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零章 第三部『富の塔、奪還作戦』

六十一話 「RD事変 其の六十 『アピュラトリス外周奪還』」

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 ヘインシーがダイブを開始した頃、密偵を通じてルシア側にもヘインシー到着の情報が伝わってきた。ちょうどホウサンオーが雪騎将を退けたタイミングである。

 密偵の一報を聞いたハブシェンメッツは即座に行動。ついにその本当の牙を剥く。

「これよりアピュラトリスを奪還する」

 ハブシェンメッツの号令を合図に、戦場が空に向かって舞い上がっていく。これは比喩ではない。実際に上昇しているのだ。最初に異変を感じたのは、アピュラトリス周辺で戦う者たちではなく、むしろ部外者である一般市民たちであった。

 彼らが見たものは、上昇する都市。

 山のように巨大なアピュラトリスを四方から覆うように、都市部がせり上がっていく。単純に地面が上昇するといったものではなく、ビルや巨大施設などの建物を含めたすべてが上昇していく。誰もがいまだかつて見たことがない光景である。

(やろう、何をしたんだ!?)

 これに一番驚いたのがリュウ・H・ホムラであった。地下ドックが激しく振動する中、リュウは必死に頭を整理していた。

 彼の頭の中にあったのは、あくまで局地的な戦術だけであった。被害を出さないように相手を釘付けにして、各個撃破していけば戦いは終わる。事実、街に大きな被害が出なかったのは彼の功績であった。その手腕は見事で、ゼッカーすら出し抜くほどである。

 しかし、ここにきてハブシェンメッツとの格の違いが浮き彫りになる。

 局地的な戦いに目を奪われていたのはリュウだけではない。この戦いを見ていた多くの人間、その中には各国の参謀や戦術士もいたのだが、誰もが個の戦い、局地的な視点にばかりに注目していた。注目しすぎていた。その中でハブシェンメッツだけは大局を見据えていたのだ。

 彼の目的は一つ。

 【戦場の完全制圧】である。

 ハブシェンメッツは、最初から局地的な戦いにおいての勝利は考えていなかった。ホウサンオーとガガーランドという凶悪な個を見て取った彼は、個の撃破というものを最優先課題にはしていない。

 もちろん、あわよくば討ち取ろうとしていたのは事実である。ナイト・オブ・ザ・バーンに仕掛けた罠も、局地戦での勝利を目指したものである。が、最終的な突破さえ許さなければ、結果は何でもかまわないのである。

 完全に考え方を切り替えたのは、火焔砲弾を破壊された時。

 この瞬間、ハブシェンメッツは通常のやり方を捨てる。通常のやり方とは、これこそアルメリアやアルザリ・ナムが考えていた、初戦からの騎士団投入による敵の纖滅である。

 ルシアの力をもってすれば纖滅は容易い。そう思うのは間違っていない。アルザリ・ナムも戦術士の端くれ。戦力ではルシアのほうが上なのは間違いない。

 そのやり方でも最終的には勝利を掴めただろう。しかし、多大な被害が出ることも間違いない。もしそれを行っていれば、ロー・シェイブルズが有する全騎士、全雪騎将の戦死及び、ゼダーシェル・ウォーの戦力の三割は失った可能性がある。

 その損害はルシアにとって甚大なものである。天帝の守護を担当する親衛隊を失うことは何よりも痛手だ。しかも敵を倒したからといってアピュラトリスが奪還できるとは限らない。それではリスクが高すぎる。

 それ以前に、グライスタル・シティは火の海に沈んだであろう。それがテロリストの仕業ならばまだしも、常任理事国のルシアの手によるものとなれば外交上の問題が多すぎる。

 それを行わずして場を完全制圧するにはどうするか。

 これが重要である。無責任主義のハブシェンメッツならば、もともと被害を気にしないのではないか、と思うかもしれない。だが、彼にとって重要なのは、今後の身分の保障及び年金をもらうこと、である。そうしないと借金が返せないからだ。

 そのためには【圧勝】する必要がある。

 重要なのは局地戦での勝利ではない。アピュラトリス【奪還】が重要なのである。敵の纖滅=奪還ではないことに注意が必要だ。仮にアピュラトリスが戻らなければ、この作戦そのものが失敗なのだ。それイコール斬首である。(飼い殺しの末に謀殺)

 それゆえにハブシェンメッツは、最後の最後まで策を出さなかった。すべてを小出しにして盤上で相手のやり方を研究し、できるかぎり情報の収集に務めた。我慢して我慢して、最後の一手を隠し通した。奥の手を使うときは勝負が決まる時でなければならないからだ。

 そして今、ついにその時が来たのだ。

「これがアピュラトリスの最終防衛システムだよ」

 リュウと同様困惑するアルザリ・ナムに、ハブシェンメッツは笑いかける。ただしその目は、どことなく中途半端な微妙な光を宿していた。

 なぜならば今こそ軍人将棋で勝ちを確信した瞬間。独特の興奮と戒めが交錯する瞬間。すべてが自分の物になったかのような全能感と、一歩間違えば奈落に突き落とされるかもしれない恐怖感を併せ持った、ハブシェンメッツがもっとも好きで、もっとも苦手な瞬間だからだ。

 従来のハブシェンメッツが求めるのは、何もない時間。勝っても負けてもおらず、ただ無為に時間が過ぎることが最大の幸せだと考えている。何もしたくないし、何も起こってほしくない。いわば、完全なる怠け者生活を欲しているといえる。

 だからこそ、こうした最高のスリルを味わうことは矛盾しているのだ。本来の自分自身にとっては嫌な時間だからだ。しかし、彼の本性、当人は意識していない深層意識においては、この瞬間こそ最高の時間となる。

 嬉しいはずなのに怖くて、嫌なはずなのに楽しい。

 そんな不可思議な感覚がハブシェンメッツの能力をさらに向上させる。

「このような大規模なことが……信じられません」
「アピュラトリスの防衛を考えれば、さほど驚くようなことじゃないさ。といっても、なぜかダマスカス人はこれを知らなかったんだ。そっちのほうが不思議だね」

 目の前で大地が動いている。上昇して地形が変わっていく。そんな常識離れの光景を見ながら、アルザリ・ナムは驚き、ハブシェンメッツは訝しむ。

 アピュラトリスが敵軍に攻められたと仮定した場合、重要なのがサカトマーク・フィールドを展開させるまでの時間稼ぎである。すぐに展開できるものではないことは、実際に使ったラーバーンによって実証済みだ。

 そうした時間稼ぎの最終手段がこれ。
 都市の上昇による【アピュラトリス防衛包囲システム】である。

 グライスタル・シティの地下には、東西南北それぞれに四つの軍事ドックが存在している。緊急時には、この地下ドック全体が上昇することによって、アピュラトリスを覆ってしまう基地可動システムが存在する。四つのドックが上昇し、ちょうど正方形の塀のように隔離されるシステムである。

 他の常任理事国より国土が狭いダマスカスにおいては、軍隊を保管する場所も限られる。しかも軍縮が向かい風になって、商船の邪魔になるからと港にも煙たがられ、どんどん地下に追いやられる始末である。

 ただ、どんなに軍縮が強まっても、アピュラトリス防衛に関しては糸目をつけないのがダマスカスである。いざとなれば、基地ごと盾にして防衛してしまおうという考えはいまだに存在する。それが今起こっているのである。

