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俺の部屋に、いる。
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サラリーマンの加藤雅也は23時過ぎに帰宅した。職場の上司に誘われた飲み会はいつもと同じ話ばかりでタイムループでもしてるのではないかと勘違いしてしまうほどだった。
オートロックのないアパートに着くと階段を上がって我が家の玄関の鍵を開ける。
「…いつもと同じ。」
家に帰ったら温かいご飯があって奥さんがお出迎えしてくれてお風呂に入って一緒に寝て…そんな学生時代に妄想していた生活は独身サラリーマンには夢物語なのだと最近つくづく思う加藤。
「こんなもんだよなぁ。」
さっさと就寝準備を終わらせベッドの上でぼやく。明日また出社して帰って寝ての繰り返しが続く。休日の予定も趣味も特にない。
俺の人生このままでも良いのかと思いながら加藤は眠りについた。
翌日も出勤。退勤後の上司からの誘いはなくコンビニに寄って弁当を買い家に帰る。今日は溜まっているアニメでも観ようかなと考えながら玄関のドアを開けた瞬間だった。
「おかえり。」
家の中から震える声が聞こえた。
「ただいま。」
家の中に誰もいないはずなのに加藤は反射的に返事してしまった。
「あれ? 待って。誰だ。」
アニメのことに頭を使っていた加藤は挨拶という多少無意識でもできる行動を誰もいないはずの空間に対してしてしまい焦る。
(空き巣か?)
不穏な考えが頭をよぎり、室内の電気ではなく携帯の明かりを頼り恐る恐る部屋に向かう。勿論そこには誰もいない。
「空耳…疲れてるのかな。」
特に気にせず過ごそうと考えたが念の為部屋の中を確認する。加藤の住む部屋は7畳のワンルームなので確認するのに時間はかからない。クローゼットの中、シンク下まで見て怪しいものは無いか全て調べた。
「やっぱり空耳だよな。」
自分を納得させてコンビニで買った弁当を温める。アニメを観ながらダラダラと食事をするのが今の幸せなのかもしれない。
ピンポーン。
加藤の家のインターフォンが鳴った。時刻は22時頃。宅急便を頼んだ覚えもない。不思議に思いドアスコープ越しに外を見るが誰もいない。
「いたずらか?」
そう言いながら玄関のドアを少し開けた瞬間冷たい空気が家の中に入り、
「おかえり。」
あの震える声が加藤の真後ろで聞こえた。
振り向けない。
振り向いてはいけない。
体が固まって動くことができない。
でもわかる。
そこに誰かが、何かがいる。
「おかえり!!」
完全に固まっている加藤の耳元で甲高い声が響く。背後ではなく誰かが真横にいる様な気配を感じた。
「た、ただいま。」
振り絞る様な声で玄関のドアを眺めながら返事する。恐怖で体の言う事が効かない加藤にはこれが限界だった。その時フッと横の気配が消えた気がした。少し安心した加藤が意を決して振り返ると、いた。
四十代半ばぐらいの背の低い女が部屋の中でニヤニヤ笑いながら加藤を見つめる。悲鳴をあげそうになった途端女がニヤニヤしながら全力で玄関まで走ってきた。そしてそのまま加藤の横をすり抜け、家の外へと消えていった。
「なんだったんだ今の…」
玄関に座り込んで呟く。驚き過ぎて涙も出なかった。もう今日は寝ようと立ちあがりフラフラとベッドの上に横たわる。先ほどのことは夢だ、妄想だ、疲れているんだ…様々な言い訳を頭に浮かべて眠りについた。
翌朝は清々しい起床とは真反対の目覚めだった。加藤は目の下にしっかりクマを作成し正気を失った顔で会社に向かう。同僚や上司に心配されつつも昨夜の出来事を話せる気にはなれず淡々と業務をこなした。
退勤時、見かねた同僚の佐伯が加藤を夕食に誘う。乗り気では無かったがあの家に帰る気にもなれなかったので同僚と近場の居酒屋に入ることにした。
「で? そんなに死神みたいな顔して一体何があったんだ?」
注文を一通り終えた後直球に質問する。佐伯は仕事もできるし人懐っこく誰にでも好かれやすいがデリカシーに欠ける所がある。結婚して子供も一人いる佐伯は、独身生活中の加藤にとって住む世界が違う。しかし入社から仲良く今まで相談をしたり愚痴を話した関係だ。職場で心置きなく話せる相手と言えば佐伯しかいない。
加藤は返答に困った。昨夜の出来事を話したところで信じてもらえるのか。頭がおかしくなったと思われたくない。
「なんでもないよ。疲れてただけ。」
加藤は作り笑いをしながら答える。注文したビールを一気飲みし話題を変えようとしたが
「酒の弱いお前が一気飲みする段階でなにかはあっただろ。」
ぶっきらぼうに佐伯は言い放つ。こいつ観察力高いんだよなぁなんて思いつつ上手に話を逸らして飲み続けていた。2時間ほど話していたぐらいだ。
「最近さぁ嫁がすぐ怒るんだよ。例えばさ、俺が疲れて寝てる時に嫁が帰ってきたとするじゃん? そこでおかえりって言わなかっただけで怒るんだよ。しっかり挨拶をしないと子供に悪影響だからってよ。ただいまを言わない子になるとか言ってさ。勘弁してほしいよマジで。」
「おかえりとただいま、ねぇ。」
酔った佐伯の愚痴から現れた「おかえり」と言う言葉であの女を思い出す。ニヤニヤした顔で走ってくるあの女が…。またもや元気が無くなった加藤に心配する佐伯。
「大丈夫か? やっぱ何かあったんじゃないのか?」
もういいや。酔っていたこともあり隠す事を諦めた加藤が昨夜の出来事を話そうと顔を上げた時だった。
「なんでここにいるんだよ…!」
あの女がいた。
ニヤニヤした顔で佐伯の横に座っていたのだ。まるで最初から自分もこの会に参加していたかの様に。驚きで口を魚のようにパクパクさせてる加藤に佐伯が声をかける。
「お前今日一日おかしいぞ。明日は休んだ方がいいんじゃね?」
「あの家で休めるわけない! 昨日からなんなんだよ、誰なんだよ…」
加藤が泣きながら叫ぶ。店内で注目の的になり居心地が悪くなった二人は会計を済ませて逃げるように店を出た。駅までの道は二人とも無言で加藤はずっと下を向いて涙を流している。佐伯は最後まで加藤の心配をしており、「何かあったらすぐ連絡するように」と念を押して二人は別れた。
23時過ぎ、加藤は自分の家のドアとにらめっこしている。かれこれ1時間はこの状態で玄関のドアを開ける勇気がちっとも出なかった。このままでは不審者に間違われても仕方がない、早く家に入ろうと思っていても手が震えて何度も鍵を落としてしまう。汗ばむ手で次こそはとしゃがんで鍵を拾った。
「おかえり。」
あの女がドア越しに声を掛けてきたのがわかった。昨日と変わらぬ震える声で加藤の帰りを待っているのだ。加藤は徐々に苛立ちを覚えた。
「ここは俺の家だ。早く出ていけ。」
低く怒りのこもった声でドアに向かって叫ぶ姿は側から見ればかなりおかしく見えるだろう。そんな事を気にしてられるほど加藤に余裕はなかった。ドアの向こうの気配が消えた気がした加藤は深呼吸して鍵を回す。
カチャリ。
(誰もいない。いなくなったんだ。)
安心した加藤は佐伯に連絡して明日の仕事を休むことにした。次の出勤時に上司に嫌味を言われるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。今は休むことを優先すべきだと考え、就寝準備を急いで済ませ眠った。
その夜見た夢は最悪だった。あの女が何度もインターフォンを押して「ただいま」とニヤニヤしながら言ってくるのだ。そして俺は耐えきれなくなりベランダから…。
朝になりインターフォンの音で起こされる。まさかと思いつつも恐る恐るドアスコープを除くと管理人だった。
「おはようございます。管理人の藤崎です。朝早くから申し訳ありません。昨日の夜中からお宅のインターフォンの音がうるさいと苦情がありまして…。生活音ならまだわかりますがインターフォンってのがどうも…。もしかしたら故障かと思うので確認させていただいてもよろしいですか?」
そんなに鳴っているなら加藤自身が気付くはずだ。管理人の様子から見て嘘をついてそうにない。承諾した後、確認作業をしてもらっている間にふと昨日の夢は現実ではないかと考える。
「終わりました。特に以上は無さそうでしたね。もしかしたらイタズラかもしれないので気をつけてください。」
管理人は不思議そうに首を傾げて帰っていった。安いアパートなので監視カメラがあるわけでもなく、自衛するしかない。でも加藤はこの件がイタズラではないとわかっていた。むしろイタズラで済むのであればどれほど良かったことだろうか…。
その日加藤は獲得した休みを有意義に過ごす気にはなれなかった。ただあの女に怯える時間だけが過ぎていった。しかし何も起こらなかったのだ。震える「おかえり」の声もニヤニヤとした顔も加藤の前に現れることはこの日一度も無く次の日の朝を迎える。
「急に休むなんて最近の若いやつは甘い」
出勤してすぐ上司の嫌味が聞こえる。あの女より何倍もマシだと思いながら加藤は仕事をしていた。昼休憩の時佐伯に感謝と謝罪を伝え、「もう大丈夫だ」と話す。
「大丈夫なら良いんだよ。また行こうな。」
デリカシーに欠けてはいるが優しい佐伯に加藤は救われた気がした。加藤は何気ない平穏な日々の有り難みを噛み締めながら残りの仕事を終わらした。
退勤時、この前のお礼として佐伯を夕食に誘ったが今日は家族での予定があるとのことでコンビニに寄って帰ることにした。弁当を買い、階段を上がって自分の家の前に立つ。
「もう、大丈夫。」
一呼吸置いてドアの鍵を開ける。
カチャリ。
部屋の中は真っ暗で誰もいなかった。
「やっぱりな。終わったんだ。」
「おかえり。」
あの声が聞こえる。
加藤は思い切って部屋の電気をつけた。頭が真っ白になり、全身の血の気が引いていく感じがした。昨日は聞こえなかった、いなかったはずのあの女がニヤニヤしながら部屋の真ん中に立っているのだ。
「ああ、そうか。」
加藤はなぜ女が今日現れたのかに気づいた。そしてその時から、加藤は外に出ることをやめた。
「佐伯君さ、加藤君に何かあったのか知っているか?」
「僕にはなんとも…。今日帰りにあいつの家に寄ってみます。」
加藤が職場に来なくなって一ヶ月が経った。休職手続きもせず、無断欠勤だったので解雇処分になっている。最初こそ怒り心頭の上司だったが日が経つうちにどちらかと言えば真面目な方だった加藤の心配をしており、佐伯は一ヶ月前の居酒屋に行った日にしっかり聞き出せばよかったと後悔していた。ここ一週間は連絡も中々返ってこないので嫌な予感がしていたので加藤の家へ向かう。もしもの時に警察を呼ぶシュミレーションは、仕事中に何回も行った。
「ここ、だよな?」
佐伯は唖然とした。その部屋は置き配で山積みになった段ボール箱がドアを完全に塞いでおり、最初の方に置かれたであろう段ボール箱からは耐え難い異臭が放たれている。なんとかインターフォンを押そうとした時、管理人らしき人物が階段を上って加藤の家の前までやってきた。
「失礼ですが加藤さんの知り合いですか?」
「職場の同僚です。」
「良かった。私はここのアパートで管理人をしている藤崎です。実はもう一ヶ月前から加藤さんの姿を見てなくて、ここ二週間は連絡もつかなくなってしまったんです。部屋の前もこの有り様でご近所さんからのクレームも凄くて…。今後対処してもらえないのであれば立ち退きをお願いしようと今日来たんです。」
焦っているのか早く終わらせたいのか藤崎は早口で事情を話す。圧倒された佐伯は「はあ。」と言うしかなかった。とりあえず二人は加藤の部屋のインターフォンを押すことにした。
ビンボ…ン…。
かなり鈍いチャイムの音が鳴る。連日の宅配業者やクレームを言いにきた隣人等に強く押され過ぎて壊れてしまったようだ。そこから二人が何度押しても鈍い音が鳴るだけだった。居留守を使われているならまだいいが、もし中で加藤が死んでいたとしたら…。最悪の想像をした佐伯と藤崎は急いで段ボール箱をドアの前から移動させ藤崎が念の為にと持ってきた合鍵で加藤の部屋を開けようとした時だった。
「開けるな!!」
部屋の中から加藤の怒鳴り声が聞こえた。二人は顔を見合わせ、ひとまず生存確認ができて安心した。
「加藤、俺だ! 佐伯だよ。生きてて良かった。とりあえず中に入れてくれ。今管理人の藤崎さんも一緒にいる。」
「開けられない。」
「そんなに部屋の中が汚いのか? なら片付けないとだな。俺と一緒に二人で片付けたら早く終わるだろう。」
「加藤さん、今この場で申し上げにくいのですが最近加藤さんの部屋に対してクレームが殺到してまして…。早急に対処していただきたいのです。もし対処していただかないのであれば後日退去勧告を通知しますので半年以内にはこの部屋から退去していただくことになります。」
「この部屋からは出たくないんだ!!」
退去という単語を聞いて焦ったのか加藤は声を荒げながらドアを叩く。あまりに強くドアを叩いたので積み上げていた段ボール箱が雪崩れた。
「外に出ない! もしドアを開けたらまたあの女がいるんだ! 言うんだ! 俺はもうここから一歩も出ない。死ぬまでここに閉じこもってやるんだ!」
「わかった。加藤は部屋から出なくていいから俺が入る。部屋から出なければいいんだろう?」
「違う! 開けてもダメなんだ。最初はドアを開けるだけなら大丈夫だった。二週間前から開けただけでダメになったんだ。もう、本当に、ダメなんだよ…。」
大の大人がドアの向こうで「いる、いるんだ。」と泣きながら駄々をこねているであろう姿を想像して佐伯は戸惑った。管理人の藤崎もこの状況にどうすればいいのか悩んでいる様子だった。
「もう、開けましょう。」
戸惑いから苛立ちに変わった佐伯は藤崎から鍵を受け取り加藤の部屋の鍵を開けた。久々に鍵を刺したからなのか、積み上げられた段ボール箱で閉ざされていたせいなのか少し鍵穴が錆びていた。
ガチャリ。
ゆっくりドアを開けると玄関に座り込みながら泣いている加藤が目に入った。その姿は一ヶ月前共に会社で働いていた同僚とは思えないほど痩せて汚れて生きているのが不思議なくらいだった。
「何があったんだ?」
「開けてしまった。もう、限界だ。」
加藤が弱々しく呟いた時だった。
「おかえり。」
部屋中から聞こえる女の声。その声は待ち侘びていた再会に喜ぶかのようだった。
「…ただいま。」
加藤はそう言って立ち上がると涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔でニヤニヤ笑い始める。
「二人も早く言わないと。おかえりとただいまは、俺らの大切な挨拶だよ。」
その目は正気ではなかった。左右の目が違う方向を向いていて焦点が定まっていない。伸びた髭の先からは涎が垂れている。加藤は何度も「ただいま」と何もいないはずの天井に顔を向けながら呟いていた。二人は叫んで逃げ出した。加藤の「ただいま」と言う声は走り去って行く二人に掻き消される。
その後すぐ藤崎が警察を呼び加藤の家をもう一度訪れたが、加藤の姿はどこにもなかった。二人は事情を全て話したがあの「おかえり」という声は聞こえず警察が二人を不審に思っていることは明白だった。しかし警察も感じていたのだろう。この部屋になにかがいる気配を。足早に捜査を済ませた後加藤には行方不明届が出された。そしてあれから二ヶ月経った加藤の部屋には現在特殊清掃業者が入っている。
「この部屋の人って行方不明なんでしたっけ??」
「らしいな。どうも頭がおかしくなって家ほったらかして出てっちまったらしい。」
「へー。まぁこんな汚部屋だったら頭おかしくもなりますね。管理人さんの話ではドアの前もヤバかったらしいですし。てか管理人さんも相当ヤバくなかったすか?」
「お前なぁあんま余計なこと話すなよ。ま、あの顔はかなりヤバかったな。現場に来た初日にいきなり『おかえり』って言われたもんな」
雑談をしながら作業を進める清掃員。彼らもまたあの声を聞くことになるのかはまだわからない。ただ一つ言えるのはこの部屋には確かに「なにか」がそこにいるということだ。
