9 / 14
第一章 秘密の始まり
09.接吻
しおりを挟む
「守るべき書ではない。守らずにはいられないのは――ルネだ」
机に突っ伏したままの頭に、ゼファーの手が触れた。
古書の修復作業で邪魔にならないように、髪を包んだ頭巾が、そっと外される。
指が離れた途端、押さえ込まれていた髪がふわりと広がった。
(あ……)
慌てて拾い上げようとした頭巾を、彼の手が制した。
「ゼファー様……」
銀糸のような彼の髪と違う、どこにでもある、普通の栗色。
地味で、華やかさのかけらもない。
(恥ずかしい……)
今さらながら、それが妙に気になる。
(もっと、綺麗な髪だったらよかったのに)
顔を上げると、すぐ隣で机に腰を下ろすゼファーがいる。
距離が、近い。
「ゼファー様、机に乗るのは……お行儀が」
言い切る前に、視界が陰った。
彼が、ゆっくりと身を屈めてくる。
机の上から伸びてきた腕が、脇へ差し込まれる。
「……ほら」
低く囁く声。
息を呑む間もなく、身体が浮く。
足が床を探したが、届かない。
抱き上げられたルネの身体は、そのままゼファーの膝の上へと落ち着いた。
「これで、君も行儀が悪いことになるな」
ルネは、固まった。
(……え?)
ゼファーの膝の上。
彼の腕の中。
(というか、私……重くない?)
真っ先に浮かんだ疑問。
(大丈夫? 足、痺れない?)
そんなことを考えている自分に、ルネは絶望した。
(違う! そうじゃなくて!)
頬が熱い。まともに彼の方を見られずに、視線は床を追うばかりだ。
それでも、拒むことなどできない。
ルネは、彼の胸に頬を寄せた。
布越しに伝わる体温。頭の上に感じる呼吸。
微かな彼の匂い、竜月草の香りが心臓の鼓動をさらに速めていく。
深く息を吸い込み、確かめるようにいっそうゼファーの胸元へ顔を押しつける。
(……今なら分かる。犬が飼い主の靴を離さない理由)
この場所から動きたくない。
そんな幼い衝動が、胸いっぱいに広がる。
この人の匂いを、覚えていたい。
この温かさを、忘れたくない。
(もう完全に、犬だわ。私ってば)
自分でツッコミを入れる。
「……そんなに、私の匂いが気になるのか」
耳元に囁く声と吐息が、直接、肌を撫でた。
ルネは固まったまま、答えられない。
少し遅れて、ようやく理性が追いつく。
(……待って。これ、かなり、まずいのでは? というか私、今……相当、必死?)
離れようと身を捩ったが、腕は緩まない。
むしろ確かめるように強く抱き寄せられた。
顎へ指を添えられ、そっと顔を上げさせられる。
逃げ場のない距離で、視線が絡み、唇が重なった。
「……ふぅん」
口づけられて、ルネは息を漏らす。
頬も耳も、首筋までもが熱を帯びていく。
「ゼ、ゼファー様?」
(ダメだってば……ここで流されちゃダメ!)
訴えたところで、話を聞く人ではない。
それでも言わずにいられない。
「ゼ、ゼファー様……今は昼です。勤務時間中です」
扉に鍵はかかっていない。
誰が来てもおかしくない。
「公僕に時間は関係ない」
「そ、それは、あなたが宰相だからです。私は……」
「一介の司書というなら、なおさら宰相の命令は聞くべきだろう」
「何、わざとらしく国家権力振りかざそうとしてるんですか。今さらですよ」
ルネの精一杯の毒づきを、ゼファーは低く艶のある笑いで受け流した。
「この後、まだ閣議がある。安心しろ、ここで竜態になって君を壊すような真似はしない」
「はぁ、それなら……って、大丈夫じゃないですから!」
声が裏返った。
彼が『竜』の貌を見せるのは、理性の糸が完全に焼き切れた時だけだ。
だが、今の彼の瞳にも、既に危険な銀色の光が混じっている。
「ゼ、ゼファー様、誰が来るか分かりませんから」
「人目をはばかるなら、騒ぐな」
「そん……んっ」
有無を言わせず、唇が重ねられる。
図書館の冷えた空気を一変させるような、暴力的な熱。
ルネは目を見開いたまま、ゼファーの肩を掴んだ。
(……あ、今、喉が鳴った?)
ゴロリ、と猛獣が喉を鳴らすような、低く重い響き。それがゼファーの胸板を通じて、ルネの身体の奥まで震わせる。
深く、深く。肺の空気をすべて吸い出されるような、貪欲な口づけ。
ルネの背筋にぞくっと甘い感覚が走った。
(いきなり、激しい!)
