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第三章 別れの時 二
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二
光、そして、まるで、体を散々動かして咽が渇いた後に飲む水のようだと感じた。普段飲むよりも、渇きのせいで、数倍甘く感じる水のような――。
「……もっと……」
自分の寝言で、スカイははっと目を覚ました。同時に、自分が何の夢を見ていたのか思い出し、全身がかっと熱くなった。全身が歓喜して吸収する水のようだと感じたのは、ユテから口移しで与えられた――恐らくは、精気だ。
(「もっと」なんて……、ユテは絶対おれのせいで、無理してるのに……!)
自分に腹を立てながら寝台から起き上がったスカイは、部屋の中を見回し、眉をひそめた。部屋の壁の一番上に開けられた、通気口兼明かり取りの窓から差し込む一条の光は、夜が明けていることを示している。そして、そのささやかな明かりの中、見えるのは、中卓の向こうの長椅子に寝ているクロガネの姿。他には、ユテの姿も、ヒタネの姿も、ムクロの姿も、チムニーの姿もない。
(まさか――)
スカイは慌てて寝台から降りた。ユテとは四年の付き合いだ。何となく、しそうなことは分かる。部屋から飛び出て、廊下を走り、台所へ行くと、やはりチムニーがいた。
「ユテはっ?」
叫ぶように問うたスカイに、小瓶を四つ並べて作業していた〈大おじいちゃん〉は、労わるような顔で告げた。
「明け方に、ムクロとともに出ていったよ。枕元に、事情を書いた布切れが置いてあったと思うが。やはり、危険を伴う旅におまえは連れていけんと言うておった」
「あいつ!」
怒りと寂しさに、スカイは無駄と知りつつ、洞穴の入り口から走り出た。山肌から麓までを見下ろし、レイン村の周り、平地に広がる森までを見て、どこかにまだユテの姿がないか捜した。捜してから、どうせ風を使って空を飛んでいったのだろうから、やはり無駄なのだと、項垂れた。
重い足取りで洞穴の中へ入り、寝台のある部屋へ戻る。寝台の枕元を見ると、確かに四角く切った布切れが置いてあった。その布に炭で書かれている丁寧で几帳面な文字は、間違いなくユテの手に拠るものだ。スカイが、ユテから刀捌きや山歩き、マホラ語や古代アース語などを教わる代わりに、ユテに教えた現代アース語。
[スカイへ
騙してごめん。
でも、おまえは、家族やチムニー殿と一緒にいたほうがいい。
おれは、おまえを危険に巻き込むような真似はできない。
おれが帰るまで、家で待っていてほしい。
追伸
レイン村周辺に結界を張る。
おまえやクロガネはおれが帰るまでそこから出られない。
チムニー殿に、取っておいたおれの血で、解毒薬を作って貰った。
ムクロに吸血された人達に、できるだけ早く配ってほしい。
ユテ]
物堅い言葉で綴られた短い文章は、端的にユテの思いを表していた。
「――おれのこと、『虫けら並の頭』とか言いながら、おまえだって、おれの気持ち、少しも考えてないじゃないか……」
スカイは苦い声で呟いた。ユテの行動は正しい。昨夜、ユテは否定したが、スカイは、やはり足手纏いになるのだろう。それは、即ちユテを危険に晒すことと同義であり、スカイの望むところではない。それでも――、ユテが危険な場所へ行くと分かっていて置いていかれるのは、つらかった。
「う……」
不意に部屋の中で別の声が聞こえて、スカイは振り向いた。一条の明かりだけが差す暗がりの中、動いたのは長椅子で寝ていたクロガネだ。
「くそ……」
小柄な少年は、黒炭色の髪を後ろで短く束ねた頭を押さえながら起き上がる。
「あいつ……!」
怒気を含んだ声で言いつつ立ち上がろうとして、クロガネはふらつき、床に手をついた。
「大丈夫か?」
布切れを上着の隠しに仕舞い、スカイは、小柄な少年に急いで歩み寄った。袖無しの黒い下着に、黒い筒袴を穿いただけの少年は、紅玉色の双眸をぎらつかせ、五本の長い棘のある尾を揺らして、懸命に立ち上がろうとしているらしいが、体に力が入らないのか、長椅子の背凭れに片手を掛けた状態で、俯いて肩で息をしている。
(酒か?)
