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休戦?

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 それからさらに蟹江は鬱屈したまま三日を過ごし、苛立ちは募りに募った。

 トニーの記録である15秒に、何時までたっても到達できず、寝食を忘れて気が付いた時に目覚めるとパソコンが点いたままであることも度々だった。

 ついに蟹江は訪問者を応対することさえ億劫になった。

 そんな蟹江を思い遣り、日に一度インターホンが押されて、何も言わずにドアノブに差入れとノートの切れ端に書かれたメッセージカードを入れた紙袋が掛けられている。

 小牧は少ないお小遣いから捻出して、コンビニで総菜パンを二つ買っては学校帰りに蟹江の自宅のドアノブに掛けられた紙袋の中に加えることを、毎日続けていた。

 紙袋を差し入れている者の正体は、さほど考えることもなく小牧は気付いていた。



「負けました」



 紙袋の中身を覗く度、小牧は毎度呟いた。

 小牧が負けを認める紙袋の中身とは、手作り料理である。

 食べてもらえるかも定かでないのに、市販されている丸の内弁当の箱に手料理を詰め込まれている。



「師匠はこの料理、食べてるんでしょうか?」



 さすがの師匠でも作り手が誰なのかは気が付いているはずだ、と小牧は思いながら、今日の分の総菜パンを紙袋に入れた。

 引き籠る蟹江に小牧が総菜パンを差し入れる日が続くと、MGC本選までの残り日数も一週間を切った。

 学校行事で普段より早く家路に就けた小牧は、最近の日課になりつつあったコンビニに立ち寄って総菜パンを買うと、蟹江の自宅に足を進めた。

 蟹江の自宅がある階の廊下に来ると、すでに先客の少女がいた。

 先客は蟹江の自宅のドアノブに、憂い顔で紙袋を掛けている。

 小牧は彼女に近づく。



「弥冨さん」



 思いも寄らぬ方向から名前を呼ばれて、弥冨は肩をびくつかせて小牧に振り向いた。

 鼻持ちならない女子中学生だと認めると、途端に顔の憂いを消して眉をひそめる。



「陽太なら今相手にしてくれないわよ」

「知ってますよ」



 手にしていた総菜パンを後ろ手にさっと隠して、小牧は微笑みを返した。

 なんだ知ってるの、という顔をして弥冨が問う。



「それじゃあんたは何しに来たの?」

「さあ、何でしょう?」



 弥冨は疑う目を投げかけ、小牧の後ろに回した腕を指さす。



「あんたがパンを隠すところ、見てたわよ」

「気付いてたんですか」



 ヘラヘラと笑って、小牧は総菜パンを弥冨に見せた。



「差し入れに来たんです」

「そう。きっと陽太も喜ぶわね」



 無関心そうな抑揚ない声で言った。

 ドアノブの紙袋に目を遣りながら、小牧が尋ね返す。



「弥冨さんも同じ目的で来てるんですよね?」

「これは差し入れじゃないわよ。作り過ぎたから陽太に残飯処理してもらうつもりで持ってきたの」

「ふーん。でもなんでわざわざ市販の弁当の空いた箱に盛りつけてるんですか?」



 悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて、小牧は追及した。

 しばし答えに迷ってから、弥冨は継ぐ。



「それは……容器の処理も陽太になすりつけてるだけよ」

「そうですか。わかりました」



 上辺だけ納得したような表情で、小牧は頷いた。

 途端に二人の間で会話がなくなる。

弥冨は沈黙に耐えかねて無言で小牧の横を歩き過ぎると、フロアを立ち去ろうと昇降階段に足を降ろした。



「ちょっと待ってください」



 歩き過ぎた弥冨を、小牧が呼び留める。

 まだ何か、という顔つきで弥冨が顔を向ける。



「このままでいいんですか?」

「よくないわよ」



 主語を抜いた問いにもかかわらず、弥冨は意味を解して答えた。

 そして悔しげに言葉を続ける。



「でも、どうしてあげればいいのかわからない」

「あたしもです」



 と小牧が胸の痛みを共有するように言った。



「あたしもどうすればいいかわからないので、差し入れするぐらいしか出来ていません」

「だから私、今から陽太の師匠の刈谷さんのところに相談しに行くんだけど。あんたも来る?」



 想定にない誘いに、小牧は戸惑う。



「まさか弥冨さんが、あたしに同行したいか訊くなんて思いませんでした。どういう気持ちの変わり様なんですか」

「別に気持ちが変わったとか、そういうわけじゃないんだけど。まあ、来たくないなら来なくていいわよ」



 心外を露骨に顔に表してから、弥冨は首を前に戻し階段を降り始める。

「行きますよ、待ってください」

 小牧は総菜パンを携えたまま、慌てて弥冨の後について階段を下った。

 



 翌日の事である。

 いい案を思い付いたよ――。

 弥冨が携帯電話で刈谷と通話を繋ぐと、刈谷は電話口で嬉しそうにそう言って、その日二人に夕方五時ごろ刈谷メモリークラブに集まるよう指示した。

 弥冨と小牧が指定された夕方五時より少し前に刈谷メモリークラブに到着すると、刈谷健が大会で使用している二階の部屋の窓から上半身を乗り出して現れた。

 弥冨が刈谷を見上げて訊く。



「いい案って、何?」

「とりあえずこっちまで来て。それから話すよ」



 気楽な口調で告げて、刈谷は上半身を窓の中に引っ込めた。

 二人が屋内の階段を上がって、二階の刈谷が待つ部屋に踏み入ると、。刈谷はホワイトボードの前で、黒色のマジックペンを熱心に走らせていた。



「何を書いてるの?」



 小牧が尋ねると、刈谷はホワイトボードの前から後ろに一歩退く。



「読んでみてくれ」



 ホワイトボードを黒色マジックペンの先で指し示す。

 二人はホワイトボードの文字を黙読した。

 MGC本選前強化試合。



「強化試合で師匠がここに来ますか?」

「私も同感。世界一位の記録を超えようとしている陽太が、言い方が悪いけど自分の格下しかいないところに、わざわざ出向いてくる?」



 二人が揃って疑問を口にすると、刈谷は何かを企んでいる微笑を浮かべる。



「日本メモリスポーツ協会会長の僕だけが知ってる未公開情報があってね」



 その情報をどうするの、と知りたがる目で弥富と小牧の二人は刈谷の微笑を見据えた。

 刈谷は提案した。
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