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顔を隠していると、感情まで隠してしまいそうな気がして、マスクを外した。昨日まで一緒に住んでいたはずのに、ダイニングテーブルに向かい合って座るだけで変な感じがする。
「お疲れのところすみません。どうしても訊きたいことがあって……」
目の前に置いたコーヒーの湯気が2人の間を漂う。口元の傷が痛々しい。
「敬語じゃなくていいよ」
「じゃあ、遠慮なく。あの、あたしが訊きたいのは……」
勢いだけはあったけど、いざ切り出そうとすると怖くなった。
「今朝、あいつが言ってたこと?」
う~とかえ~とか言っている間に、レイ君から切り出されてしまった。
「そ、そう! その通り!」
ダメじゃん!真面目に訊きたいとこなのに。
「……付き合う気があるかってこと?」
ドキドキしながら深く頷く。
「正直言って、ない」
「ええーっ!!」
ビックリし過ぎて思わず立ち上がった。その拍子にイスが倒れた。
「それって……遊びだったってこと?」
一番恐れていた答えだった。ヤダヤダ!嘘でしょ!? 誰か、嘘だと言ってぇ!
「まさか。それは絶対ない」
「だったらなんで?」
衝撃が大き過ぎて、頭の回転がいつも以上に鈍い。
「……嫌なんだ」
何がって口にするのも恐ろしくて、あたしは黙って首を傾げた。
「本当の自分を知られるのが」
「本当の自分……?」
まだ何か秘密があるの? 思わず身構える。
「あいつに言われたんだ。自分を産んだ人に会ったら、嘘でもありがとうぐらい言えって。それが大人だって。お前はあんなガキ丸出しの反応して、恥ずかしくないのかって」
あいつってイッセイ坊ちゃまよね? いつの間にそんなこと……。
「今さら恨み節を言いたいわけじゃないけど、でも、だからって全部をなかったことにはできない」
口調は淡々としていたけど、感情をコントロールするかのように、彼はマグカップを握りしめている。
「どんなに忘れたくても、過去は消せない。乗り越えたからって、事実が消えるワケじゃない」
寝たら忘れちゃうような過去しかないあたしには、重い言葉だった。イヤな記憶には蓋しちゃえばいいって思ってるような浅い人間だもんな。
「だから、手っ取り早く感情を消そうと思った。何があっても何も感じないようにすれば辛くも苦しくもないだろうって思ったから」
あたしの脳内では、出会った頃の不気味な彼の微笑みが甦っていた。ちゃんと理由があったんだ……。
「でも、君と接してるうちに、今までになかった感情が色々と芽生えてきて、少しは変われるんじゃないかって思った。だけど、あの日、俺を産んだって人に会っても何も感じなかったんだ」
「え……」
深く掘り下げないと肝に銘じたばかりなのに、あたしは普通に次の言葉を待っていた。
「喜ぶのは無理でも、怒りや悲しみぐらいは感じるんじゃないかって思ってたのに、心が死んだみたいに何も反応しなくて。それが恐ろしかった」
そう言った時、彼がマグカップを持つ手に力を入れたのが分かった。
「君に呼び止められた時、何だか急に怖くなったんだ。どう頑張っても君と同じ世界にはいられないんだなって思って。だから……」
ぐっと身を乗り出し、マグカップを握る彼の手を、そっと両手で包んだ。
「それじゃあ、ダメだね」
「そうだろ?だから君とは……」
「あたしがいなきゃ」
「へ?」
きょとんとしているレイ君の手をマグカップから引き離し自分の頬を包ませた。
「大丈夫。あたしが愛してあげる」
「え……」
「レイ君が、もうお腹いっぱいだ―止めてくれーって言うぐらい愛してあげる」
イッセイ坊ちゃまの言葉や態度に、何度も心が揺れたのは事実だけど、でも今、やっと確信した。
あたしはレイ君を愛したいんだって。理屈じゃない。
手が頬に触れるだけで心が満たされていく。
レイ君が好きなんだって思う度、泣きそうになる。胸がドキドキして壊れそうでも、そばにいたい。
「俺には、君に愛されるような価値はないよ。親にだって愛されなかった人間なのに……」
「はい、ダメー!」
「へ?」
「そんなこと勝手に決めない! 愛すか愛さないかはあたしが決めるの!」