ー終ー
オートロックのないアパートに着くと階段を上がって我が家の玄関の鍵を開ける。
「…いつもと同じ。」
家に帰ったら温かいご飯があって奥さんがお出迎えしてくれてお風呂に入って一緒に寝て…そんな学生時代に妄想していた生活は独身サラリーマンには夢物語なのだと最近つくづく思う加藤。
「こんなもんだよなぁ。」
さっさと就寝準備を終わらせベッドの上でぼやく。明日また出社して帰って寝ての繰り返しが続く。休日の予定も趣味も特にない。
俺の人生このままでも良いのかと思いながら加藤は眠りについた。
翌日も出勤。退勤後の上司からの誘いはなくコンビニに寄って弁当を買い家に帰る。今日は溜まっているアニメでも観ようかなと考えながら玄関のドアを開けた瞬間だった。
「おかえり。」
家の中から震える声が聞こえた。
「ただいま。」
家の中に誰もいないはずなのに加藤は反射的に返事してしまった。
「あれ? 待って。誰だ。」
アニメのことに頭を使っていた加藤は挨拶という多少無意識でもできる行動を誰もいないはずの空間に対してしてしまい焦る。
(空き巣か?)
不穏な考えが頭をよぎり、室内の電気ではなく携帯の明かりを頼り恐る恐る部屋に向かう。勿論そこには誰もいない。
「空耳…疲れてるのかな。」
特に気にせず過ごそうと考えたが念の為部屋の中を確認する。加藤の住む部屋は7畳のワンルームなので確認するのに時間はかからない。クローゼットの中、シンク下まで見て怪しいものは無いか全て調べた。
「やっぱり空耳だよな。」
自分を納得させてコンビニで買った弁当を温める。アニメを観ながらダラダラと食事をするのが今の幸せなのかもしれない。
ピンポーン。
加藤の家のインターフォンが鳴った。時刻は22時頃。宅急便を頼んだ覚えもない。不思議に思いドアスコープ越しに外を見るが誰もいない。
「いたずらか?」
そう言いながら玄関のドアを少し開けた瞬間冷たい空気が家の中に入り、
「おかえり。」
あの震える声が加藤の真後ろで聞こえた。
振り向けない。
振り向いてはいけない。
体が固まって動くことができない。
でもわかる。
そこに誰かが、何かがいる。
「おかえり!!」
完全に固まっている加藤の耳元で甲高い声が響く。背後ではなく誰かが真横にいる様な気配を感じた。
「た、ただいま。」
振り絞る様な声で玄関のドアを眺めながら返事する。恐怖で体の言う事が効かない加藤にはこれが限界だった。その時フッと横の気配が消えた気がした。少し安心した加藤が意を決して振り返ると、いた。
四十代半ばぐらいの背の低い女が部屋の中でニヤニヤ笑いながら加藤を見つめる。悲鳴をあげそうになった途端女がニヤニヤしながら全力で玄関まで走ってきた。そしてそのまま加藤の横をすり抜け、家の外へと消えていった。
「なんだったんだ今の…」
玄関に座り込んで呟く。驚き過ぎて涙も出なかった。もう今日は寝ようと立ちあがりフラフラとベッドの上に横たわる。先ほどのことは夢だ、妄想だ、疲れているんだ…様々な言い訳を頭に浮かべて眠りについた。
翌朝は清々しい起床とは真反対の目覚めだった。加藤は目の下にしっかりクマを作成し正気を失った顔で会社に向かう。同僚や上司に心配されつつも昨夜の出来事を話せる気にはなれず淡々と業務をこなした。
退勤時、見かねた同僚の佐伯が加藤を夕食に誘う。乗り気では無かったがあの家に帰る気にもなれなかったので同僚と近場の居酒屋に入ることにした。
「で? そんなに死神みたいな顔して一体何があったんだ?」
注文を一通り終えた後直球に質問する。佐伯は仕事もできるし人懐っこく誰にでも好かれやすいがデリカシーに欠ける所がある。結婚して子供も一人いる佐伯は、独身生活中の加藤にとって住む世界が違う。しかし入社から仲良く今まで相談をしたり愚痴を話した関係だ。職場で心置きなく話せる相手と言えば佐伯しかいない。
加藤は返答に困った。昨夜の出来事を話したところで信じてもらえるのか。頭がおかしくなったと思われたくない。
「なんでもないよ。疲れてただけ。」
