娘の前で話すと怒られる話

漆沢刀也

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娘の前で話すと怒られる話

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 北嶋賢治は安堵した。
「──と、いう訳なの」
「なんだ。そんな事か」
 賢治は笑って、夕食の次なるおかずへと箸を持っていく。今夜はとんかつだ。

「なんだって何なの? 私のお父さんが手術だっていうのに」
「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ。ただ、だってさあ。友梨亜、凄く思い詰めた顔していたから? 俺、てっきり、もっととんでもない病気が見付かったとか、お金を請求されることになったとか、そんなこと想像しちゃったんだよ? それに比べたら、ねえ? 石が出来たから取り除くっていうのは、確かに大変だと思うけど、命に別状は無さそうで、俺もほっとしたんだよ」
 他にも、好きな男が出来ただとか、離婚だとか言い出されるのかもと恐々した。流石に、友梨亜もこのタイミングで言い出さないだろうとも思うが。

「それはまあ、そうかも知れないけれど」
 テーブルを挟んで、賢治の向かいに座る友梨亜は唇を尖らせた。
「それで? 手術なんだろ? いつ?」

「一ヶ月後。それで、2月の15日から4日ほど田舎に帰りたいの。お母さん一人だけだと、手が回らなさそうだし」
「分かった。気を付けて行っておいでよ。その間、家のことは俺がやっておくから」
 そう賢治は言うものの、友梨亜は半眼を向けてきた。

「本当に大丈夫? 何とかなる? 賢治のお仕事とか。この子の面倒とか」
 友梨亜の隣に座る、愛娘の愛梨へと賢治は視線を向ける。愛梨は去年の11月に5歳になった。我ながら親馬鹿だとは思うが、賢治にとっても可愛くて仕方がない。この子の為にも、良き父親であろうと思って止まない。
「大丈夫だよ。一ヶ月も前に言って貰えたなら。こっちの職場の方にも、言っておく。しばらく、残業することにはなりそうだけれど、それで仕事を片付けておけば休みは貰えると思う」

「そう? それならいいんだけれど」
 それでも心配が拭えないと言いたげな表情を浮かべる友梨亜の横で、愛梨が首を傾げた。
「ねー? しゅっちょーってなぁに?」
 舌足らずな娘の質問に「うん」と、賢治は頷く。

「出張っていうのはね。いつもと違う、遠いところにお仕事に行くことを言うんだよ。お母さんは、今度の2月の15日から4日間。遠くにお仕事に出かけるんだ。お泊まりでね」
「ええ? おとまりで? おかあさん、いえにいないの?」

「19日には帰ってくるよ。なあ?」
「そうよ」
 友梨亜は頷く。しかし、愛梨は泣きそうな顔を浮かべた。

「そんな顔しないでくれよ。代わりにお父さんが、その間はずっと家にいられるようにするから。保育園には、お父さんと一緒に行って、帰ってくるんだ」
「でも」
「何か、心配なことでもあるのか?」
 賢治が訊くと、愛梨はこくりと頷いた。あっさりと肯定されることに、父親として少し傷付く。

「そのあいだ、ごはんとか」
 なるほど。と、賢治は理解した。北嶋家では、専ら友梨亜がご飯を作っている。これは別に、賢治が家事をしない男だとか、そういう話ではない。掃除や買い出しなどは賢治がすることが多く、また育児や地域交流も友梨亜と分担して行っている。特に、そう決めたわけではないのだが、一緒に生活して、最適化をしていくうちにそうなった。料理については、彼女の方が料理の腕は上だということが大きな理由だろう。
 出迎えについてだが、北嶋家では夫婦共働きだが友梨亜はパートで働いているので、そこは都合が付く。愛梨が小学生になれば、彼女はパートも辞めて正社員として働く予定だ。

「愛梨ちゃんは、おかあさんのご飯が好きなのよねー?」
 上機嫌で友梨亜が笑みを浮かべる。愛梨は頷いた。
 それを眺めながら、賢治は顔をしかめた。正直に言って、自分でも彼女と結婚したのは、胃袋を掴まれたというのも大きいと、理解してはいるが。

「なるほど。つまり愛梨は、お父さんの料理が不安なんだな?」
 愛梨は答えてこない。しかし、その沈黙は肯定しているに等しい。
「よおし、それならお父さんだって料理くらい出来るってところを愛梨に見せてやるよ。食べたいもの、何でも言ってみな? びっくりするくらい美味しい御飯を食べさせてやる」
 そう言って、賢治は胸を拳で叩いた。

