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第二章 日常生活

日直(参)

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 職員室へ向かう途中、隣を歩く男子が話しかけてくる。

「■■■さんって、■■■っている人とかいるの?」

 あいかわらず、イトウさん以外の人と話すのは苦手だ。
 特に男子と話すときは、ノイズが入りやすい。
 今の言葉も、肝心な部分はほとんど聞き取れなかった。
 文脈から考えると、おそらく交際している相手がいるかという質問だったのだと思う。
 でも、確信はない。
 親しい間柄でもないのに、そんな踏み込んだことを訊いてくるのは図々しいことなので、なおさらだ。
 そういうことは、仲がよい男女、もしくは、仲よくなりたい男女がする会話だと思う。
 わたしはこの男子と、仲がよいわけでも、仲よくなりたいわけでもない。
 むしろ、会話にノイズが入るので、苦手と言ってもいい。
 でも、無視するのも感じが悪いと思うので、何かは答えないといけない。

「いない」

 とりあえず、そう答えておいた。
 いるかどうかと訊かれたのは間違いないので、不自然な回答ではないはずだ。
 わたしの返事を聞いて、男子は嬉しそうな顔をする。
 どうやら、無難な返事をできたようだ。
 これで、感じが悪いクラスメイトと思われることは無いだろう。

「じゃ、じゃあさ」

 そう思っていたら、まだ質問は続くようだ。
 どうしよう。
 これ以上踏み込んだ質問をされたら、無難な返事ができる自信がない。
 おかしな返事をしたら、会話に矛盾が生じてしまう。
 わたしが困っている間にも、男子の言葉は続く。

「オレと■■■って――」
「アイザワさん」

 わたしが男子の言葉を死刑宣告を待つ囚人のような気分で聴いていると、ふいに横から声がかかった。
 聞き慣れた声だ。

「待ちきれなくて迎えに来ちゃった」

 声をかけてきたのはイトウさんだった。
 日直で部室に行くのが遅れるということは伝えておいたのだけど、迎えにきてくれたらしい。

「わざわざ迎えに来なくても、すぐに部室で会えるのに」

 そう言いつつ、イトウさんが来てくれて、思わずほっとしてしまった。
 イトウさんなら、わたしが聞き取れない言葉を通訳してくれる。
 それを知っているから、頼るのが心苦しいのに、先に部室に行って欲しいとは言えない。

「後は日誌を職員室に返すだけよね。わたしも一緒についていくわ」

 そう言いながら、イトウさんがわたしの手を握ってくる。
 ノイズの事情を知っているイトウさんが、通訳した内容をこっそり伝えてくれる方法だ。
 握り方や握る強弱で、どんな雰囲気の会話内容なのかを伝えてくれる。
 具体的な内容は分からなくても雰囲気さえ分かれば、どんな返事をするのが適切な場面かは判断できる。
 手を繋ぐという方法なら、そんなやりとりをしていることは他の人には分からない。
 せいぜい、仲が良い友達同士にしか見えないと思う。
 だから、気を遣わせないで済む。

「それじゃあ、行きましょう」
「うん」
「…………そうだね」

 実際、隣を歩く男子は何も言ってこなかった。
 ただ、わたしと手を繋ぐイトウさんのことを、嫉妬が混ざった視線で見ているような気がした。
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