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雨に降られて
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MGC本選を控えた前日の深更、蟹江の自宅では俄かな雨が窓を叩いていた。
蟹江はダイニングテーブルの椅子に腰掛けて、就寝前にパソコンで明日の日程を確認していた。
主催側から通達された日程表には、当日の集合時間や試合開始時間などが細かに記載されている。
「集合は九時半か」
総勢16名が出場するMGC本選は一日がかりで行われるため、朝のうちから会場にいなければならない。
蟹江はベッドサイドの置時計を見遣る。
時刻は深夜十一時を回り、あと数十分すれば日付が変わり当日となる。
そろそろ寝る頃合いだ、と思い、開いていた『MEMORY・GAME』のサイトを閉じてパソコンを畳むと、入浴後にすでに着替えていた寝間着のスウェット姿で寝室に足を向けた。
ピン――ポーン
唐突にインターホンが気の抜けるような音色で室内に響いた。
不意打ちの音に蟹江は胆を潰して、ゆっくりとドアを振り向く。
しばしドアの外を見透かすように凝視していたが、来訪者らしき気配も、声すらも聞こえてこない。
空耳かな不気味だ、と蟹江が友人に心霊写真を見せられたような反応で、少々の恐さを感じながら寝室の引戸に手をかける。
ドン――ドン
ドアに石つぶてでも投擲されたような衝撃音が、二度打ち付けられる。
もしかしてノックか、と蟹江は外に本当に来訪者がいるのだと知覚し、身を翻して玄関へ歩いた。
それでも少々の恐さが無くなったわけではなく、靴箱の傍に立て掛けてあったビニル傘を右手に掴んで後ろ手に隠し持つと、慎重にドアを開ける。
「こんな夜更けにごめんなさい」
ドアを開けるなり、涙の混じった声が謝った。
その声に蟹江は弟子の顔を想起しつつ、まさかという思いでドアの間から外を窺う。
蟹江の聞き違いではなかった。
一見、やつれたような印象を与えるほど、頭からサンダルを履いたつま先まで、全身が濡れそぼったパジャマ姿の小牧がドアの前に立ち尽くしている。
雨のせいで濡れた顔は、べそをかいたような悲しみを湛えていた。
「どうしたんだ、小牧?」
弟子のただならぬ様子に、蟹江はいろんな疑問を包含して尋ねた。
蟹江の顔を見上げて、涙を出す寸前みたいに小牧の瞳が揺れる。
「ごめんなさい」
申し訳なさで揺れている瞳から雫が一筋、頬の上を伝っていった。
鈍感な蟹江でも雨で頬が濡れたと見紛うことなく、
「謝ってばっかりじゃ、何があったかわからない」
諭すように蟹江は言う。
そうですよね、と小牧は涙声を返す。
「明日の大会、出られなくなりました」
「そうか残念だな。急な予定でも入ったのか?」
大会に出られないだけでどうして泣いてるんだろう、と不思議に感じながら蟹江は口調を明るくして尋ねる。
「違います」
小牧は悲しみに沈んだ顔のまま、きっぱりと否定した。
「お父さん、お母さんにダメって言われました」
「大会の出場がか。マイナースポーツの弊害だな」
小牧はふるふると首を横に振る。
「それも違います」
「じゃあ、どういうことなんだ?」
他に理由がわからず、深刻な口調になって蟹江は訊き返す。
小牧は俯いて、蟹江から視線を逸らし打ち明ける。
「メモリスポーツをやめないといけなくなりました」
小牧の発言は、蟹江には予想を大きく超えた驚きだった。
蟹江の頭の中に疑問符が乱立する。
言葉を継げないでいる蟹江に、小牧が縋るような目を向けた。
「師匠、助けてください」
縋るような目を前にして、蟹江はようやく思いついて口にする。
「とりあえず中に入れよ、風邪ひくぞ」
