雪と聖火

波津井

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第10話 箱庭の中で自由を歌う

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「ニーナ、私しばらく図書室で利用者を観察してみるわ」

「本に魔法陣を挟む人を見付けるのね」

「勿論その悪戯だけで罪には問えないけど、後追いの犯行は減ると思うわ」

「そうだね。監督生や生徒会役員が巡回するそうだし、怪我をさせる遣り口は減りそう」

「……でもこの魔法陣、どの本に載ってるのかしら」

「え?」

「これ救護室への廊下にあったのと同じ図案でしょう?」

「確かに……でも、あれ?」

 ニーナはエリシアが見付けた紙片を手に困惑する。自分で書いた図案と違うのは当然だ、ニーナは原作知識に則って書いたのだから。この世界においては正しき、本物の魔法陣だ。

 だが落書きと紙片の魔法陣はどうか。カメラもコピー機もなしに、同じ図形をスラスラ書けるだろうか。とっくに消された落書きと同じものを。元となる図案がなければ無理だ。

「ニーナの魔法陣もだいぶ違うわ。大多数は別人がそれらしく書いてるのね」

「そう、だね」

 始まりの落書きと、エリシアの机に魔法陣を貼ったのは同一人物。ニーナはそう確信した。
 原作のエリシアは机の下の魔法陣を発見出来なかったのか、原作者が没にした展開があったのか──

 ぶわりと脳裏に不安が広がる。最早未知の世界。もしストーリー終盤にベルダートを追い返すのが、最も無難で生存率の高い展開だったなら。ニーナは自らそれを潰したことになる。

「そうだわ。一番最初に魔法陣が落書きされたのってどこか、ニーナ知ってる?」

「え、ああ……確か裏門側の壁。美術室の近く」

「流石ニーナは情報通ね。でもそうすると、最初の落書きは一階ばかりだったのね。場所は離れてるけど」

 エリシアに相槌を打ちながら、ニーナも学院の見取り図を思い浮かべ……気付く。

 ──三角形の配置?

 美術室付近、救護室付近、そしてエリシアの座席位置。それをなぞれば図形になる。小説の文字列やアニメのカットでは、見取り図として全体を把握出来なかったけれど。

 偶然と考えるべきではない。最初の魔法陣は意図的に配置されている。二次元作品なら馴染みの深い、五芒星や六芒星の図形を構築するのでは……そう深読み出来てしまう。

 ──原作では悪戯と偶然が重なって噂が蔓延した、そういう展開だった。でもそのストーリーって、最初からそうだったと言える? 出版された小説は編集の指示や修正を経て、別物に変わることだってあるのに?

「ニーナどうしたの? もしかして具合が悪い?」

「……そうかも。ごめん、ちょっと」

 エリシアに付き添われ、青い顔をしたニーナは救護室のベッドに横たわる。

「先生、よろしくお願いします」

「勿論。さ、授業に遅れますよ」

 エリシアが頭を下げて戻るのを漫然と見送り、ニーナは己の思い付きに唇を噛んだ。

 ──もしこの世界が原作にとっての原点、或いは作品世界の原典としたら。どこまでが商業版と共通してるの? ないことにされた展開やキャラなんて、把握出来るはずない!

 これは罰なのだろうか。ニーナが役割を放棄した故の分岐、ある意味で原作を終わらせてしまった弊害だとしたら。邪推かもしれない、でも可能性を無視出来ない。

 元々ニーナやベルダートの方が、構想上加えられた変更点……後付けキャラならば。その両方が削ぎ落とされた結果、整えられた道筋を離れ、原典に回帰したのなら。

「もうどうしようもないじゃない……」

 震えが止まらない、手足の先がシンと冷える。それよりもっと胸の内が凍えている。固く目を瞑って縮こまると、ニーナはいつの間にか意識を失っていた。

 よく眠れなかった反動だろう、次に目を覚ましたらもう昼休みだった。

 ──掌がぬくぬくする。あんなに凍えていたのに。ああ、温かいはず。だってエリシアが握ってくれてる。冷えてたから……ううん、きっとただ寂しくないように。

「ニーナ、起きた?」

「……あのね」

「どうしたの?」

 無防備な心に染み渡る穏やかな温もりが、ニーナの意識を少しばかり幼く、素直にしてしまった。

「私怖くなっちゃったの。先のことがあやふやで……分からなくて……」

「無理もないわ、呪いだなんて不安になって当然。皆同じね」

「でも私余計なことしてしまったの。私が我慢すれば良かったのに……」

「そうなの? ニーナが我慢しなきゃならないなんて、きっと理不尽なことよね? そんなのしなくていいわ、正解よ。ニーナは元気で溌剌としていてくれるだけで、周りの人を明るく出来ちゃうんだもの」

 寝惚けた口調で泣き言を溢すニーナにも、エリシアは柔らかく答える。眦が熱い。こめかみは濡れてひんやりするのに。

 ──今とても心が変になっている。言わなくていいことを言っている。

 けれどニーナの中はもう感情が溢れ返って、一人じゃとても抱えていられなくて。どうしようもなかった。

「私が悪いの……ごめんなさい、もう許して……神様……」

 幼い心が悲鳴を上げる。この世界はニーナに重苦しいものばかり背負わせようとする。これ以上は耐えられない。

 癒えぬ傷口にそっと触れるのは、友人が手向けてくれる優しさだった。

「……許されるには、許さないと。あなたがこれまで憎んで来たものも、あなたの気に食わないあなた自身の何かも。許してあげるの」

「私が……?」

「悪魔とか神様とか、多分名前は人間の都合で変わってしまうの。そんなもの憎んでも仕方ないのよ。苦しみの因果と関わりないものに祈っても、人は救われない」

 噛み含める物言いはどこか、己に言い聞かせているかのようで。そう、実感が籠っていた。

「自分を救うのは、誰かを救うのと同じだけ難しい。でもその困難に挑む者には、奇跡が起きるかもしれないわ。あなたを手伝いたいって思う人が、きっと現れる」

 エリシアの表情は複雑で、何故だろう……憎しみさえ宿っているように見える。だが繋がれた手は変わらずに優しい。

 ニーナは戸惑う。愛憎混じりの友情は、エリシアの喉を震わせた。

「……私よ。私がいる、ニーナの力になる。でもその前に私も白状しなくちゃ。私も許せるように……あなたを憎まない私になる為に」

 くしゃりと歪む。いつも穏やかなエリシアが、怒りを浮かべてニーナを見下ろした。

「ベルダート様を返して。私の命の、人生の恩人よ……! 私あなたを許さない……!」

 責める声が涙に滲んで悲嘆に変わる。ぶつけられた憎悪は、紛れもなく本音。しかしエリシアがニーナに抱く親愛もまた、本心なのだ。

「こんなに仲良くなれると思わなかった……あなたの弱みを握って、言うことを聞かせるつもりだった……っ」

 繋いだ手にぽつりぽつりと零れ落ちる、エリシアの気持ち。透明な形。ニーナは言葉もなく零れ落ちる嘆きを見ていた。

「でも、ニーナは真っ直ぐで……優しくて……憎み続けるなんて無理だったわ……」

 ──こんなんじゃ駄目なのに。ベルダート様を助けなきゃいけないのに。

「あなたを憎まずにいたい……私もニーナを許したい……」

 思い通りにならないことばかり。自分の気持ち一つ取っても人間は不自由だ。
 それに負けたくなくて、エリシアは心を言葉にする道を選んだ。
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