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魔王6
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五月の下旬になると、信長様は安土を留守居衆に任せ、戦陣の用意をして待機するよう命じたあと、供回りを連れずに私を含めた小姓衆のみを率いて上洛したのである。
そしてそのまま京に着くと、定宿である本能寺へと入った。
ちょうど私が召し抱えられた直後に一度ここへは訪れていたが、その後改修が施されたようであり、本堂の周りは新たに掘と石垣が設けられていた。その様子を見て真っ先に蘭丸殿が表情を緩めた。
「おお、これならばちょっとした城構えと変わらぬ。僅かな人数なれど、殿を御守りすることも出来よう」
すでにほぼ天下を手中にし、京周辺において最早刃向かう敵も考えつかぬ状況であったが、全く供回りを連れずというのは、殆ど初めてのことでもあり、流石に蘭丸様は終始落ち着かぬ様子であったが、この寺の状態を見て些か安心されたようであった。
が、しかし私は何故か、まだ僅かな胸騒ぎのようなものが残っており、思わず朱槍を握る手に力が籠もった。
「どうされた弥助殿、何を浮かない表情をしておる。殿も最早、何も案ずることはないと、秀吉殿の待つ備中へは、茶会を開かれた後に出立されるとのこと。我らもゆるりとしようではないか」
蘭丸殿にそう促されて、私も漸く緊張を解いた。
そして翌々日、信長様は予定通り安土より運ばせた茶器を開けて、公卿や僧侶を招き茶会を開いたのである。
その際も私は蘭丸殿と共に、傍で控えることを許された。
時折、好奇の眼を向ける者も少なからずいたが、信長様が他の小姓たちと全く違わぬ扱いで、私に接するのを見て、やがて誰も気に留める様子ではなくなった。
私にはそれが随分と心地良くもあり、またこの瞬間をもって漸く奴隷から脱したような心持ちでもあった。というのも、この茶会には、かつての主人であるヴァリニャーノ様が属しているイエズス会の宣教師達が、何人か招かれており、中には何度か見かけた者もいたからである。
その者たちも最初は訝し気な表情を一瞬浮かべてはいたが、最早立場が逆となったのを悟ったらしく、あまり私と目を合わそうとはしなかった。彼等宣教師達のいる南蛮寺は、この本能寺から南へ僅か一街(約二百五十四メートル)という目と鼻の先に位置していた。
思えばあの時、ヴァリニャーノ様のお供で、信長様と出会っていなければ、勿論今以って奴隷であるに違いなかったであろうし、まさかその元主人たちを招く側に座ることなど夢にも考えたことなどなかった。
果たしてそう考えると、一人の人間との出会いでこうまで自らの運命が変わるものかと、私は改めて感じた。
「いや、あのお方が只の人間であるはずがない。我が殿は最早、第六天の魔王であり、私にとっては、真の神なのだ」
私は思わずそう呟くと、人知れず表情を崩した。
つい信長様のことを考えると、黒い顔に浮き立つ白い歯を見せてしまうのが悪い癖だと解っていながら、どうにも頬が緩むのを抑えられずにいた。
私は今この時が、正に我が人生最良の時であると感じた。
何せ初めて人として認められ、初めて人を心から愛おしく想い、その想いを寄せる方が、漸く天を握ろうとされているのである。その瞬間を傍らで見守ること以外に、果たしてどんな幸福があろうことか。
私はこの機会を与えてくれたイエズス会の面々に視線を向けたあと、傍らでやはり無邪気な笑顔を見せる信長様に見とれた。そして改めて決意を新たにしたのである。
何があろうと殿をお守りし、殿の目指す覇業成就に少しでも役に立つのだ、と……。
◇