「……はい」
小牧をドアの内側に誘い入れると、蟹江はビニル傘を傘立てに挿しなおして、洗面所にタオルを取りに行った。
小牧がドアを閉めて沓脱で待っていると、タオルを持って戻ってくる。
本人に断りもなく小牧の頭にタオルを掛けると、両手で挟むように髪を拭き始めた。
途端に小牧は照れくさくなって、蟹江の手から逃れるように掛けられたタオルを掴んで頭を引っ込めた。
「頭を拭くぐらい、自分でできますよ」
「あっ、そうだよな」
それは悪かったという顔で蟹江は苦笑する。
小牧がタオルで拭けるところを拭いている間、蟹江は沈黙を保った。
ある程度拭き終えると、湿ったパジャマが張り付いていて小牧は気持ち悪さを感じたが、蟹江の前で脱ぐわけにはいかず、まだ肌寒さはあったがタオルを返した。
タオルを受け取った蟹江は、脱衣所にタオルを置きにいきながら小牧に訊く。
「とにかくどうしたんだ、こんな時間に?」
「外出を禁止されて、両親が寝付いたので隙を突いて出て来ました」
深夜でないといけない訳がわかり、蟹江は納得する。
「そうか。それにしても両親の禁止を掻い潜ってでも俺のところに来る理由、一体何があったんだ?」
「メモリスポーツをやめないといけなくなりました。そこまでは話しましたよね?」
「ああ」
蟹江が小牧の表情がより見やすいように、上り框を挟んだ正面に立つ。
「なんでやめないといけなくなったんだ?」
「ええと、お父さんとお母さんがそんなパソコンゲームをしちゃいけないって言いましたから」
「パソコンゲームって『MEMORY・GAME』のことだよな」
「はい」
「パソコンゲームじゃないって言わなかったのか?」
何も知らないからそんな安直な返事を思い付くんだ、と言いたげに、小牧は詰る目で蟹江を見返す。
「あたしのお父さんとお母さんは、すっごい厳しいんですよ。そんなこと言っても、信じてもらえません」
「俺、小牧の両親のことを何も知らないからさ。安易なこと言ったな、ごめん」
蟹江は詫びを口にしてからも、続けて質問する。
「小牧のお父さんは小牧にパソコンを貸してくれたんだろ。それが急にパソコンがダメって言う理由はどうしてなんだ?」
蟹江の質問に、小牧の心臓は縮んだ。
以前、自分がパソコンは父が貸してくれたものだと説明したことを思い出して、途端に蟹江に嘘を吐いていたことに呵責を覚える。
「ごめんなさい……」
か細い声で小牧は謝った。
何か言ったか、と蟹江が目顔で問いかけてくる。
嘘つきの自分に真剣に知恵を絞ってくれている蟹江を、小牧は正視できない。
罪悪感でたちまち顔を逸らす。
「小牧は思い当たる理由があるのか?」
弟子が後ろめたい気持ちでいるとは知らず、蟹江は尋ねる。
自分の事を気遣ってくれる師匠の良心を、小牧は平然と踏み潰すことなど出来ない。
「ごめんなさい」
何度目かと思える謝罪の言葉が、小牧の口を衝いて出た。今度はさっきよりも大きく明瞭な声だ。
蟹江はまたしても謝った小牧に、慰めるような視線を据える。
「どうして小牧が謝るんだよ。勝手なこと言ってるのは、小牧の両親だろ」
「謝らないといけないからです!」
蟹江の慰めを遮るように声を張り上げた。
どこまでも鈍感でそれでいて優しくしてくれる師匠に、この時だけはちょっと物足りなさを感じた。
叫んだ勢いで小牧は言い巻く。
「師匠に嘘を吐いてました。あのパソコン実は、お父さんの部屋からあたしが勝手に持ち出してきたものなんです。貸してくれたって言うのは嘘です。ごめんなさい」
堰を切ったように捲し立てられて、蟹江は目を瞠った。
それでも徐々に事情が呑み込めてくると、目と口調に咎めの色が含まれる。
「どうして本当の事話してくれなかったんだよ。なんで俺に嘘吐いたんだよ?」
