摩天楼の密約 — 冷徹CEOは深夜にだけ熱を帯びる

たかし

文字の大きさ
1 / 6

第一話『氷の契約』

しおりを挟む
午前二時のオフィスビルは、巨大な生き物の死骸のように静まり返っている。 私のヒールの音だけが、硬質な大理石の床を叩き、誰もいない廊下に虚しく反響していた。

コツ、コツ、コツ。

その規則正しいリズムは、私の人生そのものだ。 正確で、乱れがなく、そして孤独。

「失礼いたします。久条社長、資料をお持ちしました」

重厚な扉をノックし、返事を待たずに静かに入室する。 広大なCEO執務室。その最奥、ガラスの向こうに広がる東京の夜景を背負い、一人の男がデスクに向かっていた。

久条湊(くじょう みなと)。三十四歳。 この巨大な会社を率いる若き皇帝。 整いすぎた顔立ちは彫刻のように無機質で、その瞳は絶対零度の氷を思わせる。 社内で彼が笑ったところを見た者はいない。私もその一人だ。秘書として三年、彼の影のように仕えてきた私でさえも。

「……遅かったな、美月(みつき)」

彼は顔を上げず、走らせていた万年筆の手を止めなかった。 私の名は片桐(かたぎり)美月。でも、二人きりの時、彼は稀に下の名前で呼ぶ。 そこに親愛の情などない。ただ、呼びやすい記号として発せられるその響きに、私の胸の奥がほんの少しだけ軋むのを、彼は知らない。

「申し訳ありません。来期のM&Aに関する最終精査に時間を要しました」 「言い訳はいい。置け」

私は無言でデスクに歩み寄り、分厚いファイルを滑らせた。 完璧な仕事。完璧な秘書。 私生活を捨て、恋を捨て、色鮮やかな感情をすべてコンクリートの底に埋めて、私は「鉄の女」になった。それが、この冷酷な王の側近として生き残る唯一の術だったから。

「それと、こちらが明日ご出席されるパーティーの招待客リストです」 「……ああ。例の建設会社会長の娘も来るのか」

彼の眉間に、微かな不快のシワが寄る。 最近、執拗に持ちかけられる政略結婚の話。そして、彼を狙う有象無象の女性たち。彼は極端な合理主義者であり、恋愛という「非生産的な遊戯」を何よりも嫌悪していた。

「処理しておきますか?」 「いや、いい。……それよりも、美月」

不意に、彼がペンを置き、革張りの椅子に深く体を沈めた。 空調の音がやけに大きく聞こえる。 彼がゆっくりと視線を上げ、私を射抜いた。その瞳の奥に、いつもとは違う昏(くら)い光が宿っていることに気づき、私は背筋を正した。

「一つ、業務命令がある」 「はい。何なりと」 「私の恋人になれ」

思考が凍結した。 言葉の意味を脳が理解するまで、数秒の空白が生まれた。 私が怪訝な顔をするよりも早く、彼はデスクの引き出しから一枚の書類を取り出した。

「正確には、『婚約者のふり』だ。期間は半年。目的は、私に群がる羽虫共の駆除と、親族からの結婚圧力の回避」

彼は淡々と、まるで新規事業のプレゼンでもするように続けた。

「君は優秀だ。私の好みも、嫌いなものも、行動パターンも全て把握している。そして何より、『鉄の女』とあだ名される君なら、私に対して色目を使うような愚かな真似はしないだろう」

それは信頼の言葉であり、同時に、女としての魅力を否定される残酷な宣告でもあった。 胸の奥で、埋めたはずの感情がチクリと痛む。 だが、私は表情筋一つ動かさずに問い返した。

「……それは、秘書としての業務の範疇を超えています」 「だから、特別な報酬を用意する」

彼が提示した金額は、私が生涯かけて稼ぐ年収の数倍にも及ぶものだった。 さらに、私が以前から提案していた海外事業部への転属の確約。 断る理由は、論理的にはどこにもない。

「条件は三つだ」

彼は立ち上がり、デスクを回って私の目の前に立った。 一八五センチの長身。圧倒的な威圧感。 上質なスーツ越しに漂う、微かなサンダルウッドの香りが、鼻腔をくすぐる。 距離が、近い。 普段の「上司と部下」の結界を、彼はいとも容易く踏み越えてくる。

「一つ、公の場では完璧な婚約者を演じること」 「……はい」 「二つ、私のプライベートな空間――この後のような時間も共有してもらう」 「……承知いたしました」 「そして三つ目」

彼は一歩、さらに踏み込んできた。 私のつま先と彼の革靴が触れ合うほどの距離。 見上げると、彼の氷のような瞳が、私の顔をじっと覗き込んでいた。まるで、私の仮面の下にある素肌を透視しようとするかのように。

「絶対に、私に本気にならないこと」

低い声が、鼓膜を震わせ、背骨を伝って下腹部へと落ちていく。 それは命令であり、警告だった。 もし一線を超えて感情を持てば、その瞬間に契約は破棄され、私は彼の前から消滅させられるだろう。

「ご心配には及びません、久条社長」

私は精一杯の虚勢を張り、冷徹な仮面を貼り直して微笑んだ。

「私は鉄の女です。貴方のような冷たい王に恋をするような、機能的な欠陥は持ち合わせておりません」

「……いい答えだ」

彼は口の端をわずかに歪めた。それが嘲笑なのか、満足の笑みなのかは分からない。 彼はデスクにあった書類を私に押し付け、胸ポケットからモンブランの万年筆を抜いて差し出した。

「サインしろ。今、ここで」

黒と金の重厚な万年筆。まだ彼の手の体温が残っている。 私はそれを受け取ると、震えそうになる指先を意志の力でねじ伏せ、契約書にサインをした。

紙の上をペン先が走る音。 それは、日常の終わりを告げる断絶の音だった。 書き終えた瞬間、彼が私の手から万年筆を抜き取る。その拍子に、彼の指が私の指に触れた。 ほんの一瞬。 熱い火花が散ったような錯覚。

「契約成立だ。……よろしく頼む、美月」

「はい、湊様」

契約に従い、呼び名を変える。 その瞬間、オフィスの空気が変質した。 もう、ここには上司と部下はいない。 あるのは、秘密を共有する共犯者の男と女。

彼は窓の外へ視線を戻した。 私もまた、彼と同じ方向を見る。 ガラスに映り込んだ二人の姿は、どこかちぐはぐで、けれど奇妙なほどに似通っていた。

この時の私はまだ知らない。 この契約が、どれほど甘く、そして残酷な罠であるかを。 鉄の女の仮面など、この男の体温の前では、あまりにも脆く溶け去ってしまうことを。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

【完結】精霊に選ばれなかった私は…

まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。 しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。 選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。 選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。 貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…? ☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

処理中です...