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三話 遊興
しおりを挟む蓉は、何を言っていいかわからなかった。
――違う。
何をしてよいか、一瞬間忘れた。
それが命取りであった。
蓉の細胞が、逃走を選択したときには、すべてが遅く、眼前に艶やかなる衣が閃いていた。
「っ――」
彼の動きについて、鈴の音が鳴るころには、蓉は首を掴まれ、持ち上げられていた。
「もう終わりか。惜しいな」
「っぐ、」
「あいも変わらず鈍重だ、お前は」
彰は愉しげに笑った。蓉はもがきながら、この上背ある長を、自分が見下ろしている不思議を、頭の何処かで感じていた。
この腕に抱き上げられた日々が、ふとよぎる。足をばたつかせ、その影を振り払った。
何故、このような一刻を争う時に、離し難い記憶が蘇る。首全てに体重がかかる。
人に擬態した体は、悲鳴を上げていた。
「どうした? 余興は終いだ。はやく汚れた器から出るが良い」
蓉は、彰を睨んだ。掴まれた手を、ぎっと握り返し爪をたてた。鬼の皮膚にかなわず、無惨に割れる。血の滲んだ指先が、彰のぬめらかな肌を朱になぞった。
「ずいぶんと逆らうではないか」
「くっ……」
彰の言葉には意外の色さえ乗っていた。それが、蓉からすると不可解でならない。
これほどまでの裏切りをした者への態度とは思えない。蓉の困惑をよそに、彰はゆたりと嘆息した。
「仕方ないのう」
彰はもう一方の腕を掲げ、その手に力を込めた。彰の爪がいっそう鋭くなる。
「他ならぬお前のため、私が手伝ってやろう」
そう言って、その手で、蓉の腹を貫いた。
「ぎっ……!」
蓉は目を見開き、身を跳ねさせた。蓉の肉体を壊し、内に入り込んでいる。作り物の臓腑を越えた、魄を掴まれた。
肉体の痛みも遠く、蓉にわき起こるのは、ただひたすらに危機感であった。
完全にとらえられた――逃げ出せない。
「あ、ああぁっ――!」
肉体が断末魔を上げ、蓉の本体が引きずり出された。薄茶の髪がざあと伸び、痩身に死に装束のような白の衣姿をまとうばかりの姿になる。
蓉を包んでいた肉体は崩れ、肉片となり落ちた。彰の鬼気を受けて、黒く焦げ、ただれていた。
黒片から貞樹の想が、ふわりと抜けていく。それは紅の雷を受けて霧散した。
彰は蓉を地面に投げやった。蓉はしたたかに身を打ち付けた。受け身すら取れなかった。それほどに、衝撃は大きかった。自分の体の真芯を、いとも容易く、彰は掴んだ。
圧倒的な力の差に、震えだす身を叱咤し、蓉は這った。這い、逃げようとする。
彰は笑い、その腰を踏んだ。
「あっ……!」
「無粋なやつよ。余興は終いというに」
顎を後ろから掴まれ、振りかえさせられる。紅の瞳に、自分の頼りない姿が映っている。
逃げられない。心の何処かが、叫んでいた。
――けれども。
なら何故、私は逃げた。
「うああ……!」
蓉は目を瞑り、彰に襲いかかった。彰は笑ってそれを避ける。
私は軽い気持ちで、この方に背を向けたのではない。零れ落ちそうになる涙を堪え、必死に打ち掛かる。
幻炎に身をまき、彰の懐に入り、掌底を繰り出す。彰は、それをいとも容易く防いだ。
「腕をあげたな、蓉」
「離せ……!」
「上達している。私が教えたとおりにな」
蓉は目を見開くより早く、みぞおちに一打くらっていた。頭の芯が痺れた。顎をつかみ、引き寄せられる。
「ひとり旅は楽しかったか?」
蓉は息を呑んだ。
彰は笑みを浮かべていた。それはきかん坊な子供をたしなめる気風であったが、かつてより艶めいていた。
「あ……」
蓉の体は震える。
ひとり旅? まさか……。
彰は、蓉の目元に口づけた。それは慈しみかいたずらか――ただ、濡れた音は、蓉の心臓に響いていた。
獣が毛繕いをするように、何度も触れられる。会えずにいた時間を埋めるようなそれに、心底から、焦燥の波がつもりだす。
いつもの通り。あまりに変わらない……。
それが唇に至った時、頂点に達した。目を見開き、心臓が大きく脈打つ。腰を抱かれ、深くなる口づけに、ざらざらと体の中が乱れていく。
