ける。
死者の魂を運び出し、うしなわれた肉体と欠けた魂の再生までを果たした精霊は、死の国にとってはれっきとした反逆者だ。
「彼」はもう、どこへも還れない。
だからこそ、この魔法は一生に一度きりしか使えない禁忌の法とされた。
ダスク、と。
いまその名を呼び掛けても、相手からの応えは自分の内側に聞こえた。すでにルーンハルト自身が彼であり、彼はもうルーンハルトでもあるからだ。
【案ずるな。もう虫の息だ】
精霊に契約はあっても、情はない。どちらも虫の息であることなど、彼にとっては単なる事実でしかないだろう。
【さあ、我を暴れさせろ。ルー……】
「ルー・エヴァン……ユル、フェン……」
「っ」
精霊の声と重なるようにして、自分の名を呼ぶ声があった。すぐ耳元に聞こえる、掠れた声。誰何する必要もない。
「アイゼン……、――どう、して」
その名を、知っている。
ルー・エヴァン・ユルフェン。
十歳の頃に滅亡した、いまは亡きユルフェンド王国。そこに生きていた王子の名。――ルーンハルトが捨てざるを得なかった、過去の名前だ。
「俺は、ずっと……おまえを、探していた。死んでいる、はずが、ないと……祈るほどに、願って」
「え……?」
死んでいるはずがない。
そう言えるのは、滅亡する前のユルフェンド王国を知っていて、かつルー・エヴァン第一王子と面識のあった人間だけだろう。
まさか、とルーンハルトは息を飲む。
七歳の頃、たった二日だけ交流のあったこちらのことを、覚えているのか。
「……十二の時に、……おまえの庭を、見つけた」
「!」
「俺は、間違えたりは、しない。あれは……っルー・エヴァンの魔力だ。おまえの、きょうりゅうたちだ。人生で初めて、神の、存在を信じた。俺の、祈りは、届いた……、だから」
そう言って、アイゼンはルーンハルトの肩に手を掛ける。そこにぐっと力が沈んで、彼が立ち上がろうとしていることがわかった。
剣を手に、まだ、戦おうと。
「だから、……俺には」
「アイゼン」
「おまえが……おまえさえ、隣に、居るのなら……地の底だろうと、花の舞う庭だ。この、変質した、魔力が……おまえを繋ぎ止めてくれるのなら、俺にとっては、なによりも大切な、運命なんだ」
大切な。
穢れだと、忌避するのではなく――運命だと、笑ってみせる。アイゼンは言葉どおり、頬を緩めていた。それはどこか、安堵の表情にも見えるのだ。
「今、回は、おまえを待てた……。俺は、それでいい。おまえの涙を、見るのは、死ぬよりもつらい……」
そう言って、これをさよならにするのか。
アイゼンに非などないことは、わかっている。それでも、三年前もいまも、ルーンハルトの胸に湧くのは純然たる怒りだった。
(僕が)
(どんな、思いで)
あなたの手を、聖女へ任せよう、と決めたのか。
まだ体温の残る遺体にのみ掛けられる闇の魔法を、用いてみせたのか。
――未来を継ぐためだ。
あの日、「王になる」と言った彼の言葉を、誰よりも、なによりも、信じているからだった。
「アイゼン」
もう、怒りでいい。それで顔が上がるのならば。
……そう。彼の「変質した」魔力であれば、魔獣への攻撃が通るのだ。
「あなたの剣を、借ります」
ゆっくりと慎重に背を返し、ルーンハルトはアイゼンの体を腕の中に引き受けた。すでにほぼ自立する力もない重たい体躯が落ちてくるのをしっかりと支えながら、膝を折って、同じ場所に座り込む。
そうして、傾ぐばかりの剣を彼の手から取った。
ルーンハルト、とアイゼンが呼ぶのには、空いた片手を彼の後頭部に添えることで応える。……一つだけ、我儘を言えるだろうか。汗と血に塗れた漆黒の髪が掛かる耳元へ、ルーンハルトはそっと囁いた。
どうか、いまは顔を上げないでいてほしい。
「私の姿を、見ないで」
それからルーンハルトは片手の剣を持ち上げて、まっすぐに魔獣へと向けた。多少ならず重いが、振るえないほどでもない。
アイゼンの剣で打ち据えられた魔獣は、再び頭をもたげようとしている。小山ほどの体躯はあちこちが割れ崩れていて、そこからしゅうしゅうと瘴気が吹き出していた。
「ダスク」
闇の精霊の名をもう一度呼ぶと、彼からは呆れたような声が返される。
【……座ったまま、戦うのか】
「私の王を、地へ置くことなど出来ません」
不肖の補佐官の膝上など、アイゼンにとっても不本意だろう。だが、いまここには、これ以上の椅子がない。
魔獣がひときわ高く、咆哮する。
それに呼応してか、ぞわりと、周囲の瘴気が蠢く。――攻撃が、来る。
【まあ、いいだろう】
ダスクが頷くのと同時、びり、と腕に痛みが走った。途端、堰を切られた魔力が溢れ、ルーンハルトの体を伝って、杖代わりの剣へと流れ出てゆく。
振るうどころか、掲げているだけで精一杯だ。
重たく激しい闇色の雷が、縦横無尽に駆ける。魔獣の巨躯が残らず砕けるまでは、ほとんど一瞬だった。……一瞬だが、それは山を割るほど莫大な魔力の放出だ。
ルーンハルトの視界は光を落としたように暗くなり、同じにざらりと全身の血が下がる。ひどく呼吸が浅くなった。意識が続かない。
がらん、と剣が落ちた。体が傾ぐ。その背をしっかりと掬い上げる、頼もしい腕の感触がわかる。……それが誰のものなのかは、ルーンハルトには確認するまでもなかった。
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