小牧は目線を合わさずに弁明する。
「師匠があたしのために、バイトしてまでパソコンを買おうとしてしたてので。気が引けたんです。とても受け取れませんよ」
「遠慮したってことか。だからって嘘を吐くことないだろ。嘘を吐いたせいで、今こんな事態になってるんじゃないのか?」
小牧には蟹江の指摘に反論する言葉も理論もなかった。
蟹江は沈痛な顔になる。
「嘘を吐かれてその嘘に気付けなかった俺の身にもなってみろ。小牧が嘘をついてなければ、パソコンぐらいどうにでもなった。お前のそんな悲しい顔を見なくても済んだ」
「ごめんなさい。なので……」
小牧は大きく息を吸って顔を上げ、決然と蟹江を見返した。
「助けてください、なんて言いません。あの言葉は撤回します」
これでいい、と小牧は思った。
自分がどう抗したって、両親を説得できるわけじゃない。師匠ならなんとかしてくれると縋るのも、嘘ついておいて都合が良すぎた。
蟹江の目から咎めの色が消える。
「そうだな。助けてくださいって言われても、俺は未来から来たお助け猫型ロボットじゃないからな。助けられないことなんて山ほどある」
「そうですよね。ごめんなさい、夜遅くにお邪魔して」
生涯離れ離れになるようなそんな離別の仕方のような気もしたが、両親に従うのが一番楽だと割り切り、小牧は踵を返そうと右足を引いた。
「ちょっと待て、まだ帰るな」
しかし、蟹江は呼び留めた。
小牧は弾かれたように振り向く。
「小牧にやってもらいたいことがある」
「大会に出場できなくなったことは、ちゃんと刈谷さんと運営の人に伝えますよ。心配しなくても大丈夫です」
師匠なら最後でも気に掛けてくれるだろう、と蟹江の優しさからして小牧はそう推測できた。
未練のないような顔で請け合う小牧に、蟹江は立ち向かう瞳で見つめた。
「俺に小牧の両親の説得をやらせてくれ」
「えっ?」
予想もしなかった頼み事に、小牧は当惑する。
「いいだろ?」
蟹江が真剣な眼差しを向ける。
「どうしてそうなるんですか?」
小牧はきょとんとした顔で尋ね返す。
「俺がそうしたいからだよ」
ごく当たり前のことであるように、蟹江は答えた。
開いた口が塞がらないでいる小牧に、蟹江は微笑んで傘立てから再びビニル傘を手に取り掲げてみせる。
「帰るんだろ。送るぞ」
「は、はい。あ、ありがとうございます」
当惑したまま、思わずといった感じで頷く。
蟹江はドアを開けて、小牧を押しやるようにして通路に出る。
寝間着のままであることは知ってはいたが、まあいいやとそれほど気にも掛けずに、真夜中を小牧と並んで歩き出す。
マンションのエントランスを出る手前で、傘を開いている蟹江に、先程の続きをするように小牧が尋ねる。
「どうして、あたしの両親を説得するんですか?」
「明日小牧がMGCに出場するためには、この方法しかないと思ってな」
「あたしの両親を説得するなんて無理ですよ。娘であるあたしの話さえ聞き入れてもらえないんですから」
げんなりと諦めのついた口調で顔を曇らせる。
弟子の弱気な言葉には取り合わず、蟹江は帰るんだろと小牧を促した。
二人は自然な流れで一本の傘の下に並んでマンションを後にする。
まるで我が儘を口にするように、蟹江が言う。
「俺は小牧に大会に出てもらいたいんだよ。だから小牧の両親を説得する」
「そんな風に思ってくれて嬉しいですけど。どうにもならないこともあるんです」
「もしそうだとしても、説得だけでもしてみちゃダメか」
「ダメとは言いませんけど、説得は無理だと思います」
蟹江に賛成したい気持ちとどうせ無理と思う気持ちが交ざって、小牧は煮え切らないことを口にする。
「小牧は大会に出場したいよな?」
蟹江は優しく確認するように訊いた。
