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第四章 友を追って 一
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一
古都ムーンの街外れの、あの城の地下牢から、別の町の地下牢に移されて、一体どれほどの時が流れたのだろう。常に暗闇で、食事も与えられないので、もう何も分からない。ただ、真人族が大勢いる町の、濃い穢れの中、自分の体が今までにない、予想外の速度で穢れを溜め込みつつあることだけは、如実に感じられた。傷から入る穢れではなく、口から入る穢れに対しては、純血の天精族もある程度の抵抗力を持っている。しかし、己の体の中に入り込んだ穢れを浄化できないのは、傷から穢れが入った時と同じだ。口から入った場合は、抵抗力が働くので、緩やかに溜め込むというだけである。そして、体内に溜まった穢れの量がある一線を越えると、自らの精気を制御できなくなり、力が暴走して、《天災》となる――。
(《天災》になれば、後は力尽きて死ぬだけ。二度と、スカイには会えない。でも、雷竜一族の結界は強力で、おれはここから逃げられない。穢れは、日々体の中に溜まっていって、もう臨界だ……)
ユテは冷たい石壁に凭れた姿勢のまま、ぼんやりと考える。この石壁の中にすら、結界が張られているのだから、厳重だ。
(おまえに、あんなに忠告されたのにね……)
親友のヒタネの顔を思い出して、ユテは仄かに笑う。
(もう、思いつく手は、一つしかないよ……)
スカイには、どれだけ詫びても、足りないだろう。けれど、ここに閉じ込められてから、ずっと考え続けて出した結論だ。
(このまま、奴らの思い通りに《天災》になることだけは、避けないといけないから……。それに、この手を使えば、忌み名を以って命じられたことも《解除》できる)
三日以内に聖教会本部には行ったが、まだ聖教会本部を潰せてはいない。
(「聖教会本部を潰せ」というネの里の呪縛から逃れて、自由になれる。――だから、ごめん、スカイ)
叶うなら、もう一度、あの、陽光を浴びて煌く森の緑のような翠玉色の双眸を見たい。あの柔らかな金茶色の髪に触れたい。あの、穏やかで響きのいい声を聞きたい。
(スカイ……、本当に、ごめん)
ユテは、うっすらと開けていた目を閉じ、全身から力を抜いて、動きを止めた。
最初にそのことに気づいたのは、一ヶ月をともに過ごして、すっかり馴染んでしまったウツミだった。
「風が……」
急に呟いて立ち上がった青年は、夕食を食べていた食卓を離れ、走って洞穴の外へ飛び出していった。
「一体、何だ……?」
一緒に食卓に着いていたクロガネは、ただならぬものを感じて、食卓の反対側のチムニーと一瞬視線を交わしてから、後を追った。洞穴の外に立ったウツミは、クロガネが見つめる先で、辺りを見渡してから、レイン村へ鋭い視線を注いで、言った。
「ユテの結界が、消えた……!」
「どういうことだ」
問うたクロガネを振り向いて、ウツミは深刻な顔で告げた。
「あいつの気配はこの周辺にはない。あいつはまだ帰ってきてない。ということは、あいつが、不本意ながら、結界を解かざるを得ない状況に陥ったってことだ……」
クロガネは、この一ヶ月、自分に天精族としての精気の扱い方を教え続けた青年を、まじまじと見つめた。性質の悪い嘘をつく青年ではない。そして、精気の扱いを熟知したこの青年が、気配の消し方、気配の読み方において、今だ自分より数段上であることも分かっている。
「――とにかく、あいつの結界は消えたんだな?」
再確認したクロガネに、ウツミは訊き返してきた。
「出てくのか」
「ああ。そもそもおれは、あいつが連れていったムクロという吸血一族を殺すために、ここに来たんだ」