――わかっていないのか。
私の決死の逃亡を、兄様は遊興にとらえていらしたのか。
蓉の目に、涙が浮かんだ。目を瞑れば、あっけなく伝い落ちる。胸を押すが、びくともしない。千々に乱れる思考が選んだのは、怒りだった。
彰が身を離す。蓉は後退った。
彰の唇から、血が伝っていた。不審に目を眇める彰を、蓉は睨みつけた。
「ひとり旅などではない……!」
蓉の目から、涙が伝った。彰の血の移った唇は紅をさしたかに赤い。蓉は拳を握りしめ、叫ぶ。
「出ていったのだ! あなたから離れるために……!」
どのような気持ちで、私があなたから逃げてきたか。
他ならぬあなたがわからないなんて。
「二度と戻らない! 私は、二度と……」
二度と。
「兄様の蓉には戻らない!」
叫び、幻炎をまく。
今度こそ、逃げるために。歯を食いしばり、夜の影のなかに身を投じる。
完全にその身を消し去ろうとした。
「――っ!?」
体の芯に、針が突き通ったような感覚が走った。凍るような痛みに、動きが止まり、息が止まる。
そこから食い破るように、血が根を張った。
「あぐっ……!」
皮膚の内側で、体が細切れになった。体の制御が聞かず、倒れ込む。微動だにできず、蓉はふるえていた。虚ろに開いた目から、涙が横に伝い、影に落ちる。
ゆったりと、気配が近づく。
来るな。
――来るな……!
蓉の願いもむなしく、彰は蓉のもとに膝をついた。顎をつかみあげ、目を合わせてくる。
「ずいぶん、意気がるな」
唇に、親指が触れる。自らの血を、そっと拭った。
「長い間、会えずにいたのを拗ねたか?」
歯の根が合わない。それでも力を込めて、首を振った。微かな動きでも、彰には届いたらしい。訝しげに目を細め、続ける。
「私が会えなかったのは、お前のためだ」
蓉の上体を抱き起こし、膝の上にのせた。彰の髪が、蓉の頬をかすめる。ぴりぴりと肌が痛みのなかにも粟立った。大きな手を頬に添わされ、涙を拭われる。
「祝言の準備をしていた。私とお前のな」
蓉の体に、鬼気が送られる。ばらばらになった体の気脈が、癒やされていく。あたたかな熱が、体の中を満たした。
また口づけられる。蓉は恐ろしくなった。慰めるようなそれに、安堵を覚えそうになる、自分の心が。
「お前もきっと気に入る。見たくはないか?」
優しくうかがってきた。頭の芯が熱を持った。それは屈辱かもしれない。悲しみかもしれない。
どうして、どうして。
この人はこうも、裏切りたくないと思わせる……!
いや。すでに私は裏切ったのだ。もう戻らない。
心を奮い立たせ、手を突っ張る。
「いりません。私は……」
彰は蓉の手を取った。何気ない仕草で、手のひらに口づけられる。
「あっ」
「何故、そうも強情をはる? 教えてくれ」
尋ねる彰の唇は愉しげな笑みをたたえていた。蓉は、涙で揺れる目で、彰を見た。
「私は兄様のものではありません」
顔を背け、身をよじる。逃げようとするのに、体を抑え込まれていた。それにまた、悲しくなる。
「だから……」
「お前は私のものだ」
彰の言葉が降る。いっそやわらかな響きだった。それほど決まり切ったことだと示していた。彰の目には、物わかりの悪い子供を不思議がる色さえ見えた。
「日が闇に落ちようが、闇が日に消えようが、変わらない」
「違います! 私は……」
「私の妻とする。そのためにお前を拾ったのだから」
また口づけられる。
唇から、何かが注ぎ込まれた。口づけへの拒絶に気を取られた蓉は、それへの警戒を怠った。体の奥に入りこまれた。
蓉の目が、大きく見開かれた。
心臓から、つま先に至るまで、血とともに巡る。痺れ、体が仰け反った。
「っ――!」
膝に手を入れられ、抱き上げられる。体が言うことを聞かない。
「お前も成人し、見合う年頃となった」
震える蓉の額に、彰は唇を落とす。見下ろす顔は、歌でも歌いそうに愉しげであった。
「今からしっかりとその身に、教え込んでやる」
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