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七章 ガロウの雷鳴
705.影の残り香
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黒い残滓は、近づくほどに冷えていく。
触れてもいないのに指先がじんと痺れるようで、私は思わず呼吸を整えた。
リゼが手袋越しに採取器具を近づけると、残滓は砂のようにほろりと崩れ、瓶の底に落ちていった。
「まるで、意思が抜けたみたいね」
彼女の言葉に、ノエルが眉をしかめる。
「こんなに分かりやすく痕跡を残していくなんて。まあ、助かるんですけどね」
私は思わず苦笑してしまう。
けれど、胸の奥にざらりとした不安が広がるのも止められない。
サラが小さく手を上げた。
迷っているようで、それでも言葉を絞り出す。
「あの・・・変なことを言うかもしれませんが・・・私も昨日の夜、夢の中で声を聞きました。姿は見えなかったんですが、何となくあれに似ていました・・・何というか、同じ“匂い”がする、というか」
彼女の震える声を、誰も否定しなかった。
というより、否定できる空気ではなかった。
母が静かに歩み寄り、サラの肩に手を置いた。
「感じたことを話してくれてありがとう。確かめなくちゃいけないわね」
その瞬間、瓶の中の残滓がかすかに揺れた。
風も吹いていないのに。
ノエルが反射的に後ずさりして、リゼがすぐに封を固める。
「・・・動いた?」
私が呟くと、リゼはまっすぐこちらを見た。
「呼応したんだと思う。アリアとサラの、何かに」
内臓がひっくり返るような感覚がした。
誰かが遠くで名を呼んでいるような、そんな気配が一瞬だけ背後をかすめる。
兵士たちは残りの影を追跡するため散っていった。
私たちは城へ戻ることになるが、その足取りはやけに重い。
途中、サラがそっと袖をつかんでくる。
「アリアさん・・・あれ、また来ますよね」
返事はできなかった。
彼女は気づいている。私も同じだ。
言葉にしたら戻れなくなるから、ただ一歩前へ踏み出した。
城門が見えてきた時、夜空の端で小さな赤い光が揺れた。
星じゃない。火の粉のような、呼び声のような。
胸の奥で、前世の私がまた小さく呻いた気がした。
まだ終わらない。むしろ、ここから始まる。
そんな予感が、冷たい風よりもはっきりと私の背中を撫でていった。
城門をくぐった途端、胸の奥に張りつめていた何かがふっと緩んだ。
戦いの直後特有の、奇妙な静けさが城内に流れている。遠くで水音がして、誰かが急ぎ足で廊下を横切る靴音が響く。
それだけで、やっと帰ってきたんだと実感した。
医務室に案内される途中、私の歩幅は自然と小さくなった。
気が抜けたせいなのか、体重がぜんぶ膝に落ちたような感じで、少し笑ってしまった。
「アリア、こっちよ」
母が軽く肩を押す。
声は穏やかだけど、指先はまだ戦いの余韻を帯びている。
戦場で、強い魔力を振るっていた人の指とは思えないくらい、ひどくあたたかかった。
まあ、今さらだが。
医務室では数名の回復魔法の使い手が待っていて、私たちを静かに迎えた。
ノエルは「ちょっと休むだけよ」と強がるものの、椅子に座った途端に眉をしかめて背中を押さえる。
リゼは無表情を保ったまま、彼らに私たちみんなの回復を命じた。
リゼ自身の服の袖には細い裂け目がいくつも走っていて、近づくと薄く焦げた匂いがした。
サラは部屋に入った瞬間、私の横で小さく息を飲んだ。
緊張が解けたせいか、さっきよりもずっと震えている。
なのに、私の腕をそっとつまむ手は離れなかった。
治療がひと段落すると、母が私の髪を指先で梳いた。
昔から変わらない動作で、それだけで泣きそうになる。
「それにしてもよく持ちこたえたわ、アリア。ただでさえ眠れなくて、体力も魔力も消耗しているのに・・・あの戦場で、倒れなかっただけでも十分よ」
「・・・うん。でも、少し怖かった」
言った瞬間、自分でも驚いた。
怖いなんて言うつもりはなかったのに、口が勝手に動いた。
母は一瞬だけ目を閉じ、それから静かに頷いた。
「怖がるのは悪いことじゃないわ。恐れがあるから、人は踏み越えられるものもあるの」
この人は、やっぱり――炎の大魔女なんて呼ばれていても、中身は母のままだ。
そう思うと、どこか胸の奥の硬い部分がほどけた。
「アリアさん」
すぐ横で、サラが控えめに声を出す。
「無事で、よかったです。私、あの時・・・」
続きは言葉にならなかったようで、サラは唇をきゅっと結んだ。
私は軽く笑いかける。
「私もだよ。みんなが支えてくれなかったら、たぶん座り込んでた」
サラの頬がゆっくり赤くなった。
その表情を見るだけで、不思議と呼吸が深くなる。
少しだけ沈黙が流れる。
戦いの直後とは思えない、やわらかい空気だった。
窓の外の夜は静かで、火の灯りが壁を淡く照らしている。
そこへリゼが医務机に腰を預けながら言った。
「休める時に休んで。これから、今日の残滓を解析する。二人には立ち会ってほしい」
ノエルが手をひらひらと振る。
「あの、私は?いや、今日はもう働いたと思いますが」
「あなたは別件。どうも、最近地脈が乱れているみたいでね。それを追ってほしいの。今回の侵入と、関係があるかもしれないから」
ノエルが耳を引っ張られた子供みたいに顔をしかめるが、結局頷いていた。
それぞれの役割が動き出して、休息の時間が終わりに近づく。
体はまだ重いけど、意識は妙に冴えていた。
私は椅子にもたれながら、ぼんやりと天井を見上げた。
夜は深い。
何かがひっそりとうごめいている気配が、また胸の奥を押した。
ほんの短い休息だった。
それでも、この静けさがなければ、きっと心が折れていた。
そして、扉の向こうで小さな足音が止まる。
誰かが、こちらを探している気配がした。
触れてもいないのに指先がじんと痺れるようで、私は思わず呼吸を整えた。
リゼが手袋越しに採取器具を近づけると、残滓は砂のようにほろりと崩れ、瓶の底に落ちていった。
「まるで、意思が抜けたみたいね」
彼女の言葉に、ノエルが眉をしかめる。
「こんなに分かりやすく痕跡を残していくなんて。まあ、助かるんですけどね」
私は思わず苦笑してしまう。
けれど、胸の奥にざらりとした不安が広がるのも止められない。
サラが小さく手を上げた。
迷っているようで、それでも言葉を絞り出す。
「あの・・・変なことを言うかもしれませんが・・・私も昨日の夜、夢の中で声を聞きました。姿は見えなかったんですが、何となくあれに似ていました・・・何というか、同じ“匂い”がする、というか」
彼女の震える声を、誰も否定しなかった。
というより、否定できる空気ではなかった。
母が静かに歩み寄り、サラの肩に手を置いた。
「感じたことを話してくれてありがとう。確かめなくちゃいけないわね」
その瞬間、瓶の中の残滓がかすかに揺れた。
風も吹いていないのに。
ノエルが反射的に後ずさりして、リゼがすぐに封を固める。
「・・・動いた?」
私が呟くと、リゼはまっすぐこちらを見た。
「呼応したんだと思う。アリアとサラの、何かに」
内臓がひっくり返るような感覚がした。
誰かが遠くで名を呼んでいるような、そんな気配が一瞬だけ背後をかすめる。
兵士たちは残りの影を追跡するため散っていった。
私たちは城へ戻ることになるが、その足取りはやけに重い。
途中、サラがそっと袖をつかんでくる。
「アリアさん・・・あれ、また来ますよね」
返事はできなかった。
彼女は気づいている。私も同じだ。
言葉にしたら戻れなくなるから、ただ一歩前へ踏み出した。
城門が見えてきた時、夜空の端で小さな赤い光が揺れた。
星じゃない。火の粉のような、呼び声のような。
胸の奥で、前世の私がまた小さく呻いた気がした。
まだ終わらない。むしろ、ここから始まる。
そんな予感が、冷たい風よりもはっきりと私の背中を撫でていった。
城門をくぐった途端、胸の奥に張りつめていた何かがふっと緩んだ。
戦いの直後特有の、奇妙な静けさが城内に流れている。遠くで水音がして、誰かが急ぎ足で廊下を横切る靴音が響く。
それだけで、やっと帰ってきたんだと実感した。
医務室に案内される途中、私の歩幅は自然と小さくなった。
気が抜けたせいなのか、体重がぜんぶ膝に落ちたような感じで、少し笑ってしまった。
「アリア、こっちよ」
母が軽く肩を押す。
声は穏やかだけど、指先はまだ戦いの余韻を帯びている。
戦場で、強い魔力を振るっていた人の指とは思えないくらい、ひどくあたたかかった。
まあ、今さらだが。
医務室では数名の回復魔法の使い手が待っていて、私たちを静かに迎えた。
ノエルは「ちょっと休むだけよ」と強がるものの、椅子に座った途端に眉をしかめて背中を押さえる。
リゼは無表情を保ったまま、彼らに私たちみんなの回復を命じた。
リゼ自身の服の袖には細い裂け目がいくつも走っていて、近づくと薄く焦げた匂いがした。
サラは部屋に入った瞬間、私の横で小さく息を飲んだ。
緊張が解けたせいか、さっきよりもずっと震えている。
なのに、私の腕をそっとつまむ手は離れなかった。
治療がひと段落すると、母が私の髪を指先で梳いた。
昔から変わらない動作で、それだけで泣きそうになる。
「それにしてもよく持ちこたえたわ、アリア。ただでさえ眠れなくて、体力も魔力も消耗しているのに・・・あの戦場で、倒れなかっただけでも十分よ」
「・・・うん。でも、少し怖かった」
言った瞬間、自分でも驚いた。
怖いなんて言うつもりはなかったのに、口が勝手に動いた。
母は一瞬だけ目を閉じ、それから静かに頷いた。
「怖がるのは悪いことじゃないわ。恐れがあるから、人は踏み越えられるものもあるの」
この人は、やっぱり――炎の大魔女なんて呼ばれていても、中身は母のままだ。
そう思うと、どこか胸の奥の硬い部分がほどけた。
「アリアさん」
すぐ横で、サラが控えめに声を出す。
「無事で、よかったです。私、あの時・・・」
続きは言葉にならなかったようで、サラは唇をきゅっと結んだ。
私は軽く笑いかける。
「私もだよ。みんなが支えてくれなかったら、たぶん座り込んでた」
サラの頬がゆっくり赤くなった。
その表情を見るだけで、不思議と呼吸が深くなる。
少しだけ沈黙が流れる。
戦いの直後とは思えない、やわらかい空気だった。
窓の外の夜は静かで、火の灯りが壁を淡く照らしている。
そこへリゼが医務机に腰を預けながら言った。
「休める時に休んで。これから、今日の残滓を解析する。二人には立ち会ってほしい」
ノエルが手をひらひらと振る。
「あの、私は?いや、今日はもう働いたと思いますが」
「あなたは別件。どうも、最近地脈が乱れているみたいでね。それを追ってほしいの。今回の侵入と、関係があるかもしれないから」
ノエルが耳を引っ張られた子供みたいに顔をしかめるが、結局頷いていた。
それぞれの役割が動き出して、休息の時間が終わりに近づく。
体はまだ重いけど、意識は妙に冴えていた。
私は椅子にもたれながら、ぼんやりと天井を見上げた。
夜は深い。
何かがひっそりとうごめいている気配が、また胸の奥を押した。
ほんの短い休息だった。
それでも、この静けさがなければ、きっと心が折れていた。
そして、扉の向こうで小さな足音が止まる。
誰かが、こちらを探している気配がした。
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