たまゆら ――婚外カノジョの掟

あまの あき

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Pandora

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 彼女は絶望的な悪人ではない。ただ、自分の欲求に忠実で欲しいものが明確なだけ。どんなことをしてでも欲しいものは手に入れる、という信念を持っている人は一定数存在する。彼女もきっとその一人なんだと思う。
 多くの人に迷惑をかけることになっても、自分のやりたいことを貫いて最期に笑うのと迷惑をかけた人は少なくても、自分のやりたいことはほとんどできずに最期を迎えるのと、どちらが良い人生なのだろう。私にはまだ分からない。
 一度きりの人生なのだから、我慢などせず欲望の赴くままに生きていたい。そう考えること自体は悪いことではない。誰だって、自分の思い通りに悔いなく生きたい。それが本音だと思う。
 だからと言って、みんながみんな自分の思い通りにはできるわけではないし、関係のない人を巻き込むようなやり方には賛成できないけれど。
 彼女に触れられることを気持ちいいとは思わない。でも、不思議と気持ち悪いとも思わなかった。そんな自分の感覚が怖くもあった。
 これまでの彼女の言動から、他人を痛めつけるのが好きな人なんだろうと思っていた。自分さえよければ、他人の感情など関知しない人だと。
 ただ、意外にも彼女の手つきは優しかった。ネイルはきれいだけど爪は短いようで、肌を傷つけることもない。薄いベールの上から触れているようだった。
 この恐怖と緊張感がなければ気持ちいいと感じるのかもしれないと思うと恐ろしく、同じリズムで進む時計の針が恨めしかった。
「ねえ。主人はどうだった? 上手だったでしょ?」
 耳朶を愛撫しながら奥さんが訊いた。
 どう答えたらいいか分からず、私は黙ってシーツに顔を埋めた。
 上手だったでしょだなんて、自分が仕込んだとでも言いたいのだろうか。
 碧川さんは一回り以上年上だし、それなりに経験もあるだろうから元カノや奥さんの影響が多少なりともあることは承知の上だけど、それはあくまでも想像の域を出ない部分であって、実際に手ほどきをした人のことなど知りたくはない。
 私は奥さんのように好きな人のことを何もかも把握したい人間ではない。どうしようもない嫉妬の感情を抱くこともある、普通の人間だ。
 そんなことを聞かされたら、せっかくの碧川さんとの美しい思い出まで翳ってしまう。
 間接的にはもう既に奥さんと交わっていたみたいで、黒い感情がふつふつと湧いてくるようだった。
 碧川環という人は、他人の肉体だけでなく心まで支配しようとする。
 彼女がオープンマリッジなんて提案をしなければ、碧川さんはきっと今も奥さんだけを一途に愛していたはずだ。結局、彼女は碧川さんの心も操って、自分の思う通りの結婚をさせたのではないだろうか。彼女を知れば知るほど、そんな気さえしてくるのだ。
「……本当だったんだ」
 突然、低い声がしたと思ったら、寝室の手前に碧川さんが立っていた。
 奥さんと愛人がベッドにいるところを見せるのは酷だけど、碧川さんには真実を知ってもらいたいと思い、私が事前に連絡しておいた。スーツ姿なので、仕事を抜けてきてくれたのだろう。気まずいながらも彼の顔を見てホッとしている自分がいた。
「あら、どうしたの? あなたも加わる?」
 後ろめたい現場に突然旦那さんがやって来たというのに、奥さんは狼狽える様子もなく落ち着いた声で言った。
「ここへ来るまでは半信半疑だったけど、君が宝生さんのことが好きで襲いかかろうとしたっていうのは嘘じゃなかったんだね」
 私はすぐさま床にあったカーディガンに手を伸ばして羽織ると、碧川さんの背後に移動した。
「やあね。襲いかかってなんかいないでしょ? これは合意の上よ。ね、一葉さん」