そう言えば、以前ユテから、夜行族吸精一族は酒精に弱いと教えられたことがある。昨夜の〈最後の晩餐〉の記憶を辿れば、確かに、ユテが勧めてきた木杯の中身は果実酒だった。果実酒は、家で料理をする際、舐めることもあるが、似たような風味の砂糖漬け果汁の瓶ばかりが並んでいたので、スカイも、恐らくクロガネも簡単に騙されてしまったのだ。或いは、昨夜のユテが、いつになく柔らかな物腰で、饒舌だったせいだろうか。
(そうだ、あいつ、伝説の結界師だったんだ……)
眠る前の記憶をスカイがおぼろげに思い出した時、チムニーが部屋に入ってきた。
「クロガネも、目が覚めたかの」
チムニーは、スカイとクロガネに、それぞれ手に持っていた盆から木杯を渡す。
「大丈夫、水じゃ」
「ユテは、ムクロを連れていったのか」
クロガネの確認に、チムニーは頷いて告げた。
「済まんの。おまえさんを酔わせて足止めすることは、わしとユテ、二人で謀ったことじゃ。おまえさんは、強いからの」
「くそ、あいつ、恩を仇で返しやがって……。もう少し、義理堅い奴だと、信じたおれが馬鹿だった……」
クロガネが吐き捨てた言葉に心が痛んで、スカイは、俯いて言った。
「あいつは、目的のためには、結構いろいろ割り切ってしまうところがあるんだよ」
「身勝手な奴だ」
「全部、結局は、誰かのためなんだけどね……」
「だから、余計に腹が立つ」
クロガネの結論に、スカイは悲しく顔を歪めた。
スカイがユテの罪滅ぼしをするように、何度か水差しで水を運んできたが、何杯飲んでも、なかなかクロガネの体のふらつきは収まらなかった。そもそもクロガネの酔いは、スカイとは違って、天精族の精気に拠るものなのだ。酒精の酔いとは異なり、むしろ気分はいいのだが、体に満ちた精気が甘美過ぎて、頭がぼうっとし、立ち上がることができない。長椅子に座っていると、いつの間にか、うとうとしてしまっている。
(ここまで、天精族の精気に弱いとはな……)
クロガネは顔をしかめ、昨夜のユテを思い出す。
(あいつ、全部計算ずくだな)
丸二日間精気を吸わず、逆にユテに与えていたので、クロガネの本能的な吸精の欲求は高まっていた。ユテは、そのことにも気づいていて、一石二鳥として、クロガネに精気を与えたのだろう。
(お節介な天精族だ。これで恩返しのつもりか)
脳裏に、純血の夜行族吸精一族である父親が、かつて言った言葉が蘇る。
――「天精族の精気は、吸精一族にとって、麻薬と同じだ。一度吸えば、その甘美な味の中毒になる。おれがおまえの母親と離れられなかったのも、半分はあの精気のせいだ。その教訓を踏まえて、おまえに忠告しておく。良好な関係を築きたい天精族の精気は吸うな。と言うか、やむを得ない時以外は、天精族の精気は吸うな。あれは、奴らの血と同じで、ある意味、毒だ」
ユテは、吸精一族が弱いもの二つ――酒精と天精族の精気――を知っていて、わざと畳み掛けてきたのだ。酒を警戒させておいて、不意を突き、自分の精気を与えるために。そうしてクロガネを眠らせ、ムクロを連れて出ていったのだ。ムクロとその妹を助け、更には、狙われているスカイを守るために――。
(ふざけるな……!)