「だったら、おれについて来い。おれのほうが、まだおまえより遠くから、気配を読める。ユテのことも、吸血一族のことも、見つけ易い。それから、スカイも行きたいって言ったら、連れてくからな」
「足手纏いだ」
冷たく言ったクロガネに、ウツミは肩を竦めて言い返してきた。
「この一ヶ月、毎日午前は、おれがおまえに精気の扱い方を教えた。そして毎日午後は、通ってくるあいつにおまえが刀捌きと、わざわざ洞穴の奥に入って、暗闇での動き方を教えた。今日だって、夕日が沈みかけるまで教えてたじゃないか。それは、いつかこういう日が来た時のためだろう? 今更、心配だからって突き放してやるなよ。あいつも必死なんだから」
「わしからも、頼む。スカイを、連れていってやってくれ」
洞穴から出てきたチムニーが、真っ直ぐにクロガネを見つめた。
「結界が消えた……」
黒い外套を纏って頭巾を被り、黒炭色の癖のない髪と、白磁のような白い肌を持つ少女は、森の中からレイン村を見つめて呟いた。この結界に足止めをされて、約一ヶ月。何故結界が消えたのかは定かではないが、これで漸く親友と合流できる。
(クロガネ、随分と、久し振りだ……)
夜行族吸精一族の里で、ともに育った《混ざり者》のクロガネは、純血の夜行族よりも日光に強いという特性を持っている。その親友に、同じ夜行族の吸血一族の里から、依頼が来た。夜行族の誇りを忘れ、他種族に使われている一族の者を始末してほしいというものだった。クロガネの長刀捌きは、名人だった父親仕込みで、里の中では右に出る者がいないほどなので、二、三日で依頼をこなしてすぐに帰ってくると思われた。ところが、何日経っても帰ってこない。心配になって、クロガネの足取りを追って里を出てみれば、天精族風竜一族の結界によって閉ざされた中にいると判明したのだ。一体全体、何故そんなことになったのかは分からない。しかし、クロガネが元気に生きていることと、結界のせいで外に出られなくなっていること、そして標的の吸血一族の少年が、離れた町で目撃されていることは分かっていた。
(わたしも付き合うから、さっさとこんな嫌な仕事は終わらせて一緒に里に帰ろう、クロガネ)
誇りを守る必要性を説きながら、誰もが、同族殺しは嫌がる。《混ざり者》のクロガネに、わざわざ他里から依頼が来たのは、その特性のためというよりも、むしろ、純血の夜行族ではないという偏見に拠るものだろう。
(あいつは、誰よりも夜行族のことを思い、誰よりも夜行族たらんとしているのに)
夜風を吸い込み、少女は頭巾を脱いだ。背の中ほどで切り揃えた髪が、夕闇の中へ広がる。都合のいいことに、夜行族の時間の始まりだ。夜行族吸精一族の少女――ヌバタマは、黒い外套の裾を翻して、レイン村の中へ入っていった。
こんこん、と窓を叩く音に、スカイは目を開け、頭を上げた。閉めた窓の向こうに、気配がある。
「ウツミさん? クロガネ?」
驚いて窓に駆け寄り、スカイは窓の木戸を開けた。目の前の屋根の上、夕闇を背景に、やはり、ウツミとクロガネがいた。
「ユテの結界が消えた」
開口一番、ウツミが告げる。
「おれは、あいつを捜す。クロガネは、あいつが連れてるはずの、吸血一族を追うらしい。つまり、おれ達は一緒にこの辺りを離れる。おまえはどうする?」
口調は穏やかながら、緊迫感を漂わせて問うてきた青年に、スカイは迷わず答えた。
「おれも連れてって下さい。すぐに仕度します」
「了解」
頷いたウツミの向こうで、クロガネが言った。
「早くしろ。あいつは、恐らく、かなりまずい状況にある」
「分かった」
硬い声で応じて、スカイは、帽子を取りに、急いで階下へ降りた。居間では、父親が床に座って縄を綯い、暖炉の前の椅子では祖母が編み物をし、台所では、母親が夕食の片づけをしていて、ケイヴがそれを手伝っていた。スカイは、そんな中を黙って通り抜けて、居間の壁の帽子掛けから帽子を取った。