話し合いの余地など、最初からなかった。
ルネは必死にもがく。
「ん……んっ……!」
(もう、無理……息が)
ようやく唇が離れ、かすれた声が落ちてくる。
「口づけの最中に喋るな。目は閉じろ。口は……開けていい」
「だから、ゼファー様、ダメだって言って、んんっ……!」
言葉は、途中で奪われた。思考が一気に白くなる。
強く吸い上げられ、ぬるりとした感触が入り込む。
歯の内側をなぞられていく。
口づけを教えてくれたのも彼。
それなのに、実際にされると、頭がついていかない。
恥ずかしかったが、ほんの少し口を開く。
それを待っていたかのように、熱い舌が滑り込んできた。
絡まり、吸われ、奥まで探られる。
後頭部を包む手が、逃げ道を塞ぐ。
暴れないように、けれど乱暴ではなく、確実に。
抱きしめる力は強いのに、どこか慎重で。
優しい口づけに、理性が溶かされていく。
官服の冷たい絹の感触と、彼自身の焦れるような体温。その矛盾した感覚に、ルネの思考は白く塗りつぶされていく。
(……この人に、一生分、吸い尽くされてしまう)
仕事も、身分も、未来への不安も。
この熱の中に溶けてしまえばいいのに。
体中のすみずみまで、広がっていく痺れるような感覚。
冷静な判断などできない。
止めなくちゃ……そう思うそばから、ルネは、彼を求めている。
(……ゼファー様がいないと、私……)
その思考に、はっとする。
胸の奥に、冷たいものが差し込んだ。
ルネは、震える手でゼファーの銀髪に触れた。
いつか飽きられるのが怖い。
いつか捨てられるのが恐ろしい。
だけど、今は――今だけは。
唇から伝わる、彼の『飢え』があまりにも切実で、ルネは泣きたくなるような愛おしさを抱えながら、その背中にしがみついた。
(……このまま、時間が止まればいいのに)
胸の奥で、かすかな祈りが響いた。
机に突っ伏したままの頭に、ゼファーの手が触れた。
古書の修復作業で邪魔にならないように、髪を包んだ頭巾が、そっと外される。
指が離れた途端、押さえ込まれていた髪がふわりと広がった。
(あ……)
慌てて拾い上げようとした頭巾を、彼の手が制した。
「ゼファー様……」
銀糸のような彼の髪と違う、どこにでもある、普通の栗色。
地味で、華やかさのかけらもない。
(恥ずかしい……)
今さらながら、それが妙に気になる。
(もっと、綺麗な髪だったらよかったのに)
顔を上げると、すぐ隣で机に腰を下ろすゼファーがいる。
距離が、近い。
「ゼファー様、机に乗るのは……お行儀が」
言い切る前に、視界が陰った。
彼が、ゆっくりと身を屈めてくる。
机の上から伸びてきた腕が、脇へ差し込まれる。
「……ほら」
低く囁く声。
息を呑む間もなく、身体が浮く。
足が床を探したが、届かない。
抱き上げられたルネの身体は、そのままゼファーの膝の上へと落ち着いた。
「これで、君も行儀が悪いことになるな」
ルネは、固まった。
(……え?)
ゼファーの膝の上。
彼の腕の中。
(というか、私……重くない?)
真っ先に浮かんだ疑問。
(大丈夫? 足、痺れない?)
そんなことを考えている自分に、ルネは絶望した。
(違う! そうじゃなくて!)
頬が熱い。まともに彼の方を見られずに、視線は床を追うばかりだ。
それでも、拒むことなどできない。
ルネは、彼の胸に頬を寄せた。
布越しに伝わる体温。頭の上に感じる呼吸。
微かな彼の匂い、竜月草の香りが心臓の鼓動をさらに速めていく。
深く息を吸い込み、確かめるようにいっそうゼファーの胸元へ顔を押しつける。
(……今なら分かる。犬が飼い主の靴を離さない理由)
この場所から動きたくない。
そんな幼い衝動が、胸いっぱいに広がる。
この人の匂いを、覚えていたい。
この温かさを、忘れたくない。
(もう完全に、犬だわ。私ってば)
自分でツッコミを入れる。
「……そんなに、私の匂いが気になるのか」
耳元に囁く声と吐息が、直接、肌を撫でた。
ルネは固まったまま、答えられない。
少し遅れて、ようやく理性が追いつく。
(……待って。これ、かなり、まずいのでは? というか私、今……相当、必死?)
離れようと身を捩ったが、腕は緩まない。
むしろ確かめるように強く抱き寄せられた。
顎へ指を添えられ、そっと顔を上げさせられる。
逃げ場のない距離で、視線が絡み、唇が重なった。
「……ふぅん」
口づけられて、ルネは息を漏らす。
頬も耳も、首筋までもが熱を帯びていく。
「ゼ、ゼファー様?」
(ダメだってば……ここで流されちゃダメ!)