私が決意を新たにした茶会の翌日である六月二日の曙(午前四時)あたりであろうか、ふと物音に目が覚めた。すぐ傍らで寝ていた別の小姓が、先に目を覚ましていたようであり半身を起こしながら、
「表でどうやら喧嘩でもしているようだ」
と呟いた。
私は咄嗟に、馬鹿なことをする輩もいたものだと思った。明け方にもし信長様がその音で目を覚まされたなら、只で済むはずもない。
些かそう心配に思えた時であった――。
途端に大きな気勢と共に、一発の銃声らしき音が響いた。
「いや、これは喧嘩などではない」
私はそう叫んで、すぐさま奥の部屋に向かて駆けた。
「弥助殿! 何事か」
信長様の寝屋より飛び出てきた蘭丸殿が、目を見開いて訊いてきた。
私がそれに答えるより先に、
「いったい何の騒ぎだ。蘭丸よ、確認して参れ」
と蘭丸殿の背後から、信長様がそう指示された。
頷くと同時に素早く表に飛び出た蘭丸殿を目で追ったあと、私は信長様に顔を向けた。
「案ずるな、弥助よ。大したことではない」
信長様は些かも動揺の色も見せずにそう云った。
けれども引き返してきた蘭丸殿の顔を見て、すぐに表情が固くなった。
「やはり謀反なのか? 誰の仕業だ」
「……明智の軍勢と思われます」
そう報告した蘭丸殿の顔にもう色はなかった。
私はその瞬間、あの時、蘭丸殿に殴打された明智殿の恨めしい表情が、脳裏に蘇った。
信長様は一瞬、ふうっと息を抜いてから云った。
「そうか、明智がか……。ならば、やむをえぬ、な」
私はその表情が余りにも意外であった。
なぜなら、信長様の顔には、明らかに諦めの色が浮かんでいたからである。
「殿、私が何とか引き止めます。その隙にお逃げください」
私がそう叫ぶと、傍らの蘭丸殿も刀を抜きながら、
「そうです。我らが命に代えてお守り致します。どうか早く……」
と叫びながら、私よりも一歩先に表へと飛び出した。
私が遅れまいとその後に続こうと駆けだした時、目の前の蘭丸殿の動きが急に止まった。
それは一瞬、時が止まったのではないか、と感じさせるものであった。が、蘭丸殿の胴に深々と突き刺さる槍を見た瞬間、私の中の何かが弾けた気がした。
「おおおおぉぉぉッ」
私は雄叫びを上げながら、崩れゆく蘭丸殿を飛び越え、見覚えのある明智殿の家臣に向って、朱槍を力一杯に振るった。
そして止まることなく右へ左へと無心に槍を突き立てた。
何人の者を手に掛けたであろうか、ふと後ろを振り返ると信長様も弓を構えておられた。が、しかしその肩や足には既に何本かの矢が突き刺さっていたのである。
「と、殿! どうぞ奥へ、ここは私が……」
思わずそう叫びながら駆け寄ると、信長様は微かに笑みを浮かべられた。
「弥助よ。流石にそなたの十人力でも、こう人数が多くては、ちと厳しいのう」
「何を云われます。この程度の人数、大したものではござりませぬ」
槍を振るいながら、私がそう強がると、信長様は一瞬寂しそうな表情を見せて小さく、
「すまぬな」
と云った。
その表情は最早、魔王ではなく、一人の人間のそれであった。
私はその事実を振り払うようにひと際大声を出した。
「さあ、早く奥へ。殿は何としても生き延びねばならぬのです」
それに対して、信長様は、ふっと笑ってから漸く奥に向かって駆けだした。
「弥助よ。何とかそやつらを振り切ってついて参れ。儂に策がある」
私は目の前の敵を何人かなぎ倒すと、踵を返して信長様に続いた。
既に屋敷は所々から火の手が上がっており、燻った黒煙が立ちこめている状態でもあった。私は口元を袖口で抑えながら、信長様を追って、なんとか奥の間に辿り着いた。
すると信長様は、すぐに手にしていた弓と矢を手放し徐に自らの着物を脱ぎ捨てられた。
あまりに一瞬のことであり、呆気に取られたままその様子を眺めていた私に向かって、一糸まとわぬ姿で、信長様がこう云われた。