小牧ははい、と俯いたまま小声で返す。
「出場したいですよ。せっかく出場資格をいただいて当日棄権なんてしたら、資格のない人に申し訳が無いです。皆に迷惑です」
本心を生のまま言葉にする。
「それだけじゃないだろ?」
俺にはわかっているぞ、という見透かした目で蟹江が問う。
蟹江から向けられた目に、小牧は微苦笑する。
「へへへ、師匠にはわかっちゃいますか」
「一応な。アブラヒムともう一度、対決したいんだろ?」
「はい。あの時は負けましたけど、次はもう少し競り合いたいです」
大会出場を断念した時の感情は薄れて、俄かに蘇った雪辱に小牧は決意を表情に漂わせた。
「そうなると大会に出ない訳にはいかないよな?」
「そうですね。やっぱりあたし諦められません」
口調にも力が籠る。
互いに大会への意気込みを話している間に二人は住宅街に入っていた。
現代的な一軒家を小牧が指さす。
「私の家、ここです。ごめんなさい、雨の中送ってもらって」
「明日の朝、もう一度来るからな。明日に備えて、今日はゆっくり寝ろ」
「はい。明日は万全な状態にしてきます。師匠も寝坊しないでくださいよ」
笑顔で軽口を交わして、二人は門柱の前で別れた。
深夜の雨脚は小牧のたちまちに晴れた心のように、急に勢いを落とし始めていた。
蟹江はダイニングテーブルの椅子に腰掛けて、就寝前にパソコンで明日の日程を確認していた。
主催側から通達された日程表には、当日の集合時間や試合開始時間などが細かに記載されている。
「集合は九時半か」
総勢16名が出場するMGC本選は一日がかりで行われるため、朝のうちから会場にいなければならない。
蟹江はベッドサイドの置時計を見遣る。
時刻は深夜十一時を回り、あと数十分すれば日付が変わり当日となる。
そろそろ寝る頃合いだ、と思い、開いていた『MEMORY・GAME』のサイトを閉じてパソコンを畳むと、入浴後にすでに着替えていた寝間着のスウェット姿で寝室に足を向けた。
ピン――ポーン
唐突にインターホンが気の抜けるような音色で室内に響いた。
不意打ちの音に蟹江は胆を潰して、ゆっくりとドアを振り向く。
しばしドアの外を見透かすように凝視していたが、来訪者らしき気配も、声すらも聞こえてこない。
空耳かな不気味だ、と蟹江が友人に心霊写真を見せられたような反応で、少々の恐さを感じながら寝室の引戸に手をかける。
ドン――ドン
ドアに石つぶてでも投擲されたような衝撃音が、二度打ち付けられる。
もしかしてノックか、と蟹江は外に本当に来訪者がいるのだと知覚し、身を翻して玄関へ歩いた。
それでも少々の恐さが無くなったわけではなく、靴箱の傍に立て掛けてあったビニル傘を右手に掴んで後ろ手に隠し持つと、慎重にドアを開ける。
「こんな夜更けにごめんなさい」
ドアを開けるなり、涙の混じった声が謝った。
その声に蟹江は弟子の顔を想起しつつ、まさかという思いでドアの間から外を窺う。
蟹江の聞き違いではなかった。
一見、やつれたような印象を与えるほど、頭からサンダルを履いたつま先まで、全身が濡れそぼったパジャマ姿の小牧がドアの前に立ち尽くしている。
雨のせいで濡れた顔は、べそをかいたような悲しみを湛えていた。
「どうしたんだ、小牧?」
弟子のただならぬ様子に、蟹江はいろんな疑問を包含して尋ねた。
蟹江の顔を見上げて、涙を出す寸前みたいに小牧の瞳が揺れる。
「ごめんなさい」
申し訳なさで揺れている瞳から雫が一筋、頬の上を伝っていった。
鈍感な蟹江でも雨で頬が濡れたと見紛うことなく、
「謝ってばっかりじゃ、何があったかわからない」
諭すように蟹江は言う。
そうですよね、と小牧は涙声を返す。
「明日の大会、出られなくなりました」