「こんな時間に、どうした?」
父親が気づいて問うてきた。スカイは、ぎこちなく父親を見た。真っ直ぐにこちらを見つめてくる、自分と同じ色の双眸は、既に、全てを見透かしているようだった。
「――ちょっと、今日、綺麗な羽根を拾ったから、帽子の飾りにしようと思って」
階段を下りる時に考えた嘘を、スカイは半ば反射的に口にした。
「そうか」
父親は特にそれ以上追及しようとはせず、再び縄を綯う手元に視線を落とした。その横を通り過ぎ、祖母と母親と妹に無言で別れを告げて、階段を上がろうとしたスカイの背中に、父親が言った。
「その帽子は、おまえのおじいさんも使っていた帽子だ。大事にしろよ」
「――分かった」
乾いた声で答えて、スカイは階段を上がり、自室へ戻った。
ウツミとクロガネを窓の外で待たせているので、急いで上着を着、布鞄に小刀、紙、火打石、傷薬の小瓶、包帯、縄などを入れて肩に掛け、帽子を被ったところで、こんこん、と部屋の戸が叩かれた。
「何?」
慌てて帽子を脱ぎ、布鞄を机の上に置き、上着を椅子に掛けて、スカイが戸を開けると、廊下に母親が立っていた。
「これ」
短い言葉とともに渡されたのは、蜂蜜が一杯に入った小瓶と、鹿の胃袋で作った水袋。水袋も、水で一杯に満たされている。
「夜更かしするなら、こういうものがあったほうがいいでしょ? でも、あんまり無理しないように、気を付けて」
「うん、ありがとう、母さん」
スカイは、一瞬だけまともに母親の顔を見て、小瓶と水袋を受け取った。あまり顔を見ると、自分も、母親も、泣いてしまいそうだと思った。両親は、二人とも、気づいていて送り出してくれるのだ。
「……じゃあ、おやすみ」
母ヘイルは、あらゆる心配の言葉を内包した一言を残して、階下へ下りていった。さっと背けられたその顔に、伝う涙を見て、スカイは母親の背中にそっと答えた。
「おやすみ、母さん」
戸を閉め、再び上着を着て、布鞄を肩に掛け、帽子を被る。布鞄の中に、渡された水袋と蜂蜜の小瓶を入れ、室内でも革靴を履いたままの足で、窓から屋根の上へ出た。
「待たせてごめん」
詫びると、二人の混血は、それぞれ笑顔としかめ面で、身軽に屋根から家の裏手へ飛び降りた。スカイも、後に続いて飛び降り、我が家を振り返る。
「行ってきます」
口の中で呟いて、森へと入っていく二人の後を追った。
「誰か、こっちに向かって来る」
最初に気づいたのは、やはり気配を読むことに長けたウツミだった。月明かりも微かにしか届かない森の中、先頭を歩いていた青年は、足を止め、レイン村の家々があるほうを見る。
「あっちからだな。かなり足が速い。夜行族だ。おまえの知り合いか?」
問われたクロガネは、示された方向をひたと見つめた。知っている――、極親しい友人の気配だ。
「ああ」
短く答えて、クロガネはそちらへ足を向け、吸精一族の中で暮らし始めてから、最初に親しくなった友を迎えた。
「ヌバタマ、何故来た」
開口一番問うと、夜目にも白い肌をした少女は淡々と告げた。
「心配だったからに決まっている。獲物を逃がしたまま、こんなところに一ヶ月も閉じ込められて」
「獲物は、今から追う」
「なら、わたしも同行しよう」
友人は、辰砂色の双眸でクロガネを見据え、あっさりと言った。
「これは、心強いねえ。じゃあ、みんなしっかりついて来いよ。少し急ぐぞ」
ウツミが明るく言って、走り始めた。その後に続いて走り始めながら、ヌバタマはクロガネの隣へ来て、尋ねた。
「何で逃がした? おまえのほうが強いはずだ」
「風竜一族に邪魔された」
端的に告げてから、クロガネは付け加える。
「この連中は、その風竜一族を追っている。おれは獲物を捜すために、同行しているという訳だ」
「風竜一族を、水竜一族と野生族の《混ざり者》と、真人族と地老族の《混ざり者》、それにおまえが追っているのか。――余計、訳が分からなくなった」
