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第一章 新生活

逃亡

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 反射的な行動だった。
 ノイズとの付き合い方は慣れているはずだった。
 今さら会話にノイズが入ったからといって、ショックなんか受けないはずだった。
 その会話の相手がイトウさんだったとしてもだ。
 それなのに、感情が揺れた。
 それも、考えるより先に身体が動いてしまうくらい激しく。

 悲しさ。
 寂しさ。
 そして、罪悪感。

 胸に穴を開けられて、そこに針を詰め込まれたような感情。
 痛みに耐えきれずに、少しでも逃げ出そうとして、部室を飛び出してしまった。
 なんでだろう。
 走りながら考える。
 なんで、わたしはこんなにもショックを受けているんだろう。
 ノイズのせいで友達ができなくても、ノイズのせいで孤独でも、こんな気持ちになったことは無い。
 なんで、こんな気持ちになっているんだろう。

 理由は判っている。
 期待してしまったからだ。
 友達と愛称で呼び合う光景。
 そんな、どこにでもある光景を想像してしまったからだ。
 だけど、その期待は裏切られた。
 裏切ったのは、友達じゃない。
 わたしだ。
 わたしの中のノイズだ。
 それは判っている。
 だけど、感情が納得してくれない。
 申し訳なさで、心がいっぱいだった。

 謝れば、許してくれるだろうか。
 謝れば、友達を続けてくれるだろうか。
 謝れば、離れないでいてくれるだろうか。

 後悔が心に満ちる。
 残酷な期待をしてしまう前まで時間を戻したい。
 もし戻ることができたら、部長さんがつけてくれた愛称を断るのだ。
 そうすれば、残念な想いをするだけですむ。
 いつもと同じだ。
 だけど、時間は戻ってくれない。
 むしろ、走れば走るほど、戻れなくなっていく。
 後戻りできなくなっていく。
 取り返しがつかなくなっていく。
 だけど、走らずにはいられない。

 クラブ活動をしている人達が、制服のまま廊下を走るという奇行をしているわたしを、奇異な目で見てくる。
 きっと変な人だと思われるだろう。
 そして距離を取られるだろう。
 それは、今さらだ。
 イトウさんも同じ反応をするだろうか。
 それだけが気がかりだった。
 わたしは走る速度を落として、未練がましく後ろを振り返る。
 部室からは離れていて、ここから見えるはずがない。
 それなのに、

「待ちなさい!」

 凄い勢いで迫ってくるイトウさんの姿が見えた。
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