裸足の願い

蒼山 サキ

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線路は続く

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 姫路駅に到着した楠木は豊中駅、梅田駅で行った防犯カメラの映像確認作業をする為に駅員室に向かう。駅員室に入ると駅長が立ち上がり挨拶をする。駅長の横には大きなモニターが用意されていた。

「こちらの映像が8月12日の夕方の分になります。」

 駅長が映像を流しながら説明する。この日は人身事故の影響で寺前駅の路線で運転見合わせになっていた。映像の中の光は電車が中々到着しない事に戸惑っているように見える。
 何度もメモを見直しながら歩き回っていた。同じくホームで足止めを食らっていた男性に声を掛けている。恐らく何故電車が到着しないのか聞いているのだろう。男性は光にスマートフォンの画面を見せながら状況を説明していた。
 光は男性にお辞儀をした。駅長にこの日の人身事故について聞くと、この時間だと電車が到着するまであと1時間は掛かったとの事だ。
 駅の中を見渡しながら歩いている。そして改札口の前で切符を見つめて止まった。駅から出る気なのか?楠木はモニターを凝視する。
 光は切符を改札口に入れて通り抜けた。その動きに迷いは感じられなかった。
 改札口を抜け南口方面へ階段を降りていく。降りた先にはバスロータリーがある。光は傘を差しながらバスロータリーに設置されているバスの時刻表を見つめていた。姫路駅から寺前駅に直接向かうバスは無い。光が停車していたバスの運転手に向かって話し掛けた。話し終えた光は駅に戻り、駅を越えて反対側にある北口方面に向かって歩いている。
 楠木は防犯カメラの映像を切り替えながら光を追う。一体何処に向かう気なんだ。光は北口を出た後、線路に沿って歩き出している。

「まさか、此処から歩いて神河町まで向かったのか!?」

 スマートフォンの地図アプリを使って調べると大人の足でも約7時間は掛かる事が判明した。楠木は姫路駅から寺前駅に停車する駅全ての防犯カメラを用意してもらう。早送りで再生しながら光の姿を探したが何処にも映らなかった。
 光と話していたバスの運転手を調べてもらい、連絡をする。運転手はすぐに駅員室に駆け付けた。楠木はモニターを見せながら事情を伺う。

「停車中に話してきた女の子ですね。覚えてますよ。あの日確か人身事故で運転見合わせになってたんですよね?この子『電車が来ないから神河町までバスで行きたい。』って言ったんですよ。直接向かうバスは無いうえに最終バスの時間も迫っていたので電車を待つ事を勧めたんですが…。」

 電車を待つ事を渋っている光にバスの運転手は、早く向かいたいならタクシーを使うのはどうかと尋ねたらしい。

「そしたら財布の中から小銭を出して『こんだけしかないの。』って。100円も無かったと思います。そもそもその金額じゃバスにも乗れないと言ったんです。心苦しかったですが、決まりなんでね。」

 小銭を財布に戻すと光は神河町まで歩いていく道を聞いた。運転手は線路沿いを歩けばいずれ到着すると答えたと話す。

「親に連絡してあげようかと聞いたんですが『公衆電話を使うから大丈夫です。歩いていく方法が気になっただけ。』と言われまして…。本当に歩いて向かうだなんて思わなかったです。」

 バスの運転手から当日の状況を聞き終えた。光が公衆電話を使って児童養護施設に連絡した日時は8月13日月曜日の昼頃。前日の夜に着信履歴は残っていない。
 光はきっと財布の中に入っていたクレジットカードの存在を知らなかったのだろう。財布の中に現金が無くなった時、電車もバスも、タクシーも使えないと思った光は最初から歩くつもりだったに違いない。
 楠木は光と同じ道を、同じ方法で辿ると決めていた。何か手掛かりが見つかるかもしれないと考えての事だった。しかし7時間の道のりを歩くとは想定していなかった。

