裸足の願い

蒼山 サキ

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サトル

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「楠木さん!男性の遺体、死亡解剖が終わって身元が判明しました!今から緊急会議だそうです!」

 8月17日金曜日。捜査課に到着してまだ机にも座っていない。林が大声で出勤したばかりの楠木に報告する。慌てて走って息が上がったのか、肩が大きく上下に動いていた。楠木と林は急いで会議室に向かい身元の説明を受ける。
 被害者の名前は篠田悟しのださとる。42歳独身。父親は他界。母親は認知症が進んで2年前に兵庫県西宮市の特別養護老人ホームに入所している。
 サトルは西宮市で会社員をしていた。蘭のオーナーが言っていた通りだった。マンションやアパートの管理会社で、入社して5年になる。しかし同僚からの印象はあまり覚えていないと言う意見が多かった。

「篠田さんですか。あまり話したこと無いんですよね。飲み会にも参加してなかったし。昼飯も1人で食べてすぐどっか行ってたから話しかけられたくないんだろうなと思って。悪い人じゃないんでしょうけど、近寄り難い雰囲気はありましたね。」

「篠田さんと話していた方とかいませんか?どんな些細なことでも構わないんです。」

「うーん…。業務内容を話す事はあっても、プライベートの話をしているところは見たことないないですね。篠田さんが死んだって聞いた時はビックリしましたけど…。正直悲しんでる人は見てないですね。」

「そうですか…。お忙しい中ありがとうございました。」

 他の同僚や上司も皆似たような反応だった。自分の職場の人間が殺人事件に巻き込まれたという事実に驚愕はしたが、サトル自身を哀れむ人はいなかった。
 サトルはこの会社で孤独だったのだろうか。もしかしたら会社だけでなくプライベートでも、藤木以外の人間とあまり関わりが無かったのかもしれない。
 会社から車で10分の場所にサトルは住んでいた。8階建てのマンション。元々はサトル、父親、母親の3人で暮らしていたらしい。楠木と林はマンションに向かいサトルの部屋を調べることにした。
 事前に連絡してあったマンションの管理人に鍵を開けてもらう。ついでに楠木はサトルが握っていた鍵を管理人に確認してもらった。

「この鍵の形は、うちのマンションじゃありませんね。最近マンションの鍵を全部屋ディンプルキーに統一したんです。」

「篠田さんご自身で鍵を変えられた可能性は?」

「それは無いと思いますね。ご自身で鍵を交換される場合は事前にこちらに連絡してもらうルールなんです。いざという時に困りますからね。」

 管理人の言ういざという時とは、まさしく今なんだろう。顔が強張っていた。
 サトルの部屋の鍵でないのならば、この鍵は一体どこの鍵なんだ?祈願荘103号室の鍵で無いことは事件発覚時に楠木が確認していた。サトルが握っていた鍵を見つめている間に管理人がドアを開ける。
 502号室。部屋の間取りは2LDK。家族3人で住むには申し分ない広さだった。
 玄関から右手は順に寝室、トイレ、脱衣所がある。左手には和室があるが、管理人曰く元々はフローリングとのこと。どうやら畳は後からホームセンター等で買ってきてリフォームしたらしい。6帖の和室には仏壇しか置いていない。仏壇の扉は閉まっていた。廊下に戻り奥に進む。ドアを開けると右手にキッチン、奥はリビングルームになっている。広さは15帖。生前はサトル1人で住んでいたからか物は少なくガランとしていた。生活家電や家具は必要最低限で、どれも使い古されている。衣類や食器も1人分しか無かった。

「藤木の家とは違って害虫がいませんね。ゴミも毎週しっかり出しているようです。」

「部屋は綺麗だな。この部屋の住民がよくあの藤木の部屋に行けたもんだよ。」

「それだけサトルは、藤木真由に惚れてたのかもしれませんよ。なにせ…。」

 林が急に黙り込んだ。

「どうした?何かあったのか?」

 楠木は林の目線の先を辿った。キッチンラックがある。一番下の段に水色のリュックサックがあった。子供用だ。黄色い名札が付いている。そこには平仮名で「やまぎしひかる」と書かれていた。

