摩天楼の密約 — 冷徹CEOは深夜にだけ熱を帯びる

たかし

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第三話『香港の夜、境界線』

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香港国際空港に降り立った瞬間、肌にまとわりつくような湿度が私たちを出迎えた。 亜熱帯特有の、むせ返るような熱気。 それはまるで、これから始まる夜の予兆のように、私の呼吸を少しだけ浅くさせた。

「……暑いな」

隣を歩く久条湊が、不快そうに眉をひそめてネクタイを緩める。 その無防備な仕草に、心臓が不格好な音を立てる。 日本を発ってから数時間。空の上でも、移動の車中でも、彼はずっと私の隣にいた。 物理的な距離の近さが、私の感覚を少しずつ狂わせ始めている。

今回の出張の目的は、アジア最大手の投資グループとの提携交渉。 だが、表向きの理由はそれだけではない。 「婚約者との婚前旅行」――それが、彼を狙うハニートラップを回避するための、私たちの隠れ蓑だった。

「チェックインを。部屋は最上階だ」

彼がフロントにプラチナカードを滑らせる。 案内されたのは、ビクトリア・ハーバーを一望できるプレジデンシャル・スイート。 扉が開かれた瞬間、目の前に広がったのは、息を呑むような夜景だった。 黒い海に浮かぶ極彩色の光の帯。100万ドルの夜景という陳腐な言葉では表現しきれない、圧倒的な光の暴力。

「すごい……」

思わず漏れた感嘆の声を、背後からの重い金属音が断ち切った。 ガチャリ。 ドアのロックが掛かる音。 それが、私たちが完全なる「密室」に閉じ込められた合図だった。

「……ベッドルームは一つですが、よろしかったのですか?」

広いリビングの奥、ガラス張りの寝室には、巨大なキングサイズのベッドが一つだけ鎮座していた。 当然の疑問を口にすると、彼はジャケットを脱ぎながら淡々と答えた。

「『仲睦まじい婚約者』が別々の部屋を取れば、現地のパパラッチに格好のネタを提供するだけだ。……それとも何か? 私が襲うとでも思っているのか」

「いえ、まさか。久条社長に限って」

「ならいい。シャワーを浴びてこい。移動で疲れただろう」

彼はすでに手元のタブレットに視線を落としていた。 私は安堵と、ほんの少しの――自分でも認めたくない――落胆を噛み殺し、バスルームへと向かった。



バスルームは、悪趣味なほどに広かった。 大理石の床、猫足のバスタブ。そして、寝室との間を隔てるのは、曇りガラス一枚だけ。 シャワーを浴びながら、私は生きた心地がしなかった。 お湯の落ちる音に混じって、自分の高鳴る鼓動が聞こえる。 薄いガラスの向こうには、彼がいる。 私が裸で身体を洗っている音を、彼はどんな顔で聞いているのだろうか。

「……馬鹿みたい」

私は頭を振り、冷水を顔に浴びた。 彼は仕事中毒の氷の王だ。私の裸体など、肉塊ほどにも思っていないはずだ。 そう自分に言い聞かせ、バスローブを羽織ってバスルームを出た。

リビングに戻ると、照明が落とされていた。 窓の外の夜景だけが、室内を青白く照らし出している。 彼は窓際のソファに座り、琥珀色の液体が入ったグラスを揺らしていた。

「あ……」

私が声を出すと、彼が振り返った。 その瞬間、彼の手が止まったのが分かった。 私の髪はまだ濡れていて、首筋に滴が伝い落ちている。 バスローブの合わせ目はしっかり閉じたつもりだったが、彼の視線は、まるで布地を透かしてその下にある素肌を見ているかのように鋭かった。

「……こっちへ来い」

命令形の、低い声。 拒否権など最初から存在しない。 私は吸い寄せられるように、彼の元へ歩み寄った。

「飲みますか?」 

「いや、いい。……座れ」

彼が顎で示したのは、対面のソファではなく、彼のすぐ隣だった。 ためらいがちに腰を下ろす。 沈み込む革のソファ。彼の体温と、ウィスキーの香り、そして男性用コロンの香りが鼻腔をくすぐる。