頬から離れそうになった彼の手を強引に自分の手で押さえつける。
「いや、でも……」
「でもとか言わない!」
反論も無理やりねじ伏せる。
「大丈夫。レイ君にはちゃんと感情があるよ。なかったら何も感じないことを怖いと思ったりしないから」
「……そうかな」
「そうだよ。だから大丈夫!」
根拠はないけど、絶対大丈夫だって思える。ホント、勢いだけだなーあたしって。
「もう諦めなきゃいけないと思って、家も出たのに、こうしてるとダメになりそうだな」
その時、年が明けてから初めて彼の穏やかな笑みを見た気がした。
「じゃああたしと2人でいるのが嫌だから出て行ったんじゃないんだ」
「うん。寧ろその逆」
「なんだー、何も言わないで出て行っちゃうからてっきり……」
ホッと胸を撫で下ろす。
「一緒にいたら好きになるの止められないから」
撫で下ろした胸がギュッとなる。急な攻撃にはまだ慣れない。
「止めないでよ」
呟くと、逃げるように彼は俯いた。どうしたらもう一度顔を上がるか考え、頬を包んでいる彼の右手の親指を甘噛みした。
驚いたのか、彼は勢いよく顔を上げた。さずがにちょっとやり過ぎかな。
「だって……俯くから」
言い訳を口にするあたしを彼はじっと見つめている。絡みつくような色っぽい眼差しで。
あ~ドキドキする。
熱視線を注がれているだけでも窮屈なのに、彼は右手の親指であたしの唇に触れた。
口紅を滑らせるよりも優しい指先になぞられると、唇に力が入らなくなって、薄く開いてしまう。
その隙間から、少しずつ指が侵入してくる。
舌先に指が触れると、彼はそのまま歯の奥に指を進ませた。
連動するように、あたしは彼の指先を口に含んだ。
なんだか、とんでもなくエロいことしているような気がして、あたしは勝手に興奮し始めていた。
指を舐めたぐらいで興奮している自分が恥ずかしいけど、だんだん恥じらいも分からないようになってきている。じわじわと洗脳されていくみたい。
きっと、レイ君がお色気全開であたしをじっと見てるからだ。
うぅ……もう限界かも。
「ねえ……レイ、くん……」
「ん?」
「もう、ムリ……」
「無理って何が?」
「……したい」
お互いにハッとしたのが、何かの合図みたいだった。説明できない不思議な感覚だった。
「俺も」
そう呟いた時には、もう唇が重なっていた。
あたしたちは、息をするのも忘れるぐらい、激しく求め合っていた。
視線も指も唇も舌も、それから感情もすべて絡ませて溶けていく。
流れるようにソファーに身を落とし、素肌を曝す。
「あ……」
思わず声を上げてしまう。
服を脱いだ彼の肌には無数の傷があったから。前は暗くて見えなかったけど、今ははっきりと見える。肩や腕、酷いのは背中。何をされたのか想像もつかない。黙って口づける。
『どんなに忘れたくても、過去は消せない』
彼の言葉が甦る。自然と浮かぶ涙を呑み込む。泣いちゃいけない。
「あたしが愛してあげる。ぜんぶ……愛してあげる」
そんな言葉しかかけられないあたしを彼が勢いよく抱き寄せる。
「みのりちゃんがいてくれたら、それでいい」
ダメだ。やっぱり泣いちゃいそう。好きな人と心が通じ合ってるって思うだけで、胸がいっぱいになる。
抱き合うほどに愛しさが増していく。肌の隙間を埋めて、彼があたしの一部になる。
快楽なんてホントは二の次でいい。心が繋がった先にある行為じゃなきゃ意味がない。
だけど、気が狂いそうなほどキモチよくて、理屈も理性もどうでもよくなる。
「もっと……もっとして……レイ君」
一晩中求めても足りないくらい好き。もっと乱して。
もっと激しく、もっと淫らに――。
アラームは今朝も無情だけど、目覚めた先にあるレイ君の寝顔は病みつきになりそう。
はぁ~カッコいい。
誰だ? キレイな顔だからより不気味だとか言ってたヤツは。
うふ。でも、しょうがないじゃん。恋をしたら世界が変わってしまうんだから。
起こさないように、そっと頬にキスをしてから布団を抜け出した。
昨夜の戯れを思い出し、間の抜けた顔で歯を磨きながら、ふと考える。
そういや、家政婦の分際で坊ちゃまに手出して大丈夫なんだろうか?(今さら)
付き合うだなんだって散々言ってたけどそもそも可能?