「そうか残念だな。急な予定でも入ったのか?」
大会に出られないだけでどうして泣いてるんだろう、と不思議に感じながら蟹江は口調を明るくして尋ねる。
「違います」
小牧は悲しみに沈んだ顔のまま、きっぱりと否定した。
「お父さん、お母さんにダメって言われました」
「大会の出場がか。マイナースポーツの弊害だな」
小牧はふるふると首を横に振る。
「それも違います」
「じゃあ、どういうことなんだ?」
他に理由がわからず、深刻な口調になって蟹江は訊き返す。
小牧は俯いて、蟹江から視線を逸らし打ち明ける。
「メモリスポーツをやめないといけなくなりました」
小牧の発言は、蟹江には予想を大きく超えた驚きだった。
蟹江の頭の中に疑問符が乱立する。
言葉を継げないでいる蟹江に、小牧が縋るような目を向けた。
「師匠、助けてください」
縋るような目を前にして、蟹江はようやく思いついて口にする。
「とりあえず中に入れよ、風邪ひくぞ」
「……はい」
小牧をドアの内側に誘い入れると、蟹江はビニル傘を傘立てに挿しなおして、洗面所にタオルを取りに行った。
小牧がドアを閉めて沓脱で待っていると、タオルを持って戻ってくる。
本人に断りもなく小牧の頭にタオルを掛けると、両手で挟むように髪を拭き始めた。
途端に小牧は照れくさくなって、蟹江の手から逃れるように掛けられたタオルを掴んで頭を引っ込めた。
「頭を拭くぐらい、自分でできますよ」
「あっ、そうだよな」
それは悪かったという顔で蟹江は苦笑する。
小牧がタオルで拭けるところを拭いている間、蟹江は沈黙を保った。
ある程度拭き終えると、湿ったパジャマが張り付いていて小牧は気持ち悪さを感じたが、蟹江の前で脱ぐわけにはいかず、まだ肌寒さはあったがタオルを返した。
タオルを受け取った蟹江は、脱衣所にタオルを置きにいきながら小牧に訊く。
「とにかくどうしたんだ、こんな時間に?」
「外出を禁止されて、両親が寝付いたので隙を突いて出て来ました」
深夜でないといけない訳がわかり、蟹江は納得する。
「そうか。それにしても両親の禁止を掻い潜ってでも俺のところに来る理由、一体何があったんだ?」
「メモリスポーツをやめないといけなくなりました。そこまでは話しましたよね?」
「ああ」
蟹江が小牧の表情がより見やすいように、上り框を挟んだ正面に立つ。
「なんでやめないといけなくなったんだ?」
「ええと、お父さんとお母さんがそんなパソコンゲームをしちゃいけないって言いましたから」
「パソコンゲームって『MEMORY・GAME』のことだよな」
「はい」
「パソコンゲームじゃないって言わなかったのか?」
何も知らないからそんな安直な返事を思い付くんだ、と言いたげに、小牧は詰る目で蟹江を見返す。
「あたしのお父さんとお母さんは、すっごい厳しいんですよ。そんなこと言っても、信じてもらえません」
「俺、小牧の両親のことを何も知らないからさ。安易なこと言ったな、ごめん」
蟹江は詫びを口にしてからも、続けて質問する。
「小牧のお父さんは小牧にパソコンを貸してくれたんだろ。それが急にパソコンがダメって言う理由はどうしてなんだ?」
蟹江の質問に、小牧の心臓は縮んだ。
以前、自分がパソコンは父が貸してくれたものだと説明したことを思い出して、途端に蟹江に嘘を吐いていたことに呵責を覚える。
「ごめんなさい……」
か細い声で小牧は謝った。
何か言ったか、と蟹江が目顔で問いかけてくる。
嘘つきの自分に真剣に知恵を絞ってくれている蟹江を、小牧は正視できない。
罪悪感でたちまち顔を逸らす。
「小牧は思い当たる理由があるのか?」
弟子が後ろめたい気持ちでいるとは知らず、蟹江は尋ねる。
自分の事を気遣ってくれる師匠の良心を、小牧は平然と踏み潰すことなど出来ない。