「7時間…。」

 腹を括った。光の行方を探す為だ。ここまで来たら、仕方がない。それに光が歩いた時間もきっと夜のはずだ。
 楠木は加川に電話を掛けた。部下の林が失踪している状況で頼れる人物は加川しかいなかった。

「すまん、加川。今日夜中まで空いてるか?頼みたい事がある。」

「夜中?何するんだ?」

「歩くんだよ。」

 楠木は加川に姫路駅から寺前駅までの線路沿いにある道路の防犯カメラの映像を見るように指示をする。暫くすると加川が椅子に座りパソコンの電源を入れる音がした。楠木が加川に連絡したのは姫路駅から防犯カメラの映像を使って光の行方を追うためだ。

「俺、鑑識課なんだけどなぁ。」

 加川は文句を言いながら楠木のパソコンを操作する。パソコン内のデータにある防犯カメラの映像フォルダを開いた。最後に姫路駅で光の姿が映った時間に合わせて早送りで再生する。

 8月12日PM7時36分。大通りを歩く光の姿が映っている。徐々に人通りが少なく、暗くなっていた。交差点を越えて先に進んでいる。

「楠木、ダメだ。この先川沿いになっていて防犯カメラが設置されていない。次にカメラがあるのは幸町の交差点だ。」

 幸町までは歩いて20分程の距離だ。楠木は加川に幸町から次の防犯カメラまで光を追うように伝える。そして楠木は線路沿いを歩き始めた。途中で川が見えてくる。なるべく線路から離れないよう気を付けながら進んだ。
 幸町に到着した楠木は加川に電話を掛ける。次の防犯カメラが途切れる場所まで歩く。そしてまた電話を掛けて確認して…。この作業を何度も何度も繰り返した。
 作業開始から2時間が経過した。今のところはまだ光の行方を追えている。光はバスの運転手に言われた通りに線路沿いを歩き続けていた。途中迂回しなければならない道もあったが、問題無く線路沿いに戻る。
 2時間歩き続けた楠木は疲れ果てていた。足が棒のようだ。そんな汗だくの楠木を電車が追い越す。

「あの子は雨の中この道を歩き続けたのか…。」

 独り言を呟きながら進んでいるとスマートフォンの着信音が鳴った。画面には「公衆電話」と表示されている。

「…もしもし?」

 スピーカーの向こうからザーザーと雨の降る音がしている。声は聞こえない。今日は全国的に快晴だ。日本で雨が降っている場所なんて無い。
 身構えた瞬間に通話が終了した。通話時間は15秒。公衆電話が10円で掛けられる秒数だ。

 きっと今の電話は光からだ。光が俺にメッセージを送っているんだ。ということは、あの子はもう…。

 体の力が抜けていく。両手を垂れ下げ、膝から崩れ落ちてしまった。涙で視界が霞み始める。耐え難い絶望で挫折しそうになる。

「止まってはダメだ。絶対に探さないと。」

 折れかけた心を奮い立たせる。光を見つけなければ林はきっと帰ってこない。楠木は次の防犯カメラがある香呂駅まで走り出した。
 香呂駅に到着する。周りには自動販売機と公衆トイレが設置されているだけで、その他は何も無い小さな駅だった。到着した楠木は息切れをしながらスマートフォンを取り出して電話を掛ける。

「今、香呂駅に、着いた。」

「了解。お前凄い息切れしてるな。大丈夫か?」

「大丈夫だ。少し、走っただけだ。」

「もう年なんだから無理はすんなよ。それと山岸光なんだが香呂駅に到着してから5時間ぐらい動きがない。入口の横に自動販売機があるだろ?その前にあるベンチで寝転がっている。次に動き始めた時間は朝の4時30分だ。」

 此処で休憩していたのか。寝てしまったのかもしれない。散々歩いて疲れ果てていたのだろう。最終電車も終わり、人気の無い田舎の駅なら朝まで見つかる事なく過ごせたに違いない。
 加川曰く、ベンチに座っていた光はボディバッグから豊中市のコンビニで購入したお茶と菓子パンを取り出した。菓子パンを食べ終えた後はお茶を少しだけ飲む。そしてそのまま寝入ってしまう。朝日が昇るまで目を覚ます事は無かったらしい。
 目を覚ました光は残っていたお茶を飲み干し、ゴミ箱に捨てた。あと4時間以上は掛かる。飲み物も無しで夏の暑い日を歩き続けるのは過酷だっただろう。
 楠木は自動販売機でブラックコーヒーを買い、光が寝ていたとされているベンチに腰掛けようとした。

「ん?何か落ちてるな。」

 ベンチの下を覗き込む。そこにはストラップが落ちていた。水色のイルカ。口先にはマグネットが付いている。楠木は児童養護施設ひかりの家の施設長、宮本の話を思い出す。
 去年サトルとの一時帰宅から戻った光はお土産にストラップを買ってきている。お揃いだと言って大事にしていたと宮本は話していた。

「このストラップはあの子の物か。」

 楠木はストラップをポケットに入れた。ベンチに座る事なくブラックコーヒーを飲み干して再び歩き始める。辺りはもう真っ暗だった。
 街灯が少ない闇の中。光が歩いた道のりを辿る。夏の虫達が涼しげな音色を奏でていた。
 加川と連絡を取り合いながら順番に防犯カメラの場所に向かう。長時間歩いたせいで靴底が擦り減り、裸足に近い感覚だった。直接地面を歩いているようだ。
 姫路駅を出発して6時間が経過した。あと1時間程で寺前駅に到着する。道案内をしている加川の声も疲弊していた。
 楠木はただ線路沿いを歩く。疲れたという感情はとっくの前に消え去っていた。
 途中で見つけた格安の自動販売機で水を買う。1本80円だ。光も此処で飲み物を買ったのだろう。施設の固定電話に電話が掛かってきたのは1度だけ。公衆電話から1度しか電話を掛けられなかったのは10円玉しか残っていなかったからに違いない。
 11駅分の距離を歩き、無事目的地である寺前駅に到着した。加川に電話を掛ける。スマートフォンのバッテリー残量は残り20%を切っていた。時刻はAM5時9分。空が少し明るくなってきている。
 寺前駅は特産品が販売されている観光案内所や、小さなコミュニティホールがある。その前にはバス乗り場があった。周辺には飲食店やコンビニがちらほら並んでいる。

「加川、起きてるか?今、寺前駅に着いた。」

「ああ、カフェインがぶ飲みしながら耐えてるよ。到着おめでとう。」

 欠伸をしながら加川が話す。楠木が寺前駅に到着するまでの間、加川は寺前駅に着いてからの光の行動を追っていた。
 光が寺前駅に到着した時刻は8月13日AM11時32分。その頃には雨はすっかり止んだいた。バス停の時刻表を眺めていたが金が足りない事を思い出した光は公衆電話ボックスの中に入る。
 公衆電話ボックスの中でサトルのボディバッグを漁る。中からB5サイズの紙を取り出した。10円を入れて紙を見ながらダイヤルボタンを押す。耳に緑色の受話器を当てていた。
 数秒後、受話器に向かって何か話している。恐らく施設に掛けた時だろう。時間も合っている。あの時電話に出たのは宮本では無く子供だった。要件を伝える前に電話が切れてしまう。光は受話器を見つめながら呆然と立っていた。
 その後、何度も発信ボタンを押していたが繋がらない。それもそのはず、光は金を入れていないのだ。繋がる訳がなかった。財布をひっくり返すも、中から出てきたのは5円玉1枚だけだった。
 落ち込みながら公衆電話ボックスから出てくる光が防犯カメラに映る。財布をボディバッグに入れて持っていた紙を見つめていた。
 急に「お知らせボード」と掲げられている看板に向かって歩き始めた。貼られている町内案内図の前で立ち止まる。10分程眺めた後再び歩き始めた。向かっていたのは町の方向だ。