いつの時代だよって感じだけど、それにしても明らかに身分違い過ぎだよね。
跡継ぎじゃないとはいえ、相手は黒澤財閥の長男坊。
あたしは仮住まいの貧乏家政婦。
好きなんて口にするのも厚かましい? いやいや。大丈夫!
別に結婚するってワケじゃないんだし、お付き合いするくらいどうってこと……ハッ!!
お付き合いしたっけ? あたしたち。ヤバい……また確証がない。
う゛~。
タオルでゴシゴシ顔を拭きながら唸る。拭き終えて洗面所を出ると、目の前にレイ君が立っていた。
「うわっ! ……おはよぉ……」
「おはよう。うわって」
失礼なあたしの反応に、彼は苦笑いを浮かべている。
「まだ寝てると思ってたから。ごめん。起こしちゃった?」
「いや。もう起きるつもりだったから」
「レイ君が起きるにはまだ早くない?あと1時間半は寝られるよ」
一緒に住んでる時も朝は顔合わさなかったもんね。
「今日は一緒に行くよ。付き合うなら報告しといた方がいいでしょ」
しれっと言い放つ言葉に、心拍数が上がる。
やっと確証を得た! 飛び上がりたいくらい嬉しい気持ちをグッと堪え、冷静に言う。
「あの、そのことなんですけど」
「ん?」
「大丈夫なのかなぁと思って」
「大丈夫って何が?」
「ほら、あたし家政婦だし、なんていうか差があり過ぎるっていうか……。もしかしたら、付き合うのは無理なんじゃないかなって」
「そんなわけないじゃん」
「ホント? あたしクビにならない?」
「ならないよ。俺のことなんか誰も気にしないから」
やけに自信満々じゃないか。信用してないワケじゃないけど、クリスマスパーティーの時の奥様があまりに強烈だったから、やっぱり不安。
「じゃあ行こうか」
突然、あたしの手を引いて歩き出す、妙に大胆な今日のレイ君に困惑しながらも一歩一歩本宅へと近づいて行く。
「おはようございます。おや、今朝は星崎さんとご一緒ですか」
着くなり左近さんに見つかって、心臓が縮む思いをした。
「ええ」
見られても手は離さず、レイ君はぐんぐん歩いていく。
あと30分もすれば旦那様が起きてくるのかと思うと、生きた心地がしない。
「おいおい、堂々と朝帰りか?」
まだ起きているはずのない、一番見つかりたくない人の声がした。
「おはよう……ございます」
さすがに手を離そうとしたけど、レイ君は離さなかった。
「離れはラブホテルじゃねえんだぞ」
腕組みして仁王立ち。物凄く怒ってらっしゃる。
「羨ましいのか?」
「は? ケンカ売ってんのか。貴様」
顔の痣もまだ新しいというのに、2人はすでに喧嘩腰。
「おはよう。今朝はみんなやけに早起きじゃないか」
そこへ旦那様が起きて来られた。救いの神? にとりあえずホッとする。
ダイニングに全員揃うと、タイミングも雰囲気も考えず、唐突にレイ君が切り出した。
「彼女と付き合うことにしたから」
ビックリし過ぎて白目むくわ。
「ええ! 結局、零君がみのりさんを射止めたんだぁ。おめでとう」
お嬢様の言葉にイッセイ坊ちゃまは舌打ちした。
「そうか。もうお互いに大人なんだし、いちいち干渉する気はないよ」
お? 旦那様は何なくクリア?
「父上! そんな簡単に許す気ですか」
が、イッセイ坊ちゃまが噛みついた。
「許すも許さないもないだろう。反対する理由もないし」
寛容な旦那様の反応に安堵する。
「だったらせめて条件を付けてください。今朝のように堂々と手を繋いで朝帰りというのは、僕だっていい気はしない」
イッセイ坊ちゃまのお気持ちを考えると確かに少し軽率だったかも。
そりゃ……いい気はしないよね。
「どうしても付き合うというなら、せめて僕たちには分からないようにしてもらいたい。ここでイチャついたり、離れをホテル代わりに使うのはあまりに無神経でしょ」
ホ、ホテル代わりだなんて、そんなつもりは……!
てか、皆さんの前でなんちゅうことを。
「離れはみのりさんに貸しているものなんだし、どう使おうと彼女の勝手なんじゃないの? 住込みだからってそこまで自由がないんじゃ気の毒よ」
お嬢様が気まずそうに助け舟を出してくれた。
「いや。これが最低条件だ。この条件だけは呑んでもらう。それが俺への誠意ってもんじゃないか?」
ぐうの音も出なかった。あたしはイッセイ坊ちゃまがいなかったら今頃間違いなく路頭に迷っていた。
旦那様が何も訊かずに黙って雇ってくれたのは、紛れもなくイッセイ坊ちゃまが口添えしてくれたから。あたしはそんな坊ちゃまの気持ちに応えられないだけでなく、彼が一番嫌な相手と付き合うことになったのだ。
しかも、同じ屋根の下で。その彼が最低条件だと言うなら、呑まないワケにはいかない。それが筋ってもんだ。
「分かりました……」
ここにいる間は基本的に仕事中だから、当然イチャつこうなんて思っていないし大して困ることはない。
問題は離れにいる時間だ。お休みの日もレイ君と会っちゃいけないの? だったら一体どうすれば?
レイ君、仕事用の携帯しか持ってないから連絡の取りようもないし。
せっかく付き合えたっていうのに、なんでこう上手くいかないのー!?
「だったら俺がここを出る。それなら文句ないだろ」
条件を呑んで一件落着かと思いきや、レイ君が思いついたように言った。
「フッ。また逃げ出すつもりか貴様」
イッセイ坊ちゃまが冷笑する。
「レイ……坊ちゃま! それは絶対ダメです!」
以前からここを出たそうだったレイ君ならホントに出て行ってしまうだろう。
でも、せっかく本宅へ戻って来て、親子水入らずで暮らせるようになったばかりなのに、あたしのせいでそれをぶち壊すワケにはいかない。
「けど、それじゃあ……」
「だ、大丈夫ですって」
自分も困り果ててるクセに、またテキトーなこと言っちゃった……。
何が大丈夫なんだよ。あーあ。どうしよう。早くも暗礁に乗り上げてしまった。
「兄様ったら案外子どもなのね。きっと失恋したことないのよ。ごめんね、みのりさん。プライドだけはやたらと高い人だから。零君に取られたってのが面白くないのよ」
旦那様と坊ちゃまたちが出かけた後、お嬢様が溜息まじりに言った。
「へへ。仕方ないですよ……」
そう。これは仕方のないことだ。もし、あたしがイッセイ坊ちゃまの立場だったとしても、いい顔はできないと思う。
例えるなら、あたしが隼士と別れずにあのアパートでカオリちゃんと3人で暮らしてるようなもんでしょ?
まあ、例えが悪いし、微妙に状況は違うけど、普通に地獄だ。
そりゃイチャつくならホテル行けよって思っちゃうなー。
……ん!?
そうか! 外へ行けばいいんだな?
何もここにいなきゃいけないってことないんだし、レイ君と外で会えばいいんじゃん。
そうすればイッセイ坊ちゃまの目に触れることもないし。
なんだー。別にどうってことないじゃん。お互いに実家で暮らしてると思えば、外で会うなんて普通のことだし。
帰ったら早速レイ君に言わなきゃ。今日はイッセイ坊ちゃまより早く帰って来ないかなぁ。
案外簡単に解決の糸口を見つけ、あたしはすっかりいい気分になっていた。
だが、あたしはまだ知らなかったのだ。
黒澤一成という男の嫉妬深さと執念深さを――。
「お疲れのところすみません。どうしても訊きたいことがあって……」
目の前に置いたコーヒーの湯気が2人の間を漂う。口元の傷が痛々しい。
「敬語じゃなくていいよ」
「じゃあ、遠慮なく。あの、あたしが訊きたいのは……」
勢いだけはあったけど、いざ切り出そうとすると怖くなった。
「今朝、あいつが言ってたこと?」
う~とかえ~とか言っている間に、レイ君から切り出されてしまった。
「そ、そう! その通り!」
ダメじゃん!真面目に訊きたいとこなのに。
「……付き合う気があるかってこと?」
ドキドキしながら深く頷く。
「正直言って、ない」
「ええーっ!!」
ビックリし過ぎて思わず立ち上がった。その拍子にイスが倒れた。
「それって……遊びだったってこと?」
一番恐れていた答えだった。ヤダヤダ!嘘でしょ!? 誰か、嘘だと言ってぇ!
「まさか。それは絶対ない」
「だったらなんで?」
衝撃が大き過ぎて、頭の回転がいつも以上に鈍い。
「……嫌なんだ」
何がって口にするのも恐ろしくて、あたしは黙って首を傾げた。
「本当の自分を知られるのが」
「本当の自分……?」
まだ何か秘密があるの? 思わず身構える。
「あいつに言われたんだ。自分を産んだ人に会ったら、嘘でもありがとうぐらい言えって。それが大人だって。お前はあんなガキ丸出しの反応して、恥ずかしくないのかって」
あいつってイッセイ坊ちゃまよね? いつの間にそんなこと……。
「今さら恨み節を言いたいわけじゃないけど、でも、だからって全部をなかったことにはできない」
口調は淡々としていたけど、感情をコントロールするかのように、彼はマグカップを握りしめている。
「どんなに忘れたくても、過去は消せない。乗り越えたからって、事実が消えるワケじゃない」
寝たら忘れちゃうような過去しかないあたしには、重い言葉だった。イヤな記憶には蓋しちゃえばいいって思ってるような浅い人間だもんな。
「だから、手っ取り早く感情を消そうと思った。何があっても何も感じないようにすれば辛くも苦しくもないだろうって思ったから」
あたしの脳内では、出会った頃の不気味な彼の微笑みが甦っていた。ちゃんと理由があったんだ……。
「でも、君と接してるうちに、今までになかった感情が色々と芽生えてきて、少しは変われるんじゃないかって思った。だけど、あの日、俺を産んだって人に会っても何も感じなかったんだ」
「え……」
深く掘り下げないと肝に銘じたばかりなのに、あたしは普通に次の言葉を待っていた。
「喜ぶのは無理でも、怒りや悲しみぐらいは感じるんじゃないかって思ってたのに、心が死んだみたいに何も反応しなくて。それが恐ろしかった」
そう言った時、彼がマグカップを持つ手に力を入れたのが分かった。
「君に呼び止められた時、何だか急に怖くなったんだ。どう頑張っても君と同じ世界にはいられないんだなって思って。だから……」
ぐっと身を乗り出し、マグカップを握る彼の手を、そっと両手で包んだ。
「それじゃあ、ダメだね」
「そうだろ?だから君とは……」
「あたしがいなきゃ」
「へ?」
きょとんとしているレイ君の手をマグカップから引き離し自分の頬を包ませた。
「大丈夫。あたしが愛してあげる」
「え……」
「レイ君が、もうお腹いっぱいだ―止めてくれーって言うぐらい愛してあげる」
イッセイ坊ちゃまの言葉や態度に、何度も心が揺れたのは事実だけど、でも今、やっと確信した。
あたしはレイ君を愛したいんだって。理屈じゃない。
手が頬に触れるだけで心が満たされていく。
レイ君が好きなんだって思う度、泣きそうになる。胸がドキドキして壊れそうでも、そばにいたい。
「俺には、君に愛されるような価値はないよ。親にだって愛されなかった人間なのに……」
「はい、ダメー!」
「へ?」
「そんなこと勝手に決めない! 愛すか愛さないかはあたしが決めるの!」
頬から離れそうになった彼の手を強引に自分の手で押さえつける。
「いや、でも……」
「でもとか言わない!」
反論も無理やりねじ伏せる。
「大丈夫。レイ君にはちゃんと感情があるよ。なかったら何も感じないことを怖いと思ったりしないから」
「……そうかな」
「そうだよ。だから大丈夫!」
根拠はないけど、絶対大丈夫だって思える。ホント、勢いだけだなーあたしって。
「もう諦めなきゃいけないと思って、家も出たのに、こうしてるとダメになりそうだな」
その時、年が明けてから初めて彼の穏やかな笑みを見た気がした。
「じゃああたしと2人でいるのが嫌だから出て行ったんじゃないんだ」
「うん。寧ろその逆」
「なんだー、何も言わないで出て行っちゃうからてっきり……」
ホッと胸を撫で下ろす。
「一緒にいたら好きになるの止められないから」
撫で下ろした胸がギュッとなる。急な攻撃にはまだ慣れない。
「止めないでよ」
呟くと、逃げるように彼は俯いた。どうしたらもう一度顔を上がるか考え、頬を包んでいる彼の右手の親指を甘噛みした。
驚いたのか、彼は勢いよく顔を上げた。さずがにちょっとやり過ぎかな。
「だって……俯くから」
言い訳を口にするあたしを彼はじっと見つめている。絡みつくような色っぽい眼差しで。
あ~ドキドキする。
熱視線を注がれているだけでも窮屈なのに、彼は右手の親指であたしの唇に触れた。
口紅を滑らせるよりも優しい指先になぞられると、唇に力が入らなくなって、薄く開いてしまう。
その隙間から、少しずつ指が侵入してくる。
舌先に指が触れると、彼はそのまま歯の奥に指を進ませた。
連動するように、あたしは彼の指先を口に含んだ。
なんだか、とんでもなくエロいことしているような気がして、あたしは勝手に興奮し始めていた。
指を舐めたぐらいで興奮している自分が恥ずかしいけど、だんだん恥じらいも分からないようになってきている。じわじわと洗脳されていくみたい。
きっと、レイ君がお色気全開であたしをじっと見てるからだ。
うぅ……もう限界かも。
「ねえ……レイ、くん……」
「ん?」
「もう、ムリ……」
「無理って何が?」
「……したい」
お互いにハッとしたのが、何かの合図みたいだった。説明できない不思議な感覚だった。
「俺も」
そう呟いた時には、もう唇が重なっていた。
あたしたちは、息をするのも忘れるぐらい、激しく求め合っていた。
視線も指も唇も舌も、それから感情もすべて絡ませて溶けていく。
流れるようにソファーに身を落とし、素肌を曝す。
「あ……」
思わず声を上げてしまう。
服を脱いだ彼の肌には無数の傷があったから。前は暗くて見えなかったけど、今ははっきりと見える。肩や腕、酷いのは背中。何をされたのか想像もつかない。黙って口づける。
『どんなに忘れたくても、過去は消せない』
彼の言葉が甦る。自然と浮かぶ涙を呑み込む。泣いちゃいけない。
「あたしが愛してあげる。ぜんぶ……愛してあげる」
そんな言葉しかかけられないあたしを彼が勢いよく抱き寄せる。
「みのりちゃんがいてくれたら、それでいい」
ダメだ。やっぱり泣いちゃいそう。好きな人と心が通じ合ってるって思うだけで、胸がいっぱいになる。
抱き合うほどに愛しさが増していく。肌の隙間を埋めて、彼があたしの一部になる。
快楽なんてホントは二の次でいい。心が繋がった先にある行為じゃなきゃ意味がない。
だけど、気が狂いそうなほどキモチよくて、理屈も理性もどうでもよくなる。
「もっと……もっとして……レイ君」
一晩中求めても足りないくらい好き。もっと乱して。
もっと激しく、もっと淫らに――。
アラームは今朝も無情だけど、目覚めた先にあるレイ君の寝顔は病みつきになりそう。
はぁ~カッコいい。
誰だ? キレイな顔だからより不気味だとか言ってたヤツは。
うふ。でも、しょうがないじゃん。恋をしたら世界が変わってしまうんだから。
起こさないように、そっと頬にキスをしてから布団を抜け出した。
昨夜の戯れを思い出し、間の抜けた顔で歯を磨きながら、ふと考える。
そういや、家政婦の分際で坊ちゃまに手出して大丈夫なんだろうか?(今さら)
付き合うだなんだって散々言ってたけどそもそも可能?
いつの時代だよって感じだけど、それにしても明らかに身分違い過ぎだよね。
跡継ぎじゃないとはいえ、相手は黒澤財閥の長男坊。
あたしは仮住まいの貧乏家政婦。
好きなんて口にするのも厚かましい? いやいや。大丈夫!
別に結婚するってワケじゃないんだし、お付き合いするくらいどうってこと……ハッ!!
お付き合いしたっけ? あたしたち。ヤバい……また確証がない。
う゛~。
タオルでゴシゴシ顔を拭きながら唸る。拭き終えて洗面所を出ると、目の前にレイ君が立っていた。
「うわっ! ……おはよぉ……」
「おはよう。うわって」
失礼なあたしの反応に、彼は苦笑いを浮かべている。
「まだ寝てると思ってたから。ごめん。起こしちゃった?」
「いや。もう起きるつもりだったから」
「レイ君が起きるにはまだ早くない?あと1時間半は寝られるよ」
一緒に住んでる時も朝は顔合わさなかったもんね。
「今日は一緒に行くよ。付き合うなら報告しといた方がいいでしょ」
しれっと言い放つ言葉に、心拍数が上がる。
やっと確証を得た! 飛び上がりたいくらい嬉しい気持ちをグッと堪え、冷静に言う。
「あの、そのことなんですけど」
「ん?」
「大丈夫なのかなぁと思って」
「大丈夫って何が?」
「ほら、あたし家政婦だし、なんていうか差があり過ぎるっていうか……。もしかしたら、付き合うのは無理なんじゃないかなって」
「そんなわけないじゃん」
「ホント? あたしクビにならない?」
「ならないよ。俺のことなんか誰も気にしないから」
やけに自信満々じゃないか。信用してないワケじゃないけど、クリスマスパーティーの時の奥様があまりに強烈だったから、やっぱり不安。
「じゃあ行こうか」
突然、あたしの手を引いて歩き出す、妙に大胆な今日のレイ君に困惑しながらも一歩一歩本宅へと近づいて行く。
「おはようございます。おや、今朝は星崎さんとご一緒ですか」
着くなり左近さんに見つかって、心臓が縮む思いをした。
「ええ」
見られても手は離さず、レイ君はぐんぐん歩いていく。
あと30分もすれば旦那様が起きてくるのかと思うと、生きた心地がしない。
「おいおい、堂々と朝帰りか?」
まだ起きているはずのない、一番見つかりたくない人の声がした。
「おはよう……ございます」
さすがに手を離そうとしたけど、レイ君は離さなかった。
「離れはラブホテルじゃねえんだぞ」
腕組みして仁王立ち。物凄く怒ってらっしゃる。
「羨ましいのか?」
「は? ケンカ売ってんのか。貴様」
顔の痣もまだ新しいというのに、2人はすでに喧嘩腰。
「おはよう。今朝はみんなやけに早起きじゃないか」
そこへ旦那様が起きて来られた。救いの神? にとりあえずホッとする。
ダイニングに全員揃うと、タイミングも雰囲気も考えず、唐突にレイ君が切り出した。
「彼女と付き合うことにしたから」
ビックリし過ぎて白目むくわ。
「ええ! 結局、零君がみのりさんを射止めたんだぁ。おめでとう」
お嬢様の言葉にイッセイ坊ちゃまは舌打ちした。
「そうか。もうお互いに大人なんだし、いちいち干渉する気はないよ」
お? 旦那様は何なくクリア?
