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第二話『仮初めのドレス』
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金曜の夜。 都内の高級ホテル「ザ・ペニンシュラ東京」のスイートルーム。 鏡に映っているのは、見知らぬ女だった。
「……これが、私?」
独り言が、ふかふかの絨毯に吸い込まれる。 背中が大きく開いた、ミッドナイトブルーのイブニングドレス。 シルクの光沢が、普段は蛍光灯の下で青白く見える私の肌を、艶めかしい真珠色に見せていた。 胸元は深く切れ込み、ネックレスのダイヤモンドが谷間で主張するように煌めいている。
「鉄の女」の鎧を脱ぎ捨てさせられ、代わりに与えられたのは、あまりにも無防備で、あまりにも豪奢な「女」の皮だった。
「支度は済んだか」
ノックもなく、重厚な扉が開く。 入ってきた久条湊の姿に、私は息を呑んだ。 完璧に仕立てられたタキシード。撫で付けられた黒髪。 その姿は、夜の闇から抜け出してきた王族のように優雅で、威圧的だった。
彼は私を見ると、入口で足を止めた。 無言の時間。 氷のような瞳が、私の爪先から髪の先まで、ゆっくりと舐めるように這い上がってくる。 それは品定めであり、所有者の検分だった。 視線だけで肌を撫でられているような錯覚に、太腿の内側が熱くなる。
「……悪くない」
短く告げると、彼は近づいてきた。 革靴の音が止まる。背後から、彼の手が私の素肌の肩に触れた。 ビクリ、と身体が跳ねる。 彼の手は冷たいのに、触れた場所から火傷しそうな熱が広がっていく。
「髪を上げろ。うなじを見せるんだ」 「……はい」
言われるがまま、私は髪をアップにする。 無防備に晒されたうなじに、彼の指先が触れる。 ネックレスの留め金を外す冷たい金属音。 代わりに、さらに大粒のサファイアのネックレスが私の首に巻かれた。
「私の婚約者だ。これくらいの宝石でなければ釣り合わない」
彼が留め金を閉じる際、その指の腹が、私の首筋の動脈の上をすうっと撫でた。 トクン、と私の鼓動が跳ねたのを、彼は指先で感じ取ったはずだ。 鏡越しに目が合う。 彼は薄く笑っていた。
「緊張しているのか? 美月」
「……慣れない衣装ですので」
「嘘をつけ。……私が触れたからだろう」
彼は私の耳元に唇を寄せ、低い声で囁いた。
「今夜は一晩中、私の腕の中にいろ。他の男の視線など、一ミリも許さない」
その言葉は、まるで呪縛のように私の身体を縛り付けた。 契約上の演技。分かっている。 けれど、その声音に含まれる独占欲は、演技にしてはあまりにも濃厚すぎた。
◇
パーティー会場は、シャンパングラスの触れ合う音と、人工的な笑い声で満ちていた。 政財界の大物たちが集う煌びやかな空間。 そこに足を踏み入れた瞬間、会場の空気が一瞬止まったのを感じた。
「あれは……久条か?」
「隣の女性は誰だ? まさか、あの噂の……」
好奇と嫉妬の視線が、無数の矢のように降り注ぐ。 普段なら萎縮してしまうような状況。 けれど今の私には、絶対的な盾があった。
私の腰に回された、久条の腕。 力強く、決して離さないという意志を感じさせるその腕が、私を支えていた。
「堂々としていろ。お前は私の女だ」
耳元での囁きに、私は顎を引いて微笑んだ。 完璧な婚約者。 私は彼に寄り添い、優雅にシャンパンを受け取る。
「久条さん、お久しぶりですわ」
近づいてきたのは、派手なドレスを纏った美女。建設会社の令嬢だ。 彼女は私を一瞥すると、ふん、と鼻で笑った。
「あら、秘書の方かと思いましたわ。随分と地味な……いえ、落ち着いた方をお選びになったのですね」
