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八章 アルディアに吹く風
851.拒む森、試す沈黙
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港の気配が完全に消えてから、しばらくは誰も口を開かなかった。
言葉を発すると、その音が何かを刺激してしまいそうで、無意識に息を潜めていたのだと思う。
実際には、鳥の声も虫の羽音も絶えず周囲に満ちている。それでも、人の声だけが場違いに感じられた。
歩みを進めるにつれ、足元の感触がさらに変わっていく。腐葉土は厚みを増し、踏み込むたびにじわりと沈み、わずかに水を含んだ音を立てた。
靴底が吸い付かれるようで、足を引き抜くたびに小さな抵抗がある。
「思ったより歩きにくいですね。雨が降った後みたいです」
ノエルが小声で言う。
「ええ。だから無理に速度を上げない」
母は即座に応じた。
「ここでは、速さは安全と引き換えになることが多いわ」
その言葉どおり、母の歩調は一定だった。速くもなく、遅すぎることもない。
時折地面を確かめるように杖を置き、枝葉の動きや風の流れを感じ取りながら進んでいるのがわかる。
ふと、甘ったるい匂いが鼻をかすめた。
「・・・何か、匂わない?」
私がそう言うと、サラがすぐに立ち止まった。
「たぶん、花の匂いです。でも――」
彼女は視線を巡らせる。
「それっぽいのは、見当たりませんね」
確かに、視界に入るのは濃い緑ばかりで、目立つ花は見えない。それなのに、熟れた果実のような、あるいは蜜を煮詰めたような匂いだけが漂っている。
「視覚より嗅覚に訴えるタイプね」
母が静かに言った。
「誘引系の植物か、魔物か・・・どちらにしても、近づかないほうがいい」
そう言って、進路をわずかにずらす。
ほんの数歩横に移動しただけで、匂いは不思議と薄れた。
「まるで、何かの罠みたいですね」
ノエルが呟く。
「罠というより、生態よ」
母は振り返らずに答える。
「人にとって危険でも、ここではそれが“普通”なの」
その言葉が、妙に胸に残った。
この場所では、人の常識や都合は何の意味も持たない。善意も悪意も関係なく、ただ環境が在り、そこに適応できるものだけが生き残る。
少し進んだところで、前方の茂みが微かに揺れた。
風、ではない。揺れは局所的で、規則性があった。
母が即座に片手を上げ、全員を制止する。
音を立てないよう、慎重に呼吸を整える。
数秒・・・あるいは、もっと短かったかもしれない。
やがて、茂みの向こうで何かが移動する気配だけを残し、揺れは収まった。
「・・・大きなものではなさそうですね」
サラが小声で言う。
「ええ。でも、こちらを見ていた可能性はある」
母が頷く。
「気配を消すのが上手・・・ジャングルらしいわ」
その一言で、緊張が少しだけ形を持った。 見えない敵。姿を現さず、ただこちらを観察している存在。
私は無意識に、背後を振り返りそうになって――やめた。
もう、港は見えない。振り返って確認できる「安全な世界」は、ここには存在しない。
私たちは、前を見るしかないのだ。
「進みましょう」
母が告げる。
「ここからは、なるべく間隔を詰めて歩きましょう」
私たちは再び歩き出す──緑の奥へ。
空気の重さに慣れ始めている自分を、少しだけ怖いと思いながら。
アルディアのジャングルは、相変わらず何も語らない。だが、その沈黙は確かに――こちらを試すような、重さを帯び始めていた。
言葉を発すると、その音が何かを刺激してしまいそうで、無意識に息を潜めていたのだと思う。
実際には、鳥の声も虫の羽音も絶えず周囲に満ちている。それでも、人の声だけが場違いに感じられた。
歩みを進めるにつれ、足元の感触がさらに変わっていく。腐葉土は厚みを増し、踏み込むたびにじわりと沈み、わずかに水を含んだ音を立てた。
靴底が吸い付かれるようで、足を引き抜くたびに小さな抵抗がある。
「思ったより歩きにくいですね。雨が降った後みたいです」
ノエルが小声で言う。
「ええ。だから無理に速度を上げない」
母は即座に応じた。
「ここでは、速さは安全と引き換えになることが多いわ」
その言葉どおり、母の歩調は一定だった。速くもなく、遅すぎることもない。
時折地面を確かめるように杖を置き、枝葉の動きや風の流れを感じ取りながら進んでいるのがわかる。
ふと、甘ったるい匂いが鼻をかすめた。
「・・・何か、匂わない?」
私がそう言うと、サラがすぐに立ち止まった。
「たぶん、花の匂いです。でも――」
彼女は視線を巡らせる。
「それっぽいのは、見当たりませんね」
確かに、視界に入るのは濃い緑ばかりで、目立つ花は見えない。それなのに、熟れた果実のような、あるいは蜜を煮詰めたような匂いだけが漂っている。
「視覚より嗅覚に訴えるタイプね」
母が静かに言った。
「誘引系の植物か、魔物か・・・どちらにしても、近づかないほうがいい」
そう言って、進路をわずかにずらす。
ほんの数歩横に移動しただけで、匂いは不思議と薄れた。
「まるで、何かの罠みたいですね」
ノエルが呟く。
「罠というより、生態よ」
母は振り返らずに答える。
「人にとって危険でも、ここではそれが“普通”なの」
その言葉が、妙に胸に残った。
この場所では、人の常識や都合は何の意味も持たない。善意も悪意も関係なく、ただ環境が在り、そこに適応できるものだけが生き残る。
少し進んだところで、前方の茂みが微かに揺れた。
風、ではない。揺れは局所的で、規則性があった。
母が即座に片手を上げ、全員を制止する。
音を立てないよう、慎重に呼吸を整える。
数秒・・・あるいは、もっと短かったかもしれない。
やがて、茂みの向こうで何かが移動する気配だけを残し、揺れは収まった。
「・・・大きなものではなさそうですね」
サラが小声で言う。
「ええ。でも、こちらを見ていた可能性はある」
母が頷く。
「気配を消すのが上手・・・ジャングルらしいわ」
その一言で、緊張が少しだけ形を持った。 見えない敵。姿を現さず、ただこちらを観察している存在。
私は無意識に、背後を振り返りそうになって――やめた。
もう、港は見えない。振り返って確認できる「安全な世界」は、ここには存在しない。
私たちは、前を見るしかないのだ。
「進みましょう」
母が告げる。
「ここからは、なるべく間隔を詰めて歩きましょう」
私たちは再び歩き出す──緑の奥へ。
空気の重さに慣れ始めている自分を、少しだけ怖いと思いながら。
アルディアのジャングルは、相変わらず何も語らない。だが、その沈黙は確かに――こちらを試すような、重さを帯び始めていた。
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