 確かに今日のことは合意の上だけど、前回は違う。私は首を横に振った。
「あら。自分から服を脱いだし、抵抗もしてなかったのに? そりゃ、感じてたとは言わないわよ。体が反応していても、心の中でどう思ってるかまでは私には分からないから」
 窮地とも修羅場とも思っていないのか、奥さんは笑顔だった。そのちぐはぐさが不気味でならない。
「君は彼女が小山内を助けたいという気持ちを利用したんだろ。だから、抵抗したくてもできなかったんじゃないのか? それも立派な強要だと思うけど」
「だったら警察に通報する? それはそれで面白いことになりそうね」
 どう面白いことになりそうなのか、私にはさっぱり分からない。旦那さんにはバレたからいいとしても、息子さんの耳にだって入るかもしれないのに。楽しむ要素なんかひとつもないはずだ。
「何が面白いの? 逮捕されるかもしれないのに」
「逮捕? 一体何の罪で? 夫の愛人と寝たから? それって何罪になるのかしらね」
「睡眠薬で眠らせて無理やり関係を持とうとするのは立派な犯罪だろ」
「私が彼女を睡眠薬で眠らせたっていう証拠がどこかにあるの? 一葉さんは病院で検査を受けてたけど、医師も看護師も薬のことなんて言ってなかったじゃない。病院に警察が来て事情聴取された時も、私に嫌疑はかけられてないわよ」
 証拠がないと言われてしまうと、こちらはぐうの音も出ない。
 小山内くんも私が睡眠薬を飲まされたことは知らないし、警察の人も私が気絶しているだけだと思っていたから、薬物検査はしなかったようだ。紅茶を飲んだカップも奥さんが洗ったようだし、体に傷が残っているわけでもないので彼女の罪を暴くことはもうできない。
 ある意味、彼女は完全犯罪を成し遂げたのだ。
 小山内くんが助けに来るという、本来なら彼女にとってマイナスな出来事もすべてプラスに変えた。彼の頭を殴ったことさえ、正当防衛なのだ。
「残念ながら、君の言う通り今回の件の証拠はないよ。だから、小山内が捕まってしまった。けど、君がこの部屋を盗撮していた証拠は見つけたよ」
 そう言うと、碧川さんは鞄からDVDを数枚取り出した。
「彼女には防犯カメラを切り忘れただけだって説明したみたいだけど、もし本当にそうなら映像をDVDに焼いたりしないだろ。これは君が盗撮するためにカメラをつけていたっていう立派な証拠だと思うけど」
 夫婦であってもプライバシーはあるし、奥さんの持ち物を探ったりするのは気が進まないと言っていたけれど、どうやら碧川さんは証拠を探してくれたらしい。
 さすがの奥さんも、証拠があれば観念するのではないだろうか。
「そうね。あなたが会社の部下と不倫してたっていう動かぬ証拠よね。しかも、妻が借りてる部屋で」
「……え?」
 声は出ないけど、私も碧川さんと同じ反応をしていた。あまりの衝撃に頭が真っ白になる。
「だってそうでしょ? そりゃ、盗撮はよくないことだし、法的な証拠としては使えないかもしれないけど、あなたが愛人と私が借りている部屋でセックスしてたのは確かじゃない。妻に愛人とのセックスを盗撮されましたって、警察に言うの? 鼻で笑われるんじゃないかしら。それは自業自得だろって。それとも、弁護士に頼んで私を訴える? あなたと彼女の慰謝料の方が高くつくと思うけど? 行きたいならどうぞ。私は構わないわよ」
 声を荒らげるでもなく、焦るでもなく、彼女は冷静そのものだった。もう何度もこの場面をリハーサルしていたかのように。
「けど、おれたちは婚前契約を結んでるんだし、不倫については責任を追及しないことになってるだろ。だから、宝生さんに慰謝料を請求することはできないはずだ」
「そうね。夫婦間では合意の上だけど、法的には別なのよ。配偶者が他人とセックスしても良いと認めることは公序良俗に反する可能性があるから契約が無効になることが多いのよ。一般的には結婚したら他の人とはセックスしちゃいけないってことになってるから。みんな頭が固いのよねぇ」
 残念でした、とでも言わんばかりに彼女はにやりと笑った。
 私も碧川さんも固まったまま言葉を失ってしまった。
「そ、それを言うなら君だって他の男と寝たんじゃないのか。宝生さんにだってこんなことして……」
「他の男と寝たっていうのは嘘よ。そう言った方があなたたちも気が楽だろうと思っただけ。嘘だと思うなら調べてみて。そう言えば、同性同士の不貞行為って認められるんだっけ? 日本は遅れてるから。まあ、認められるとしても難しい裁判になりそうね」
 碧川さんは食い下がってくれたけど、もういいという意味で腕を引いて首を振った。
 形勢逆転などあり得ない。彼女はありとあらゆる場面を想定しながら、何十年も結婚生活を送ってきたのだから。
 付け焼き刃で敵う相手ではない。
 自分の甘さを呪い、すべて忘れることにした。
 碧川夫人とさえ関わらなければ、表面上は今まで通りの生活が送れる。会社や親に知られたわけでもないし、慰謝料の請求もない。不倫をした女の末路としては上出来だ。そう思えばいい。
 もう二度と会わないことを碧川さんの前でも約束してもらい、お互いに連絡先も消した。約束を破ったら、次はストーカーで通報することにも同意してもらった。盗撮した映像は碧川さんが責任をもって消去することも。
 見ていられないくらい悲惨な顔で、碧川さんは何度も私に謝罪した。自分を強く責めているようで心苦しかった。元凶は碧川さんではなく、私なのに。
 私は自らパンドラの箱を開け、禁断の実をかじったのだ。誰のせいでもない。
 帰り際、奥さんはさよならと言って私を抱きしめると耳元で「すごくよかったわ」と囁いた。スパイシーでセクシーな甘い香水の匂いが鼻をついた。
 大人げないけれど、私は何の反応もせず無表情で部屋を出た。
 外ははらはらと細雪が降っていて吐く息は白いのに、なぜだか寒さは感じなかった。
 生温かい涙が頬を伝う。
 醒めない夢の中を歩いているみたいだ。
「あれ、もしかして俺に会いに来てくれたんすか?」
 魂が抜けたみたいにぼんやりと駅を目指していたら、聞き覚えのある声がした。 
 我に返ると、目の前に小山内くんがいた。奥さんのことは信用しきれない部分があったけど、ちゃんと釈放されていた。
「まさか嬉し泣き? そんなに俺に会いたかったんか。照れるなぁ」
 私のせいで散々な目に遭ったのだから恨み言のひとつでも言いたいだろうに、彼はいつもと変わりなく接してくれた。
 それが嬉しくもなり、申し訳なくもあり、余計に泣けた。
 私はスマホを取り出すと、LINEを開き『私のせいでごめんなさい』と打ち込んだ。
「目の前でLINE? 俺とは口聞きたないってか?」
 事情が分からない小山内くんは、私を見て首を傾げた。
『ごめんね 声が出ないの』
「ガチで? それって俺のせい?」
『まさか! 違うよ』
「ほんならあのおばはんのせいやな。許せんなぁ、あいつ」
 彼は右手で拳を握ると、左の手の平を殴った。ばちんと鈍い音がした。
「しかも、なんで急に証言変えたんやろ。被害届は出さんとか、いきなりなんやねん。なんかまたおかしなこと企んでんちゃうやろなぁ」
 小山内くんの呟きに胸が締め付けられた。
 苦笑いを浮かべる私を見て、彼は真顔で顔を覗き込んできた。
「……まさか、あのおばはんに何かされたんちゃうやろな?」
 鋭い眼光に洗いざらい見透かしてしまいそうで、私は目を逸らすと静かに首を振った。
「嘘やろ……? 止めてや。そんなんされても嬉しないからな」
『大丈夫だよ ありがとう』
 嘘が苦手なので、今日はLINEでよかったと思った。
「ほんまやな? 嘘吐いたらチューすんで」
 恩着せがましく、あなたのためにさっきまで奥さんと会ってたよなんて言いたくない。何があったのかも知られたくはない。小山内くんのためだけに奥さんと会ったわけでもないし。
「せめてキモいぐらい言うてや。素で無反応は凹むわ」
 彼の発言については冗談として受け流していただけなので、思わず笑ってしまった。大げさかもしれないけど、笑うのは久しぶりな気がした。それだけでも、生きている実感が湧く。
 笑った効果か小山内くんが釈放されて安心したのか、その日のうちに声が出るようになった。
 人間の心と体が密接に繋がっていることを体感した出来事だった。
 久々に穏やかな気持ちで眠りについた。
『一葉さん……』
 真夜中に飛び起きると、冬なのにぐっしょりと汗をかいていた。しばらくは悪夢に魘されるかもしれない。それほど強烈な人だった。
 私も小山内くんも社内的には病欠にしてあると碧川さんから聞いていた。翌日二人とも出勤したのを見て仲が良いねと冷やかす人はいたけど、無実の彼が解雇されることも白い目で見られることもなかった。そこは純粋に上司である碧川さんの配慮に感謝したい。
 警察で厳しい取り調べを受けただろうに、小山内くんは精神的なダメージもないそうだ。フライパンで殴られたことも、敵《・》に背中を見せた自分が悪いという認識らしい。
 私に気を遣っているのか強がりか、本当に何も感じていないのかは分からないけれど、そう言われて安心したことは事実だった。
「俺が勝手にやったことやし、宝生さんのせいとは思ってへんけど、そない気になるなら今度デートしてくださいよ」
「そう言えば、どうして助けに来てくれたの? 私、どの部屋か言ってなかったよね?」
「デートの件《くだり》、フル無視かよ」ぼそぼそと小声で文句を言った後、彼はあの日のことを話してくれた。
「あん時、電話くれたでしょ。もしもしって言うても返事ないから切ろうとしたら、遠くの方で碧川さんがどうのってヤバそうな話聞こえて。碧川の嫁と揉めてるんやなって。それやのに、碧川じゃなくて俺に電話したってことはかなりの緊急事態やと思ったんです。せやから、管理人のおばちゃんに碧川って人の部屋あるか訊いたんすよ。友達が殺されそうやって嘘吐いて」
「そうだったんだ。ごめんね。小山内くんに電話かけたつもりはなかったんだけど、最後に通話したのが小山内くんだったから、履歴からかかっちゃったんだと思う。本当にごめんなさい」
 言われてみれば、薄れゆく意識の中でスマホに触ったような気もする。碧川さんにかけていれば、無関係の小山内くんに迷惑をかけることはなかったのに、無意識とはいえ本当に申し訳ないことをした。
「そんなくそ真面目に説明せんでも、俺に助けてほしかったからでええんちゃいます? 嘘も方便って言うでしょ。俺はそれで喜ぶんやし」
「でも、私が電話したせいで……」
「俺は! 電話もらえてよかったと思てるんで」
 言い訳する私を否定するように、小山内くんは大きな声で遮った。
 ぎろりとした目が鋭く顔も怖かったけれど、彼の言葉にグッときたことは確かだった。

「おれ、福岡の系列会社に転勤することになったんだ」
 碧川さんから呼び出され、思いがけない話を打ち明けられたのは、その日の昼休みだった。
「ええ? そうなんですか?」
「宝生さんと小山内には合わせる顔がないし、直属の上司でいるのは申し訳なくて。本当は辞表出したんだけど、福岡の系列会社に今より上のポストで空きがあるからどうかなって打診されたんだ。正直、この仕事が嫌なわけじゃないし、ありがたい話だから受けようと思って」
「そう、なんですね……」
 同じチームにいるのは居たたまれないので、私もちょうど部署替えを願い出ようかと思っていたところだった。碧川さんも同じことを考えていたらしい。これが彼なりのけじめなんだろう。
「あと、これは余談だけど。あの後、夫婦で長い時間話し合って別居することにしたんだ。とりあえず息子が成人するまでは離婚しないで様子を見ようって。別居って言うからおれが単身赴任になるだけと思ったら、彼女もアメリカに行くんだって。そう来たかって感じだけど、彼女には海外の方が合ってる気がする。おれも彼女とは距離を置きたかったし、宝生さんとも会わせたくないから、ちょうどいいかなって」