 しかし、これを提案したハブシェンメッツに対するダマスカス人の反応は、今のアルザリ・ナムと同じく驚きと困惑であった。最初その反応は「なぜ知っている?」という意味合いかと思ったのだが、どうやら「そんなものがあるのか!?」であることに気がつく。

 どうやらこの機構もサカトマーク・フィールドと同じく、実際に使われることをあまり想定していないもののようで、最後に動いたのは、初めて造られた際の起動実験だけ、という話である。

 そのために機構の確認と準備に多少手間取ることになり、非常に難しいタイミングでの発動を強いられてしまった。だが、難しいからこそハブシェンメッツは燃える。当人は燃えていなくても、その魂が、その霊が燃えるのだ。

 そして今、包囲は完成しつつある。


(おじさんは…動じていない。大統領もだ。承知済みってわけか)

 リュウは、カーシェルとバクナイアが驚いていないことを確認して、これもすべて予定通りであったことを知る。

 この防衛システム稼動には、大統領のサインが必要である。アミカが使ったブリキの使用許可を出した際、秘書のパーサ・マイルドミッチがサインを求めた書類には、このシステムに関するものも存在していたのだ。上層部はすでに了承済みだった、というわけである。

 ただ、これもアピュラトリス防衛に関わるSSSの案件である。たかだか技術中尉のリュウに知らされるわけがなく、知っているのはこの二人と、実際に起動させる人間たちだけの最高機密であった。

「しかし、遠慮なく使うものです」

 バクナイアは、苦々しくその光景を見つめる。サカトマーク・フィールドといい包囲システムといい、立て続けに最悪の事態が起こっていくことへの苛立ちと諦観が入り混じった表情だ。

 そして、その表情をさせる最大の要因は、あらゆるものを遠慮なく使おうとするハブシェンメッツである。

 ミサイルやカノン砲台といい、ハブシェンメッツは遠慮がなさすぎた。それがダマスカス人としての気質と相反する、という相性の問題も相まって、なおさら嫌悪感を浮き彫りにさせるのだ。

 ダマスカスには、客側が節度を持つ文化がある。つまりは、訪問客はできるかぎり家主の顔を立てて、余計なことはしない、というものだ。それに照らし合わせると、遠慮がないハブシェンメッツは「早く帰ってほしい客」に該当する。その段階でアウトである。

 たしかにダマスカス側の要請でルシアが主導権を握ったのだが、節度がない客はいつの時代も嫌われるものである。

「使えるものは使う。合理的じゃないか。それより彼が気がついたことが驚きだよ」

 カーシェルは、この打診を受けた時に内心驚いた。

 この機構はカーシェルも知らなかった最終手段の一つであった。なぜならばこのシステムが造られたのは、サカトマーク・フィールドが構築された時代であり、その間に地上には数多くの施設が建設され、巨大なビルも建造されている。

 この長い年月で、すでにアピュラトリスは盤石の地位を築いていた。こんなシステムがあることすら覚えている者のほうが少ないに違いない。システムを造った者でさえ、それがまさか今の時代になって使用されるとは思ってもいなかっただろう。

 それを再び使ったのが、ハブシェンメッツという外国人であることも。

「ルシアにはバン・ブック〈写されざる者〉もあるし、監査院ならばシステムを知っていた可能性もある。でも、彼の観察眼は群を抜いているね。見事なものだ」

 カーシェルもハブシェンメッツを認めるしかなかった。すでにカーシェルには何ら負の感情はなく、ハブシェンメッツへの賞賛の気持ちしか湧いてこない。

 当人の言葉を信じるならば、ふらふら街を歩いている時に気がついたらしい。実際に住んでいる人間でさえ気がつかないものを見事掘り当てたのだ。そんな彼にはどんなものでも使う権利があるとも思えた。

(全然気がつかなかった。べつに俺は戦術士じゃないが…。こりゃ、悔しいって感情かな)

 リュウは軍人として、この基地にも何度も通っている。しかし、一度たりとも気がつかなかったことを恥じ入る。リュウは戦術士ではない。あくまで技術屋である。だが、観察眼は何においても重要な力だ。そこに資質の差を感じてならない。

 しかもこれは防衛システムである。守る側ならばともかく、奪還しようとしている側が使うのは難しい。何より「防衛」と名が付いている段階で、人間は先入観を抱いてしまうものである。

 これは守るためのものだと思ってしまうと最初から選択肢から外す傾向にある。だがハブシェンメッツは、攻めるために利用しようと考えた。その柔軟な思考に驚きを隠せない。

「この勝負、ルシアの勝ちだ」

 リュウは、そっと呟いた。

 ハブシェンメッツに完敗したのである。リュウ自身も含めて。


(動いたか)

 この動きは、ガガーランドと戦っていたジャラガンも察していた。作戦通りである。

 実は雪騎将と戦っている間、ハブシェンメッツはすでにシステムを起動していた。正確にはホウサンオーがやってきてリモコンを操作した瞬間である。

 リモコンは合図であり、指示を聞いたスタッフが作業にあたる、という仕組みだ。あの三分という時間は、基地上昇のための準備期間であった。

 そのおかげで基地は万全の準備をもって上昇。一気に加圧された都市上昇用ジャッキが、恐るべき力をもって地面を押し上げる。

「被害は気にしないで一気に押し上げてくれ」

 このハブシェンメッツの命令があったため、速度は最大。

 といっても、これだけの重量を押し上げるのだから、速度は資材搬送用のエレベーターと大差ない。非常にゆっくりと上昇していく。ただ、整備はされているものの造られた年代が古いため、細かい調節ができずに無理矢理持ち上げる。

 その結果、地盤が大きく破壊されたり動いたりして、いくつかのビルが倒壊現象を起こす。倒壊したビルに巻き込まれて、また違う施設が破壊されていく。

 これらの場所は、あくまで軍事ドックの表層上にある施設である。最初から人払いが済んでいるか、いたとしても軍事スタッフ程度なので、少なくとも一般人の犠牲はないと考えてよいだろう。ハブシェンメッツはもとより、そこまで責任を負うつもりはないが。

「ならば、我の役目を果たすまで!」

 ジャラガンはここが勝負所と見極める。これだけの仕掛けが動いたのだ。ちんたらと戦いを長引かせる必要はない。

 グレイズガーオから今まで以上の戦気が噴き上がっていく。それと同時に、戦気は外部に放出されるのではなく、内部に吸収されるような光景が目を引く。加湿器のスチームが掃除機で吸われるように、グレイズガーオがジャラガンの力を吸っているのである。

 グレイズガーオは白と黒の縞模様であるが、ジャラガンの戦気を吸うごとに黒い部分がうごめき、少しずつ白に変わっていく。一瞬の間に、黒い部分の二割が白に置き換わり、白七割、黒三割といった様相に変わる。

 正直、パンダのような色合いのため、たしかに奇抜な姿であった。こうして色が変わるなど、なかなかない機構でもある。しかし、これが意味するところは大きい。

「ガーオ、やつを土俵から追い出すぞ!」

 ジャラガンの言葉と同時に、グレイズガーオが動く。その動きに、ガガーランドも一瞬動きが止まる。速度があまりに違うのだ。今までも速かったが、こたびの速度は目で追えるものではない。

 ガガーランドは即座に危険を感じ取り防御の姿勢。全身に重闘気を何重にも張り巡らせて鉄壁の構え。ガガーランドがこうして意図的に防御姿勢を取ることは、今回の戦いで初めてのことである。