「へー? 賢治に出来るかなー?」
 妻は、にやにやと笑うだけだったが。
「うん。分かった」
 そして、愛梨は頷く。

「ねー? おとうさん?」
「うん? 今度は何かな?」
「ざんぎょーって、なに?」

「ああ。残業か。残業っていうのはね。いつもよりも、遅くまでお仕事をするっていうことだよ。お母さんが出かけている間、お休みを貰えるように。お父さんは遅くまで仕事をして、お父さんの仕事を早めに済ませておくんだ」
「じゃあ、おとうさん。かえってくるのがおそくなるの?」

「そうだね。お母さんが出張で出かけるまでは。ひょっとしたら、お父さんが帰るのも、愛梨がもう寝ちゃった後になるかも知れない」
 そう説明すると、また愛梨の表情は陰った。
「ごめん。良い子だから、少しだけ我慢してくれ。お母さんが出張に行ったら、沢山一緒に遊んであげるから」
「分かった」
 小さな声でそう言って、愛梨は小さく頷いた。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 愛梨がいないテーブルで、その日も賢治は夕食を摂っていた。
 妻の出張も間近に迫ってきた。そして、それに間に合わせる為に賢治も夜遅くに帰ることが多くなった。

「仕事の方はどう? 何とかなりそう?」
「うん。このままだと、何とかなると思う。というか、何とかしてみせるよ」
 心配そうに訊いてくる友梨亜に、賢治は笑みを返した。それでも、友梨亜の表情は晴れなかったが。
「ごめんね。賢治にまで無理させてしまって。賢治の職場の人達が、事情を分かってくれたのはよかったと思うけど」
「友梨亜のお父さんが手術なんだ。仕方ないよ。それに、事情を分かってくれただけ、俺も助かったって思うし」

 そう言って、賢治は温め直された肉じゃがへと箸を持っていく。ほっくりと温かいじゃがいもが、美味かった。
 愛梨がいないのは寂しいが、こうして妻が夕食に付き合ってくれるだけ、自分はまだ彼女に大切にされていると思う。世の中の、こういうときに一人寂しく勝手に食べろといった扱いを受けるお父さん達の話を見掛ける度に、賢治は結婚相手が友梨亜でよかったと思うのだった。

「ところでその卵焼き、どう?」
 賢治は、友梨亜に教えて貰いながら作った卵焼きについて、彼女に訊いた。愛梨のお弁当を少しでも美味しくする為に、特訓している。

「60点」
「採点が厳しい」
「精進したまえ。この程度では、まだまだ私の免許皆伝は与えられません」
「今日は上手くいったと思うんだけどなあ」
 賢治はぼやく。

「まあ、最初の頃よりは上手になったと思うけれどね」
 友梨亜は笑った。
「ねえ、賢治? 私が家を離れたとき、あの子の事をお願いね。あの子、お父さんの顔をあまり見れなくなっちゃって、寂しがっているみたいだから」
「うん。分かってる」

 土曜日はどうしても仕事の疲れが抜けなくて、だらだらと寝過ごしてしまう時間が多い。
 日曜日も、土曜日に片付けられなかった家事に追われたりして、愛梨の面倒を見る時間はあまり取れなくなってしまっていた。
 愛梨は物分かりの良い子だとは思っているが、それ故に親としては心苦しい。

「私としては、賢治の体の方も心配なんだけどね。ちょっと、疲れも溜まっているように見えるから」
「大丈夫だよ。あと少しなんだ。何とでもなるよ」
 気怠い感覚を覚えながら、賢治は静かな笑みを浮かべた。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 友梨亜の出張当日。
 賢治は何事も無く、平穏無事に友梨亜を見送り、愛梨を保育園へと送り届けた。
 愛梨の好物は父親として知っている。それに、どんなものが食べたいかも聞いている。ここは、腕によりを掛けて、娘にいいところを見せてやりたいものだと、賢治は張り切っていた。

「あれ?」
 スーパーに買い出しに行って帰ってきたものの、どうにも倦怠感が拭えない。体が重くて、思うように動かない気がする。
 これは、ちょっとマズいかなと思いながら、賢治は薬棚へと向かった。

 心当たりはある。確かに、ここ一ヶ月は少し無理をし過ぎたかも知れない。しかし、薬を飲んで少し横になれば、すぐに良くなるだろうと賢治は判断した。

 § § §

 呼び鈴が鳴っている。
 こんなときに、一体誰だろうと、不機嫌さを押し殺しながら、賢治は布団から体を起こした。
 気怠く、力が入らない体を叱咤しながら、繰り返される呼び鈴の元へと向かう。