 夫の転勤に合わせて自分はアメリカに移住するという、なんとも彼女らしい選択にあっぱれとしか言いようがなかった。
 彼女は社会通念や一般常識に囚われた生き方はしない。自分にとって心地良い家族のカタチを追求し続けている。
 世間的にはズレているのかもしれないけれど、碧川さんと息子さんが許可をしているのなら他人に批判する権利などない。
「宝生さんには謝っても謝りきれないほど迷惑をかけたけど、これでもう会うことはないから。環にもおれにも――」
 彼は苦笑とも微笑とも言えない複雑な表情を浮かべた。
 優しくて若々しい碧川さんは少し頼りなく見えることもあるけど、そこが愛おしくもあった。実際には頼れる人だったし。
 だからこそ、既婚者と知りながら五年間も惹かれ続けてきたのだ。
 溺れて沈んでしまいそうなほど、私は碧川敬文が好きだった。
「今にして思えば、最初からすべて彼女の計画通りだったのかもしれない。ホテルで会う前から、彼女は宝生さんのこと知ってたしね。慰安旅行の集合写真見てきれいな人ねって言ってたから。彼女は勘が良いしおれの好みが分かってるのかなって思ってたけど、あの時に気づくべきだったよ」
「誰だって、自分の奥さんが愛人を好きになるなんて思いませんから。碧川さんのせいじゃありません。色々あったけど、結局は奥さんのお陰で碧川さんと付き合うことができたんだし、私は後悔してません」
 悲しい目で碧川さんは「ありがとう」と言った。
 碧川さんに会ったのは、それが最後だった。
 かなり急な決定ではあったけれど、碧川さんは年明けから有休を取り会社へは来なくなった。春が来たら、彼は福岡だ。
 入社した時からずっと憧れていた人がいなくなってしまうのは寂しいけれど、これでやっと自分の心にも区切りがつけられる。
 さよなら、碧川さん。
 碧落に甘い涙が溶けた。

      *

「暦の上ではもう春やのに、寒いのう」
 コートの襟を立て、彼は空を仰いだ。
 呆気ないほど平凡な日常が戻った。日にち薬とはよく言ったもので、日に日に奥さんとの嫌な思い出も薄まってきている。
「なんか辛い鍋食いたいなぁ。チゲとか火鍋とか」
「いいね。うちも今日はお鍋にしようかな」
「ほう。食いに行っていいっすか」
「うん、いいよ」
「え、ガチで?」
「いいよいいよ。パオちゃんも一緒に」
「なんや。俺だけちゃうんか」
 口を尖らせながらも、小山内くんはスピーカー通話でパオちゃんに電話をかけた。
『哎呀《アイヤー》、ワタクシ今から仕事や。二人だけね。よかったやで、大和』
「いらんこと言わんでええねん。どうします? って俺だけやったらあかんかー」
 通話を終えて嘆く彼に、別にいいけどと言った。意外だったのか、彼は目を丸くした。
「マジか。俺、今日勝負パンツちゃうのに」
「もう! そういうこと言うならナシ」
「嘘やん。冗談やん。鍋食うだけ。それ以外は食いませんから」
 当たり前でしょと頬を膨らませながら、内心では笑っていた。彼の冗談にも随分慣れてしまった。
 自分史上最も苦手な後輩だったけど、今では時々ご飯を食べる仲になっている。
 彼を好きになるかどうかは分からないけれど、明日何が起こるか分からないのが人生だ。それが面白いところでもあり、怖いところでもある。
「真顔でそういうこと……あ、ごめんなさい」
 前を歩く小山内くんに文句を言いながら歩いていたら、誰かと肩がぶつかった。
 向こうは何の反応もせずに歩き去ったけど、見覚えのある後ろ姿に息を止めた。
 まさかね。彼女はもう日本にはいないのに。怯えるあまり、未だに似た人を見ると奥さんではないかと疑ってしまう。
「どうかしました?」
「ううん、何でもない」
 小山内くんの声にほっとして踵を返した。その拍子にふわりと漂ってきたスパイシーでセクシーな甘い残り香に、吐く息まで凍り付いた。

 

【finish】
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