 火焔砲弾でさえ防御に回らなかったこの男に防御の構えをさせる。今のグレイズガーオにはそれだけの迫力があった。それだけでも恐るべきことである。

「封印を解いたガーオの力を見よ!」

 しかし、強化されたのは速度だけではない。グレイズガーオの拳がドラグ・オブ・ザ・バーンの腹に直撃すると、光速の拳が閃光を生み、衝撃が巨大な黒い獣を包み込む。

 その拳は今までよりも遥かに威力が増していた。その証拠に最大の防御の構えをしていたにもかかわらず、ドラグ・オブ・ザ・バーンの腹が大きく凹んでいる。

 さらに衝撃は続き、球体状の光の渦に巻き込まれながら巨体のドラグ・オブ・ザ・バーンが浮かび、切り刻まれていく。光の渦は剛気で作られているので、渦の中は刃の嵐といっても過言ではない状況である。

 本来ならばバラバラに砕け、消滅してしまうほどの威力なのであるが、ドラグ・オブ・ザ・バーンであるがゆえに耐えられているにすぎない。

 至高技【天崩一逆てんほういちげき】。極限まで圧縮された剛気を拳にまとい、直撃と同時に爆発放出させる技である。

 この技の最大の特徴は防御無視であること。剛気の性質を最大限にまで生かしているので、あらゆる防御機能を無効化できる。いかなる障壁も肉体の強さも関係ない。すべてを崩落させる一撃である。

 これを防げるとすれば攻撃完全無効化能力が付与されたシルバー・ザ・ホワイトナイトの盾くらいなものであろう。それ以外の者は単純な耐久力で防ぐか、大きく回避しなければならない。それもグレイズガーオの速度を見切る、という神業の体術が必要となるので、現実的には非常に難しいだろう。

 では、なぜそのような強力な一撃を隠していたかといえば、まずハブシェンメッツの作戦に従ったということが一つ。もう一つは相手の実力を推し量るため。手の内を見せないためである。

 最後の三つ目は、グレイズガーオの黒いしまが【封印】だからである。

 凶暴性の高い獣王であるため、常に力を解放しておくことは危険であった。全力を出せば暴れ馬と化し、ジャラガンでさえ手こずるような神機である。そのため力の半分を封じることで、普段は制御を利かせているわけである。

 しかし、すでに作戦は佳境。今は強引な手段をもちいてもドラグ・オブ・ザ・バーンを排除しなければならない。リスクを承知の上で、ジャラガンは力を解放する。が、バーンの獣は天崩一逆であっても倒すことはできなかった。全身に傷を負いながらも、しっかりと大地に立っていたのだ。

(さすがに強いな。嬉しいぞ)

 ジャラガンは、天崩一逆を受けても五体満足なドラグ・オブ・ザ・バーンを見て、思わず笑ってしまう。あの機体と搭乗者はいったいどのような者たちなのか、興味を抱かないわけがない。

 神機に匹敵するだけの機体に、自身に畏怖すら抱かせる武人。敵でなければ崇敬の対象であったはずだ。だが同時に、敵であってくれたことに感謝したい気持ちになる。

 倒すには、さらに全力を出し尽くす必要があると判断。そのためには場所を変えねばならない。

「まずは土俵から叩き出す!」

 グレイズガーオは追撃。ドラグ・オブ・ザ・バーンに反撃を与える間もなく、速く重い一撃を放っていく。

 ドラグ・オブ・ザ・バーンは、ただ受けることしかできない。どんどん圧され、アピュラトリスから遠ざかる。そうしてあっという間に、上昇した基地の隔壁にまで叩きつけられてしまった。

 さらにグレイズガーオはドラグ・オブ・ザ・バーンの首を掴み、垂直にそびえる隔壁を蹴りながら駆け上がっていく。

 その蹴りは駆けるといった生易しいものではなく、隔壁を足でぶち破りながら足場とし、巨体のドラグ・オブ・ザ・バーンを引きずっている光景である。

 なんと形容すればよいだろう。ライオンが熊を木の上に引きずっている光景、とでもいえばわかるだろうか。ただ、その速度が異常なので、早送りした動画のように見える。

 グレイズガーオは一気に頂上まで駆け上がると、ドラグ・オブ・ザ・バーンを地表にあるビル群に投げつける。ボウリングの玉がピンをはね飛ばすように、次々とビルを破壊しながらドラグ・オブ・ザ・バーンは転がっていく。

 ジャラガンは、瓦礫に埋もれるドラグ・オブ・ザ・バーンにとどめを刺そうと突進。だが、ガガーランドという存在は、こんなもので動じるような男ではない。

 グレイズガーオが拳を突き出した瞬間、それより一瞬速く瓦礫より左腕が伸びる。黒い腕がグレイズガーオの顔面を捕まえた。

「パンダごときが、よくもやってくれたな!!」

 ドラグ・オブ・ザ・バーンの反撃。

 引きずられた屈辱を返すかのごとく、力任せにグレイズガーオの顔面を地面に叩きつける。それだけでは終わらない。そのまま巨体を走らせながら、グレイズガーオの顔面で地盤を抉っていく。

「ふぬうおおおお!」

 ジャラガンが剛気を爆発。グレイズガーオの体毛が伸び、ドラグ・オブ・ザ・バーンの腕に刺さる。それでも痛みを感じないガガーランドは止まらない。

 どんなにダメージを受けても痛みを感じず、肉体の回復能力も桁外れ。それゆえに恐怖もないガガーランドは、肉体の損傷を気にせずに攻撃を続けられる。それは最大の長所であった。

(痛みを消しているのではなく、痛みがない。なるほど、この男は本物の闘獣だな。だが、それは逆にマイナスにも転ずるぞ)

 ジャラガンも戦闘中は痛みを緩和、あるいは消している。痛みがあると判断力が低下するからだ。しかし、そのすべてを消すことは危険であることも知っていた。

 顔面を握り潰そうとするドラグ・オブ・ザ・バーンの腕に、グレイズガーオが身体ごとしがみつく。そこから身体全体を回転させ、掌から強引に脱出。

 ガガーランドの力に対し、技によってジャラガンは窮地を脱した。自身より力が強い相手はそれほどいるわけではないが、けっしていないわけではない。力に溺れず技を磨いてきた男の真骨頂である。

 ただし、ガガーランドの握力は尋常ではなく、グレイズガーオの顔の一部が剥ぎ取られてしまう。同時にダメージ還元。ジャラガンの顔にも大きな掌型の傷が生まれる。

 だが、ジャラガンもやられたままでは終わらない。そのままの流れでドラグ・オブ・ザ・バーンの腕を極めにかかる。

 機体を使ってサブミッションを仕掛けるのは、神界広しとはいえ獣界出身者くらいなものであろう。それだけ瞬発力と身体能力が高いのだ。全身がバネで出来ているかのような柔軟さあってこその技である。

 グレイズガーオは、全身のバネを生かしてドラグ・オブ・ザ・バーンの腕を伸ばし、肘の関節を極める。関節技は志郎も得意とする技であるが、鍛錬マニアのジャラガンも負けてはいない。

「ふん、馬鹿げたことを!」

 ガガーランドは意にも介さない。相手が動けないのならば好都合と、右手に圧倒的な重闘気を展開。関節を極めて動けないグレイズガーオの横っ腹に叩き込む。

 さすがのジャラガンも、この行動は予測していなかったのか直撃。くらう瞬間に身をひねるも、拳から放たれた恐るべき拳圧の威力に息を吐く。

 そのままでは押し潰されると判断し、即座に腕を放して間合いを取った。

(折れたか)

 ジャラガンは、瞬時に負傷箇所を確認。グレイズガーオの右横腹が破損。ジャラガンも肋骨が砕けた。

 ガガーランドの一撃は、ジャラガンの防御の剛気すら打ち貫く。それだけ拳に重みが乗っているのである。ここまでジャラガンが手傷を負わされる戦いなど久々であった。

(だが、それは相手も同じこと)

 ジャラガンは追撃をしてこなかったドラグ・オブ・ザ・バーンを見つめる。いくら迅速のグレイズガーオとはいえ、這いつくばって距離を取ったのだ。いつものガガーランドならば一発くらい追撃はできたはずだ。

 それができない理由がある、ということ。

 ドラグ・オブ・ザ・バーンの左肘に違和感。極めに入っていたところを強引に殴ったので、その反動で肘関節にダメージが入ったのである。さすがのドラグ・オブ・ザ・バーンも損傷し、ガガーランドの左腕に違和感が走る。

(痛みがないのは短所でもある。それだけの強さだ。今までこれだけのダメージを負った経験は、さほどあるまい)

 ジャラガンはガガーランドに痛みがないのを悟ると、それを利用する手段に出た。それがサブミッションである。

 痛みがないことは素晴らしいことに思える。多くの人間は痛みを何よりも怖れるからだ。仮に痛みがないのならば、死すらも人間の恐怖の対象にはならないだろう。

 だが、痛みがあるからこそ肉体を制御できる。

 痛みがない人間はたまに生まれることがあるが、そうした子供は大きな事故を起こすことが多い。足が折れているのに気がつかず、無理をして使ってしまうので、痛みはなくとも複雑骨折で物理的に歩けなくなることがあるのだ。

 ガガーランドもそれと同じ現象に陥った。痛みがないので強引に攻撃すれば、必要以上に損傷を受けてしまう。過度な攻撃が限界を超えたのだ。今まではこれほどまでのダメージを与える人間が、ほぼ皆無という状況だったからこその油断と慢心である。

 それに加えて、ドラグ・オブ・ザ・バーンは機械である。彼のように有機的存在ではないので、直すにも時間がかかる。自己修復機能は付いているが、それでも数分の時間は必要だろう。その間に必殺の攻撃を叩き込めばよい。

(最低限の役目は果たした。残りの時間は私闘とさせてもらおう)

 ジャラガンは、上昇中の地盤を確認して安堵する。

 彼はあくまで軍属。個人の戦いを楽しむよりも、全体の利益を取らねばならない立場にある。そして、ドラグ・オブ・ザ・バーンを引き離すという役目は十分果たしていた。

 残った数分という時間は、自分が武人としてさらに高まるための時間にするつもりでいた。それだけの相手。それだけの存在である。今度いつこのような相手に出会えるかわからない。

 この瞬間、ジャラガンは最高の幸福を感じていた。
 これこそが彼が求めた時間だからだ。


「わが国最強騎士の一人であるジャラガン様と、あそこまで戦えるなんて…」

 アルザリ・ナムは、ジャラガンほどの武人が苦戦していることに驚く。だが、ハブシェンメッツにとっては想定内のことでもある。

「あれでいいんだ。ジャラガン殿は自分の役割をよく理解している。おかげで助かった。引き離してくれればいいんだからね」
「倒せなくても、ですか?」
「我々の役割を忘れてはいけないよ。大事なことは塔の奪還さ」

 ハブシェンメッツは、ジャラガンが手傷を負う覚悟で強引に攻めてくれたことに感謝をしていた。

 今回の作戦にとって一番の難題は、強力な個である黒機二機をどうやって【隔離】するかにあった。一機はジャラガンが対応することが決まっていたが、もう一機は誰が担当するのか。これが問題であった。

 雪騎将を当てる考えもあったが、相手の実力を考えるとリスクが高い。実際に戦った様子を見ても、その考えに間違いはなかったと確信できる。あのまま継続すれば、おそらく雪騎将の二人は戦死していただろう。

 だが、この問題もロイゼン騎士団によって解決する。なにせ剣聖のラナーが自ら買って出てくれたのだ。天帝主導である以上、ルシアから依頼するわけにもいかない困った状態であった。それが労せずに解決したのだから儲けものである。

 加えて、アレクシートの独断も追い風となる。そのおかげで、次に厄介であったオロクカカたちを範囲外にまで誘導することができた。これも決め手の一つになったのは間違いない。

(運があった、ということかな)

 ハブシェンメッツは、自己の能力を過信してはいない。むしろ基本的に失敗することを前提に動いている。それゆえに柔軟に対応することができるのだが、今こうして上手くいったのは、すべて運であると思える。状況の多くが彼に味方しているのだ。こういう時はチャンスである。

 現在ハブシェンメッツたちは、南側の軍事ドック内部の司令室にいた。リフトを使って車ごと降りたのである。彼が小回りの利く車を採用したのは、どこのリフトからも地下に移動できるようにである。

 ハブシェンメッツは自殺願望を持ってはいない。自身を戦場に晒したのは勝つためである。彼はいつだって勝つために戦っているのだ。それがギャンブルでは勝てないだけにすぎない。

「ロー・アンギャル、配置につきました」

 基地の上昇が半分程度終わったころ、ハブシェンメッツに配置完了の報が入る。親衛三番隊ロー・アンギャルの隊長、ヤーピレ・リヒトラッシュ上級大尉である。

「では、予定通り敵機の一斉排除を。塔を奪還する」
「任務了解」

 ジャラガン率いる第一隊、ロー・ガインナイツは、優れた武人を擁する精鋭騎士隊によって構成されており、ゾバークヤミタカもそこに属している。彼らの役目は、ルシア騎士の強さを示すことにあり、敵中核戦力を排除することにある。

 その主な役目が、敵武将との一騎討ちである。

 近年、兵器の近代化によって戦場で一騎討ちをする割合は減ったが、武人の中では依然として一騎討ちは人気である。その理由は当然、人類の可能性を高めることだ。そうした武人を擁することそのものが国家のステータスになるからだ。

 また、戦術的な意味においても優れた個の存在は有用性がある。たとえば、ジャラガンがどこの陣に配置されているかを巡り、相手側は神経を尖らせねばならなくなる。

 MG一機で大局が変わることは少ないが、かといって少ない戦力で対峙できる相手ではない。抜けられて急所を突かれれば即死もありえるのだ。そうした中核の役目が第一隊。いわば戦場の花形である。

 一方、ロー・アンギャルはロー・シェイブルズの第三隊の名であり、通称【整地隊そうじや】と呼ばれる制圧殲滅部隊である。彼らの仕事はその名の通り、制圧戦にある。

 第一隊による敵中核戦力の排除、第二隊による敵全体戦力の損耗、第三隊による一斉制圧。それが親衛隊の攻撃システムである。これのほかに第四守護隊がおり、彼らは天帝当人(生身)を守るために基本的には本国から動くことはない。

 今回連れてきている戦力は第一隊、ロー・ガインナイツと、第三隊のロー・アンギャルだけである。そして、ハブシェンメッツは今回の主役として第三隊を抜擢した。

 傍目においては、派手な戦闘を繰り広げるジャラガンたちに目が移るだろうが、本命はこちらである。こたびの作戦遂行には第三隊こそが適任であるという確信があるからだ。

 すでにせり上がった基地内で準備を整えていた彼らは、即座に行動に移る。

「一気に殲滅しろ」

 リヒトラッシュは各基地に配置につかせた部隊、今回派遣されたロー・アンギャル隊、総勢四百名に指示を出す。

 まず、基地内に用意された砲台でアピュラトリス側に向かって攻撃を開始。

 目標はいまだ残っているリビアルやバイパーネッドである。無人機はオロクカカに強化されているので簡単には落ちない。だが、これは目眩ましにすぎない。

 リヒトラッシュは自身のMG、その青い機体に装備されたスナイパーライフルを構える。爆炎で視界が塞がれる中、彼の目が青く光っていた。青い瞳はリビアルに狙いをつけると何の迷いもなく射撃。

 弾丸は、戦場の爆風に煽られ複雑な動きをしながらも目標に着弾。リビアルの装甲を射抜くと同時に爆発。それを確認する前にリヒトラッシュは二射目を発射。その弾丸は一射目と同じ弾道を通って、まったく同じ箇所に直撃。

 一撃目で装甲を破壊されていたリビアルに、二射目を防ぐ術はなかった。今度の弾丸は回転力を高めた貫通弾。一気に内部に侵入し、リビアルの制御を担当していたジュエル・モーターを破壊。

 リビアルは、猛毒を受けて即死したゾウのように、ガクンと膝を折って動かなくなる。撃墜である。砲撃に対応して無人機も反撃をするが、頭上を制圧された段階で勝負は決まっていた。

 ルシア軍は、地下ドックが地上に姿を現すと同時に隔壁を開いて射撃を開始。これは穴でもあり塹壕ざんごうの役目を果たすので、下からの攻撃は隔壁がある程度防いでくれる。

 何より高所からは非常に地上が狙いやすい。相手からは狙いにくく、こちらからは丸見え。狙撃部隊にとっては最高のポジションである。場を制圧するとはこのこと。完全に地の利を奪ってしまったのだ。

 リヒトラッシュの部下たちが乗るブルーゲリュオンも、同じようにライフルを使ってバイパーネッドを撃破していく。当然リヒトラッシュのように完璧ではないが、十機が一機を狙えば倒すことは難しくはない。次々とラーバーンの無人機は倒れていった。

 気がつけば、一分もしないうちに無人機は全滅である。

「化け物かよ…」

 ルシア軍の制圧戦を見ていたリュウは、思わず呻いた。

 まず驚いたのが、ヤーピレ・リヒトラッシュ上級大尉、三十六歳。ミタカと同じくルシアの植民地出身の彼は、実力だけで親衛隊に入った生粋の武人。彼の得意技は、見た通りの遠距離狙撃である。

 しかし、その正確さが異常。

 リビアルとの距離は千五百メートルはあるにもかかわらず、針の穴を通す精密さである。しかも爆風で衝撃が吹き荒れる戦場内を切り裂き、まったく同じ箇所に当てるなど常人の業ではない。

 その秘密は、彼が持つジュエルにあった。強化タイプのジュエル、キューパス・カイヤナイト〈閃眼のふくろう〉。その名の通り、視覚を強化するタイプのジュエルである。

 生来リヒトラッシュの視力は高く、素の状態でも視力は常人の十倍以上はある。二キロ離れた場所で談笑している人間の瞳孔すら見えるほど。その動きから感情すら読みとれるほどである。

 それをさらに強化するのがキューパス・カイヤナイトだ。ジュエルを発動している間、彼の視力は極限まで高まり、いかなる戦場であっても弾丸の軌道を予測できるほどになる。その視力強化は、赤外線などの光線も肉眼で見えるようになるほどだとか。

 ただし、直線に対してのみしか強化されないので、周囲に対する視界が疎かになるデメリットはある。が、用意周到のスナイパーの彼にとっては、これはさしたる問題にはならない。この能力によって、彼は雪騎将にまでなったのだから。

 そう。リヒトラッシュも雪騎将である。乗っているMGは、ブルーナイト99ー021、ブルーケノシリス〈青き狩馬〉。バーニアによる推進力の高いMGであったが、ルシアが遠距離型に改修。その力を狙撃に特化させたカスタムナイトである。

 主武装は単射型のスナイパーライフル。余計な機構はオミットされているのでアサルトライフルのように連射はできないが、単発の命中精度は非常に高い。

 副武装として小型のバルカン砲とリボルガーガンも装備。どのみち接近されれば離れるのが基本なので、副武装はあまり使われていないようである。

 彼の部下が使っているブルーゲリュオンも、見事にスナイパー仕様である。規格の違いで威力は多少劣るものの、装備しているライフルはブルーケノシリスと同系統のもの。狙撃の腕も申し分ないプロフェッショナルたちである。

 こうした武人とMGをそろえていることこそ、ルシアの強大さを示していた。

 世界的に見て、優れたスナイパーは少ないのが実情である。武器の近代化によって平均化された軍隊において、一芸に優れている武人の多くは戦士や剣士になる傾向にある。当然、それが武人本来の力であるし、そのほうが強い武人を欲する騎士団にも入りやすくなる。

 古来より「剣は銃より強し」との言葉があるように、歴史的に銃の評価は低い。便利な道具が武人の血を弱くするからだ。その中で、あえてスナイパーという職業を選ぶ人間が少ないのである。生来の能力に加えて、相当の訓練による技量が必要となるからだ。

 多くの武人はそれなりの力量を持つと、軽歩兵部隊や重装甲部隊を志願する。装備さえ整えれば生存率が上がるし、手っ取り早いからである。一方、遠距離からの攻撃は砲台に頼ることが多く、あえて狙撃部隊をそろえている騎士団は少ない。必要がないからである。

 だが、ルシアは一般的な国家とは違う。軍事大国である。あらゆる兵種には、それぞれ強みがあることを知っていた。

 ルシアは、植民地全土より兵を集める。スナイパーの資質を持った逸材を見つけては、普通の騎士に支払う何倍の額の投資を行う。貧富の差は関係ない。能力とやる気があれば、ルシア軍部はいくらでも援助する。

 それを見て、子供たちはスナイパーにも憧れを抱く。親も子供の将来の夢がスナイパーであっても気にしなくなる。採用されれば経済的にも恵まれるからだ。

 特に移民や植民地出身者には、一攫千金の職業でもある。そうした土壌がルシアにあるのは、スナイパー人口増加に大きく作用する。

 リヒトラッシュは、その中で最高の逸材だといわれている。

 彼は、雪山に住む古くからの狩猟民族の出身。雪に擬態する動物を狩り続けた彼らの目は、常人よりも遙かに優れた眼力を持っている。ルシアに併合され技術改革が行われた結果、すでに大半の民は割に合わない狩猟をやめてしまったが、伝統的に狩りを行う風習は残っている。

 リヒトラッシュの一族も代々猟師であり、一般人が狙わない大物を求めて何ヶ月も雪山に篭るような生活を送っていた。彼も子供の頃から父親に連れられ狩りを覚えさせられた。まさに生粋の狩人である。

 そして今では閃眼のリヒトラッシュ、あるいはジュエルの名前を取って閃眼の梟が彼の通り名になっているほど有名である。ちなみに雪騎将カードゲームにおいて、彼を後方に配置すると命中率が百パーセントになるので、子供たちに大人気の人物でもある。