「よいか、弥助よ。よく訊け。最早儂もここまで。相手が明智ではよもや逃げることは叶わぬだろう。だが、お主なら逃げおおせるやもしれぬ。なぜなら、あやつらの目的はあくまで儂の首のみ……。取られてはならぬ。何としても、猿たちが戻ってくるまで儂の死を、儂の首を隠し通すのだ。さすれば決して、明智の思い通りにはならぬはず」
「お、お待ちください、殿。私にはそのような……」
あまりに突然のことであり、躊躇する私に向かって信長様はゆっくりと近づいてこられた。
そして私を力強く抱きしめながらこう云った。
「あまりに早く、そして楽しい五十年であった。僅かな付き合いであったが、最後にお主に会えて良かったと思っている……」
そう云い終えた瞬間、信長様は私を引き剥がし、着物と共に足元に置かれていた脇差しを抜くと、何の躊躇いもなく自らの腹に、それを突き立てたのである。
「殿ぉっ!」
「よいか。頼んだぞ、儂の最後の……、ぬうっ、さあ、はっ、早く……」
私はその時初めて信長様の苦悶の表情を見た。
思えばこれまで一度たりとも私を含めた家臣たちに見せたことのない顔であった。決して見てはいけない筈の、実に人間らしい表情でもあった。
それから私は、すうっと我に返ったような気がした。
そして私は、手にした朱槍にありったけの力を込め、少しでも苦しむことがないように信長様の首めがけて、それを一気に振り下ろしたのである。
◇
私は自分自身でも驚くほどに冷静であった。
おそらく傍らで、常に信長様が見守ってくれていたからに違いないが、それでも今すべきことが次々に頭の中に浮かんでくるのである。
それは恰も、首だけになっても信長様によって、一から十まで導かれているような実に不思議な感覚でもあった。
私は信長様の首を風呂敷の上に丁寧に置いたあと、自らの左上腕部を信長様が脱ぎ捨てた帯できつく縛った。
次に信長様の腹に刺さった脇差しを抜いて、今度は自らの左腕に向かって力一杯に振り下ろした。すると私の左腕は実にあっけなく畳の上へと転がった。あまり痛みなどは感じなかった。
私にとって腕を失った痛みよりも確実に、信長様を失った痛みのほうが大きかったし、これからせねばならぬ使命感のほうが、肉体の痛みを遙かに凌駕していたのかもしれない。
私は落とした左腕を、信長様の首の横に並べて置いたのち、口と右手を使ってそれをくるんだ。
うまく結び目から手だけがのぞくように包むのは、些か苦労したが、なんとかそれをやり終えたのち、一切の武具を捨て、風呂敷包みだけを持って立ち上がった。
火の周りは殊の外早く、すでにこちらまで黒煙が立ち込めている状態であった。私は部屋の建具を信長様の遺体を隠すように被せたあと、深呼吸をしてから身をかがめ部屋を出た。火の手が回り始めた廊下を、横切るようにして庭に出ると、既に殆どの味方は討たれてしまったようであり、あまり騒がしい気配ではなかった。
「おい、待て!」
ふいに背後からの声で、私は反射的に立ち止まった。
すると私の背後からすうっと槍先が顔の横に伸びてきた。不覚にも簡単に背後をとられた状態のまま私は立ちすくみ、相手の出方を待った。すると前に回り込んできた二人いた敵方の一人が、
「こやつは確か、弥助とかいう小姓ではないか。どうやら既に手負いの様子。ちょっと捕らえておれ、明智様に報告して参る」
と云って、小走りに離れていった。
残ったほうが、槍先を私の胸元に向けたまま訊いてきた。
「どこにも信長様がおらぬ。そなた小姓なら知っておろう」
「いえ、私は別の部屋で寝ておりましたので、存じませぬ。それに私は見てのとおり随分な怪我を負いました。最早それどころではありませぬ」