「父上! そんな簡単に許す気ですか」
が、イッセイ坊ちゃまが噛みついた。
「許すも許さないもないだろう。反対する理由もないし」
寛容な旦那様の反応に安堵する。
「だったらせめて条件を付けてください。今朝のように堂々と手を繋いで朝帰りというのは、僕だっていい気はしない」
イッセイ坊ちゃまのお気持ちを考えると確かに少し軽率だったかも。
そりゃ……いい気はしないよね。
「どうしても付き合うというなら、せめて僕たちには分からないようにしてもらいたい。ここでイチャついたり、離れをホテル代わりに使うのはあまりに無神経でしょ」
ホ、ホテル代わりだなんて、そんなつもりは……!
てか、皆さんの前でなんちゅうことを。
「離れはみのりさんに貸しているものなんだし、どう使おうと彼女の勝手なんじゃないの? 住込みだからってそこまで自由がないんじゃ気の毒よ」
お嬢様が気まずそうに助け舟を出してくれた。
「いや。これが最低条件だ。この条件だけは呑んでもらう。それが俺への誠意ってもんじゃないか?」
ぐうの音も出なかった。あたしはイッセイ坊ちゃまがいなかったら今頃間違いなく路頭に迷っていた。
旦那様が何も訊かずに黙って雇ってくれたのは、紛れもなくイッセイ坊ちゃまが口添えしてくれたから。あたしはそんな坊ちゃまの気持ちに応えられないだけでなく、彼が一番嫌な相手と付き合うことになったのだ。
しかも、同じ屋根の下で。その彼が最低条件だと言うなら、呑まないワケにはいかない。それが筋ってもんだ。
「分かりました……」
ここにいる間は基本的に仕事中だから、当然イチャつこうなんて思っていないし大して困ることはない。
問題は離れにいる時間だ。お休みの日もレイ君と会っちゃいけないの? だったら一体どうすれば?
レイ君、仕事用の携帯しか持ってないから連絡の取りようもないし。
せっかく付き合えたっていうのに、なんでこう上手くいかないのー!?
「だったら俺がここを出る。それなら文句ないだろ」
条件を呑んで一件落着かと思いきや、レイ君が思いついたように言った。
「フッ。また逃げ出すつもりか貴様」
イッセイ坊ちゃまが冷笑する。
「レイ……坊ちゃま! それは絶対ダメです!」
以前からここを出たそうだったレイ君ならホントに出て行ってしまうだろう。
でも、せっかく本宅へ戻って来て、親子水入らずで暮らせるようになったばかりなのに、あたしのせいでそれをぶち壊すワケにはいかない。
「けど、それじゃあ……」
「だ、大丈夫ですって」
自分も困り果ててるクセに、またテキトーなこと言っちゃった……。
何が大丈夫なんだよ。あーあ。どうしよう。早くも暗礁に乗り上げてしまった。
「兄様ったら案外子どもなのね。きっと失恋したことないのよ。ごめんね、みのりさん。プライドだけはやたらと高い人だから。零君に取られたってのが面白くないのよ」
旦那様と坊ちゃまたちが出かけた後、お嬢様が溜息まじりに言った。
「へへ。仕方ないですよ……」
そう。これは仕方のないことだ。もし、あたしがイッセイ坊ちゃまの立場だったとしても、いい顔はできないと思う。
例えるなら、あたしが隼士と別れずにあのアパートでカオリちゃんと3人で暮らしてるようなもんでしょ?
まあ、例えが悪いし、微妙に状況は違うけど、普通に地獄だ。
そりゃイチャつくならホテル行けよって思っちゃうなー。
……ん!?
そうか! 外へ行けばいいんだな?
何もここにいなきゃいけないってことないんだし、レイ君と外で会えばいいんじゃん。
そうすればイッセイ坊ちゃまの目に触れることもないし。
なんだー。別にどうってことないじゃん。お互いに実家で暮らしてると思えば、外で会うなんて普通のことだし。
帰ったら早速レイ君に言わなきゃ。今日はイッセイ坊ちゃまより早く帰って来ないかなぁ。
案外簡単に解決の糸口を見つけ、あたしはすっかりいい気分になっていた。
だが、あたしはまだ知らなかったのだ。
黒澤一成という男の嫉妬深さと執念深さを――。
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