「隊長、排除完了しました」
「アピュラトリスを制圧しつつ、周囲を警戒。油断はするな。特に転移には気をつけろ」
「了解しました」

 リヒトラッシュは、まだ警戒を緩めていない。任務を完全に遂行するまでは、万全の状態を維持するのが彼の役目であることを自覚していた。

 雪騎将には個性的な人物が多くいる。ゾバークやミタカにしても、それこそジャラガンにしても一癖二癖ある人物である。その中にあってリヒトラッシュは、より軍人らしい人間である。任務に忠実で真面目。そうした性格も【使いやすさ】に起因しており、上層部からの評価は高い。

 ロー・アンギャルは、警戒しながらも迅速に周囲の制圧を行い、あっという間にアピュラトリス外周を制圧する。少しでも残骸が残っていれば破壊し、安全確保を徹底する慎重ぶりである。おかげで自爆による被害はゼロである。

「しかし風位、こんな手があるならば、もっと早い段階でやってもよかったのではありませんか?」

 アルザリ・ナムは、ロー・アンギャルの見事な制圧戦に感嘆しながらも疑問を呈する。このようなことができるならば、最初からやっておけば苦労はなかったのに。そう思ってならない。

「一発勝負において失敗は許されない。タイミングが一番重要な要素だったんだ。アルナムだって奥の手はいきなり使わないだろう?」
「最初から最大戦力で奇襲とかも良い作戦では?」
「それも悪くないけど、今までの経験上、それをやると失敗するよ。特に上位者が相手だとね」
「…なるほど、勉強になります」
「まあ、僕だって失敗して経験したことだからね。自分なりにやってみればいい。できればクビがかからない場面でね」

 アルザリ・ナムのやり方も一つの手段だ。いきなり最高の力で出鼻をくじき、流れを引き寄せることも戦術である。スポーツの世界ではよく見かけられるし、それなりに有効である。

 しかしハブシェンメッツの経験上、アーマイガーのような上位者には通じないことが多かった。彼らの多くは最初から敵の最大の攻撃を受けるために防御を固め、待ち構えることが多いからだろう。

 ゼッカーもアーマイガーと同じく上位者である。そこには深みと確かな戦術眼がある。しかも彼らには転移という完全無敵な奇襲攻撃がある。これが実に厄介なのだ。

 どんな作戦にも仕掛ける時期というものがある。特に完全制圧を仕掛ける場合、それが失敗してしまえば打つ手がない。半端に仕掛けても、場を混乱させてしまっただけでやらないほうがよかった、というのはよくある話である。

 すべてにおいて今が好機。奪還の最初で最後のチャンスであった。それを逃さずに動くことこそ指揮官の資質でもある。

「司令部へ伝達。制圧完了」
「次の段階に移行。無理はしないように」

 制圧完了の言葉を聞いたハブシェンメッツは、次の段階に移行する。

「制圧は終わったのでは?」

 その言葉にアルザリ・ナムが反応する。現状でやれることはすべて終わったように見えるからだ。あとは隔離した敵を各個撃破して終わりだろう。

「そうかもしれないね。ただ、どうしても気になるのさ」

 ハブシェンメッツは、髪の毛を引っ張りながら光り輝く塔を見つめる。

「すべての人間がアナイスメルに目を向けている。当たり前なんだろうけど、それは危険かもしれないってね」

 ハブシェンメッツは、多くの人間がアナイスメルだけに気を取られていることを危ぶんでいた。

 そもそもアナイスメルという存在を知ったのは、アピュラトリスが敵に奪われたからである。もっといえば、悪魔がアナイスメルが目的だと宣言したからだ。それによって誰もが見たこともないアナイスメルに注目するようになった。結果として、アピュラトリスそのものへの意識が薄れていったように思える。

「敵がそう仕向けた…。ならば、アナイスメルは囮ですか?」
「エクスペンサー次官が言っていたように、アナイスメルが重要なのは間違いないだろう。ただ、目の前にあるものを見失うことは危険だと思うんだ。僕たちは所詮、目に映るものしか見えないからね」

 ハブシェンメッツは、敵がアピュラトリスを完全に封鎖したことが気になっていた。法則院の調べでは、術式の干渉すら完全に受け付けない結界も張られているという。それを行うには相当の犠牲も払ったはずである。

「単純にアナイスメルを守るだけならば、サカトマーク・フィールドだけでかまわないはずだ。だから突っついて試すのさ」

 特に術式の干渉を防いだ点が気になる。それはつまり完全隔離してまで隠したいものがある、ということを意味している。ハブシェンメッツは、まだ相手は隠し玉を持っているに違いないと疑っていた。

 相手の目的がわからない以上、勝手に断定するのは危険である。相手の言葉を鵜呑みにすることも愚かだろう。ならば、やれることはやっておくべきだ。

「しかし、本当にできるんですかね?」

 ハブシェンメッツの疑念はわかるが、アルザリ・ナムには可能なことかどうかわからないでいた。

 なにせ、これからやることは前代未聞。
 【サカトマーク・フィールドの突破】であるからだ。

 アピュラトリス制圧とは、内部を制圧して初めて達成されることである。入れ物だけ確保しても何の意味もない。そのためには最強のシールドと呼ばれるフィールドを破壊する必要がある。

 普通ならば不可能である。
 しかし、今は普通の状況ではない。

「サカトマーク・フィールドは本来、籠城策なんだ。人間が使用して初めて効果を発揮する。でも、今は無人。プログラム制御に頼っているそうだ」

 ハブシェンメッツは、監査局から送られてきたデータを見て勝算があると考える。

 ルシア軍は、実際にサカトマーク・フィールドに砲撃を当て、その防御力の解析を行っていた。通常弾による砲撃、貫通弾による砲撃など、戦いの中でデータを取っていたのである。

 そして重要なことに気がつく。

「現在のフィールドは、衝撃を与えた面にエネルギーを集中する自動制御プログラムが発動しているんだ。状況にかかわらずに、ね」

 自動制御に頼る現在では、戦力がどこにあるかを計算せず、単純に力が加わったほうにエネルギーが回されるシステムになっている。

 優秀なシステムではあるが、いかんせん反応的な対応だと言わざるを得ない。もし人間が制御していれば、戦局に合わせて柔軟に対応できるだろう。無敵の防御力とはいえ、有限なる力を使っているのである。消耗が激しければ長続きはしない。

「その性質を利用して、一定の場所にエネルギーを集中させる。そうなれば違う箇所が脆くなるのが道理だろう」

 原理は単純。目的の反対側に攻撃を開始して、エネルギーを意図的に向けさせる。その間に本命をぶち抜く、というわけである。

「理屈はわかりますが、可能なんですか?」
「さて、やってみなくてはわからないね。ただ、このまま待っているだけだと怠けているように思われるだろう? それだと印象が悪い」
「そんな理由ですか…」

 シュートが飛んできたら、とりあえず飛んでおいたほうがゴールキーパーとしては見映えがよい理論である。取れなかろうが、一応努力したという姿勢は残せるのである。

 そうこうしてルシア軍は行動を開始。入り口の反対側である北側の部隊が、アピュラトリスに対して砲撃を開始する。

 最初は変化がなかったが、続けているうちに光が強くなってくる。それを見計らい、南側ではフィールド破壊の準備が進められていた。

 使用するのは攻城兵器。刺突型貫通爆弾の一つで、DMOBディーマブと呼ばれるものである。簡単にいえば、先端にドリルが付いた爆弾だ。これは敵の城に打ち込むことで、城壁を破壊しながら進入し、内部で大爆発を起こすものである。