私は目を伏せながら、脇に抱えた風呂敷包みから覗く手を見せつけた。すると彼は、「ふんっ」と鼻を鳴らしたっきり興味がなくなったようであった。
すぐに先ほどの者が、何人かと連れだって戻ってきた。やはりその中に明智殿はいた。
「弥助か。顔をあげよ」
明智殿の抑揚のない声に促されて、ゆっくりと伏し目がちに顔を上げると、思っていた通りの蔑んだ瞳がそこにあった。明智殿は風呂敷包みから覗く手に僅かに視線を送ったあと、こう言い放った。
「所詮は畜生よの。主君よりも我が身が余程に可愛いと見える。しかも切られた腕などをまだ後生大事に未練がましく抱いておるとは、益々もって汚らわしい畜生よ。何処へなりともゆくがよい。刀の錆にするのも惜しいわ。目障りだ」
明智殿はそれっきりこちらを見ようともせず、家臣たちに向かって大声で続けた。
「ええい。お前たちもこんな黒犬のごとき畜生に構っている暇があったら、さっさと信長を探すのだ。まだ生きて何処かに潜んでいるやもしれぬぞ」
その言葉をきっかけに、私の周りから一斉に皆が、散っていったのである。
ただ明智殿だけが去り際に再度、私に向かって云った。
「そう云えば、あの蘭丸に辱めを受けた際に、お前もいたのだったな。すでに奴も首を刎ねてやったわ。大好きな信長共々、仲良く首を晒してやろう」
僅か一年と少しの間であったが、同じく信長様を慕い、共に暮らしてきた蘭丸様の無念を思うと、たとえ片腕になった今でも、小柄な明智殿一人くらい充分に道連れとする力もまだ残ってはいたが、信長様の最後の言葉がどうにか私を引き留めてくれていた。
私には何としてもやらねばならぬ使命がある。
「どうか、どうか命だけはお助けください……」
深々と下げた頭のすぐ目の前に、明智殿の唾が落ちた。
そしてそのまま京に着くと、定宿である本能寺へと入った。
ちょうど私が召し抱えられた直後に一度ここへは訪れていたが、その後改修が施されたようであり、本堂の周りは新たに掘と石垣が設けられていた。その様子を見て真っ先に蘭丸殿が表情を緩めた。
「おお、これならばちょっとした城構えと変わらぬ。僅かな人数なれど、殿を御守りすることも出来よう」
すでにほぼ天下を手中にし、京周辺において最早刃向かう敵も考えつかぬ状況であったが、全く供回りを連れずというのは、殆ど初めてのことでもあり、流石に蘭丸様は終始落ち着かぬ様子であったが、この寺の状態を見て些か安心されたようであった。
が、しかし私は何故か、まだ僅かな胸騒ぎのようなものが残っており、思わず朱槍を握る手に力が籠もった。
「どうされた弥助殿、何を浮かない表情をしておる。殿も最早、何も案ずることはないと、秀吉殿の待つ備中へは、茶会を開かれた後に出立されるとのこと。我らもゆるりとしようではないか」
蘭丸殿にそう促されて、私も漸く緊張を解いた。
そして翌々日、信長様は予定通り安土より運ばせた茶器を開けて、公卿や僧侶を招き茶会を開いたのである。
その際も私は蘭丸殿と共に、傍で控えることを許された。
時折、好奇の眼を向ける者も少なからずいたが、信長様が他の小姓たちと全く違わぬ扱いで、私に接するのを見て、やがて誰も気に留める様子ではなくなった。
私にはそれが随分と心地良くもあり、またこの瞬間をもって漸く奴隷から脱したような心持ちでもあった。というのも、この茶会には、かつての主人であるヴァリニャーノ様が属しているイエズス会の宣教師達が、何人か招かれており、中には何度か見かけた者もいたからである。
その者たちも最初は訝し気な表情を一瞬浮かべてはいたが、最早立場が逆となったのを悟ったらしく、あまり私と目を合わそうとはしなかった。彼等宣教師達のいる南蛮寺は、この本能寺から南へ僅か一街(約二百五十四メートル)という目と鼻の先に位置していた。
