雪と聖火

波津井

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第3話 空想の住人

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 当時まだ四つの幼子だったエリシアは、舌足らずな声で自分をエリシャと言っていた。『あのね、エリシャね、お外行きたいの』そんな風に。
 偶然にもその記憶に当て嵌ったのが、エリシアを名乗る少女だった。

 崩壊しかけで正気の方が薄っぺらになったカレンは、その少女をエリシアに当て嵌めるのをよしとした。欠けてしまった場所に、少し似た形の異なるピースを無理矢理押し込む道を選んだ。

 ──だって、拒んでも哀しみは消えやしないんだから。

「エリシア、もうそんなに字を覚えたの? あなたは天才ね」

「お母様がご本を読んでくれるから……」

「まあ、ならもう一度読みましょうね」

「うん」

「二人共、僕がエリシアに読んであげる分を残しておいてくれよ?」

「あら、それは約束出来ないわ。ふふふ」

 幸か不幸か。学のない孤児の育ちだった故に、カレンの記憶の中のエリシアと相違ない知識量からスタートした養女エリシアは、親子の触れ合いの中で学習を進めて行くことが出来た。

 カレンが絵本を読み、エリシアは文字列をなぞり身に付ける。端から見ればままごとでも、当事者にとっては必須の交流。和やかな時間を共にして親子関係は育まれて行った。

 ジュリアスはなるべく妻に添うよう努めながら、人格や個性を殺すことになる義理の娘に心を砕いた。使用人任せにせず、エリシアを部屋に送る短い間にも必ず会話を心がけている。

「……ありがとうエリシア、きみがいてくれるおかげでカレンは具合がいい」

「ちゃんと、出来てますか?」

「うん。きみが物凄く気を使って、カレンの気持ちを察してくれていることも分かってる。大丈夫だよ」

 ならよかった、とエリシアは首肯した。

「お母様は優しいし、お父様がありがとうって言ってくれるから、頑張れます」

「きみに甘えてしまっている分、力になりたいと僕も思っているよ。困ったら相談するんだ、必ず助けになるから」

 嘘の親子だけど、この人達が好きだった。我儘を言わないからずっとこうしてて欲しい……いや、それ自体我儘なんだろうか──……怖くて言えなかった。

「おやすみエリシア」

「おやすみなさい」

 部屋に戻りベッドで横になる。もしここを追い出されたら自分は一人で生きて行けないのだ。ちゃんと、必要とされ続けなければならない。

「エリシアは茸が嫌いで葡萄が好き。ピンクが好きで宝物はぬいぐるみの熊ビーナ……」

 エリシアの情報を指折り確かめ、今日も明日もエリシアをする。上手に出来れば毎日温かくて美味しい食事を食べられる。可愛い服を着せて貰える。お湯で身体を綺麗にして貰える。この夢のような暮らしを守りたかった。

 ──きっともう一人ぼっちで生きていられない。お父様とお母様がいてくれる時間を手放せない。

 路地裏にいた頃は呼吸だけで精一杯で、感じる余地もなかった情動……寂しさが、エリシアの底で根付いていた。

 家族の形を取り繕いながら、徐々に交流を深めて行ったイース家。有数の資産家が養女を迎えた事実は、ベルダートの忠告通り隠し立てせず事情を説くことで、表面上波風立てずに浸透して行った。

 幼い我が子を亡くして哀しみに伏せる女性を悪く言えば、自分に跳ね返って来ることなど分かり切っている。エリシア・イースは養女でも実の娘として扱うべき存在だと、正しく理解されていた。真っ当な人間はそうと飲み込める。

 エリシアが来てからカレンは生き甲斐を得て精力的になった。少しずつ起きていられる時間が増え、診察に来るベルダートも薬の量を減らして行こうと判断する程に。

「今日はエリシアに刺繍を教えてあげるわ」

「まだ早いんじゃないかい? 子供に針を持たせるのは心配だよカレン」

「そうかしら……じゃあ私がお婆様に頂いたとっておきのレースを見せてあげるわね」

「楽しみです」

 エリシアはどんな時も両親の決定に従う。空想を語る状態のカレンさえ肯定して話を合わせる。求められる役割を理解し、全うする。その姿勢を貫いていた。
 勿論それが子供として健やかでないのはジュリアスにも分かる。ジュリアスはベルダートに、エリシアの様子も見て欲しいと、定期的な健康診断を依頼した。

 エリシアは全ての事情を知るベルダートにならなんでも話せるが、ジュリアスが心配するような不満は特になく、ただベルダートとお喋りするのを楽しんでいた。
 ベルダートは相変わらず偉そうな物言いをするが意地悪は言わないし、暇潰しだと魔法を披露してくれる。エリシアにとってはいつも嬉しい時間だ。

 今日もキラキラした小鳥が飛んで肩に乗るのを、わくわくして見ている。
 自分を悪い魔法使いだと言うくせに、ベルダートはエリシアを喜ばせてくれるのだ。

「ベルダート様は優しいです。お母様を治してくれるし、立派な善き魔法使いです」

 そう伝えたら物凄く唇をひん曲げていた。嫌だったらしい。ベルダートが傷付いたら悲しいので、エリシアはもうその言葉は言わないと決めた。

「……もう言わないから怒らないで。ベルダート様」

「うむ、もし次があれば理性が負けるやもしれん。ちょっと勢いよくドカンとやってしまいかねないのだよ」

「それは駄目かも……」

 ベルダートは多分恐らく善良ではない、にカテゴライズしてエリシアは言葉を封印した。
 言ってはいけない言葉シリーズには他にも、ちょっとうっかりとか、実は天然なのかな、なども厳重に封印されていたりする。

 親しみを込めたつもりでも喜んで貰えないと意味がない。ベルダートには凄いと恰好良いと天才だね、を多めに伝えるのが吉とエリシアは学んだのだ。

「私も魔法使いになりたいな」

 小鳥にうっとりしつつエリシアが呟くと、ベルダートは否と首を振った。

「悪魔に魂を売り渡すことになりかねん。他を磨くがいい」

「残念……ベルダート様に魔法のお茶を出したかったのに」

「何故?」

「お疲れ様ですって、ゆっくり休んで下さいってお出しする用に。飲むと元気になれるから」

「……気遣いは無用だ。私ではなく自分を労わる心がけを持ちたまえ。魔法使いと違い日頃から心身を健やかに保つ努力をせねば、人は簡単に闇に落ちる」

「はい」

 それは誰かを心配する言葉。以前言った通りにベルダートは人々の願いを叶える為に頑張ってくれているのだろう。ちょっと素直じゃなくて、皮肉った言い方でしか口に出来ないだけだ。
 エリシアにとってベルダートは優しい魔法使いである。本人がどう言おうとも。


 
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