あからさまな侮辱。 私が口を開こうとした瞬間、腰に回された腕に力がこもった。
「彼女は地味なのではない。誰に見せる必要もない美しさを、私が独り占めしているだけだ」
久条の声は、凍えるほど冷ややかで、けれど甘美だった。
「それに、彼女の聡明さと気品は、飾り立てただけの張りぼてとは違う。……失礼、行こうか、美月」
彼は令嬢の顔色が青ざめるのを見届けることなく、私を連れて歩き出した。 心臓が、早鐘を打っていた。 演技だ。これは、私を守るための、そして彼自身を守るための台本だ。 そう自分に言い聞かせても、胸の奥が熱く疼くのを止められない。
「……言い過ぎではありませんか?」
「事実を言ったまでだ」
彼はバルコニーへと私を連れ出した。 夜風が、火照った頬に心地よい。 会場の喧騒が遠のき、二人だけの静寂が訪れる。
「美月」
彼が私に向き直る。 月明かりに照らされたその顔は、普段の冷徹な仮面が少しだけ揺らいで見えた。
「お前は、自分が思っているよりずっと……美しい」
その言葉と共に、彼の手が私の頬を包み込んだ。 逃げられない。 彼の顔が近づいてくる。 キスをするの? ここで? 契約にはない。でも、拒めない。 瞼を閉じ、唇が触れ合うその瞬間を待った。
しかし、彼の唇が落ちたのは、私の瞼の上だった。 蝶が羽を休めるような、優しく、慈しむような口づけ。
「……戻るぞ。明日は早い」
彼はパッと身を離すと、背を向けた。 その耳が、わずかに赤く染まっているように見えたのは、月明かりのせいだろうか。
残された私は、瞼に残る熱を指でなぞりながら、立ち尽くしていた。 「絶対に本気にならないこと」。 その契約条件が、音を立てて崩れ落ちていく予感がした。
そして翌週。 私たちは逃げ場のない空の上、香港行きのファーストクラスにいた。 本当の「密約」が遂行される、摩天楼の街へ向かって。
「……これが、私?」
独り言が、ふかふかの絨毯に吸い込まれる。 背中が大きく開いた、ミッドナイトブルーのイブニングドレス。 シルクの光沢が、普段は蛍光灯の下で青白く見える私の肌を、艶めかしい真珠色に見せていた。 胸元は深く切れ込み、ネックレスのダイヤモンドが谷間で主張するように煌めいている。
「鉄の女」の鎧を脱ぎ捨てさせられ、代わりに与えられたのは、あまりにも無防備で、あまりにも豪奢な「女」の皮だった。
「支度は済んだか」
ノックもなく、重厚な扉が開く。 入ってきた久条湊の姿に、私は息を呑んだ。 完璧に仕立てられたタキシード。撫で付けられた黒髪。 その姿は、夜の闇から抜け出してきた王族のように優雅で、威圧的だった。
彼は私を見ると、入口で足を止めた。 無言の時間。 氷のような瞳が、私の爪先から髪の先まで、ゆっくりと舐めるように這い上がってくる。 それは品定めであり、所有者の検分だった。 視線だけで肌を撫でられているような錯覚に、太腿の内側が熱くなる。
「……悪くない」
短く告げると、彼は近づいてきた。 革靴の音が止まる。背後から、彼の手が私の素肌の肩に触れた。 ビクリ、と身体が跳ねる。 彼の手は冷たいのに、触れた場所から火傷しそうな熱が広がっていく。
「髪を上げろ。うなじを見せるんだ」 「……はい」
言われるがまま、私は髪をアップにする。 無防備に晒されたうなじに、彼の指先が触れる。 ネックレスの留め金を外す冷たい金属音。 代わりに、さらに大粒のサファイアのネックレスが私の首に巻かれた。
「私の婚約者だ。これくらいの宝石でなければ釣り合わない」
彼が留め金を閉じる際、その指の腹が、私の首筋の動脈の上をすうっと撫でた。 トクン、と私の鼓動が跳ねたのを、彼は指先で感じ取ったはずだ。 鏡越しに目が合う。 彼は薄く笑っていた。