訴えたところで、話を聞く人ではない。
それでも言わずにいられない。
「ゼ、ゼファー様……今は昼です。勤務時間中です」
扉に鍵はかかっていない。
誰が来てもおかしくない。
「公僕に時間は関係ない」
「そ、それは、あなたが宰相だからです。私は……」
「一介の司書というなら、なおさら宰相の命令は聞くべきだろう」
「何、わざとらしく国家権力振りかざそうとしてるんですか。今さらですよ」
ルネの精一杯の毒づきを、ゼファーは低く艶のある笑いで受け流した。
「この後、まだ閣議がある。安心しろ、ここで竜態になって君を壊すような真似はしない」
「はぁ、それなら……って、大丈夫じゃないですから!」
声が裏返った。
彼が『竜』の貌を見せるのは、理性の糸が完全に焼き切れた時だけだ。
だが、今の彼の瞳にも、既に危険な銀色の光が混じっている。
「ゼ、ゼファー様、誰が来るか分かりませんから」
「人目をはばかるなら、騒ぐな」
「そん……んっ」
有無を言わせず、唇が重ねられる。
図書館の冷えた空気を一変させるような、暴力的な熱。
ルネは目を見開いたまま、ゼファーの肩を掴んだ。
(……あ、今、喉が鳴った?)
ゴロリ、と猛獣が喉を鳴らすような、低く重い響き。それがゼファーの胸板を通じて、ルネの身体の奥まで震わせる。
深く、深く。肺の空気をすべて吸い出されるような、貪欲な口づけ。
ルネの背筋にぞくっと甘い感覚が走った。
(いきなり、激しい!)
話し合いの余地など、最初からなかった。
ルネは必死にもがく。
「ん……んっ……!」
(もう、無理……息が)
ようやく唇が離れ、かすれた声が落ちてくる。
「口づけの最中に喋るな。目は閉じろ。口は……開けていい」
「だから、ゼファー様、ダメだって言って、んんっ……!」
言葉は、途中で奪われた。思考が一気に白くなる。
強く吸い上げられ、ぬるりとした感触が入り込む。
歯の内側をなぞられていく。
口づけを教えてくれたのも彼。
それなのに、実際にされると、頭がついていかない。
恥ずかしかったが、ほんの少し口を開く。
それを待っていたかのように、熱い舌が滑り込んできた。
絡まり、吸われ、奥まで探られる。
後頭部を包む手が、逃げ道を塞ぐ。
暴れないように、けれど乱暴ではなく、確実に。
抱きしめる力は強いのに、どこか慎重で。
優しい口づけに、理性が溶かされていく。
官服の冷たい絹の感触と、彼自身の焦れるような体温。その矛盾した感覚に、ルネの思考は白く塗りつぶされていく。
(……この人に、一生分、吸い尽くされてしまう)
仕事も、身分も、未来への不安も。
この熱の中に溶けてしまえばいいのに。
体中のすみずみまで、広がっていく痺れるような感覚。
冷静な判断などできない。
止めなくちゃ……そう思うそばから、ルネは、彼を求めている。
(……ゼファー様がいないと、私……)
その思考に、はっとする。
胸の奥に、冷たいものが差し込んだ。
ルネは、震える手でゼファーの銀髪に触れた。
いつか飽きられるのが怖い。
いつか捨てられるのが恐ろしい。
だけど、今は――今だけは。
唇から伝わる、彼の『飢え』があまりにも切実で、ルネは泣きたくなるような愛おしさを抱えながら、その背中にしがみついた。
(……このまま、時間が止まればいいのに)
胸の奥で、かすかな祈りが響いた。
0
あなたにおすすめの小説
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
独占欲全開の肉食ドクターに溺愛されて極甘懐妊しました
せいとも
恋愛
旧題:ドクターと救急救命士は天敵⁈~最悪の出会いは最高の出逢い~
救急救命士として働く雫石月は、勤務明けに乗っていたバスで事故に遭う。
どうやら、バスの運転手が体調不良になったようだ。
乗客にAEDを探してきてもらうように頼み、救助活動をしているとボサボサ頭のマスク姿の男がAEDを持ってバスに乗り込んできた。
受け取ろうとすると邪魔だと言われる。
そして、月のことを『チビ団子』と呼んだのだ。
医療従事者と思われるボサボサマスク男は運転手の処置をして、月が文句を言う間もなく、救急車に同乗して去ってしまった。
最悪の出会いをし、二度と会いたくない相手の正体は⁇
作品はフィクションです。
本来の仕事内容とは異なる描写があると思います。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
黒の神官と夜のお世話役
苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる