たまゆら ――婚外カノジョの掟

あまの あき

文字の大きさ
4 / 23

天罰

しおりを挟む
 二度目の過ちを犯すことなどあってはならないのに、いとも簡単に碧川さんを部屋に入れた自分がいる。
 軽率な行為だと理解はしているけれど、「気になる」という言葉を素っ気なくかわせるほど彼への熱は冷めていなかった。
 玄関を開け、中に入るなり電気も点けずに碧川さんの唇を奪った。ヒールを履いているから、どうにか背伸びをすれば唇に届くけど、脱いでしまったらニ十センチ近く身長差があるので届かなくなってしまう。そこまで考えていたわけじゃないけど、また碧川さんと二人きりになれるんだと思うと抑えが効かなくなった。
 諦めようと思っていた、が聞いて呆れる。
 だって……こんな風に家の前で待たれたら理性を保つことなんでできないよ。
「意外と情熱的なんだね、宝生さんって」
 唇を離すと、彼が言った。
 そんなつもりじゃなかったのにって言われたらどうしようと、今さら恥ずかしくなってきた。碧川さんがどんな目的でうちに来たのかも分からないのに、飢えているみたいにキスしてしまった。
 一度関係を持ったぐらいで特別な存在にでもなった気でいたのかな。バカみたいだ、私。
「ごめんなさい……迷惑ですよね」
 慌てて離れようとした私を、彼は抱き寄せた。
「迷惑なわけないでしょ。嬉しいよ、すごく」
「……そういうこと言うと、真に受けちゃいますよ私」
 どうそと許可をするみたいに、今度は彼からキスをされた。体中の血液が沸騰しているように熱い……。
「一葉ちゃん」
「えっ?」
 突然、下の名前で呼ばれ、息の根が止まるかと思った。
「って呼んでもいいかな? 二人でいる時は」
 “二人でいる時” という特別な響きが私の涙腺を刺激した。
 それってこれからも、下の名前で呼ぶ機会があるという意味?
 今夜だけかもしれないのに、やっぱり期待してしまう。
「はい。下の名前で呼んでもらうのが夢だったから嬉しいです」
 偽りのない気持ちを伝えると、碧川さんは一瞬固まったようだった。暗くて表情がよく見えないけれど、引かれてしまったのかもしれない。
「おれに名前呼ばれるのが夢だったとか言われたら、感動するじゃん」
 骨が折れそうなほど強く抱きしめられ、秘かに胸を撫で下ろしていた。
「よかった。引かれたのかと思いました」
「まさか。喜ぶことはあっても、引くことはないよ」
 不謹慎ながら、五年間想い続けてきてよかったと思った。恋が実ることはないけれど、理由は何であれ、好きな人に抱きしめてもらえる至福の時を味わうことはできた。
 この時間が終わらなければいいのに。日付が変わっても、朝が来ても、ずっと私と一緒にいてくれたらいいのに。
 帰ろうとした碧川さんを引き留めたのは私だった。あともう少しだけとねだり、キスをせがんだ。一緒にいる時間を引き延ばしたいという気持ちももちろんあったけれど、どうしても彼に抱かれたかった。部下としてではなく、女として求められたかった。
 肌が触れ合っている間だけでも、愛されていると思いたかった――。
「一葉ちゃん……」
 その夜、彼は何度も私の名前を呼んでくれた。私も下の名前で呼びたかったけれど、これ以上踏み込んではいけないと思い我慢した。
 抱かれる度に私の想いは深くなっていく。
 体の相性なんて本当に存在するのかは分からないけれど、私はもうすっかり身も心も碧川さんの虜になっていた。四六時中、繋がっていたいと思うほどに。
 二度目の夜が明けた時、ひとりぼっちのベッドで私はもうこの沼から脱け出せないんだと悟って泣いた。
 奥さんに対しては申し訳ないという気持ちしかなかったはずなのに、ほんの少しだけ「別れてくれないかな」という悪魔的な考えが芽生え始めていて自分が怖くなった。
 碧川さんには息子さんだっている。恋だの愛だのだけで離婚することはできないはずだ。未婚の私にも、それぐらいは分かる。子どもを産んだ以上は育てる義務がある。責任や義務を簡単に放棄するような人なら、きっとこんなに惹かれてはいない。愛妻家で子煩悩なところも好きだから厄介だ。
 
    *

『今日何時に終わる?』
 週も半ば、精神的にも体力的にも疲れが出る頃、碧川さんからLINEがきて疲れは吹き飛んだ。
 堂々と、と言ったら変かもしれないけど、あれから碧川さんは普通にLINEを送ってくるし、電話もかけてくる。都度、履歴を消しているのかもしれないけれど、浮気がバレる人の大半は恋人や伴侶にLINEのトーク履歴を見られることが原因だ。残念ながら、私にも経験がある。元カレはトイレやお風呂に行く時まで片時もスマホを離さず、ニタニタ笑いながら返信していたのですぐにバレた。いかなる理由があろうと浮気はしちゃいけないけれど、どうしてもしたいならせめて隠し通してほしいと思う。
 碧川さんは大丈夫なんだろうか?
 奥さんは寛容だと言っていたから、もしかしたらスマホを盗み見たりしないのかな。逆にぜんぶ見せているとか? まさかね。いくらなんでもそれはないよね。
 好きとか愛してるなんて言葉はもちろん、ハートの絵文字を入れたり『また二人で行こうね』などの露骨なメッセージは送信しないように気をつけているつもりだけど、それでも見られたら一発で気づくはずだ。
 バレても大丈夫だという、確信でもあるのだろうか。こそこそされるのも嫌だけど、あまりに堂々としているのも気になってしまう。ワガママだね、私。
 ただ、彼があまりにも普通なので徐々に私も気が緩んでいったのは否めない。慣れというのは本当に恐ろしく、最初ほど怯えたり不安になったりすることはなくなっていた。それと比例するように、彼を独り占めしたい気持ちが気球のように膨らんでいった。

 でも――。
 既婚者相手に独占欲など持ってはいけなかった。
 誰も見ていなくても神様はちゃんと見ている。善いことも悪いこともぜんぶ――。
「もしもし。宝生《ほうしょう》さん、ですか? 突然ごめんなさいね。碧川と言います。一度会ってお話しできないかしら?」
 土曜日の午後、珍しく碧川さんから着信があって喜び勇んでスマホを耳にした私は、男性ではない穏やかな声に一瞬で凍り付いた。今なら『宝生一葉で釘が打てます』と言えそうなほど。
 どうやら不貞に気づいた奥さんが、彼のスマホを使って私に電話をかけてきたらしい。苗字の読みは『ほうじょう』だけどとても訂正する気にはなれなかった。
 パニックになって、きちんとした応答ができていたのかどうかも定かではないけれど、明日会う約束をしたのは確かだ。
 いつの日か、この関係が白日の下に曝され、罰を受ける時がくることは最初から覚悟していたけれど、まさかこんなに早くXデーがくるとは思ってもみなかった。
 予定がありますと嘘を吐くこともできたけど、先延ばしにしたって心臓に悪いだけ。会うのを避け続けて、万が一、会社に乗り込んで来られたりしたらおしまいだ。仕事も社会的な信用もすべて失ってしまう。
 いや、奥さんに会えばどのみち会社を辞めろと言われるに決まっている。夫が愛人と同じ会社の同じ部署で働くことを許可する妻なんているはずがない。
 不倫とはいえ、恋愛はプライベートなことなので会社としては口を出せないし、それを理由に解雇することはできないそうだ。(もちろん、セクハラなどは別。)会社としてできることは部署や支店を異動させることぐらい。だから、当人たちで話し合って、愛人側か夫側かが自主退職するケースが多いのだと、ご主人に不倫されたことのある職場の先輩方が話しているのを聞いたことがある。
 だとするならば、奥さんは私に自主退職を要求するだろう。当然、碧川さんには二度と会えないし、それ相応の慰謝料だって請求されるはずだ。数えるほどしか関係を持ったことがないからといって、不倫していないことにはならない。相手が既婚者だと承知していたし、どんな言い訳も通用しない。
 あぁ、どうしよう……。こんなこと誰にも相談できないし、明日がくるのが怖い。いっそ今日のまま時間が止まってしまえばいいのに。
 眠れないまま朝を迎えた。一夜にして頬にぽつんとニキビができているし、全身浮腫んでいる。身も心も鉛のように重い。
 奥さんから指定された場所は、私でも知っている高級ホテルのドレスコードがあるレストラン。スマートカジュアルって一体どんな恰好をすればいいのか分からず、ネットで検索しまくった。結婚式よりはカジュアルだけど、普段着よりはきちんと、か……。情報番組の司会をしている女子アナのような装いでいいのかな。
 考え抜いた結果、ネイビーのセットアップを着ることにした。このセットアップを着る時はパールのネックレスをすることが多いけどアクセサリーは控え、バッグとパンプスはベージュでシンプルに。立場的に華美にするのは非常識だし、質素すぎてもわざとらしい気がする。着るものにここまで悩むなんて、初デートや就職の面接前よりも緊張しているかもしれない。
 午前十一時過ぎ。弱冷車に揺られながら、一体いくらぐらい慰謝料を請求されるのだろう、いつ仕事辞めなきゃいけないんだろうと頭を痛めていてふと気がついた。
 あれ? そう言えば私、どうして碧川さんが奥さんと離婚しないことを前提で考えているんだろう。
 夫とは離婚しませんって言われたわけじゃないし、もしかしたら「あなたのせいで夫とは離婚します」と言われる可能性だってあるのに。職場の先輩方のように、子どもがいるから我慢するという人ばかりではないはずだ。
 すごく不謹慎だけど、もし離婚するのなら碧川さんと堂々と付き合えるかも?
 邪な気持ちを小脇に抱え、最寄り駅に着くとスマホでマップを見ながら歩き出した。今年は例年より暑く、電力供給が逼迫しているとニュースで連日のように伝えている。異常な暑さのせいなのかは分からないけれど、蝉も鳴いていない。ハンカチでこめかみの汗を拭い、今年は私にとっても忘れらない、異常な夏になりそうだと容赦なく照り付ける太陽を見上げた。日差しは誰にも平等だ。
 五分ほどすると、慰安旅行で訪れた旅館とは一線を画す豪壮なホテルが視界に飛び込んできた。地上十七階、客室が千以上あるこのホテルは歴史的建造物であり、その佇まいは堂々としている。
 ここは碧川邸ではないのに、奥さんのテリトリーに入ったような気がして思わず息を呑んだ。自動ドアの向こうに広がった宮殿のような内装が私の侵入を拒んでいるかのよう。大理石の床もゴージャスなシャンデリアも眩しく、そこにいるゲストやスタッフみんなが私を嘲笑しているようにさえ思えた。場違い感が半端ない。緊張が限界を超え、生まれたばかりの小鹿になりそうなほど膝が震え始めた。
 碧川さんと関係を持ってから、頭の中で何度奥さんに謝罪しただろう。許してもらえるとは思っていないけれど、だからこそ少しでも奥さんの気が済むようにできる範囲で償いたいと思っている。
 離婚するにしてもしないにしても、一番辛いのは奥さんと子どもさんだ。これ以上、悲しみの上塗りをしないようにしなければ。
 立場を弁えて、低姿勢に。
 予約しているという一階にあるステーキレストランは、エントランスとは雰囲気が違い、黒を基調とした内装で重厚感があった。照明も薄暗く、家具や調度品なども黒系が多い落ち着いた店内。より一層の緊張感が私をがんじがらめにする。
 広いお家のダイニングほどの個室に案内されると、四人掛けのテーブルに女優さんかと見紛うほどの美しい女性ひとがゆったりと座しているのが見えた。
「あなたが宝生一葉さん? はじめまして。私、碧川環と言います。碧川敬文の妻です」
 黒い椅子に擬態しているような漆黒のドレスワンピースを着た女性が私を見るなり席を立って、軽く頭を下げた。前下がり気味のボブヘアをかぎあげる様も赤いリップをひいた唇も匂い立つほどに色っぽく、私は既に気後れしていた。
 意志の強そうな切れ長の瞳に、きりりとした眉、大きめの口。クールビューティーとはまさに彼女のような人のことを言うんだなと思った。少し日焼けした健康的な肌が、色白の私とは対照的だった。
 碧川さんと同じくらいの年齢なら私より一回り以上は年上だろうし、正直に言うともう少しおばちゃんっぽいのかなという想像をしていたので、初っ端から打ちのめされた気分だった。
「今日は突然呼び出したりしてごめんなさいね。どうぞ座って」
 緊張で銅像になってしまいそうになりながら、言われた通りに席についた。
 奥さんはずっと笑みを絶やさないけれど、それは決して赦しではないと解っていた。妻の余裕か、愛人を痛めつけてやれるという悦びかは分からないけれど、場に似つかわしくない碧川夫人の笑顔は不気味で怖かった。
 向かい合って座ったはいいけれど、いきなり謝罪してもいいのかどうかも分からず気を失いそうだった。
「色が白くて羨ましいわ。私、若い頃サーフィンやったりしてたから、この通り黒くなっちゃって。やっぱり日焼け対策とかしっかりしてるの?」
「え、あ、いえ。日焼け止め塗るくらいで特には……」
 奥さんは普通のトーンで話しかけてくるけど、片言みたいな返事しかできなかった。奥さんが得意先のサロンのオーナーだったらゼロ点のトークだ。
「あれ? なんで宝生さんがいるの? なんだ、サプライズってこのこと?」
 胃袋まで吐いてしまいそうになっていると、係員に案内され碧川さんが個室へと入ってきた。
 奥さんと二人きりじゃないことには多少安堵したけれど、ここに碧川さんが加わったら普通に修羅場しか想像できない。というか、夫婦なのにどうして別々に来たのだろう。まさか既に別居を? いや、奥さんが碧川さんと私を動揺させるためでは? 何か策があるのかと推量すると、恐怖に萎縮した。
 当たり前のことなのに、自然と奥さんの隣に座る碧川さんを見て、胸がヒリヒリとした。
 ただ――顔面蒼白であろう私と違い、二人の顔つきは穏やかそのものだった。奥さんはともかく、どうして碧川さんが平然としていられるのか不思議でならなかった。普通は奥さんが愛人を呼び出し、同じ席につかなければいけなくなったら、どんな旦那さんでも狼狽えるはずだ。彼には狼狽える様子も動揺している様子もない。奥さんへの罪悪感もなさそう……? 優しい人だと思っていたけれど、実はサイコパス?
 もしや、私に誘惑されたとか言ったのだろうか。確かに私から仕掛けたことは認めるけれど、すべての責任を負わされたら辛いものがある。
「素敵なサプライズでしょ? あなたの彼女と一度お会いしてみたかったのよ。すごく可愛い人だって言ってたから」 
「ああ、そうなんだ。で、どう? 可愛いでしょ」
「ええ、とっても。想像の何倍も可愛くて、私までドキドキしてる」
 ……は?
 夫婦の会話を聞きながら、私の頭の中には疑問符が犇めき合っていた。困惑、混乱、錯乱。
 一体どういうこと? 
「あら。彼女引いてるみたい。急に夫婦でこんな話したらびっくりするわよね。今日、あなたに来てもらったのは、私たち夫婦のことを説明するためなの」
 妖艶に笑う奥さんは、それから世にも奇妙な “説明” をしてくれた。
「私たち夫婦はね。結婚する前に婚前契約を結んでるのよ。日本ではあまり聞き慣れない言葉だけど、欧米では一般的なの。でね、うちが結んでいる契約の中に『結婚後もお互いに恋人をつくるのは自由』というのがあるのよ。だから、私はあなたのことを咎めたり、訴えたりする気はないから安心してね。もちろん、主人との仲を引き裂いたりもしないわ。これからは、こそこそせずに堂々と会ってくれたらいいのよ」
「え……?」
 笑顔は伝染すると聞いたことがあるけれど、奥さんの笑みが私に伝染することはなかった。
 私を咎めたり訴えたりしないという言葉はしっかりと聞こえて理解できたけれど、他の言葉が入ってこない。
『お互いに恋人をつくってもいい契約』って何? 『これからは堂々と会ってくれたらいい』ってどういう意味? これは新手の揺さぶり? ここで変な受け答えをしないかテストされている?
 三者が顔を合わせる時なんてドラマや漫画では一番の山場で、不倫を否定したり誤魔化したりする夫や愛人に対し、奥さんが何ヶ月もかけて手に入れた確たる証拠を振りかざして成敗する、みたいな展開が多く、今日もそれに近い空気になるものだと腹を括って来た。
 それなのに、夫は否定するどころか奥さんの前で私を褒め、対する奥さんも愛人である私を褒め……え? 私、もしかして気絶でもしてる? これは夢?
 予想していたのとあまりにかけ離れている展開で、私はしばらく反応できずにいた。
「私たちのような夫婦のことをオープンマリッジって言うのよ」奥さんの説明は続いた。初めて耳にしたオープンマリッジとは、アメリカの社会学者の夫婦が提唱した婚姻関係で、夫婦がお互いに婚外交渉を認めている結婚のスタイルのことを言うそうだ。海外セレブの中にはオープンマリッジを公表している人もいるんだとか。
 多様性の時代だし、新しい結婚のカタチがあってもいいとは思うけれど、好きな人の家庭は一般的であってほしかった。傲慢と言われてもそれが本心だった。
 愛妻家で子煩悩、真面目で誠実――五年かけて構築してきた私の中の碧川像が崩れてしまいそうで怖かった。
 恋は盲目というけれど、私は彼のことを過大評価していただけなのだろうか。
「主人がね、宝生さんはとっても真面目だから、こういう関係になったことをすごく気に病んでるみたいだって心配してたのよ。だったら一刻も早く、婚前契約のことを伝えなきゃって思ったの。多分、主人が説明したら不倫男の常套句みたいで胡散臭くなるだろうし、だったら私がお会いして直接伝えようと思ったの」
 うちの奥さんは寛容だと言われた時、あり得ないことの例えとして『逆にぜんぶ見せているとか?』なんて想像をしたこともあったけれど、もしかしたら本当にすべて共有している?
 まだ食事前だけど、食あたりでも起こしたみたいに胃が気持ちが悪くなってきた。これから豪勢なコース料理が出てくるようだけど、食べ物を見たら吐いてしまいそうだ。
 外に恋人をつくるのならどうして結婚したんだろう。夫の愛人と楽しくおしゃべりしている奥さんに、同じ女性として疑問を抱いた。
 夫婦公認の不倫なんて私は聞いたことがない。
 奥さんに会う前は、もしかしたら離婚してくれるんじゃないかという淡い期待を抱いたりもしたけれど、婚外交渉を公認しているのなら私が原因で離婚することはない。
 私と会っていることを奥さんは最初から知っていたのだ。もちろん、ただ会うだけではなく私たちがどんな関係なのかも承知しているのだろう。
 奥さんがすべて知っていると分かっていて、彼はどんな気持ちで私を抱いたのだろう。奥さんは彼が私を抱いたことを知っていて、どんな気持ちで家に迎え入れたのだろう。汚らわしいとは思わないのかな。私に触れた手で触れられても平気なのかな。そもそも二人はレスなのだろうか。いずれにせよ、普通の感覚からすると気持ち悪いのだけど。
 目の前にいる二人は仲睦まじい様子で、結婚生活が破綻しているようには見えない。夫婦というか仲の良い友達みたいで、休日に新しい恋人について話しをしている風だった。
「やっぱりこんな夫婦、理解できないわよね。不倫や浮気なんてみんなこそこそ隠れてするものだし、だからこそスリルがあって燃えるって人もいるものね。でもね、私、嘘ついてこそこそされるのが一番嫌なの。浮気するなら隠してって人もいるけど、私は隠された方がムカつくのよね。浮気よりも嘘が許せなくて」
 まるで女子会のような口調で奥さんが言った。
 もし、奥さんが碧川さんの奥さんじゃないとしても友達にはなれそうにないなと思った。話しが合う気がしない。
「宝生さんも彼が浮気したら怒るタイプ?」
「……はい。そうですね……」
 久しぶりに開いた唇はカラカラに乾燥していた。
 浮気の話題に答えるのは勇気がいる。人の旦那を寝取った女に怒る資格などありはしない。
「あ。そう言えば私、最初に電話した時、ほうしょうさんって呼んじゃったわよね? 主人からほうじょうさんだよって聞いてはいたんだけど、昔同じ漢字でほうしょうって読む女優さんがいたでしょ? 『ショムニ』とかってドラマに出てた。そっちのイメージが強くて。失礼なことしてごめんなさいね」
 浮気の話題で私が表情を曇らせたせいか、奥さんが明るい話題に変えた。場の空気を読める、頭の良い人なんだなと思った。
「ああ、いたね。宝生《ほうしょう》って女優さん。でも、彼女は知らないんじゃないかな。なんせまだ二十代だから。『ショムニ』ってドラマも知らないよね?」
 きょとんとしている私に碧川さんが訊いた。
「すみません……ドラマも女優さんも知らないです」
「えー! そっか。知らないんだ。ショック。ちなみに、宝生さんっておいくつなの?」
「二十七です」
「ってことは……ちょうど一回り下なのね。だったら、ジェネレーションギャップがあって当然ね」
 屈託なく笑う姿は、とても三十九歳には見えなかった。でも、二十代にはない貫禄と円熟味を増した色気がある。
 色んな意味で、奥さんには敵わないと思った。
 本当は三人で食事を楽しむ気分ではなかったけれど、立場上、予約してもらったのに食べずに帰るのは失礼なので、無理やり口の中に押し込んだ。A5ランクのお肉なんて滅多に食べられるものじゃないのに、味わう余裕はなかった。
「私ね。昔から結婚願望が一切なくて、生涯独身って決めてたの。うちは両親が不仲でね。二人ともいい加減な遊び人だったから喧嘩が絶えなくて。物心ついた時には立派な人間不信よ。嘘にまみれた環境で育つと、結婚に夢なんか抱けなくなるのよね。すぐ冷めるくせに何が永遠の愛よって。そんなものないのにバカじゃないのって、いつも思ってた。性格悪いでしょ」
 食事中、奥さんはどうして婚前契約を結ぶ気になったのかを話してくれた。
「だから、男性とお付き合いする時はいつも、他に好きな人ができたら報告することと浮気するなら堂々とすることをお願いしてたのよね。嘘吐く人とは付き合えないって。もちろん、主人と付き合う時も条件は一緒だった。プロポーズされた時には、婚前契約を交わすことが結婚の条件だって言ったの。結婚後に揉めるのも嫌だしね。彼はしばらく悩んだみたいだけど、最終的には納得してくれたの」
 碧川さんから契約の話を持ち出したんじゃないと聞き、少しだけホッとしている自分がいた。
 誰がどんな価値観を持とうと自由だけれど、五年も想っていた人が社会通念上異端としか言えないような結婚観を持っていたらきっとショックだろうから。
「お互いに合意の上なんだから、好きな人ができたら隠さずに恋愛を楽しみましょうと決めたのはいいんだけど、結婚して十三年、彼は一度も婚外交渉をすることはなかった。信じられないかもしれないけど、彼に気になる子がいるって打ち明けられたのはあなたが初めてなのよ」
「え……? そうなんですか?」
 こんな時に不謹慎だけど、奥さんの言葉に頬の緊張が緩むのを感じた。
 オープンマリッジなんて言うから、今までも遊びまくっていたのかなって勝手にショックを受けていたのに。
 今日はもう、どんな感情でいればいいのか分からないよ。




しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

愛のかたち

凛子
恋愛
プライドが邪魔をして素直になれない夫(白藤翔)。しかし夫の気持ちはちゃんと妻(彩華)に伝わっていた。そんな夫婦に訪れた突然の別れ。 ある人物の粋な計らいによって再会を果たした二人は…… 情けない男の不器用な愛。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

俺と結婚してくれ〜若き御曹司の真実の愛

ラヴ KAZU
恋愛
村藤潤一郎 潤一郎は村藤コーポレーションの社長を就任したばかりの二十五歳。 大学卒業後、海外に留学した。 過去の恋愛にトラウマを抱えていた。 そんな時、気になる女性社員と巡り会う。 八神あやか 村藤コーポレーション社員の四十歳。 過去の恋愛にトラウマを抱えて、男性の言葉を信じられない。 恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。 そんな時、バッグを取られ、怪我をして潤一郎のマンションでお世話になる羽目に...... 八神あやかは元恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。そんな矢先あやかの勤める村藤コーポレーション社長村藤潤一郎と巡り会う。ある日あやかはバッグを取られ、怪我をする。あやかを放っておけない潤一郎は自分のマンションへ誘った。あやかは優しい潤一郎に惹かれて行くが、会社が倒産の危機にあり、合併先のお嬢さんと婚約すると知る。潤一郎はあやかへの愛を貫こうとするが、あやかは潤一郎の前から姿を消すのであった。

処理中です...