加藤は作り笑いをしながら答える。注文したビールを一気飲みし話題を変えようとしたが
「酒の弱いお前が一気飲みする段階でなにかはあっただろ。」
ぶっきらぼうに佐伯は言い放つ。こいつ観察力高いんだよなぁなんて思いつつ上手に話を逸らして飲み続けていた。2時間ほど話していたぐらいだ。
「最近さぁ嫁がすぐ怒るんだよ。例えばさ、俺が疲れて寝てる時に嫁が帰ってきたとするじゃん? そこでおかえりって言わなかっただけで怒るんだよ。しっかり挨拶をしないと子供に悪影響だからってよ。ただいまを言わない子になるとか言ってさ。勘弁してほしいよマジで。」
「おかえりとただいま、ねぇ。」
酔った佐伯の愚痴から現れた「おかえり」と言う言葉であの女を思い出す。ニヤニヤした顔で走ってくるあの女が…。またもや元気が無くなった加藤に心配する佐伯。
「大丈夫か? やっぱ何かあったんじゃないのか?」
もういいや。酔っていたこともあり隠す事を諦めた加藤が昨夜の出来事を話そうと顔を上げた時だった。
「なんでここにいるんだよ…!」
あの女がいた。
ニヤニヤした顔で佐伯の横に座っていたのだ。まるで最初から自分もこの会に参加していたかの様に。驚きで口を魚のようにパクパクさせてる加藤に佐伯が声をかける。
「お前今日一日おかしいぞ。明日は休んだ方がいいんじゃね?」
「あの家で休めるわけない! 昨日からなんなんだよ、誰なんだよ…」
加藤が泣きながら叫ぶ。店内で注目の的になり居心地が悪くなった二人は会計を済ませて逃げるように店を出た。駅までの道は二人とも無言で加藤はずっと下を向いて涙を流している。佐伯は最後まで加藤の心配をしており、「何かあったらすぐ連絡するように」と念を押して二人は別れた。
23時過ぎ、加藤は自分の家のドアとにらめっこしている。かれこれ1時間はこの状態で玄関のドアを開ける勇気がちっとも出なかった。このままでは不審者に間違われても仕方がない、早く家に入ろうと思っていても手が震えて何度も鍵を落としてしまう。汗ばむ手で次こそはとしゃがんで鍵を拾った。
「おかえり。」
あの女がドア越しに声を掛けてきたのがわかった。昨日と変わらぬ震える声で加藤の帰りを待っているのだ。加藤は徐々に苛立ちを覚えた。
「ここは俺の家だ。早く出ていけ。」
低く怒りのこもった声でドアに向かって叫ぶ姿は側から見ればかなりおかしく見えるだろう。そんな事を気にしてられるほど加藤に余裕はなかった。ドアの向こうの気配が消えた気がした加藤は深呼吸して鍵を回す。
カチャリ。
(誰もいない。いなくなったんだ。)
安心した加藤は佐伯に連絡して明日の仕事を休むことにした。次の出勤時に上司に嫌味を言われるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。今は休むことを優先すべきだと考え、就寝準備を急いで済ませ眠った。
その夜見た夢は最悪だった。あの女が何度もインターフォンを押して「ただいま」とニヤニヤしながら言ってくるのだ。そして俺は耐えきれなくなりベランダから…。
朝になりインターフォンの音で起こされる。まさかと思いつつも恐る恐るドアスコープを除くと管理人だった。
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そんなに鳴っているなら加藤自身が気付くはずだ。管理人の様子から見て嘘をついてそうにない。承諾した後、確認作業をしてもらっている間にふと昨日の夢は現実ではないかと考える。
「終わりました。特に以上は無さそうでしたね。もしかしたらイタズラかもしれないので気をつけてください。」
管理人は不思議そうに首を傾げて帰っていった。安いアパートなので監視カメラがあるわけでもなく、自衛するしかない。でも加藤はこの件がイタズラではないとわかっていた。むしろイタズラで済むのであればどれほど良かったことだろうか…。
