摩天楼の密約 — 冷徹CEOは深夜にだけ熱を帯びる

たかし

文字の大きさ
2 / 6

第二話『仮初めのドレス』

しおりを挟む
金曜の夜。 都内の高級ホテル「ザ・ペニンシュラ東京」のスイートルーム。 鏡に映っているのは、見知らぬ女だった。

「……これが、私?」

独り言が、ふかふかの絨毯に吸い込まれる。 背中が大きく開いた、ミッドナイトブルーのイブニングドレス。 シルクの光沢が、普段は蛍光灯の下で青白く見える私の肌を、艶めかしい真珠色に見せていた。 胸元は深く切れ込み、ネックレスのダイヤモンドが谷間で主張するように煌めいている。

「鉄の女」の鎧を脱ぎ捨てさせられ、代わりに与えられたのは、あまりにも無防備で、あまりにも豪奢な「女」の皮だった。

「支度は済んだか」

ノックもなく、重厚な扉が開く。 入ってきた久条湊の姿に、私は息を呑んだ。 完璧に仕立てられたタキシード。撫で付けられた黒髪。 その姿は、夜の闇から抜け出してきた王族のように優雅で、威圧的だった。

彼は私を見ると、入口で足を止めた。 無言の時間。 氷のような瞳が、私の爪先から髪の先まで、ゆっくりと舐めるように這い上がってくる。 それは品定めであり、所有者の検分だった。 視線だけで肌を撫でられているような錯覚に、太腿の内側が熱くなる。

「……悪くない」

短く告げると、彼は近づいてきた。 革靴の音が止まる。背後から、彼の手が私の素肌の肩に触れた。 ビクリ、と身体が跳ねる。 彼の手は冷たいのに、触れた場所から火傷しそうな熱が広がっていく。

「髪を上げろ。うなじを見せるんだ」 「……はい」

言われるがまま、私は髪をアップにする。 無防備に晒されたうなじに、彼の指先が触れる。 ネックレスの留め金を外す冷たい金属音。 代わりに、さらに大粒のサファイアのネックレスが私の首に巻かれた。

「私の婚約者だ。これくらいの宝石でなければ釣り合わない」

彼が留め金を閉じる際、その指の腹が、私の首筋の動脈の上をすうっと撫でた。 トクン、と私の鼓動が跳ねたのを、彼は指先で感じ取ったはずだ。 鏡越しに目が合う。 彼は薄く笑っていた。

「緊張しているのか? 美月」 

「……慣れない衣装ですので」 

「嘘をつけ。……私が触れたからだろう」

彼は私の耳元に唇を寄せ、低い声で囁いた。

「今夜は一晩中、私の腕の中にいろ。他の男の視線など、一ミリも許さない」

その言葉は、まるで呪縛のように私の身体を縛り付けた。 契約上の演技。分かっている。 けれど、その声音に含まれる独占欲は、演技にしてはあまりにも濃厚すぎた。



パーティー会場は、シャンパングラスの触れ合う音と、人工的な笑い声で満ちていた。 政財界の大物たちが集う煌びやかな空間。 そこに足を踏み入れた瞬間、会場の空気が一瞬止まったのを感じた。

「あれは……久条か?」

「隣の女性は誰だ? まさか、あの噂の……」

好奇と嫉妬の視線が、無数の矢のように降り注ぐ。 普段なら萎縮してしまうような状況。 けれど今の私には、絶対的な盾があった。

私の腰に回された、久条の腕。 力強く、決して離さないという意志を感じさせるその腕が、私を支えていた。

「堂々としていろ。お前は私の女だ」

耳元での囁きに、私は顎を引いて微笑んだ。 完璧な婚約者。 私は彼に寄り添い、優雅にシャンパンを受け取る。

「久条さん、お久しぶりですわ」

近づいてきたのは、派手なドレスを纏った美女。建設会社の令嬢だ。 彼女は私を一瞥すると、ふん、と鼻で笑った。

「あら、秘書の方かと思いましたわ。随分と地味な……いえ、落ち着いた方をお選びになったのですね」

あからさまな侮辱。 私が口を開こうとした瞬間、腰に回された腕に力がこもった。

「彼女は地味なのではない。誰に見せる必要もない美しさを、私が独り占めしているだけだ」

久条の声は、凍えるほど冷ややかで、けれど甘美だった。

「それに、彼女の聡明さと気品は、飾り立てただけの張りぼてとは違う。……失礼、行こうか、美月」

彼は令嬢の顔色が青ざめるのを見届けることなく、私を連れて歩き出した。 心臓が、早鐘を打っていた。 演技だ。これは、私を守るための、そして彼自身を守るための台本だ。 そう自分に言い聞かせても、胸の奥が熱く疼くのを止められない。

「……言い過ぎではありませんか?」 

「事実を言ったまでだ」

彼はバルコニーへと私を連れ出した。 夜風が、火照った頬に心地よい。 会場の喧騒が遠のき、二人だけの静寂が訪れる。

「美月」

彼が私に向き直る。 月明かりに照らされたその顔は、普段の冷徹な仮面が少しだけ揺らいで見えた。

「お前は、自分が思っているよりずっと……美しい」

その言葉と共に、彼の手が私の頬を包み込んだ。 逃げられない。 彼の顔が近づいてくる。 キスをするの? ここで? 契約にはない。でも、拒めない。 瞼を閉じ、唇が触れ合うその瞬間を待った。

しかし、彼の唇が落ちたのは、私の瞼の上だった。 蝶が羽を休めるような、優しく、慈しむような口づけ。

「……戻るぞ。明日は早い」

彼はパッと身を離すと、背を向けた。 その耳が、わずかに赤く染まっているように見えたのは、月明かりのせいだろうか。

残された私は、瞼に残る熱を指でなぞりながら、立ち尽くしていた。 「絶対に本気にならないこと」。 その契約条件が、音を立てて崩れ落ちていく予感がした。

そして翌週。 私たちは逃げ場のない空の上、香港行きのファーストクラスにいた。 本当の「密約」が遂行される、摩天楼の街へ向かって。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

【完結】精霊に選ばれなかった私は…

まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。 しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。 選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。 選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。 貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…? ☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

処理中です...