「ごめんなさい」
何度目かと思える謝罪の言葉が、小牧の口を衝いて出た。今度はさっきよりも大きく明瞭な声だ。
蟹江はまたしても謝った小牧に、慰めるような視線を据える。
「どうして小牧が謝るんだよ。勝手なこと言ってるのは、小牧の両親だろ」
「謝らないといけないからです!」
蟹江の慰めを遮るように声を張り上げた。
どこまでも鈍感でそれでいて優しくしてくれる師匠に、この時だけはちょっと物足りなさを感じた。
叫んだ勢いで小牧は言い巻く。
「師匠に嘘を吐いてました。あのパソコン実は、お父さんの部屋からあたしが勝手に持ち出してきたものなんです。貸してくれたって言うのは嘘です。ごめんなさい」
堰を切ったように捲し立てられて、蟹江は目を瞠った。
それでも徐々に事情が呑み込めてくると、目と口調に咎めの色が含まれる。
「どうして本当の事話してくれなかったんだよ。なんで俺に嘘吐いたんだよ?」
小牧は目線を合わさずに弁明する。
「師匠があたしのために、バイトしてまでパソコンを買おうとしてしたてので。気が引けたんです。とても受け取れませんよ」
「遠慮したってことか。だからって嘘を吐くことないだろ。嘘を吐いたせいで、今こんな事態になってるんじゃないのか?」
小牧には蟹江の指摘に反論する言葉も理論もなかった。
蟹江は沈痛な顔になる。
「嘘を吐かれてその嘘に気付けなかった俺の身にもなってみろ。小牧が嘘をついてなければ、パソコンぐらいどうにでもなった。お前のそんな悲しい顔を見なくても済んだ」
「ごめんなさい。なので……」
小牧は大きく息を吸って顔を上げ、決然と蟹江を見返した。
「助けてください、なんて言いません。あの言葉は撤回します」
これでいい、と小牧は思った。
自分がどう抗したって、両親を説得できるわけじゃない。師匠ならなんとかしてくれると縋るのも、嘘ついておいて都合が良すぎた。
蟹江の目から咎めの色が消える。
「そうだな。助けてくださいって言われても、俺は未来から来たお助け猫型ロボットじゃないからな。助けられないことなんて山ほどある」
「そうですよね。ごめんなさい、夜遅くにお邪魔して」
生涯離れ離れになるようなそんな離別の仕方のような気もしたが、両親に従うのが一番楽だと割り切り、小牧は踵を返そうと右足を引いた。
「ちょっと待て、まだ帰るな」
しかし、蟹江は呼び留めた。
小牧は弾かれたように振り向く。
「小牧にやってもらいたいことがある」
「大会に出場できなくなったことは、ちゃんと刈谷さんと運営の人に伝えますよ。心配しなくても大丈夫です」
師匠なら最後でも気に掛けてくれるだろう、と蟹江の優しさからして小牧はそう推測できた。
未練のないような顔で請け合う小牧に、蟹江は立ち向かう瞳で見つめた。
「俺に小牧の両親の説得をやらせてくれ」
「えっ?」
予想もしなかった頼み事に、小牧は当惑する。
「いいだろ?」
蟹江が真剣な眼差しを向ける。
「どうしてそうなるんですか?」
小牧はきょとんとした顔で尋ね返す。
「俺がそうしたいからだよ」
ごく当たり前のことであるように、蟹江は答えた。
開いた口が塞がらないでいる小牧に、蟹江は微笑んで傘立てから再びビニル傘を手に取り掲げてみせる。
「帰るんだろ。送るぞ」
「は、はい。あ、ありがとうございます」
当惑したまま、思わずといった感じで頷く。
蟹江はドアを開けて、小牧を押しやるようにして通路に出る。
寝間着のままであることは知ってはいたが、まあいいやとそれほど気にも掛けずに、真夜中を小牧と並んで歩き出す。
マンションのエントランスを出る手前で、傘を開いている蟹江に、先程の続きをするように小牧が尋ねる。
「どうして、あたしの両親を説得するんですか?」