「はい。どちら様でしょうか?」
 玄関のドアを開けると、年配の女性が立っていた。彼女は、賢治に対して批難するような目を向けてくる。
「すみません。時間になってもお出迎えが無かったものですから。この子をご自宅へと送らせて貰いました」
「えっ!?」

 怒りが滲んだその言葉に、途端、賢治は我に返った。全身から血の気が引く。
 女性の腰の位置には、愛娘の顔があった。賢治は思い出す。目の前の女性も見覚えがある。愛梨が世話になっている保育園の保育士だった。

「すみません。俺、体調が悪くて、お昼前から少しだけ寝ようと思ったら。そのまま? もう、そんな時間だったんですか? あの。わざとじゃないんです。風邪薬を飲んで、それが。あの。寝過ごしました。本当にすみません。愛梨も、本当にごめん」
 賢治はしどろもどろに弁明し、頭を下げた。
 それを見て、保育士から漂う剣呑な気配も、和らぐのを賢治は感じ取る。

「はあ。どうやら、本当にそうみたいですね。お父さん、随分と顔色が悪いですよ? 大丈夫ですか?」
「はい。本当にすみません。このところ、ずっと残業続きだったので、疲れが溜まっていただけですから」
「愛梨ちゃんから、お母さんが出張でお家にいないって聞きましたけれど」
「大丈夫です。さっきも言いましたけど、ただちょっと疲れが溜まってしまっただけですので。本当に、ご迷惑をお掛けしてすみませんでした。それと、わざわざ送ってくれて、本当にありがとうございます」
 再び、賢治は頭を下げた。

「分かりました。どうぞ、お大事になさって下さい。私は、これで失礼します」
「はい、有り難うございました」
 保育士は頭を下げて、愛梨へと軽く手を振って、踵を返した。その後ろ姿を見送って、賢治はドアを閉めた。
 情けない思いを抱えながら、賢治は深く溜息を吐く。

「愛梨も、おかえり。ごめんな、お父さん。寝過ごして、愛梨を出迎えに行けなくて」
 しかし、愛梨からの返事は無かった。俯いた顔が、どんな表情をしているのかは賢治には分からない。
 愛梨は黙って、靴を脱いで家の中へと上がった。
 その小さな背中を見て、賢治は胸が押し潰されそうな思いがした。

「ねえ? おとうさん、びょうきなの?」
「うん。お仕事、頑張りすぎて疲れちゃったみたいだ。でももう大丈夫。お昼からぐっすり寝たから」

「ねていて」
 鋭く、拒絶するかのような強い口調に、賢治は息を飲んだ。娘がこんな有無を言わさないようなことを言ってくるのは、賢治が覚えている限り初めてだった。
「愛梨? いや? 大丈夫だから」

「いいからっ! おとうさんはねていてっ!」
 愛梨の激しい剣幕に、賢治は思わず身を竦めた。そのまま家の奥へと進み、離れていく娘の背中を追うことも出来ず。その姿が居間へと消えて。賢治はのろのろと、寝室へと戻っていった。

 § § §

 あれは、自分が何歳の頃の話のことだっただろうか? 確か、小学校の低学年の頃だったと思う。
 布団に潜り込みながら、賢治は子供の頃を思い出していた。

 賢治は母子家庭だった。
 それは確か、年末のことだった。その日、母親は深夜になっても帰ってこなかった。
 仕事の都合で、残業することになったのだろう。年越しやお正月商戦に向けた準備で忙しいのだろう。忙しくて、連絡を入れることも出来ないのだろうと、最も高い可能性を努めて冷静に賢治は導き出していた。

 しかし、それでも、どうしても不安は拭えなかった。もしも、本当に母親がこのまま帰ってこなかったら? 事故に遭っていたら? 急病で倒れていたら? 男を見付けて、どこか遠くへ逃げていったら? 自分はこれからどうすればいい?
 そのときの賢治は、そうなった場合に自分が生き抜く為の方法を模索した。

 結局、母親は賢治が想像したとおり、仕事が忙しくて帰れなくなっただけだった。確か、深夜の1時頃になって帰ってきたと思う。しかし、あの時の不安は、忘れられない思い出だ。
 仮に、母親がいなくなった場合に賢治が辿る運命として最も可能性が高かったのは、父親に引き取られるというものだったが。それだけは、まっぴらご免だった。