「楠木さん。篠田も独身のはずですよね?」

「戸籍は藤木と同様独身だ。」

「ではなぜここに子供のリュックがあるんですか?」

「そんなもん俺が知るわけないだろ。とりあえず中身を見るぞ。それから念の為、本部にやまぎしひかるって子の行方不明届けが出されていないか聞こう。」

 本部に連絡した2人はリュックサックの中身を床に並べた。
 中身はTシャツ、ズボン、下着が5枚ずつ。靴下もペアで5セットあった。その他には最近小学生の間で人気とテレビで流れていた漫画本が2冊。筆箱が1つ。中身は鉛筆、ボールペン、消しゴム。それとノート1冊が入っていた。このノートには漫画に出てくるキャラクターの絵が描き映されていた。空白のページがまだ半分くらい残っている。

「絵を描くことが好きなんですかね。」

「このキャラクターが気に入ってるんだろう。最近小学生に人気だってテレビでやってたぞ。」

「ノートに描かれているのはキャラクターだけじゃないですよ。ほら。」

 林は楠木にノートを開けて見せて、ページの端を指差す。キャラクターの他に点々と魚や海洋動物が小さく描かれていた。中でも一番多く登場していたのはイルカである。ジャンプしている姿、泳いでいる姿、寄り添い合ってまるで親子のような姿。様々なイルカが全て黒い鉛筆で描かれていた。
 最後のページには「家ぞく」とタイトルを付けて絵が描いてある。真ん中に短髪の子供、左側には黒く長い髪をした女性、右側には眼鏡をかけた背の高い男性。全員スマイルマークのような顔をしていた。
 子供の両サイドに描かれている人物は恐らく両親だろう。この絵のタイトルは「かぞく」だ。この子供はまだ「族」という漢字を書けないかもしれない。

「この男性の絵はサトルをモデルにしてるんですかね?同じ様に眼鏡をかけてます。」

「そうだとすれば隣の女性はサトルの妻?籍を入れていない妻と子供がいたってことか。」

 仮にサトルにひかると言う名前の子供がいたとする。ひかるは今どこにいる?母親の元へ帰ったのか?まさか、誘拐された…?
 頭の中に嫌な妄想が浮かんできた時、楠木のスマートフォンから着信音が鳴った。画面には「鑑識 加川」の文字。加川祐介かがわゆうすけは楠木が捜査官になった時からの付き合いだ。同い年の楠木と馬が合う数少ない存在だ。

「よお楠木。今どこにいる?」

「林と一緒に篠田のマンションを調べている。家の捜査が終わったらサトルが契約していた駐車場に向かう予定だ。そっちは何かわかったのか?」

「回収した物品から出てきた指紋や部屋に落ちていた毛髪の検査結果が出た。どうやら俺達が思ってる以上にこの事件は複雑らしいな。詳しくは署で話してもいいか?」

「わかった。引き上げてすぐ向かう。ここからそっちまで30分くらいかかる。少し待ってくれ。」

 電話を終えてから2人は部屋を出る。廊下に出て扉が開いたままの和室の前を通った瞬間、楠木の目玉は誰かを捉えた。
 視界の隅に、誰かいる。確認しなければと思うが体が動かない。声が出ない。暑いとか寒いとか関係のない汗が一気に噴き出す。生まれて初めて感じる恐怖に楠木は戸惑った。頭の中に緊急警報が鳴る。