できる力があるからと、独りで全て思い通りに運ぼうとして、無理をする。純血の天精族というのは、そんな連中ばかりなのだろうか――。
「まだ少し顔が赤い……か? おまえの顔色って、肌が浅黒いからよく分からないけど」
気遣う言葉を口にしながら、スカイが何度目か、水差しに水を満たして部屋に戻ってきた。
「もう暫く休めば動ける。そうしたら、すぐにユテを追って、ムクロのことに始末をつける」
多少強気に応じたクロガネに、スカイは言いにくそうに告げた。
「そのことなんだけど……、ユテの書き置きに、レイン村周辺に結界を張るって書いてあるんだ。ユテが戻るまで、おれ達は、その結界から出られないって」
「は……?」
クロガネは目を見開いて、スカイを見返した。確かに、ユテのしそうなことではあるが――。
(「レイン村周辺に結界を張る」? 一人でか? そんな無茶をしたら、幾ら力のある天精族でも、命を削る――)
既に、どこにも気配を感じない、台地の上へ帰ったのであろうヒタネが手伝ったのだとしても、相当な負担のはずだ。――けれど、その命を削りかねない負担こそが、ユテにとっては、これまた一石二鳥で、都合のいいことなのだろう。一昨日の夜、この洞穴近くまで、ムクロを連れて逃げたユテとスカイを追ってきた時、夜行族の血を継ぐ耳に聞こえた会話。そしてその後の成り行きから、容易に想像できる。
(あいつは、もう風竜一族の里には戻らず、この馬鹿とともに、一生を終える気だ。そのために、千年残っていたはずの寿命を費やしてやがる――)
目の前のスカイを見つめながら、苦く思い――、クロガネは、ふと気づいて問うた。
「おまえ、その気配何だ? 天精族の――あいつの精気が、何故おまえの中にある?」
自分の体内に満ちたユテの精気のせいで気づくのが遅れたが、スカイからも、ユテの精気が感じられるのだ。
「ああ。あいつは、《天精族の加護》と言ってた」
スカイは、自分の胸を押さえて、沈んだ声で言う。
「おれを守るために、また何か無茶したみたいなんだ」
もう言葉が出てこない。クロガネは長椅子の背を掴んで体を支え、立ち上がった。体はまだふらつく。だが、悠長なことはしていられない。ユテの都合と、自分の都合は別なのだ。
「結界があるなら、破る方法を探すまでだ」
低い声で言い、クロガネは部屋を出た。
「あ、おい」
水差しを中卓の上に置いたスカイが、慌てて後からついて来た。
クロガネは、洞穴の家に幾つもある部屋の中の一つに入ると、そこに置いていた手甲、手袋、脚絆、足袋を身に着け、長刀を筒袴の腰帯に差し、上衣を纏った。その様子をじっと眺めたスカイは、溜め息をついて言った。
「無理するなって言っても、おまえも聞かないだろうしな。結界が破れない間は、ここにいたらいいって大おじいちゃんが言ってる。おれも、暫くはここと家を往復するつもりだ。何か手が要ることがあったら、言ってくれ。おれは、おまえに恩返ししたいって思ってるんだ」
「――おまえの手を借りることがあるとしたら」
最後に黒い頭巾を頭に被ったクロガネは、表情の窺い知れないその陰から言う。
「それは、おまえの中の《天精族の加護》――あいつの精気が必要になった時だ。それだけの量があれば、大抵の治癒や浄化ができる」
「――《天精族の加護》って、要するに、天精族の大量の精気ってことか……?」
確認したスカイに、クロガネは頷いた。
「おれも詳しくは知らんが、今感じるおまえの中のあいつの精気は相当な量だ。吸精一族の換算で言うなら、それだけあれば、恐らく、軽く百年は生きられるほどの、な」
「そんなに……」
スカイは乾いた声で呟いた。ユテは、すぐにはぐらかす。重要なこと――スカイが知っておくべきことを、何一つ、きちんと教えてくれない。それは、きっと、スカイが弱いからなのだ――。
床に視線を落としたスカイに、クロガネは厳しい口調で言った。
「結界が破れた時、あいつを追う気があるなら、知っておけ。あいつは、おまえのために命を削っている。レイン村周辺の結界も、おまえの中のそれも、あいつが相当無理をして作っている。そうやって命を削って、寿命を短くして、あいつは、おまえとともに過ごし、一生を終えるつもりだ。純血の天精族が、ほとんど真人族と変わらない《混ざり者》との生活を望む。馬鹿げた話だがな」
「やっぱり、そういうことか」
スカイは、複雑な笑みを浮かべた。クロガネから告げられたことは、初めて知ったが、驚きは少なかった。そんなことではないかと、予想はしていたのだ。たった四年間とはいえ、毎日毎日、ユテを見つめて過ごしてきたのだから。
「――教えてくれて、ありがとう。あいつに、そこまでの覚悟をさせた責任は、取るつもりだよ。それこそ、おれの一生を懸けて」
「……全く、おまえらのことは、理解できん」
呆れた口調で言って、クロガネはスカイの横を通り過ぎ、部屋から出ていった。
「赤の他人だったはずなのに、そこまでおれ達のことを心配してくれる、おまえも相当変わり者だと思うけどね」
口の中で呟いて、スカイは微笑すると、自分も部屋から出た。クロガネは動き出した。自分も、ユテから頼まれたことをしておかなければならない。
(おまえが戻ってくるのが先か、おれが追いかけて行けるのが先か、分からないけど、今できる、精一杯のことをしておくよ)
胸中でユテに話しかけながら、スカイはチムニーのいる台所へ向かった。
光、そして、まるで、体を散々動かして咽が渇いた後に飲む水のようだと感じた。普段飲むよりも、渇きのせいで、数倍甘く感じる水のような――。
「……もっと……」
自分の寝言で、スカイははっと目を覚ました。同時に、自分が何の夢を見ていたのか思い出し、全身がかっと熱くなった。全身が歓喜して吸収する水のようだと感じたのは、ユテから口移しで与えられた――恐らくは、精気だ。
(「もっと」なんて……、ユテは絶対おれのせいで、無理してるのに……!)
自分に腹を立てながら寝台から起き上がったスカイは、部屋の中を見回し、眉をひそめた。部屋の壁の一番上に開けられた、通気口兼明かり取りの窓から差し込む一条の光は、夜が明けていることを示している。そして、そのささやかな明かりの中、見えるのは、中卓の向こうの長椅子に寝ているクロガネの姿。他には、ユテの姿も、ヒタネの姿も、ムクロの姿も、チムニーの姿もない。
(まさか――)
スカイは慌てて寝台から降りた。ユテとは四年の付き合いだ。何となく、しそうなことは分かる。部屋から飛び出て、廊下を走り、台所へ行くと、やはりチムニーがいた。
「ユテはっ?」
叫ぶように問うたスカイに、小瓶を四つ並べて作業していた〈大おじいちゃん〉は、労わるような顔で告げた。
「明け方に、ムクロとともに出ていったよ。枕元に、事情を書いた布切れが置いてあったと思うが。やはり、危険を伴う旅におまえは連れていけんと言うておった」
「あいつ!」
怒りと寂しさに、スカイは無駄と知りつつ、洞穴の入り口から走り出た。山肌から麓までを見下ろし、レイン村の周り、平地に広がる森までを見て、どこかにまだユテの姿がないか捜した。捜してから、どうせ風を使って空を飛んでいったのだろうから、やはり無駄なのだと、項垂れた。
重い足取りで洞穴の中へ入り、寝台のある部屋へ戻る。寝台の枕元を見ると、確かに四角く切った布切れが置いてあった。その布に炭で書かれている丁寧で几帳面な文字は、間違いなくユテの手に拠るものだ。スカイが、ユテから刀捌きや山歩き、マホラ語や古代アース語などを教わる代わりに、ユテに教えた現代アース語。
[スカイへ
騙してごめん。
でも、おまえは、家族やチムニー殿と一緒にいたほうがいい。
おれは、おまえを危険に巻き込むような真似はできない。
おれが帰るまで、家で待っていてほしい。
追伸
レイン村周辺に結界を張る。
おまえやクロガネはおれが帰るまでそこから出られない。
チムニー殿に、取っておいたおれの血で、解毒薬を作って貰った。
ムクロに吸血された人達に、できるだけ早く配ってほしい。
ユテ]
物堅い言葉で綴られた短い文章は、端的にユテの思いを表していた。
「――おれのこと、『虫けら並の頭』とか言いながら、おまえだって、おれの気持ち、少しも考えてないじゃないか……」
スカイは苦い声で呟いた。ユテの行動は正しい。昨夜、ユテは否定したが、スカイは、やはり足手纏いになるのだろう。それは、即ちユテを危険に晒すことと同義であり、スカイの望むところではない。それでも――、ユテが危険な場所へ行くと分かっていて置いていかれるのは、つらかった。
「う……」
不意に部屋の中で別の声が聞こえて、スカイは振り向いた。一条の明かりだけが差す暗がりの中、動いたのは長椅子で寝ていたクロガネだ。
「くそ……」
小柄な少年は、黒炭色の髪を後ろで短く束ねた頭を押さえながら起き上がる。
「あいつ……!」
怒気を含んだ声で言いつつ立ち上がろうとして、クロガネはふらつき、床に手をついた。
「大丈夫か?」
布切れを上着の隠しに仕舞い、スカイは、小柄な少年に急いで歩み寄った。袖無しの黒い下着に、黒い筒袴を穿いただけの少年は、紅玉色の双眸をぎらつかせ、五本の長い棘のある尾を揺らして、懸命に立ち上がろうとしているらしいが、体に力が入らないのか、長椅子の背凭れに片手を掛けた状態で、俯いて肩で息をしている。
(酒か?)
そう言えば、以前ユテから、夜行族吸精一族は酒精に弱いと教えられたことがある。昨夜の〈最後の晩餐〉の記憶を辿れば、確かに、ユテが勧めてきた木杯の中身は果実酒だった。果実酒は、家で料理をする際、舐めることもあるが、似たような風味の砂糖漬け果汁の瓶ばかりが並んでいたので、スカイも、恐らくクロガネも簡単に騙されてしまったのだ。或いは、昨夜のユテが、いつになく柔らかな物腰で、饒舌だったせいだろうか。
(そうだ、あいつ、伝説の結界師だったんだ……)
眠る前の記憶をスカイがおぼろげに思い出した時、チムニーが部屋に入ってきた。
「クロガネも、目が覚めたかの」
チムニーは、スカイとクロガネに、それぞれ手に持っていた盆から木杯を渡す。
「大丈夫、水じゃ」
「ユテは、ムクロを連れていったのか」
クロガネの確認に、チムニーは頷いて告げた。
「済まんの。おまえさんを酔わせて足止めすることは、わしとユテ、二人で謀ったことじゃ。おまえさんは、強いからの」
「くそ、あいつ、恩を仇で返しやがって……。もう少し、義理堅い奴だと、信じたおれが馬鹿だった……」
クロガネが吐き捨てた言葉に心が痛んで、スカイは、俯いて言った。
「あいつは、目的のためには、結構いろいろ割り切ってしまうところがあるんだよ」
「身勝手な奴だ」
「全部、結局は、誰かのためなんだけどね……」
「だから、余計に腹が立つ」
クロガネの結論に、スカイは悲しく顔を歪めた。
スカイがユテの罪滅ぼしをするように、何度か水差しで水を運んできたが、何杯飲んでも、なかなかクロガネの体のふらつきは収まらなかった。そもそもクロガネの酔いは、スカイとは違って、天精族の精気に拠るものなのだ。酒精の酔いとは異なり、むしろ気分はいいのだが、体に満ちた精気が甘美過ぎて、頭がぼうっとし、立ち上がることができない。長椅子に座っていると、いつの間にか、うとうとしてしまっている。
(ここまで、天精族の精気に弱いとはな……)
クロガネは顔をしかめ、昨夜のユテを思い出す。
(あいつ、全部計算ずくだな)
丸二日間精気を吸わず、逆にユテに与えていたので、クロガネの本能的な吸精の欲求は高まっていた。ユテは、そのことにも気づいていて、一石二鳥として、クロガネに精気を与えたのだろう。
(お節介な天精族だ。これで恩返しのつもりか)
脳裏に、純血の夜行族吸精一族である父親が、かつて言った言葉が蘇る。
――「天精族の精気は、吸精一族にとって、麻薬と同じだ。一度吸えば、その甘美な味の中毒になる。おれがおまえの母親と離れられなかったのも、半分はあの精気のせいだ。その教訓を踏まえて、おまえに忠告しておく。良好な関係を築きたい天精族の精気は吸うな。と言うか、やむを得ない時以外は、天精族の精気は吸うな。あれは、奴らの血と同じで、ある意味、毒だ」
ユテは、吸精一族が弱いもの二つ――酒精と天精族の精気――を知っていて、わざと畳み掛けてきたのだ。酒を警戒させておいて、不意を突き、自分の精気を与えるために。そうしてクロガネを眠らせ、ムクロを連れて出ていったのだ。ムクロとその妹を助け、更には、狙われているスカイを守るために――。
(ふざけるな……!)