 賢治の父親は、典型的なモラハラ男だった。自分がやることは何一つとして間違っていないと信じて疑わず、家事の一切を母親に押し付けていた。
 毎日残業をして、家に帰って夕食を摂るとそのまま居間でごろごろと寝そべっていた。そして、休日も同じように一日中寝そべっていた。ろくに遊んで貰ったことなど無い。たまに遊ぶ約束をして貰えたと思っても、いざ当日になると「そんなことあったっけ?」という顔で、破り倒した。

 金銭感覚もどこかおかしく、親族には見栄の為に金をばらまく癖に家庭の為には金を使わなかった。そのくせ、ばらまく為の金の出所には無頓着で、生活費が足りないのは母親が着服しているからと決め付けていた。
 そんな両親は結局、賢治が幼いうちに離婚した。当然の帰結だったかも知れない。離婚を言いだしたのは父親だった。しかし、結局最後まで彼は変わらなかった。自分は如何に家庭の為に身を粉にして尽くしてきたか。賢治を立派な男として育てる為に心を砕いてきたかと。そんな事を説いていた。
 これは、彼は本気でそう考えていた。記憶を都合よく改竄していた。彼の頭の中では、自分は子供のためにもいつも遊んでいて、いつも穏やかで怒った事なんてほとんどない。そんな理想的な父親になっていた。夕食時に、何か粗相を見付ける度に台ふきを掴んで投げつけ、怒鳴り散らしてきたことは、無かった事になっていた。
 これで、子供の賢治は自分の意思で父親を見限り、母親に付いていくことにした。

 賢治も大人になって、少しだけ父親の置かれた状況にも、見えたものはある。あの男もあの男で、生い立ちは恵まれていたとは言えなかったようだ。あの父親がやっていた通りのような家庭で育ち、ブラック企業のような職場で働いて。歪められた性格から、職場でもますます孤立し、誰からも認められなくなっていく。認められたいともがき、尊大になるほど求めたものは遠離っていく負のスパイラルに落ち込んで。ストレスだらけの人生だったことが垣間見える。
 ただ、だからといって、自分の心の安らぎを得る為に他人を踏みつけていい訳でもなし。彼については、そうなったことへの理解はするが、許すつもりも、関わる気も無い。それが、賢治の考えだった。決して深く関わってはいけない、認知が歪んでいる人間というものがいるということを賢治は知っている。

 そして、賢治は布団の中で声を押し殺して泣いていた。
 こんなはずじゃなかった。愛梨の為に、美味しい卵焼きを作って、食べさせようと思っていた。これまで遊んで上げられなかった分、友梨亜の分までいっぱい遊んであげようと思っていた。それを楽しみにもしていた。
 親に約束を破られるというのは、子供心が非道く傷付けられる真似だ。

 いつまで経ってもお父さんが迎えに来てくれず、保育園で待ちぼうけになるというのも、幼い愛梨には不安で仕方がない経験だったに違いない。
 それを思うと、涙が溢れて止まらなかった。
 愛梨が怒るのも当然だ。あの子はさぞ、自分に失望したことだろう。自分は絶対に、あんな父親のようにだけはなるまい。自分のような思いだけはさせたくないと思っていたのに。
 何度も何度も、賢治は届かない謝罪を心の中で叫び続けた。

 § § §

 物音がして、賢治は我に返った。というより、目を覚ました。
 寝室の入り口に目を向けると、少し開いていた。愛梨が立っている。

「おとーさん。おきてる?」
「あ? ああ。今、起きたよ。ごめん。また寝てしまっていたみたいだ」
「うん」
 今、何時だろうかと賢治は枕元に置いたスマホを手に取る。いつの間にか、周囲はすっかり暗くなっていた。

「23時?」
 賢治は絶句する。ほんのちょっと寝落ちしてしまっただけだと思っていたのに、どうやら完全に熟睡してしまっていたようだった。
 慌てて飛び起きる。

「ごめん。愛梨。こんな時間まで。お腹空いたよな? ご飯、作るよ」
「いいからっ! おとうさんは、ねていてっ!」
「でも。でもな?」
 逆光でよく見えないが、愛梨は本気で怒っているようだった。

「わたしは、パンをたべたから、だいじょうぶだよ」
「あっ? そ、そうか。そうだったんだな。うん。分かった」
 朝食用に買ってあるパンは、ダイニングキッチンの分かりやすいところに保管している。確かにあれなら、愛梨でも袋を開けてお腹を満たすことが出来るだろう。夕食がそれというのも、寂しいとは思うが。