 この時代は巨艦主義が主体であり、大型戦艦を移動要塞として運用する戦略が多く見られる。一方で、防衛には至る所に砦(城)を建築し、戦艦の移動を阻止するといったことをする。攻める側にとって城はかなり面倒な存在であるため、さまざまな攻城兵器が生まれていた。

 このDMOBは、その中でも大型のもので、威力もかなり高い。ただ、実際に打ち込むには隣接するほど接近しなくてはならないので、使い勝手が難しい兵器でもある。近年では、火焔砲弾などの普及に伴って、あまり使われていない。

「見つけるのに苦労したよ。担当のおじいさんに探してもらったんだけど…話がなかなか通じなくてね」

 ハブシェンメッツは、苦労して手に入れたDMOBをわが子のように愛しく見つめる。

 見た目は、赤いソーセージの先端にドリルが付いている感じ、と言えばわかりやすいだろうか。誰がデザインしたのか、実に奇妙な兵器である。ビールを片手に眺めれば、それなりに美味しく晩酌ができる…のかもしれない。

 ダマスカス軍は使う使わないにかかわらず、一応形式だけとはいえ全武器種をそろえている。普段戦争をしないからといって防備を怠れば、万一の時に危ないからだ。

 平時において兵器は、ただ持っているだけで価値があるのである。各国の軍事パレードの大半も、軍事力を見せつけることが目的だ。ただし、こうして使われなくなった兵器は、担当者も忘れるほど地下深くに放置される。ハブシェンメッツが攻城兵器はあるかと聞いても、相手は何のことかわからない状態であった。

 結果的には眠っていた五発のDMOBを手に入れることができた。半分期待していなかったせいか、そのぶんだけ喜びも大きい。もしこれが手に入らねば、サカトマーク・フィールドの突破まで考えなかったに違いない。

 ならば、せっかく手に入ったものを試してみたくもなるのが人の性というものだろう。

「さて、本当に効くかな」

 ハブシェンメッツが見守る中、最初の攻撃が行われた。危ないので隔壁は一時閉じられ、ロー・アンギャルも退避している。

 DMOBのドリルがサカトマーク・フィールドに接触。金属と金属が衝突するような嫌な音を立てる。

 それが少し続いたあと、突如爆発。貫通爆弾の名前の通り、衝撃の大半は前面に放射されるのであるが、基地が揺れたかと思うほどの振動が走った。

「…びっくりしましたよ」
「…だね。やっぱり近いと嫌だな」

 アルザリ・ナムは思わず近くの鉄柱にしがみつく。ハブシェンメッツも、思わず机に手をついて踏ん張るほどである。

 DMOBは、威力に不満があって使われないのではない。DP5同様、持ち運びが大変だから使われないのである。火力だけならば火焔砲弾に匹敵する威力。貫通力だけならば凌ぐ爆発力を持っているのである。

 しかし、その威力をもってしてもサカトマーク・フィールドは健在である。最高のフィールドの名は伊達ではない。

「では、続けてくれ」

 ハブシェンメッツは、これを繰り返す。二度、三度と試していく。そのたびに耳鳴りを伴う爆音が響く。やはり威力は相当なものである。

「フィールドにわずかな損傷が見られます」

 観測を担当していた部隊から報告が入る。ほんのわずかではあるが、フィールドに歪みが発生したようだ。

「大きくなくていい。一人分入れるスペースができれば十分だ」

 ハブシェンメッツの狙いは、当然ながら入り口部分である。

 入り口は、サカトマーク・フィールド発生直後に破壊されてしまったが、あの場所にだけ唯一【穴】がある。隔壁が降りているとはいえ、最初から隙間がない場所と、あとから接着した場所とでは強度に差が出るものである。

 なんとか入り込めれば、ルシア騎士の実力ならば突破できる可能性は高い。万全の状態のアピュラトリスならば、そこから何百ものセキュリティを潜り抜けねばならないが、完全封鎖したことが弱みになる。

 封鎖するということは、相手からしても干渉できないことを意味する。この状況ならば、内部を制圧することもできなくはないだろう。むろん、そこにはかなりの困難があることは想像に難くないが。

「ちょっと厳しそうですね」

 アルザリ・ナムが進行具合を見つめながら、素直な感想を述べる。そして、ハブシェンメッツも頷く。

「だろうね」
「それでいいんですか? 無意味だったらどうします?」
「無意味ってのは何を目的にするかによって決まる。これ自体に意味があるんだから、これは無意味じゃないんだ」

 仮に一人分の隙間が出来たとしても、周囲のエネルギーが覆うので、そこに飛び込むのは自殺行為に近い。通り抜けた頃には黒こげ。あるいは消滅している可能性が高い。ただ、ジャラガンが剛気をまとって突っ込めば、もしかしたら抜けられる可能性は残っている。

 重要なのは、この【可能性】なのである。

 少しでも可能性がある。このことが一つの要素となり、全体の動きに影響を与えるものだ。

 そして、もう一つの狙い。

 ルシア軍が四発目のDMOBを用意している時、それが発生した。

 【転移】である。

 しかも起こった転移は百近く。それぞれが小さいものの、かなりの数が発生。直後、アピュラトリス周辺が白い煙に包まれた。

 これは「もくもくと煙が上がった」というものではなく、瞬時に空間全体が白に染まった、と表現したほうが適切だろう。イカ墨が水に拡散する速度よりも遙かに遙かに速い。一瞬で世界が白い煙に席巻されていく。

(やはり来たか)

 ハブシェンメッツは、当然の成り行きだと言わんばかりに煙を見つめる。

 絶対に突破しなくてもいいのだ。突破すること自体、半ば不可能に近い。だが、それをすることで、可能性を一つでも増やすことで、相手に揺さぶりをかけることができる。

 リュウがルシアの勝利と言ったように、戦局はすでにルシア側に大きく傾いた。そこにきて本丸への攻撃。彼らが絶対死守したいはずの塔にまで攻め込まれる。この可能性だけは、どんなに小さなものでも排除しなければならないのだ。

 となれば、悪魔が動くのは当然。

 これがハブシェンメッツのもう一つの狙いであり、転移を起こさせるための挑発であった。

「煙の成分が出ました。ただの煙幕です」
「化学兵器ではないんだね?」
「違います。おそらくGP発煙化合物の一種だと思われます」

 ロー・シェイブルズの科学班が成分を分析。一瞬、化学兵器の可能性を疑ったが杞憂であった。もし化学兵器だった場合、相当な被害を覚悟しなければならないだろう。逆に相手がそうしなかったことに驚きを感じさえする。

(やっぱり自然保護とかも考えるタイプなのだろうか?)