思えばあの時、ヴァリニャーノ様のお供で、信長様と出会っていなければ、勿論今以って奴隷であるに違いなかったであろうし、まさかその元主人たちを招く側に座ることなど夢にも考えたことなどなかった。
果たしてそう考えると、一人の人間との出会いでこうまで自らの運命が変わるものかと、私は改めて感じた。
「いや、あのお方が只の人間であるはずがない。我が殿は最早、第六天の魔王であり、私にとっては、真の神なのだ」
私は思わずそう呟くと、人知れず表情を崩した。
つい信長様のことを考えると、黒い顔に浮き立つ白い歯を見せてしまうのが悪い癖だと解っていながら、どうにも頬が緩むのを抑えられずにいた。
私は今この時が、正に我が人生最良の時であると感じた。
何せ初めて人として認められ、初めて人を心から愛おしく想い、その想いを寄せる方が、漸く天を握ろうとされているのである。その瞬間を傍らで見守ること以外に、果たしてどんな幸福があろうことか。
私はこの機会を与えてくれたイエズス会の面々に視線を向けたあと、傍らでやはり無邪気な笑顔を見せる信長様に見とれた。そして改めて決意を新たにしたのである。
何があろうと殿をお守りし、殿の目指す覇業成就に少しでも役に立つのだ、と……。
◇
私が決意を新たにした茶会の翌日である六月二日の曙(午前四時)あたりであろうか、ふと物音に目が覚めた。すぐ傍らで寝ていた別の小姓が、先に目を覚ましていたようであり半身を起こしながら、
「表でどうやら喧嘩でもしているようだ」
と呟いた。
私は咄嗟に、馬鹿なことをする輩もいたものだと思った。明け方にもし信長様がその音で目を覚まされたなら、只で済むはずもない。
些かそう心配に思えた時であった――。
途端に大きな気勢と共に、一発の銃声らしき音が響いた。
「いや、これは喧嘩などではない」
私はそう叫んで、すぐさま奥の部屋に向かて駆けた。
「弥助殿! 何事か」
信長様の寝屋より飛び出てきた蘭丸殿が、目を見開いて訊いてきた。
私がそれに答えるより先に、
「いったい何の騒ぎだ。蘭丸よ、確認して参れ」
と蘭丸殿の背後から、信長様がそう指示された。
頷くと同時に素早く表に飛び出た蘭丸殿を目で追ったあと、私は信長様に顔を向けた。
「案ずるな、弥助よ。大したことではない」
信長様は些かも動揺の色も見せずにそう云った。
けれども引き返してきた蘭丸殿の顔を見て、すぐに表情が固くなった。
「やはり謀反なのか? 誰の仕業だ」
「……明智の軍勢と思われます」
そう報告した蘭丸殿の顔にもう色はなかった。
私はその瞬間、あの時、蘭丸殿に殴打された明智殿の恨めしい表情が、脳裏に蘇った。
信長様は一瞬、ふうっと息を抜いてから云った。
「そうか、明智がか……。ならば、やむをえぬ、な」
私はその表情が余りにも意外であった。
なぜなら、信長様の顔には、明らかに諦めの色が浮かんでいたからである。
「殿、私が何とか引き止めます。その隙にお逃げください」
私がそう叫ぶと、傍らの蘭丸殿も刀を抜きながら、
「そうです。我らが命に代えてお守り致します。どうか早く……」
と叫びながら、私よりも一歩先に表へと飛び出した。
私が遅れまいとその後に続こうと駆けだした時、目の前の蘭丸殿の動きが急に止まった。
それは一瞬、時が止まったのではないか、と感じさせるものであった。が、蘭丸殿の胴に深々と突き刺さる槍を見た瞬間、私の中の何かが弾けた気がした。
「おおおおぉぉぉッ」
私は雄叫びを上げながら、崩れゆく蘭丸殿を飛び越え、見覚えのある明智殿の家臣に向って、朱槍を力一杯に振るった。
そして止まることなく右へ左へと無心に槍を突き立てた。
何人の者を手に掛けたであろうか、ふと後ろを振り返ると信長様も弓を構えておられた。が、しかしその肩や足には既に何本かの矢が突き刺さっていたのである。