「おとうさんは、だいじょうぶ?」
 愛梨に訊かれて、賢治は自分の体調を確認する。額に手を当てると、熱も下がっているようだった。倦怠感はまだ残っているが、かなり楽になった。
「うん。また、ぐっすりと寝てしまったから。でも、そのおかげでもう、大分良くなったよ」
「よかった」
 心から安堵したような愛梨の声に、賢治の心も少し解れた。

「おとうさん。わたしね。おとうさんのために、ごはん、つくってみたの」
「えっ!?」
「ちょっと。まってて」
 呆然とする賢治を残して、愛梨は入り口から姿を消した。

 § § §

 少しすると、愛梨は賢治の前。布団の脇に食事を並べてきた。
 お盆は見付けられなかったのか、それぞれの食パン用の皿に、ご飯をよそったお茶碗と乾燥ワカメを入れた味噌汁が乗っている。他には、少し焼きすぎて、鳴門巻きのような模様が付いた卵焼き。少し焦げた鮭の切り身。
「これ、愛梨が作ったのか?」
 賢治が訊くと、愛梨は頷いた。

「どうやって? ご飯の炊き方とか、お母さんから教えて貰っていたのか?」
 今度は、愛梨は首を横に振る。
「ううん。わからなかったけど。でも、いつもおかあさんがごはんつくっているの、みていたから。それで、なんとかしてみようって」
「そうか。怪我とか、しなかったのか? 包丁で指を切ったり。火傷したり」
「それは、だいじょうぶ」
 実際、そんな様子は無かったので、賢治は改めて安堵する。

「でも、ぜんぜん。おかあさんのようにうまくいかなかった。ごはんが、こんなぐちゃぐちゃになっちゃって、おみそしるも、うすすぎたり、しょっぱくなりすぎたりしたの。ごめんなさい。おいしくないとおもうけど」
「そうか。頑張ったんだね」

 賢治はぐずぐずになったご飯を箸で摘まんで、口に入れた。噛むまでもなく、ぐちゃりと米は潰れて、それを賢治は飲み込む。
 続いて、味噌汁を飲んだ。こっちは、結構薄めな上に出汁の風味も飛んでいた。一度、沸騰させてしまったりしたか、あるいは作り方を間違えたのかも知れない。
 賢治の目から、再び涙が零れた。

「おとうさん。ごめん、やっぱりおいしくなかったよね」
「違う。違うんだよ愛梨」
 賢治は涙声で、否定した。

「お父さんはさ、今、物凄く嬉しいんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。愛梨はさ? 料理をしたのは、初めてなんだよね?」

「うん」
「そんなさ。初めて料理するなんて、しかもお母さんがいないのに一人でだ。お父さんの為に勇気を出して料理に挑戦してくれたんだ。愛梨がそんな、勇気がある立派で優しい女の子に育っていてくれてさ。だから、お父さんは本当に嬉しいんだよ」
 続いて、賢治は鮭の切り身に箸を伸ばした。こっちは、焼き加減は良い感じに思えたが、かなりしょっぱかった。どうやら、元々味付けされているものに、塩を追加でまぶしてしまったようだ。

「お父さんさ。愛梨に嫌われたと思って、落ち込んでいたんだ」
「どうして?」

「だって、ここのところずっと夜遅くまで返って来れなくて。それで、一緒に遊んでやれなくて。その分、お母さんがいない間は沢山美味しい物を食べさせて、一緒に遊ぼうって思っていたんだ。愛梨と約束もしていたしね。けれど、結果的に約束を破ってしまった。保育園にも出迎えに行けなくて、寂しい思いをさせてしまった。こんなの、お父さん失格だよ。だから、愛梨を怒らせてしまった。起きたら、謝ろうと思っていたんだ。本当に、ごめんな。愛梨」
「いいよ。そんなの」
 愛梨は首を横に振った。

「おとうさんがげんきになってくれたら、それでいい」
 愛梨は俯いた。
「愛梨?」

「わたし、ほいくえんにいたとき、おとうさんになにかあったのかっておもった。おとうさんがくるまにひかれちゃったのかとか、あいりたちのことがきらいになっちゃったのかもっておもったの。そんなはずないってわかっていたけど、こわくてしかたなかったの」
「そうか。そうだったんだな」
 その経験は、賢治にもある。その不安は、痛い程に理解出来た。