ヌバタマは、長い髪を靡かせながら無表情に呟いた。
古都ムーンの街外れの、あの城の地下牢から、別の町の地下牢に移されて、一体どれほどの時が流れたのだろう。常に暗闇で、食事も与えられないので、もう何も分からない。ただ、真人族が大勢いる町の、濃い穢れの中、自分の体が今までにない、予想外の速度で穢れを溜め込みつつあることだけは、如実に感じられた。傷から入る穢れではなく、口から入る穢れに対しては、純血の天精族もある程度の抵抗力を持っている。しかし、己の体の中に入り込んだ穢れを浄化できないのは、傷から穢れが入った時と同じだ。口から入った場合は、抵抗力が働くので、緩やかに溜め込むというだけである。そして、体内に溜まった穢れの量がある一線を越えると、自らの精気を制御できなくなり、力が暴走して、《天災》となる――。
(《天災》になれば、後は力尽きて死ぬだけ。二度と、スカイには会えない。でも、雷竜一族の結界は強力で、おれはここから逃げられない。穢れは、日々体の中に溜まっていって、もう臨界だ……)
ユテは冷たい石壁に凭れた姿勢のまま、ぼんやりと考える。この石壁の中にすら、結界が張られているのだから、厳重だ。
(おまえに、あんなに忠告されたのにね……)
親友のヒタネの顔を思い出して、ユテは仄かに笑う。
(もう、思いつく手は、一つしかないよ……)
スカイには、どれだけ詫びても、足りないだろう。けれど、ここに閉じ込められてから、ずっと考え続けて出した結論だ。
(このまま、奴らの思い通りに《天災》になることだけは、避けないといけないから……。それに、この手を使えば、忌み名を以って命じられたことも《解除》できる)
三日以内に聖教会本部には行ったが、まだ聖教会本部を潰せてはいない。
(「聖教会本部を潰せ」というネの里の呪縛から逃れて、自由になれる。――だから、ごめん、スカイ)
叶うなら、もう一度、あの、陽光を浴びて煌く森の緑のような翠玉色の双眸を見たい。あの柔らかな金茶色の髪に触れたい。あの、穏やかで響きのいい声を聞きたい。
(スカイ……、本当に、ごめん)
ユテは、うっすらと開けていた目を閉じ、全身から力を抜いて、動きを止めた。
最初にそのことに気づいたのは、一ヶ月をともに過ごして、すっかり馴染んでしまったウツミだった。
「風が……」
急に呟いて立ち上がった青年は、夕食を食べていた食卓を離れ、走って洞穴の外へ飛び出していった。
「一体、何だ……?」
一緒に食卓に着いていたクロガネは、ただならぬものを感じて、食卓の反対側のチムニーと一瞬視線を交わしてから、後を追った。洞穴の外に立ったウツミは、クロガネが見つめる先で、辺りを見渡してから、レイン村へ鋭い視線を注いで、言った。
「ユテの結界が、消えた……!」
「どういうことだ」
問うたクロガネを振り向いて、ウツミは深刻な顔で告げた。
「あいつの気配はこの周辺にはない。あいつはまだ帰ってきてない。ということは、あいつが、不本意ながら、結界を解かざるを得ない状況に陥ったってことだ……」
クロガネは、この一ヶ月、自分に天精族としての精気の扱い方を教え続けた青年を、まじまじと見つめた。性質の悪い嘘をつく青年ではない。そして、精気の扱いを熟知したこの青年が、気配の消し方、気配の読み方において、今だ自分より数段上であることも分かっている。
「――とにかく、あいつの結界は消えたんだな?」
再確認したクロガネに、ウツミは訊き返してきた。
「出てくのか」
「ああ。そもそもおれは、あいつが連れていったムクロという吸血一族を殺すために、ここに来たんだ」
「だったら、おれについて来い。おれのほうが、まだおまえより遠くから、気配を読める。ユテのことも、吸血一族のことも、見つけ易い。それから、スカイも行きたいって言ったら、連れてくからな」
「足手纏いだ」
冷たく言ったクロガネに、ウツミは肩を竦めて言い返してきた。
「この一ヶ月、毎日午前は、おれがおまえに精気の扱い方を教えた。そして毎日午後は、通ってくるあいつにおまえが刀捌きと、わざわざ洞穴の奥に入って、暗闇での動き方を教えた。今日だって、夕日が沈みかけるまで教えてたじゃないか。それは、いつかこういう日が来た時のためだろう? 今更、心配だからって突き放してやるなよ。あいつも必死なんだから」
「わしからも、頼む。スカイを、連れていってやってくれ」
洞穴から出てきたチムニーが、真っ直ぐにクロガネを見つめた。
「結界が消えた……」
黒い外套を纏って頭巾を被り、黒炭色の癖のない髪と、白磁のような白い肌を持つ少女は、森の中からレイン村を見つめて呟いた。この結界に足止めをされて、約一ヶ月。何故結界が消えたのかは定かではないが、これで漸く親友と合流できる。
(クロガネ、随分と、久し振りだ……)
夜行族吸精一族の里で、ともに育った《混ざり者》のクロガネは、純血の夜行族よりも日光に強いという特性を持っている。その親友に、同じ夜行族の吸血一族の里から、依頼が来た。夜行族の誇りを忘れ、他種族に使われている一族の者を始末してほしいというものだった。クロガネの長刀捌きは、名人だった父親仕込みで、里の中では右に出る者がいないほどなので、二、三日で依頼をこなしてすぐに帰ってくると思われた。ところが、何日経っても帰ってこない。心配になって、クロガネの足取りを追って里を出てみれば、天精族風竜一族の結界によって閉ざされた中にいると判明したのだ。一体全体、何故そんなことになったのかは分からない。しかし、クロガネが元気に生きていることと、結界のせいで外に出られなくなっていること、そして標的の吸血一族の少年が、離れた町で目撃されていることは分かっていた。
(わたしも付き合うから、さっさとこんな嫌な仕事は終わらせて一緒に里に帰ろう、クロガネ)
誇りを守る必要性を説きながら、誰もが、同族殺しは嫌がる。《混ざり者》のクロガネに、わざわざ他里から依頼が来たのは、その特性のためというよりも、むしろ、純血の夜行族ではないという偏見に拠るものだろう。
(あいつは、誰よりも夜行族のことを思い、誰よりも夜行族たらんとしているのに)
夜風を吸い込み、少女は頭巾を脱いだ。背の中ほどで切り揃えた髪が、夕闇の中へ広がる。都合のいいことに、夜行族の時間の始まりだ。夜行族吸精一族の少女――ヌバタマは、黒い外套の裾を翻して、レイン村の中へ入っていった。
こんこん、と窓を叩く音に、スカイは目を開け、頭を上げた。閉めた窓の向こうに、気配がある。
「ウツミさん? クロガネ?」
驚いて窓に駆け寄り、スカイは窓の木戸を開けた。目の前の屋根の上、夕闇を背景に、やはり、ウツミとクロガネがいた。
「ユテの結界が消えた」
開口一番、ウツミが告げる。
「おれは、あいつを捜す。クロガネは、あいつが連れてるはずの、吸血一族を追うらしい。つまり、おれ達は一緒にこの辺りを離れる。おまえはどうする?」
口調は穏やかながら、緊迫感を漂わせて問うてきた青年に、スカイは迷わず答えた。
「おれも連れてって下さい。すぐに仕度します」
「了解」
頷いたウツミの向こうで、クロガネが言った。
「早くしろ。あいつは、恐らく、かなりまずい状況にある」
「分かった」
硬い声で応じて、スカイは、帽子を取りに、急いで階下へ降りた。居間では、父親が床に座って縄を綯い、暖炉の前の椅子では祖母が編み物をし、台所では、母親が夕食の片づけをしていて、ケイヴがそれを手伝っていた。スカイは、そんな中を黙って通り抜けて、居間の壁の帽子掛けから帽子を取った。
「こんな時間に、どうした?」
父親が気づいて問うてきた。スカイは、ぎこちなく父親を見た。真っ直ぐにこちらを見つめてくる、自分と同じ色の双眸は、既に、全てを見透かしているようだった。
