裸足の願い

蒼山 サキ

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付き纏う怪異

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 楠木は今自分の家のソファに座っている。応援を呼んだ後本部に戻った。捜査を続けなければと加川に鑑識の結果を促したが翌日ということになった。

「楠木。今日はもうやめといた方がいい。家に帰れ。」

 本部に戻った時刻はPM9時を過ぎていた。楠木は加川に反論したが「しっかり休まないなら結果は教えない。」と強く言い返され、渋々帰宅したのだった。

 不可解な殺人事件。子供の痕跡。恐ろしい顔をした化け物。そして消えた部下。
 楠木の思考回路は停止寸前だった。確かに今の脳味噌で結果を教えてもらったところで理解が追いつかなかっただろう。心の中で加川に感謝した。
 風呂に入り、遅めの夕食を終えた。食欲は無かったが冷凍炒飯を電子レンジで温めて無理矢理胃袋に詰め込んだ。味は分からなかった。日課の養命酒も今日は飲む気になれない。
 そろそろ日付が変わる。早く寝ないといけないとわかっていても中々ベッドに向かえなかった。ソファに座りテレビの電源を入れる。ぼんやり眺めているといつの間にか寝落ちしていた。

 AM2時頃。パリンとガラスが割れる音で楠木は目覚めた。音は近くから聞こえた。不審に思った楠木は寝違えた腰を摩りながら立ち上がる。
 キッチンに向かう。何も割れてない。放置された皿やコップはそのままの状態だった。
 リビングルームのドアを開け、薄暗い廊下を覗く。冷房の風が届かないからか熱気が籠っていた。いつもと同じ景色なのに不気味に感じる。今日の出来事が楠木を弱気にさせていた。恐る恐る電気のスイッチを押す。
 明るくなった廊下に恐れていた化け物の気配は無かった。異常も無い。安心して全身の力が抜ける。気のせいだと自分に言い聞かせ就寝準備を済まし寝室に向かった。
 寝室に足を踏み入れた途端、ズキっと右足の裏に痛みが走る。踵に何かが刺さっていた。硝子の破片だった。寝室の床をよく見ると小さな石も転がっている。
 寝室にはベッド、クローゼットしかない。割れ物は置かれていなかった。

「どうして床にこんなもん落ちてんだよ…。」

 楠木の恐怖が追加された。踵に刺さった硝子の破片を抜き、溜め息を吐く。見下ろしていたってこの破片達は消えてくれないだろう。仕方なく無心で床の掃除を始める。何も考えたくなかった。これ以上不可解な出来事はもう沢山だ。
 手を切らないように気を付けながら拾っていく。破片や石の大きさはバラバラだ。手際よく袋に入れて片付ける。最後の破片を拾った。大きさは約10センチ。
 この硝子達は何処から来たんだ?考えないようにしていたが疑問が浮かんでしまった。楠木は手に持った破片を眺める。その時何かが映った。顔だ。その顔は楠木ではなく、化け物だった。
 サトルの家で見た時と同じ顔。口は大きく横に開かれ裂けている。その中からギザギザの歯と黒い血の滲む歯茎が見えていた。顔中は切り傷だらけだ。真っ白な目が楠木を睨んでいる。

「うわああああ!!」

 絶叫しながら最後の破片を壁に投げつけた。パリンと小さく音が鳴ったと同時に楠木は意識を失った。


「ママ!今日は何の日か覚えてる?特別な日だよ!」

 小さな子供がベッドの横で無邪気に飛び跳ねている。髪の長い女の子だ。目は丸く大きく見開いている。楠木は重たい体を起こし首を傾け「わからない。」と答えた。

「もう!忘れん坊なんだから!ママの誕生日だよ!」

 ママ?俺はママじゃないぞ。俺に子供はいない。そして第一に男だ。
 困った顔で周りを見渡す。少女の奥にある窓の外では雨が降っていた。白いベッドの横には薄緑色のカーテンが掛かっている。煌々と光る蛍光灯が眩しい。隣のベッドに看護師が様子を見に来た。
 どうやら俺は病院にいるらしい。いつの間に運ばれてたんだ。それにしても視界が狭い。この黒い物はなんだ?髪の毛か?俺はこんなに髪の毛長くないぞ。
 疑問に思った楠木が頭を触ろうとシーツから手を出した時だった。

「え…?」

 褐色肌で毛が生えた楠木の腕ではなかった。今楠木が動かしている腕は色白で細い。更に青白い血管が浮き出ている。誰がどう見ても女性の腕だった。慌てて近くに置いてあった手鏡で顔を見る。

「誰だ?」

 鏡には見ず知らずの女性が映っていた。顔色は悪く痩せ細り、目が窪んで唇の色は真っ青だ。まさしく病人の顔だった。左頬には大きな切り傷の跡がある。楠木は鏡を見ながら顔を触った。

「ママどうしちゃったの?お薬のせいで全部忘れちゃったの?」

 少女が泣きそうな表情で楠木の顔を覗き込む。大きな目からは涙が溢れそうだ。
 この母親は病気なんだろうか。こんな小さな子がいるのに…。
 震える少女の頭を、知らない女性の手で撫でた。細く柔らかな髪が指に絡まる。今自分が誰になっているのかもわからない。この少女の名前すら知らない。それなのに何故だか楠木は涙が出そうになった。

「夢か。」

 8月18日土曜日。AM5時30分。ポケットに入れていたスマートフォンからアラームが鳴る。目から涙が流れていた。楠木は寝室の床で目覚めた。固い床の上で寝ていたからだろう。体の節々が痛む。踵の傷には瘡蓋が薄く張っていた。
 さっき見た夢は何だったんだ。俺は誰になっていたんだ。そして見覚えのない病院に少女。夢の続きさえ見れたら少しでも答えがわかるのだろうか。
 頭を掻き毟りながら立ち上がる。夢の内容で悩んでいる場合ではない。今日は加川に鑑識の結果を教えてもらう日だ。準備しなければ。
 痛む踵に顔を歪めながら洗面台に向かった。いつも通りに顔を洗って髭を剃ろうとする。鏡を見ようとしたが躊躇った。
 もし化け物が映っていたらと考えると中々見れない。楠木は薄目で鏡を見る。そこには筋肉質で無精髭が生えた49歳の男が映っていた。

「いつもの俺だ。」

 楠木は安堵して準備を始めた。温かいコーヒーを飲む。朝食は食べる気になれなかった。
 自宅の駐車場に向かい車に乗る。サイドミラーを直視することも気が引けた。窓から顔を出して後方を確認する。異常は無い。エンジンを掛けて本部に向かった。
 本部に向かう道中。化け物がまた現れるのではないかと緊張していた。こんなに緊張しながら運転するのはいつぶりだろうか。初めての路上運転でもここまで緊張はしなかった。運転中、ミラーを確認する度に心臓の鼓動が少し速くなる。寿命が縮まりそうだ。
 緊張とは裏腹に車は何事もなく本部に到着した。駐車場に到着した楠木はしばらく放心状態だった。手首が腱鞘炎のようになっている。強くハンドルを握り締めていたからだろう。
 あの化け物はもう満足して消えてくれたのだろうか。僅かに期待したが、すぐさま頭を横に振って「そんな訳ない。」と力無く笑った。
 しかし化け物や夢のことばかり考えてはいられない。殺人事件は未解決のままだ。犯人の目処も立っていない。子供の正体も行方もわからない。極め付けは一緒に捜査していた部下が失踪。化け物や夢を抜きにしても問題が山積みである。

 捜査課に到着した楠木はまず自らの机に向かう。林がまとめてくれた資料を持つ。そして5階にある会議室に向かった。加川に昨日教えてくれなかった鑑識の結果を聞くためだ。
 会議室のドアを開ける。そこには押収した証拠品についての資料が机の上に並べてあった。部屋の壁に取り付けられたホワイトボードには被害者2人の写真が貼られている。下の方に警察手帳で使われている林の写真も貼られていた。
 「やまぎしひかる」の写真は無い。平仮名で名前が書かれているだけだった。その名前の横には「?」マークが書かれている。行方不明届は出されていなかったのか。一体誰の子供なんだ。
 固いパイプ椅子に腰掛け大きく伸びをする。壁に掛かっているアナログ時計を見る。時刻はAM8時27分。加川が来る時間まであと30分はある。並べてある資料を読みながら待った。
 会議室のドアが開く音がした。楠木は時間を確認する。先程時計を見てから5分しか経ってない。

「早めに来てくれたのか。わざわざすまんな。」

 楠木は声を掛けながら入り口の方へ顔を上げた。そこには誰も立っていない。誰の手も触れていないドアが勝手に閉まる。嫌な予感がした。全身が粟立ち、血の気が引いていく。冷や汗が止まらない。
 パリンと何かが割れる音。勢いよく立ち上がって周囲を警戒した。周りには誰もいない。心臓が痛むほど鼓動が速くなる。昨晩怪我をした踵がズキズキと痛む。
 突然会議室のカーテンが波打つ様に大きく揺れる。窓は閉まっているはずだ。何故こんなに揺れているんだ。楠木はカーテンから目を逸らせずにいた。その下には硝子の破片と石が散らばっている。
 シャッと軽い音を立ててカーテンが開く。そこにはあの化け物がいた。昨日楠木が見た化け物は相変わらずの形相で此方を睨んでいる。病人が来ているような白いガウンを着ていた。そのガウンには血がベッタリと塗られている。
 今楠木がいる会議室は5階だ。生きている人間が道具も無しで立っていられる訳がない。
 いや違う。化け物は外で浮いているのではない。俺の後ろに立っているんだ。今俺が見ている化け物は窓に映っているだけだ。
 恐怖と同時に怒りが沸いてくる。楠木は歯を食い縛り、振り返って叫んだ。

「お前は一体、俺に何を伝えたいんだ!」

「ごヲ、ワタしの、ひがル、ザが、しテ…。」

 目の前にいる化け物に低い声で訴えられる。ノイズも酷い。ずっと聞いていると鼓膜が破れそうだ。両手で耳を塞ぐ。なんとか聞き取れた台詞を頭の中で再生する。

 子?私のひがる探して?

 楠木は閃いてホワイトボードに目を向けた。やまぎしひかる。もしかするとこの化け物は、ひかるを探しているのか?ひかるの母親なのか?
 楠木が聞き返そうとした時、会議室のドアが開いた。

「すまん!遅くなった!今すぐ始めよう!」

 書類を抱えた加川が汗まみれでドアの前に立っていた。かなり急いで来たのだろう。額に薄い前髪が張り付いている。
 加川が会議室に入った瞬間化け物は楠木を睨みながら徐々に消えて行った。その顔は苦痛で歪んでいた。
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