できる力があるからと、独りで全て思い通りに運ぼうとして、無理をする。純血の天精族というのは、そんな連中ばかりなのだろうか――。
「まだ少し顔が赤い……か? おまえの顔色って、肌が浅黒いからよく分からないけど」
気遣う言葉を口にしながら、スカイが何度目か、水差しに水を満たして部屋に戻ってきた。
「もう暫く休めば動ける。そうしたら、すぐにユテを追って、ムクロのことに始末をつける」
多少強気に応じたクロガネに、スカイは言いにくそうに告げた。
「そのことなんだけど……、ユテの書き置きに、レイン村周辺に結界を張るって書いてあるんだ。ユテが戻るまで、おれ達は、その結界から出られないって」
「は……?」
クロガネは目を見開いて、スカイを見返した。確かに、ユテのしそうなことではあるが――。
(「レイン村周辺に結界を張る」? 一人でか? そんな無茶をしたら、幾ら力のある天精族でも、命を削る――)
既に、どこにも気配を感じない、台地の上へ帰ったのであろうヒタネが手伝ったのだとしても、相当な負担のはずだ。――けれど、その命を削りかねない負担こそが、ユテにとっては、これまた一石二鳥で、都合のいいことなのだろう。一昨日の夜、この洞穴近くまで、ムクロを連れて逃げたユテとスカイを追ってきた時、夜行族の血を継ぐ耳に聞こえた会話。そしてその後の成り行きから、容易に想像できる。
(あいつは、もう風竜一族の里には戻らず、この馬鹿とともに、一生を終える気だ。そのために、千年残っていたはずの寿命を費やしてやがる――)
目の前のスカイを見つめながら、苦く思い――、クロガネは、ふと気づいて問うた。
「おまえ、その気配何だ? 天精族の――あいつの精気が、何故おまえの中にある?」
自分の体内に満ちたユテの精気のせいで気づくのが遅れたが、スカイからも、ユテの精気が感じられるのだ。
「ああ。あいつは、《天精族の加護》と言ってた」
スカイは、自分の胸を押さえて、沈んだ声で言う。
「おれを守るために、また何か無茶したみたいなんだ」
もう言葉が出てこない。クロガネは長椅子の背を掴んで体を支え、立ち上がった。体はまだふらつく。だが、悠長なことはしていられない。ユテの都合と、自分の都合は別なのだ。
「結界があるなら、破る方法を探すまでだ」
低い声で言い、クロガネは部屋を出た。
「あ、おい」
水差しを中卓の上に置いたスカイが、慌てて後からついて来た。
クロガネは、洞穴の家に幾つもある部屋の中の一つに入ると、そこに置いていた手甲、手袋、脚絆、足袋を身に着け、長刀を筒袴の腰帯に差し、上衣を纏った。その様子をじっと眺めたスカイは、溜め息をついて言った。
「無理するなって言っても、おまえも聞かないだろうしな。結界が破れない間は、ここにいたらいいって大おじいちゃんが言ってる。おれも、暫くはここと家を往復するつもりだ。何か手が要ることがあったら、言ってくれ。おれは、おまえに恩返ししたいって思ってるんだ」
「――おまえの手を借りることがあるとしたら」
最後に黒い頭巾を頭に被ったクロガネは、表情の窺い知れないその陰から言う。
「それは、おまえの中の《天精族の加護》――あいつの精気が必要になった時だ。それだけの量があれば、大抵の治癒や浄化ができる」
「――《天精族の加護》って、要するに、天精族の大量の精気ってことか……?」
確認したスカイに、クロガネは頷いた。
「おれも詳しくは知らんが、今感じるおまえの中のあいつの精気は相当な量だ。吸精一族の換算で言うなら、それだけあれば、恐らく、軽く百年は生きられるほどの、な」
「そんなに……」
スカイは乾いた声で呟いた。ユテは、すぐにはぐらかす。重要なこと――スカイが知っておくべきことを、何一つ、きちんと教えてくれない。それは、きっと、スカイが弱いからなのだ――。
床に視線を落としたスカイに、クロガネは厳しい口調で言った。
「結界が破れた時、あいつを追う気があるなら、知っておけ。あいつは、おまえのために命を削っている。レイン村周辺の結界も、おまえの中のそれも、あいつが相当無理をして作っている。そうやって命を削って、寿命を短くして、あいつは、おまえとともに過ごし、一生を終えるつもりだ。純血の天精族が、ほとんど真人族と変わらない《混ざり者》との生活を望む。馬鹿げた話だがな」
「やっぱり、そういうことか」
スカイは、複雑な笑みを浮かべた。クロガネから告げられたことは、初めて知ったが、驚きは少なかった。そんなことではないかと、予想はしていたのだ。たった四年間とはいえ、毎日毎日、ユテを見つめて過ごしてきたのだから。
「――教えてくれて、ありがとう。あいつに、そこまでの覚悟をさせた責任は、取るつもりだよ。それこそ、おれの一生を懸けて」
「……全く、おまえらのことは、理解できん」
呆れた口調で言って、クロガネはスカイの横を通り過ぎ、部屋から出ていった。
「赤の他人だったはずなのに、そこまでおれ達のことを心配してくれる、おまえも相当変わり者だと思うけどね」
口の中で呟いて、スカイは微笑すると、自分も部屋から出た。クロガネは動き出した。自分も、ユテから頼まれたことをしておかなければならない。
(おまえが戻ってくるのが先か、おれが追いかけて行けるのが先か、分からないけど、今できる、精一杯のことをしておくよ)
胸中でユテに話しかけながら、スカイはチムニーのいる台所へ向かった。
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アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
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