「明日小牧がMGCに出場するためには、この方法しかないと思ってな」
「あたしの両親を説得するなんて無理ですよ。娘であるあたしの話さえ聞き入れてもらえないんですから」
げんなりと諦めのついた口調で顔を曇らせる。
弟子の弱気な言葉には取り合わず、蟹江は帰るんだろと小牧を促した。
二人は自然な流れで一本の傘の下に並んでマンションを後にする。
まるで我が儘を口にするように、蟹江が言う。
「俺は小牧に大会に出てもらいたいんだよ。だから小牧の両親を説得する」
「そんな風に思ってくれて嬉しいですけど。どうにもならないこともあるんです」
「もしそうだとしても、説得だけでもしてみちゃダメか」
「ダメとは言いませんけど、説得は無理だと思います」
蟹江に賛成したい気持ちとどうせ無理と思う気持ちが交ざって、小牧は煮え切らないことを口にする。
「小牧は大会に出場したいよな?」
蟹江は優しく確認するように訊いた。
小牧ははい、と俯いたまま小声で返す。
「出場したいですよ。せっかく出場資格をいただいて当日棄権なんてしたら、資格のない人に申し訳が無いです。皆に迷惑です」
本心を生のまま言葉にする。
「それだけじゃないだろ?」
俺にはわかっているぞ、という見透かした目で蟹江が問う。
蟹江から向けられた目に、小牧は微苦笑する。
「へへへ、師匠にはわかっちゃいますか」
「一応な。アブラヒムともう一度、対決したいんだろ?」
「はい。あの時は負けましたけど、次はもう少し競り合いたいです」
大会出場を断念した時の感情は薄れて、俄かに蘇った雪辱に小牧は決意を表情に漂わせた。
「そうなると大会に出ない訳にはいかないよな?」
「そうですね。やっぱりあたし諦められません」
口調にも力が籠る。
互いに大会への意気込みを話している間に二人は住宅街に入っていた。
現代的な一軒家を小牧が指さす。
「私の家、ここです。ごめんなさい、雨の中送ってもらって」
「明日の朝、もう一度来るからな。明日に備えて、今日はゆっくり寝ろ」
「はい。明日は万全な状態にしてきます。師匠も寝坊しないでくださいよ」
笑顔で軽口を交わして、二人は門柱の前で別れた。
深夜の雨脚は小牧のたちまちに晴れた心のように、急に勢いを落とし始めていた。
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**俺、東大院生の実験対象にされてた。**同居している美人家庭教師のやばい秘密
まさき
青春
俺は今、東大院生の実験対象になっている。
ある雨の夜、アパートの前にずぶ濡れの美女が立っていた。
「家庭教師です。住まわせてください」
突然すぎる申し出に困惑しながらも、なぜか断れなかった。
桐島咲楽、東大大学院生。成績は天才、料理は壊滅的、距離感はおかしい。毎日転ぶ、焦がす、なぜか距離が近い。そのくせ授業は鬼のように丁寧で、俺のことを誰よりもよく見ていた。
偏差値42だった俺の成績は、気づけば上がっていた。でも、それより気になることがある。
咲楽さんが、研究ノートに何かを書いている。「被験者」という文字が、見えた気がした。
距離が近いのは、データのためか。褒めてくれるのは、実験のためか。でも、あの顔は。あの声は。
「データじゃなくて、私がそう思っています」
嘘をついているような顔じゃなかった。
偏差値42の俺に、東大院生の美女が押しかけてきた。ドタバタな毎日の中で、俺の心臓が休まる暇がない。これはドキドキなのか、心配なのか。それとも、もう恋なのか。
不器用な天才と、鈍感な高校生の、やばい同居生活。
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