「おうちにかえったら。おとうさんがびょうきになっていて。きっとだいじょうだっておもってたけど、でもしんぱいになったの。だから、とにかくおとうさんにはねてもらって、はやくげんきになってほしかったの。わたしが、しっかりしなくちゃだめだって」
「『いいから寝ていて』というのは、お父さんを怒っていたんじゃなくて、心配していたからだったのか?」
 愛梨は頷く。

「おとうさん。しんじゃったらどうしようって。やだよ。おとうさんがしんじゃったら、やだよ」
 愛梨がしゃっくりのような声を上げた。ぽたぽたと、その目から涙が零れてくる。その時の不安を思い出したのかも知れない。
「大丈夫だよ。お父さんは死なないよ」
「うん」
 一口一口、噛み締めるように賢治は遅い夕食を食べていった。この味は一生忘れないだろうと思いつつ。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 あの後、次の日の朝には賢治はすっかり回復した。
 友梨亜に報告すると、大層怒られた。愛梨の面倒を見られなかったこともそうだが、倒れて寝込んでいるのに何の報告も無かった事を特に怒られた。下手に伝えられていたら、仕事どころじゃなかっただろうから、それはそれで良かったかも知れないと、言ってもいたが。

 友梨亜が帰ってくるまでの残りの日は、賢治の宣言通りに、愛梨とは沢山遊ぶことが出来た。
 名誉挽回だと、料理も腕を振るったのだが、愛梨からの採点は「65点」とのことだった。採点が厳しい。妻の料理で、すっかり舌が肥えていたようだ。

 一方で、愛梨も名誉挽回をしたいという思いがあったのか、料理に再挑戦すると言ってきた。友梨亜と電話をしながら、夕食を作ってくれた。賢治が手伝おうとすると「じぶんがやる」と強く拒絶してきた。正直言って、一緒にやりたかった賢治としては寂しかった。とはいえ、手際が悪く冷めた料理が出てきたりもしたが、それでも初めて作ってくれた料理に比べると随分と様になっていた。

 これもまた、賢治にとっては嬉しい話で、素直に凄いと褒めたのだが。愛梨には不満だったようだ。舌が肥えている分、お母さんのようにはいかなかったのがとても悔しかったらしい。
 こんな娘の成長には、友梨亜も彼女の両親も大きく喜んでいた。特に友梨亜は、愛梨がこんな風に料理に挑戦するようになったのは私のおかげだと、鼻を高くしていた。上機嫌でそう話す長電話を賢治は笑って聞いていた。いつまで聞いても、飽きなかった。

「──ということがな? あの子の小さい頃にあったんだよ。俺は、それが本当に嬉しくてな?」
 そして今、賢治は赤ら顔で義理の息子に昔話を聞かせていた。年末年始の休みに、愛梨と一緒に遊びに来てくれたのだ。
 そんな賢治に対し、すっかり成人し、結婚した愛梨は半眼を向けてきた。

「もう、お父さんったら、酔うといっつもその話。いい加減にしてよ。秀一も困っているでしょ?」
「そんなことないよ。なあ? 秀一君?」
 同意を求めるように視線を向けると、義理の息子は笑みを浮かべて頷いた。
「はい。その話、聞く度にいつもいい話だなあって思います。やっぱり、愛梨は昔からいい子だったんだなあって。俺達にも、いずれ子供が出来たら、愛梨みたいになって欲しいなあって」

「ほれみろ?」
 我が意を得たりと、賢治は満足げに頷いた。

「秀一もっ! そんな風にお父さんを甘やかさないで! この人、私が反抗期の時もいっつもこの話してたのよ? 聞かされる方にもなってみなさいよ? 『昔はあんなに可愛かったのになあ。お父さんが病気になったとき──』って。ウザいことこの上なかったんだから」
「まあ、愛梨にしてみたらそうかも知れないけどさ。俺は、お世辞抜きでこの話好きなんだけど」
 秀一の言葉に、うんうんと、賢治は頷いた。やはり、この男はいい男だ。こんなにいい男が愛梨を選んでくれて、本当に良かったと賢治は思う。

「ああもう、なんで私、あのとき料理なんて作っちゃったのかしら。あれさえやらなきゃ、私の人生ももっと違っていたと思うんだけどなあ」
 大きく溜息を吐いて、愛梨はぼやいた。

 とはいえ、栄養管理士を目指して勉強し、その職に就いたのだから、彼女の中でもあれは大切な出来事だったのだろうと。賢治はそう思っている。
 上機嫌で、賢治は酒を煽った。
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