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電車のサラリーマン

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「って感じでよぉ。その後はどうなったかは知らねえけどさ……って何笑ってんだよ!」
「あははは! ごめん! まさかそんなことになるなんて思わなくて! ――どう? 『可哀想』な大人であるS男を、泣かせてしまった感想は?」
「まあ、何か悪いことしちまったなって思ったよ。すげえ怒鳴ってきたもんだから、メンタル鬼強えやつかと思ってたわ。まさか、公衆の面前で泣くとは思わなかったぜ。――あんな大人、生で初めて見た。何で泣いたんだろ?」
「そうだねぇ。――A吉が怖かったのもあると思うけど、たぶん、君の堂々とした、悪くいうと不遜な雰囲気が、S男の何かを刺激してしまったのかもね。劣等感とか、自尊心とか、そういうアイデンティティを確立しているようなものを……。
 どちらにせよ、どんな事情があれ、人を攻撃していい理由にはならない。――まして、怒鳴るなんて行為は分別のついたいい大人がやることじゃないし、とても五十を過ぎた社会人が電車の中で至った行為とは思えないよね」
「まあそりゃそうだな。俺も気をつけないと……」
「どう? スッキリした? 他人を少しは理解できた気になった?」
「まあそうだな。スッキリはしたし、俺もちょっと悪かったって思うけどよ……なんかお前、言い方悪いぞ。理解できた気になった、って、本当は、さっぱり理解できてないみてぇじゃねえか」
「何を言ってるんだい? A吉」
「だーかーら!」
 肩を怒らせる彼を、僕は遮った。
「他人なんて、理解できるわけないじゃないか」
「は? お前、言ってることめちゃくちゃだぞ?」
「あはは、めちゃくちゃでいいさ。とにかく、他人なんて理解した気にさえなればいい」
 理解した気に。言い換えれば、他人をキャラ付けしてしまえばいい。こいつはこういうやつだ、って感じで。
「たとえば、A吉はS男のことをどう思ってる? 今はどんな風に見える?」
「あ? どんな風にって……色々あって可哀想なんだろうな、大変なんだろうな、って思うぜ」
「そうだね。僕もそう思うよ――でも、本当にそうとは限らない。彼は生来の悪人でそんな境遇も全て自業自得だとしたら? そういうバックボーンがあるとしたら、きっと見る目も変わるんじゃないかい?」
「まあ、そりゃそうだけどよ」
「つまりは他人、正確には自分以外の人間なんて、本当の意味で理解なんてできないのさ。――だから他人を理解した気でいるのがちょうどいい」
 他人の実際なんて、本当の意味で、理解できっこない。――だって、自分のことでさえ分からないことだらけでしょ?
「そんなんでいいのかよ。人を勝手に決めつけるようなもんじゃないのか? それは悪じゃないのか?」
「もちろん、悪にもなり得るさ。――ただ、今回の場合、A吉がS男を勝手に決めつけたことで、君にもたらされた結果はなんだい?」
「ん? もたらされた結果? お前の話はややこしいな。もっと分かりやすく言ってくれよ」
「分かりやすく? そうだねぇ……。――君がS男を、会社でも家でも居場所がない『可哀想な人』」だと決めつけることで、君の心はどうなった? 君の気持ちはどう変わった? ここに来たときは心底イライラしていたみたいだけど」
「イライラして……ないな。気持ちが楽になった」
「そういうことさ。あのままイライラしていても、A吉が損をするだけだろ? だったら、勝手でもいいから他人を決めつけて、一刻も早く自分の心を解放してやるのがベターでしょ? 勝手に決めつけること自体の良し悪しは別として。――それに、それ以上A吉の貴重な時間を、リソースを、そんな五十にもなって感情抑制もできない子供みたいな大人に割く必要なんてないさ。だって君には、目標があるんだろ? だったらそっちに時間を使うのが合理的だ」
 僕はコーヒーを一口飲んでから、笑みを浮かべて尋ねた。
「これ以上、何か話すことはあるかい?」
「いや! もう行くわ! ありがとよ!」
 A吉はソファーから飛び上がると、さっさと部室の扉を開けた。
「また来るわ!」
「ああ、いつでもどうぞ。君も一応はこのサークルの部員なんだから」
 ちなみに、これは後々に分かったことなのだが、S男は数ヶ月後、ある山で遺体として発見されたらしい。死因は外傷性ショックで全身に殴打痕があり、犯人は薬物乱用疑いのある半グレだった。――たぶん、A吉のときと同じことを繰り返したのだろう。
 そして相手が悪かった。――鈍器とかで死ぬまで袋叩きにされたのだろう。まあ、僕は刑事でも、ましてや推理小説の名探偵でもないから、確かではないし、事の真相を同定する義務もない。
 報道では悲劇のサラリーマン風に報じられていたのだが、僕にはどうも、自業自得としか捉えることができなかった。
 あのとき、『優しいA吉』に泣かされたときに、彼が何らかの教訓を得ていれば、こうはならなかったかもしれない。
 彼は学ぶべきだった。
 どんな事情があろうと他人を攻撃してはならないし、攻撃するのなら、それ相応の覚悟を持つべきだったと。――相手からの反撃、殺される覚悟を持つべきだったのだ(いささか大袈裟な気もするが)。
 ましてや反撃を喰らった挙句に泣くなんて、呆れるほどに論外だ。――泣いて許されるのは子供までだ。
 もちろん、彼が殺される覚悟を持っていた可能性も否定はできないが……そんなこと、僕は知ったこっちゃないし、知ろうとも思わない。だって――他人なんて、勝手に決めつけているくらいが、ちょうどいいのだから。
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