 見るな。みるな。みルな。ミルナ。

 必死に目玉を動かして視線を正面に戻す。目の前を歩いてる林の動きがスローモーションに見えた。

 首を動かせた!よし、このまま外に出れたら…。

 楠木は少し安堵した。前を歩いていた林の後を追う。すると林が素早く後ろに振り返り、口を動かす。しかしその顔は今まで一緒に部屋を調べていた林夏樹の顔ではなかった。勢いよく首を回したせいなのかバキッと歪な音が鳴った。
 大きく横に開けた口は裂けていて歯は西洋の悪魔みたいにギザギザしている。剥き出しの歯茎からは黒い血が流れていた。顔中には刃物で切り刻まれたであろう傷があり、所々血が滲んでいる。目は白目を剥いているのか真っ白に濁っている。

「林…?大丈夫、な訳ないよな。」

 林であろう者に呼び掛けた声は掠れて裏返る。大きく開かれた口がゆっくり動く。返ってきた声は林の声ではなかった。喉から出している音とは到底思えない。地獄の底から響いているようだ。

「さガァ…セ。」

 さがせ?探せだと?この化け物は何を言っているんだ。

「わだシの、ゴをヲ、ハヤぐ…ザがぁせェ。」

 ノイズが酷いうえに声が低過ぎて聞き取り辛い。これ以上見ていられない。気がおかしくなりそうだ。早くここから消え去りたい。こいつは何が言いたいんだ?私の何だ?何を探してほしいんだ?

 混乱している楠木の耳にギギギ…と何かが開く音が入る。音の出処は和室からだ。音に気を取られた途端、体が軽くなった。動ける。
 楠木は急いで和室に入ってドアを閉める。音が止んだ。足音も聞こえない。跳ねる心臓を鎮めようと大きく深呼吸する。この和室は先程妙な気配を感じた場所だ。でも今は先程視界に捉えた人影よりも林の方が恐ろしかった。
 電気が点かない。窓の隙間からは赤い陽の光が差し込む。時刻は夕方を過ぎていた。差し込む光の中に仏壇がある。その扉が開いていた。周囲を見渡しながら徐々に落ち着きを取り戻す。

「この仏壇、さっきは閉まっていたよな。」

 林と一緒に見た時は閉まっていた。楠木が聞いた何かが開く音は仏壇の扉が開く音だった。中は埃が被っている。御供物は何も無い。位牌の横にサトルの父親らしき男性のカラー写真が飾られていた。
 70代とみられる痩せた男性だ。口を真一文字に閉じてこちらを睨み付ける。一重で細い目元がサトルに似ていた。写真を近くで見ようと仏壇に顔を近付ける。その時楠木は写真スタンドに何か挟まっていることに気付いた。
 女性の写真だ。20代後半から30代前半の間だろう。微笑むような表情でこちらを見ており、目は丸みを帯びている。髪は黒く綺麗なストレートヘアーだ。
 写真の裏には「kanon」とローマ字で書かれている。この女性の名前だろうか。楠木は手掛かりになりそうな写真をジップロックに保管する。そして胸ポケットに入れた。

「…静かだな。」

 和室の中は静まり返っていた。早く本部に戻ろうと思っているが、ドアを開ければ先程の化け物(林?)が口を開いて待ってるかもしれない。楠木は中々外に出られずにいた。気合を入れる為にドアの前で自らの頬を叩く。決意した。大きく息を吸う。

「林!起きろ!戻るぞ!」

 返事は無い。物音も無い。そこに誰かが、何かがいる気配は無かった。楠木はゆっくりドアを開ける。
 誰もいない。廊下には大きな血溜まりができていた。楠木は呆然と血溜まりを見つめた。

「おい楠木、何があったんだ?なっちゃんはどうした?」

 血溜まりを見つけた後、楠木はすぐに応援を呼んだ。部下が消えたのだ。自分1人でどうにか出来る自信は到底無かった。
 駆けつけてきた警察官の横には加川もいた。青褪めた顔をしている。中々戻ってこない楠木と林を心配していたのだ。

「わからない。急に様子がおかしくなって消えた。」

 上手に説明できない。頭の中を整理しようとしても出てくるものは恐ろしい顔だけだった。
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