「と、殿! どうぞ奥へ、ここは私が……」
思わずそう叫びながら駆け寄ると、信長様は微かに笑みを浮かべられた。
「弥助よ。流石にそなたの十人力でも、こう人数が多くては、ちと厳しいのう」
「何を云われます。この程度の人数、大したものではござりませぬ」
槍を振るいながら、私がそう強がると、信長様は一瞬寂しそうな表情を見せて小さく、
「すまぬな」
と云った。
その表情は最早、魔王ではなく、一人の人間のそれであった。
私はその事実を振り払うようにひと際大声を出した。
「さあ、早く奥へ。殿は何としても生き延びねばならぬのです」
それに対して、信長様は、ふっと笑ってから漸く奥に向かって駆けだした。
「弥助よ。何とかそやつらを振り切ってついて参れ。儂に策がある」
私は目の前の敵を何人かなぎ倒すと、踵を返して信長様に続いた。
既に屋敷は所々から火の手が上がっており、燻った黒煙が立ちこめている状態でもあった。私は口元を袖口で抑えながら、信長様を追って、なんとか奥の間に辿り着いた。
すると信長様は、すぐに手にしていた弓と矢を手放し徐に自らの着物を脱ぎ捨てられた。
あまりに一瞬のことであり、呆気に取られたままその様子を眺めていた私に向かって、一糸まとわぬ姿で、信長様がこう云われた。
「よいか、弥助よ。よく訊け。最早儂もここまで。相手が明智ではよもや逃げることは叶わぬだろう。だが、お主なら逃げおおせるやもしれぬ。なぜなら、あやつらの目的はあくまで儂の首のみ……。取られてはならぬ。何としても、猿たちが戻ってくるまで儂の死を、儂の首を隠し通すのだ。さすれば決して、明智の思い通りにはならぬはず」
「お、お待ちください、殿。私にはそのような……」
あまりに突然のことであり、躊躇する私に向かって信長様はゆっくりと近づいてこられた。
そして私を力強く抱きしめながらこう云った。
「あまりに早く、そして楽しい五十年であった。僅かな付き合いであったが、最後にお主に会えて良かったと思っている……」
そう云い終えた瞬間、信長様は私を引き剥がし、着物と共に足元に置かれていた脇差しを抜くと、何の躊躇いもなく自らの腹に、それを突き立てたのである。
「殿ぉっ!」
「よいか。頼んだぞ、儂の最後の……、ぬうっ、さあ、はっ、早く……」
私はその時初めて信長様の苦悶の表情を見た。
思えばこれまで一度たりとも私を含めた家臣たちに見せたことのない顔であった。決して見てはいけない筈の、実に人間らしい表情でもあった。
それから私は、すうっと我に返ったような気がした。
そして私は、手にした朱槍にありったけの力を込め、少しでも苦しむことがないように信長様の首めがけて、それを一気に振り下ろしたのである。
◇
私は自分自身でも驚くほどに冷静であった。
おそらく傍らで、常に信長様が見守ってくれていたからに違いないが、それでも今すべきことが次々に頭の中に浮かんでくるのである。
それは恰も、首だけになっても信長様によって、一から十まで導かれているような実に不思議な感覚でもあった。
私は信長様の首を風呂敷の上に丁寧に置いたあと、自らの左上腕部を信長様が脱ぎ捨てた帯できつく縛った。
次に信長様の腹に刺さった脇差しを抜いて、今度は自らの左腕に向かって力一杯に振り下ろした。すると私の左腕は実にあっけなく畳の上へと転がった。あまり痛みなどは感じなかった。
私にとって腕を失った痛みよりも確実に、信長様を失った痛みのほうが大きかったし、これからせねばならぬ使命感のほうが、肉体の痛みを遙かに凌駕していたのかもしれない。
私は落とした左腕を、信長様の首の横に並べて置いたのち、口と右手を使ってそれをくるんだ。