「美しいな」

彼がぽつりと呟いた。 視線は窓の外の夜景に向けられている。

「はい。世界三大夜景の一つですから」 

「違う」

彼はグラスをサイドテーブルに置くと、身体ごと私に向き直った。

「お前のことだ、美月」

不意打ちだった。 思考回路がショートする。 彼は私の反応を楽しむように目を細めると、手を伸ばし、私の濡れた髪に触れた。

「普段はひっつめた髪を下ろすと、随分と印象が変わる。……無防備で、誘っているようだ」

「か、からかわないでください。契約には、そのような冗談は含まれて……」

「契約、契約、契約……」

彼は苛立ったように私の言葉を遮ると、濡れた髪を指に絡め取り、ぐい、と強く引いた。

「っ……!」

顔が上を向く。 目の前に、彼の唇があった。 逃げられない距離。 彼の瞳の中で、青白い炎が揺らめいているのが見えた。

「お前は、自分が今、どんな顔をしているか分かっているのか?」 

「……社長、近いです」 

「湊だ」

訂正と共に、彼の顔がさらに近づく。 鼻先が触れ合う距離。 互いの吐息が混じり合う。

「ここには誰もいない。パパラッチも、会社の連中も。……演じる必要はない」

「でしたら、離して……」

「嫌だと言ったら?」

彼の指が、髪から頬へ、そして首筋へと滑り落ちる。 バスローブの襟元に指が掛かる。 冷たい指先が鎖骨に触れ、背筋に電流のような痺れが走った。

「っ、ん……」

喉の奥から、甘い声が漏れてしまった。 それが決定打だった。 彼の理性のタガが外れる音が、聞こえた気がした。

「……お前が悪い」

次の瞬間、視界が塞がれた。 唇が重なる。 パーティーの時の、触れるだけの優しいキスではない。 唇を噛み、舌をねじ込み、私の全てを侵略しようとする、飢えた獣のキス。

「んっ! ぁ……!」

抵抗しようと胸を押したが、彼の身体は岩のように動かない。 むしろ、その抵抗すらも愛撫のように受け取られ、私はソファの背もたれに押し付けられた。 口内を蹂躙される感覚。 ウィスキーの苦味と、彼自身の雄の味が、私の脳髄を溶かしていく。

「ぷはっ……!」

ようやく唇が離れた時、私は酸素を求めて激しく喘いだ。 目の前の彼は、乱れた呼吸を整えようともせず、ただギラついた瞳で私を見下ろしていた。

「演技だと言ったな」

彼は私の唇に残る唾液を親指で拭いながら、低く囁いた。

「なら、どうしてそんなに濡れている?」

「え……」

「目が、唇が、そして……ここが」

彼の手が、バスローブの裾から滑り込み、私の太腿の内側を這い上がった。 嘘だ。 まさか。 でも、彼の手が触れた場所は、確かに自分でも驚くほど熱く、湿っていた。

「鉄の女などと誰が呼んだんだ」

彼は嘲るように、けれど愛おしげに笑った。

「ただの、感じやすい女じゃないか」

「や、やめて……これ以上は、契約違反です……!」

私の最後の抵抗。 それはあまりにも弱々しく、懇願のように響いた。

「契約書なら、東京の金庫の中だ」

彼は私の言葉を一蹴すると、そのまま私を抱き上げた。 視界が反転し、天井のシャンデリアが揺れる。

「今夜は、私が新しいルールだ」

彼は私を抱えたまま、ガラスの向こうの寝室――キングサイズのベッドへと歩き出した。 香港の夜景が、歪んで見える。 境界線はもう、どこにもなかった。 ただ、深く、熱い夜の底へ落ちていくだけ。
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