その日加藤は獲得した休みを有意義に過ごす気にはなれなかった。ただあの女に怯える時間だけが過ぎていった。しかし何も起こらなかったのだ。震える「おかえり」の声もニヤニヤとした顔も加藤の前に現れることはこの日一度も無く次の日の朝を迎える。
「急に休むなんて最近の若いやつは甘い」
出勤してすぐ上司の嫌味が聞こえる。あの女より何倍もマシだと思いながら加藤は仕事をしていた。昼休憩の時佐伯に感謝と謝罪を伝え、「もう大丈夫だ」と話す。
「大丈夫なら良いんだよ。また行こうな。」
デリカシーに欠けてはいるが優しい佐伯に加藤は救われた気がした。加藤は何気ない平穏な日々の有り難みを噛み締めながら残りの仕事を終わらした。
退勤時、この前のお礼として佐伯を夕食に誘ったが今日は家族での予定があるとのことでコンビニに寄って帰ることにした。弁当を買い、階段を上がって自分の家の前に立つ。
「もう、大丈夫。」
一呼吸置いてドアの鍵を開ける。
カチャリ。
部屋の中は真っ暗で誰もいなかった。
「やっぱりな。終わったんだ。」
「おかえり。」
あの声が聞こえる。
加藤は思い切って部屋の電気をつけた。頭が真っ白になり、全身の血の気が引いていく感じがした。昨日は聞こえなかった、いなかったはずのあの女がニヤニヤしながら部屋の真ん中に立っているのだ。
「ああ、そうか。」
加藤はなぜ女が今日現れたのかに気づいた。そしてその時から、加藤は外に出ることをやめた。
「佐伯君さ、加藤君に何かあったのか知っているか?」
「僕にはなんとも…。今日帰りにあいつの家に寄ってみます。」
加藤が職場に来なくなって一ヶ月が経った。休職手続きもせず、無断欠勤だったので解雇処分になっている。最初こそ怒り心頭の上司だったが日が経つうちにどちらかと言えば真面目な方だった加藤の心配をしており、佐伯は一ヶ月前の居酒屋に行った日にしっかり聞き出せばよかったと後悔していた。ここ一週間は連絡も中々返ってこないので嫌な予感がしていたので加藤の家へ向かう。もしもの時に警察を呼ぶシュミレーションは、仕事中に何回も行った。
「ここ、だよな?」
佐伯は唖然とした。その部屋は置き配で山積みになった段ボール箱がドアを完全に塞いでおり、最初の方に置かれたであろう段ボール箱からは耐え難い異臭が放たれている。なんとかインターフォンを押そうとした時、管理人らしき人物が階段を上って加藤の家の前までやってきた。
「失礼ですが加藤さんの知り合いですか?」
「職場の同僚です。」
「良かった。私はここのアパートで管理人をしている藤崎です。実はもう一ヶ月前から加藤さんの姿を見てなくて、ここ二週間は連絡もつかなくなってしまったんです。部屋の前もこの有り様でご近所さんからのクレームも凄くて…。今後対処してもらえないのであれば立ち退きをお願いしようと今日来たんです。」
焦っているのか早く終わらせたいのか藤崎は早口で事情を話す。圧倒された佐伯は「はあ。」と言うしかなかった。とりあえず二人は加藤の部屋のインターフォンを押すことにした。
ビンボ…ン…。
かなり鈍いチャイムの音が鳴る。連日の宅配業者やクレームを言いにきた隣人等に強く押され過ぎて壊れてしまったようだ。そこから二人が何度押しても鈍い音が鳴るだけだった。居留守を使われているならまだいいが、もし中で加藤が死んでいたとしたら…。最悪の想像をした佐伯と藤崎は急いで段ボール箱をドアの前から移動させ藤崎が念の為にと持ってきた合鍵で加藤の部屋を開けようとした時だった。
「開けるな!!」
部屋の中から加藤の怒鳴り声が聞こえた。二人は顔を見合わせ、ひとまず生存確認ができて安心した。
「加藤、俺だ! 佐伯だよ。生きてて良かった。とりあえず中に入れてくれ。今管理人の藤崎さんも一緒にいる。」
「開けられない。」
「そんなに部屋の中が汚いのか? なら片付けないとだな。俺と一緒に二人で片付けたら早く終わるだろう。」
「加藤さん、今この場で申し上げにくいのですが最近加藤さんの部屋に対してクレームが殺到してまして…。早急に対処していただきたいのです。もし対処していただかないのであれば後日退去勧告を通知しますので半年以内にはこの部屋から退去していただくことになります。」