うまく結び目から手だけがのぞくように包むのは、些か苦労したが、なんとかそれをやり終えたのち、一切の武具を捨て、風呂敷包みだけを持って立ち上がった。
火の周りは殊の外早く、すでにこちらまで黒煙が立ち込めている状態であった。私は部屋の建具を信長様の遺体を隠すように被せたあと、深呼吸をしてから身をかがめ部屋を出た。火の手が回り始めた廊下を、横切るようにして庭に出ると、既に殆どの味方は討たれてしまったようであり、あまり騒がしい気配ではなかった。
「おい、待て!」
ふいに背後からの声で、私は反射的に立ち止まった。
すると私の背後からすうっと槍先が顔の横に伸びてきた。不覚にも簡単に背後をとられた状態のまま私は立ちすくみ、相手の出方を待った。すると前に回り込んできた二人いた敵方の一人が、
「こやつは確か、弥助とかいう小姓ではないか。どうやら既に手負いの様子。ちょっと捕らえておれ、明智様に報告して参る」
と云って、小走りに離れていった。
残ったほうが、槍先を私の胸元に向けたまま訊いてきた。
「どこにも信長様がおらぬ。そなた小姓なら知っておろう」
「いえ、私は別の部屋で寝ておりましたので、存じませぬ。それに私は見てのとおり随分な怪我を負いました。最早それどころではありませぬ」
私は目を伏せながら、脇に抱えた風呂敷包みから覗く手を見せつけた。すると彼は、「ふんっ」と鼻を鳴らしたっきり興味がなくなったようであった。
すぐに先ほどの者が、何人かと連れだって戻ってきた。やはりその中に明智殿はいた。
「弥助か。顔をあげよ」
明智殿の抑揚のない声に促されて、ゆっくりと伏し目がちに顔を上げると、思っていた通りの蔑んだ瞳がそこにあった。明智殿は風呂敷包みから覗く手に僅かに視線を送ったあと、こう言い放った。
「所詮は畜生よの。主君よりも我が身が余程に可愛いと見える。しかも切られた腕などをまだ後生大事に未練がましく抱いておるとは、益々もって汚らわしい畜生よ。何処へなりともゆくがよい。刀の錆にするのも惜しいわ。目障りだ」
明智殿はそれっきりこちらを見ようともせず、家臣たちに向かって大声で続けた。
「ええい。お前たちもこんな黒犬のごとき畜生に構っている暇があったら、さっさと信長を探すのだ。まだ生きて何処かに潜んでいるやもしれぬぞ」
その言葉をきっかけに、私の周りから一斉に皆が、散っていったのである。
ただ明智殿だけが去り際に再度、私に向かって云った。
「そう云えば、あの蘭丸に辱めを受けた際に、お前もいたのだったな。すでに奴も首を刎ねてやったわ。大好きな信長共々、仲良く首を晒してやろう」
僅か一年と少しの間であったが、同じく信長様を慕い、共に暮らしてきた蘭丸様の無念を思うと、たとえ片腕になった今でも、小柄な明智殿一人くらい充分に道連れとする力もまだ残ってはいたが、信長様の最後の言葉がどうにか私を引き留めてくれていた。
私には何としてもやらねばならぬ使命がある。
「どうか、どうか命だけはお助けください……」
深々と下げた頭のすぐ目の前に、明智殿の唾が落ちた。
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なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
焔と華 ―信長と帰蝶の恋―
幸
歴史・時代
うつけと呼ばれた男――織田信長。
政略の華とされた女――帰蝶(濃姫)。
冷えた政略結婚から始まったふたりの関係は、やがて本物の愛へと変わっていく。
戦乱の世を駆け抜けた「焔」と「華」の、儚くも燃え上がる恋の物語。
※全編チャットGPTにて生成しています
加筆修正しています
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