「駅から離れると防犯カメラの数が一気に減る。今俺らがアクセスできる防犯カメラにあの子が映っていたのは1台、役場の前だけだ。それ以外に映っていない。」

 加川の話を聞いて楠木は看板に向かい、町内案内図を見つけた。縦横1メートル程の案内図には観光スポットや学校、病院等が分かりやすいイラストで表記されている。
 児童養護施設ひかりの家がある場所は案内図には載っていなかった。施設は町から少し離れた場所にある。そしてその近くには宮本が行方不明届を提出した交番があった。
 まず楠木は最後に光が映った防犯カメラがある町村役場に向かう。駅から歩いて10分程だった。3階建ての白い建物が低い塀に囲まれている。入り口の門は少し錆びていた。開門時間はAM8時だったのでそれまで門の前で待つ事にした。
 門の横にある提示板には「行方不明、情報求む」と書かれたポスターが貼られている。ポスターの写真には光が写っていた。
 AM7時を過ぎた頃に職員が続々と出勤してきた。門前で待っている楠木を怪しげに見ている。楠木は職員に挨拶して事情を話し始める。事情を理解した職員は役場の中に案内してくれた。冷房がまだ効いていない館内は、生温い空気を漂わせている。
 光が訪れた8月13日はお盆休みの期間だった為、閉門されており町村役場に人は居なかった。職員から情報は何も得られなかった。

「行方不明になっている女の子ですよね。役場にも写真が送られてきました。まさか此処の前を歩いていたなんて。我々もお巡りさんから情報を貰って、町の提示板に山岸光さんのポスターを貼ったりしました。ですがまだ何も連絡は来ていません。お力になれず、申し訳ありません。」

「謝らないでください。皆さんは何も悪くありませんから。」

 職員を慰めた後、楠木は捜査を続けようと役場から出る事にした。涼しくなった館内を歩いて自動ドアの入口で止まる。

 パリン。

 硝子の割れる音がした。まさか、佳音か!?
 
 慌てて振り返ると花瓶が割れていた。パンフレットを持っていた職員の肘が花瓶に当たってしまい、割れたらしい。職員が謝りながら硝子の破片を片付け始める。

「手伝いますよ。」

 職員を手伝おうと近付いた。楠木は慣れた手付きで破片を集め、パンフレットを拾い上げる。パンフレットには「お中元カタログのご案内」と書かれていた。
 
 お中元…お盆…墓参り…お墓…。無縁塚。

 楠木の脳内で連想ゲームが行われた。パンフレットを渡した職員が楠木に感謝を伝えて立ち去ろうとする。慌てて引き止めた。

「この辺に墓地はありますか?できれば無縁塚がある墓地を知りたいのですが。」

「ありますよ。ちょっと待ってくださいね。確かこの辺に…。」

 職員がスマートフォンの地図アプリを使って場所を教えてくれた。役場から歩いて1時間半程は掛かる。墓地に行くには山道に入り、途中で坂道を上らなければならないらしい。坂道を超えた先に寺があってその奥が墓地になっていると教えてくれた。
 地図アプリが示した場所は児童養護施設ひかりの家の裏手にあった。この墓地にある無縁塚にきっと佳音が眠っている。そして光は駅員に「お母さんの墓参りに行くの。」と言っていた。
 間違いない。光はきっとこの墓地に居る。
 そう確信した楠木は早速地図アプリで経路案内を始めた。残りのバッテリーは10%を切っている。モバイルバッテリーの残量も無かった。加川との連絡でほとんど消費してしまった。
 最後の頼りのスマートフォンを片手に町村役場を出る。巨大な入道雲が青空を彩っていた。山は緑が生い茂り、川の水面は煌びやかに反射している。都会の喧騒は聞こえず、代わりに野鳥や蝉の声が聞こえる。こんな事件さえ無ければ、さぞ穏やかな気持ちでこの景色を見れただろう。

「50メートル先、右方向です。」

 地図アプリのナビゲーターが抑揚の無い声で道案内をする。大きく深呼吸をして、言われた通りに歩き始めた。
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