「この部屋からは出たくないんだ!!」
退去という単語を聞いて焦ったのか加藤は声を荒げながらドアを叩く。あまりに強くドアを叩いたので積み上げていた段ボール箱が雪崩れた。
「外に出ない! もしドアを開けたらまたあの女がいるんだ! 言うんだ! 俺はもうここから一歩も出ない。死ぬまでここに閉じこもってやるんだ!」
「わかった。加藤は部屋から出なくていいから俺が入る。部屋から出なければいいんだろう?」
「違う! 開けてもダメなんだ。最初はドアを開けるだけなら大丈夫だった。二週間前から開けただけでダメになったんだ。もう、本当に、ダメなんだよ…。」
大の大人がドアの向こうで「いる、いるんだ。」と泣きながら駄々をこねているであろう姿を想像して佐伯は戸惑った。管理人の藤崎もこの状況にどうすればいいのか悩んでいる様子だった。
「もう、開けましょう。」
戸惑いから苛立ちに変わった佐伯は藤崎から鍵を受け取り加藤の部屋の鍵を開けた。久々に鍵を刺したからなのか、積み上げられた段ボール箱で閉ざされていたせいなのか少し鍵穴が錆びていた。
ガチャリ。
ゆっくりドアを開けると玄関に座り込みながら泣いている加藤が目に入った。その姿は一ヶ月前共に会社で働いていた同僚とは思えないほど痩せて汚れて生きているのが不思議なくらいだった。
「何があったんだ?」
「開けてしまった。もう、限界だ。」
加藤が弱々しく呟いた時だった。
「おかえり。」
部屋中から聞こえる女の声。その声は待ち侘びていた再会に喜ぶかのようだった。
「…ただいま。」
加藤はそう言って立ち上がると涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔でニヤニヤ笑い始める。
「二人も早く言わないと。おかえりとただいまは、俺らの大切な挨拶だよ。」
その目は正気ではなかった。左右の目が違う方向を向いていて焦点が定まっていない。伸びた髭の先からは涎が垂れている。加藤は何度も「ただいま」と何もいないはずの天井に顔を向けながら呟いていた。二人は叫んで逃げ出した。加藤の「ただいま」と言う声は走り去って行く二人に掻き消される。
その後すぐ藤崎が警察を呼び加藤の家をもう一度訪れたが、加藤の姿はどこにもなかった。二人は事情を全て話したがあの「おかえり」という声は聞こえず警察が二人を不審に思っていることは明白だった。しかし警察も感じていたのだろう。この部屋になにかがいる気配を。足早に捜査を済ませた後加藤には行方不明届が出された。そしてあれから二ヶ月経った加藤の部屋には現在特殊清掃業者が入っている。
「この部屋の人って行方不明なんでしたっけ??」
「らしいな。どうも頭がおかしくなって家ほったらかして出てっちまったらしい。」
「へー。まぁこんな汚部屋だったら頭おかしくもなりますね。管理人さんの話ではドアの前もヤバかったらしいですし。てか管理人さんも相当ヤバくなかったすか?」
「お前なぁあんま余計なこと話すなよ。ま、あの顔はかなりヤバかったな。現場に来た初日にいきなり『おかえり』って言われたもんな」
雑談をしながら作業を進める清掃員。彼らもまたあの声を聞くことになるのかはまだわからない。ただ一つ言えるのはこの部屋には確かに「なにか」がそこにいるということだ。
ー終ー
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主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
10秒で読めるちょっと怖い話。
絢郷水沙
ホラー
ほんのりと不条理な『ギャグ』が香るホラーテイスト・ショートショートです。意味怖的要素も含んでおりますので、意味怖好きならぜひ読んでみてください。(毎日昼頃1話更新中!)
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