 ふとハブシェンメッツは、会議場で見た悪魔の姿を思い出す。彼の主張自体は理想上ではあったが、非の打ち所がない意見である。そんな彼ならば環境保全とかも視野に入れるかもしれない。

 しかし、悪魔と名乗る男が戦いの場でそんなことを考えるわけもない。普通に考えれば、それを選択した意味があるのだ。

 GP発煙化合物とは、化合させることによって煙を発生させる物質の一種で、主に水や空気に触れた瞬間に化学反応を起こす煙幕の一つである。それほど珍しいものではなく、鉱物から摂取したいくつかの元素を組み合わせることで、容易に製造できる。

 安価で効率が良いため、軍隊でも発煙筒として採用されていることがある。ただし、酸素を燃焼させるために、室内で使うと窒息する可能性があるため、間違っても密室のコンサート会場などで使ってはいけない。ものの数分で全滅してしまうだろう。

 これが大量にアピュラトリス周辺、主に南側に転移されたのだ。転移の数は多いが、実際の情報量は極めて小さい。これだけ送っても、人間一人分の情報量にも満たない負担で済む。そうでいながら、これだけの効果を出していた。

 ミユキとマユキの転移は、その情報量によって負担が決まる。人間一人ともなれば、霊魂や精神を含めて相当な負担である。これを逆手に取って、情報量の少ないもの、簡単な元素から作られたものを複数転移させて向こう側で化合させる、という裏技が存在する。

 ただこれは化学兵器でもさして情報量は変わらないので、意図的にこれを選択したということは間違いない。

「警戒しろ! 来るぞ!」

 この煙幕は目隠しでしかない。ならばその理由は一つ。リヒトラッシュは、すぐさま【敵】の攻撃を予測し、警戒を呼びかける。

 DMOBで爆破している間、ロー・アンギャルの部隊はドック地表に上がり、周囲を警戒していた。地表の上ではジャラガンとガガーランドが怪獣戦争を繰り広げているので、まだ油断はできない状態である。

 しかし、彼らの戦いについては、もとより手出しはできない状態だ。生半可に手を出せば戦況が不利になる可能性すらある。ジャラガンほどの武人に、生半可な手助けは邪魔にしかならない。

 それよりもハブシェンメッツからは、転移に注意するように言われていた。こちらが塔の破壊工作を始めれば、相手は必ず動くと予想していたのだ。

 事実、それは起こった。今や煙幕は、せり上がった地表部分すら覆い、塔の存在を包み隠そうとしている。どこから敵が出てきてもおかしくはない。

 だが、すでに攻撃は始まっていた。

 その【光】は天から降り注ぎ、アピュラトリスの入り口付近に設置されていたDMOBに直撃。

 爆破。

 衝撃は準備していた兵士たちを吹き飛ばし、粉々にする。

「上か!」

 リヒトラッシュは上空を見上げる。

 そこはまだ分厚い煙に覆われており、彼の視力をもってしても何も見えない。しかし、明らかに頭上からの攻撃であった。煙に隠されてはいたが、光が上から走った残影だけは見逃さなかった。

 リヒトラッシュは弾道を瞬時に割り出し、ブルーケノシリスのライフルで頭上を狙う。標的が何かはわからないが、とっさの感覚で射撃。

 銃弾は煙を切り裂き、攻撃が起こった場所を貫いた。だが、そこには何もなく、弾丸は通り過ぎるだけであった。

(すでに落ちたか?)

 上空に転移が起きたのは間違いない。そこで何かが現れ、攻撃を仕掛けたのだ。

 しかし、それがどのようなものであれ、上空に出現すれば落ちるしかない。すでに落下した可能性もある。次は下から攻撃が行われる可能性を考慮し、誰もが下に注意を向けた時、それは再び降りかかる。

 上空から連続して光が落ちてきた。

 その光線は、狙撃のために待機していたブルーゲリュオンを的確に射抜いていく。とっさに回避運動を行った機体にすら、見事なまでに補正して一撃を当てる。その威力は凄まじい。撃ち抜かれた機体を貫通し、さらに地表に大きな穴が生まれるほどである。

 それが何度も何度も、断続的に襲いかかってきたのである。視界が塞がれたうえに頭上からの攻撃には、さすがのロー・アンギャルも対応ができない。次々と機体が撃墜されていく。

(これは自立兵器ではない。意図的な攻撃だ)

 リヒトラッシュは、この攻撃が人間の意思によって行われたものだと断定する。

 明らかに【先読み】している。

 こちらの動きを読んで、即座に照準を補正しているのだ。これは無人兵器にはできない芸当である。しかも恐るべきことに、これは狙撃である。何者かがこちらに狙撃をしているのだ。

(これほどのガンマンがいるのか。だが、問題は…)

 同じガンマンのリヒトラッシュには、この狙撃を行っている人間の力量がわかる。超一流の狙撃手であることは間違いない。

 ただ、それより問題なのが狙撃している場所である。位置としては、アピュラトリスの中腹上部。おそらくは地上千三百メートル付近からの狙撃。

 アピュラトリスの外面はツルツルで、そのような場所に足場などは存在しない。現在はサカトマーク・フィールドも展開されているので、新たに足場を作ることは不可能である。

 しかし、明らかにそこから光は降り注いでくる。これではどうしようもない。加えて、この攻撃は一方向からではない。アピュラトリスの南西と南東の二つの地点から狙撃は行われていた。

 これが意味することは、とても簡単である。

「新たな転移を確認。【二機】のようです」

 ルシア側も、その動きは確認していた。

 煙幕には物理効果しかないので、術式の展開を隠すことはできない。法則院によって転移の確認はなされていた。同時に、詳細は不明だが、機体が出現したことも確認されている。

「本当にMGなのかい? なぜ落ちてこないんだ」

 ハブシェンメッツも、その事実に驚きを隠せない。せっかく戦場を制圧したのに、これでは立場が逆転するからだ。

「空を飛ぶ機体なんて、開発は不可能ですよね?」

 アルザリ・ナムは、現行の技術では飛行能力を有したMGは生み出せないことを知っている。今のところ、これは不変の事実である。しかし、現実を見つめなければならない。実際に攻撃されているのだ。

「まったく。すでに場は決しているのに…往生際が悪いものだ」

 ハブシェンメッツとしては、これでもう勝負は終わりだと思いたかった。これ以上、争うのは無益だからだ。といっても、それはこちらの願望である。相手からすれば最後の最後まであがくのは当然なのだ。そもそもテロリストというものは、往生際が悪いのが相場である。

(悪魔君、やってくれるね。こちらの思惑を逆手に取るとは、まったくもって皮肉屋だ)

 ハブシェンメッツは、悪魔がこの手を温存していたことを悟る。

 おそらくルシア側の狙撃に関しては、相手もどこかのタイミングで出すことは想定していたはずである。悪魔は、それに対するカードをしっかり用意していた。

 【後出しじゃんけん】。

 どんなにじゃんけんの名手であっても、これをやられると絶対に勝てない。相手の手を見てから出すのだから、有利なのは極めて当然のことである。それを可能にしているのが転移。この構図は変わっていなかった。

 悪魔はルシア側の狙撃手を撃墜するために、相手が兵を出してくるのを待っていた。上を押さえるのは狙撃の基本。ゆえに待っていたのだ。さらに上方からの攻撃を加える機会を。

「ロー・アンギャルに一時撤退命令。悔しいが、これしかできないね」

 予想できないカードである以上、ハブシェンメッツに対応策はない。唯一可能な策が、撤退。狙撃兵を退かせることであった。

 ただし、ルシアが押し込んでいるのは間違いない。アピュラトリスの外周はほぼ奪還したと言ってよいだろう。だが本丸。内部の状況はいまだ不明のままである。

(手遅れにならなければいいが…。箱だけ取り戻しても中身を奪われれば意味がないからね)

 そこに一抹の不安を感じるハブシェンメッツであった。
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