「――ちょっと、今日、綺麗な羽根を拾ったから、帽子の飾りにしようと思って」
階段を下りる時に考えた嘘を、スカイは半ば反射的に口にした。
「そうか」
父親は特にそれ以上追及しようとはせず、再び縄を綯う手元に視線を落とした。その横を通り過ぎ、祖母と母親と妹に無言で別れを告げて、階段を上がろうとしたスカイの背中に、父親が言った。
「その帽子は、おまえのおじいさんも使っていた帽子だ。大事にしろよ」
「――分かった」
乾いた声で答えて、スカイは階段を上がり、自室へ戻った。
ウツミとクロガネを窓の外で待たせているので、急いで上着を着、布鞄に小刀、紙、火打石、傷薬の小瓶、包帯、縄などを入れて肩に掛け、帽子を被ったところで、こんこん、と部屋の戸が叩かれた。
「何?」
慌てて帽子を脱ぎ、布鞄を机の上に置き、上着を椅子に掛けて、スカイが戸を開けると、廊下に母親が立っていた。
「これ」
短い言葉とともに渡されたのは、蜂蜜が一杯に入った小瓶と、鹿の胃袋で作った水袋。水袋も、水で一杯に満たされている。
「夜更かしするなら、こういうものがあったほうがいいでしょ? でも、あんまり無理しないように、気を付けて」
「うん、ありがとう、母さん」
スカイは、一瞬だけまともに母親の顔を見て、小瓶と水袋を受け取った。あまり顔を見ると、自分も、母親も、泣いてしまいそうだと思った。両親は、二人とも、気づいていて送り出してくれるのだ。
「……じゃあ、おやすみ」
母ヘイルは、あらゆる心配の言葉を内包した一言を残して、階下へ下りていった。さっと背けられたその顔に、伝う涙を見て、スカイは母親の背中にそっと答えた。
「おやすみ、母さん」
戸を閉め、再び上着を着て、布鞄を肩に掛け、帽子を被る。布鞄の中に、渡された水袋と蜂蜜の小瓶を入れ、室内でも革靴を履いたままの足で、窓から屋根の上へ出た。
「待たせてごめん」
詫びると、二人の混血は、それぞれ笑顔としかめ面で、身軽に屋根から家の裏手へ飛び降りた。スカイも、後に続いて飛び降り、我が家を振り返る。
「行ってきます」
口の中で呟いて、森へと入っていく二人の後を追った。
「誰か、こっちに向かって来る」
最初に気づいたのは、やはり気配を読むことに長けたウツミだった。月明かりも微かにしか届かない森の中、先頭を歩いていた青年は、足を止め、レイン村の家々があるほうを見る。
「あっちからだな。かなり足が速い。夜行族だ。おまえの知り合いか?」
問われたクロガネは、示された方向をひたと見つめた。知っている――、極親しい友人の気配だ。
「ああ」
短く答えて、クロガネはそちらへ足を向け、吸精一族の中で暮らし始めてから、最初に親しくなった友を迎えた。
「ヌバタマ、何故来た」
開口一番問うと、夜目にも白い肌をした少女は淡々と告げた。
「心配だったからに決まっている。獲物を逃がしたまま、こんなところに一ヶ月も閉じ込められて」
「獲物は、今から追う」
「なら、わたしも同行しよう」
友人は、辰砂色の双眸でクロガネを見据え、あっさりと言った。
「これは、心強いねえ。じゃあ、みんなしっかりついて来いよ。少し急ぐぞ」
ウツミが明るく言って、走り始めた。その後に続いて走り始めながら、ヌバタマはクロガネの隣へ来て、尋ねた。
「何で逃がした? おまえのほうが強いはずだ」
「風竜一族に邪魔された」
端的に告げてから、クロガネは付け加える。
「この連中は、その風竜一族を追っている。おれは獲物を捜すために、同行しているという訳だ」
「風竜一族を、水竜一族と野生族の《混ざり者》と、真人族と地老族の《混ざり者》、それにおまえが追っているのか。――余計、訳が分からなくなった」
ヌバタマは、長い髪を靡かせながら無表情に呟いた。
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