「緊張しているのか? 美月」
「……慣れない衣装ですので」
「嘘をつけ。……私が触れたからだろう」
彼は私の耳元に唇を寄せ、低い声で囁いた。
「今夜は一晩中、私の腕の中にいろ。他の男の視線など、一ミリも許さない」
その言葉は、まるで呪縛のように私の身体を縛り付けた。 契約上の演技。分かっている。 けれど、その声音に含まれる独占欲は、演技にしてはあまりにも濃厚すぎた。
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パーティー会場は、シャンパングラスの触れ合う音と、人工的な笑い声で満ちていた。 政財界の大物たちが集う煌びやかな空間。 そこに足を踏み入れた瞬間、会場の空気が一瞬止まったのを感じた。
「あれは……久条か?」
「隣の女性は誰だ? まさか、あの噂の……」
好奇と嫉妬の視線が、無数の矢のように降り注ぐ。 普段なら萎縮してしまうような状況。 けれど今の私には、絶対的な盾があった。
私の腰に回された、久条の腕。 力強く、決して離さないという意志を感じさせるその腕が、私を支えていた。
「堂々としていろ。お前は私の女だ」
耳元での囁きに、私は顎を引いて微笑んだ。 完璧な婚約者。 私は彼に寄り添い、優雅にシャンパンを受け取る。
「久条さん、お久しぶりですわ」
近づいてきたのは、派手なドレスを纏った美女。建設会社の令嬢だ。 彼女は私を一瞥すると、ふん、と鼻で笑った。
「あら、秘書の方かと思いましたわ。随分と地味な……いえ、落ち着いた方をお選びになったのですね」
あからさまな侮辱。 私が口を開こうとした瞬間、腰に回された腕に力がこもった。
「彼女は地味なのではない。誰に見せる必要もない美しさを、私が独り占めしているだけだ」
久条の声は、凍えるほど冷ややかで、けれど甘美だった。
「それに、彼女の聡明さと気品は、飾り立てただけの張りぼてとは違う。……失礼、行こうか、美月」
彼は令嬢の顔色が青ざめるのを見届けることなく、私を連れて歩き出した。 心臓が、早鐘を打っていた。 演技だ。これは、私を守るための、そして彼自身を守るための台本だ。 そう自分に言い聞かせても、胸の奥が熱く疼くのを止められない。
「……言い過ぎではありませんか?」
「事実を言ったまでだ」
彼はバルコニーへと私を連れ出した。 夜風が、火照った頬に心地よい。 会場の喧騒が遠のき、二人だけの静寂が訪れる。
「美月」
彼が私に向き直る。 月明かりに照らされたその顔は、普段の冷徹な仮面が少しだけ揺らいで見えた。
「お前は、自分が思っているよりずっと……美しい」
その言葉と共に、彼の手が私の頬を包み込んだ。 逃げられない。 彼の顔が近づいてくる。 キスをするの? ここで? 契約にはない。でも、拒めない。 瞼を閉じ、唇が触れ合うその瞬間を待った。
しかし、彼の唇が落ちたのは、私の瞼の上だった。 蝶が羽を休めるような、優しく、慈しむような口づけ。
「……戻るぞ。明日は早い」
彼はパッと身を離すと、背を向けた。 その耳が、わずかに赤く染まっているように見えたのは、月明かりのせいだろうか。
残された私は、瞼に残る熱を指でなぞりながら、立ち尽くしていた。 「絶対に本気にならないこと」。 その契約条件が、音を立てて崩れ落ちていく予感がした。
そして翌週。 私たちは逃げ場のない空の上、香港行きのファーストクラスにいた。 本当の「密約」が遂行される、摩天楼の街へ向かって。
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