衆議院選挙の直前に父が倒れて後援会の会長代行をやることになったら、いけすかない二世候補に振り回されまくっている件

透衣絵ゐ

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第5話 これだから素人は

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 二月の朝は、まだ暗い。

 七時半。自転車を停めて、白い息を吐きながら事務所の前に立った。指先がかじかんでいる。手袋を忘れた。昨夜、寝る前に推しCPの新刊を読み始めてしまったのがいけない。目覚ましを三回止めて、朝ごはんは駅前のコンビニのおにぎり一個。カバンの中でまだ温かい。
 ガラスの引き戸の向こうに、蛍光灯が煌々と灯っている。人影がいくつも動いている。——七時半で、もうこんなに人がいるの。

 引き戸を開けた瞬間、音の壁にぶつかった。

 固定電話が四台同時に鳴っている。
 スタッフが受話器を肩と耳で挟みながらメモを取っている。その隣では別のスタッフがダンボール箱からチラシの束を引っ張り出して、一束ずつ数を数えていた。
 壁一面のスケジュール表に目がいく。マーカーで赤い線が何本も引かれて、「個人演説会 14:00 南公民館」「街頭 16:30 駅前」——びっしりだ。余白がない。
 隅に立てかけられたのぼり旗。ホワイトボードにぶら下がった選挙カーの鍵。デスクの上にはウグイス嬢のマニュアルが山積みで、その脇に飲みかけの缶コーヒーが三本。
 インスタントコーヒーの匂い。紙とインクの匂い。誰かのコートについたタバコの匂い。——全部が混ざって、鼻の奥がツンとする。

 公示日。選挙戦の初日。
 こんな世界があったのだ。私がジャージでBL漫画を読んでいる間にも、この人たちはこうやって朝から走り回っていた。

 最初に任された仕事が、「証紙貼り」だった。
 選挙管理委員会から届いた小さなシール——証紙を、ビラの一枚一枚に手作業で貼る。これが貼っていないビラは配れないらしい。数万枚のビラの山を前にして、おばちゃんボランティアたちと肩を並べて、ペタ、ペタ、ペタ。果てしない。

「高瀬さん、お茶どうぞ」
「ありがとうございます」

 単調な作業だけど、おばちゃんたちの世間話を聞きながら手を動かしていると、不思議と居心地が良かった。「お父さんにそっくりね」「手先が器用だねぇ」。お茶とせんべいを挟みながら、一枚、また一枚。

 ちなみに、差し入れにおにぎりを持っていこうとしたら、山田さんに止められた。

「高瀬さん、お気持ちは嬉しいんですが——事務所での飲食物の提供は公職選挙法で厳しく制限されていまして。お弁当やおにぎりは『買収』と見なされる恐れがあるんです」

「えっ。おにぎりが買収……?」

「許されるのは、お茶に伴う茶菓子程度です。せんべいとか、まんじゅうとか」

 選挙の世界、想像以上に厳しい。

 慣れない選挙用語にも四苦八苦した。
 「ポスティング」。「遊説ルート」。「電話作戦」。「個人演説会」。——何それ。日本語なのに意味がわからない。

「高瀬さん、今日は午後から桃太郎ありますから」

 は?

「桃太郎?」

 聞き返したら、スタッフのおじさんが笑った。タスキをかけた候補者が、旗を持ったスタッフを引き連れて商店街を練り歩くことらしい。
 ——なぜ桃太郎。鬼退治でもするの?

 百均で買ったノートに必死でメモを取る。ページがどんどん埋まっていく。字が汚い。焦るとさらに汚くなる。後援会の名簿をエクセルで整理しようとしたら、住所録が手書きの帳面で出てきて目眩がした。

 選挙カーに乗り込んだとき、度肝を抜かれた。

 助手席にいたのは、三十代くらいの女性。きっちりとまとめたポニーテールに、薄いピンクのリップ。スーツの襟元にはえんじ色のリボン——陣営カラーだ。姿勢がいい。背筋がぴんと伸びていて、膝の上にバインダーを置いて、窓の外を真剣な目で見つめている。
 ウグイス嬢の、水沢さん。

 選挙カーが走り出した瞬間、水沢さんの声が変わった。

「お洗濯中のお母さん、お疲れ様です! 御堂颯真をよろしくお願いいたします!」

 通る声。明るくて、でも押しつけがましくない。マイクを通しているのに、まるですぐ隣で話しかけられているみたいな距離感。
 窓の外に目を走らせながら、次々と言葉を変えていく。

「お散歩中のワンちゃん、可愛いですね! 飼い主の皆様、御堂颯真に温かいご声援をお願いいたします!」

 横顔を見ていた。口元がきゅっと上がって、目尻が柔らかく下がる——「選挙用の笑顔」じゃない。本物の笑顔だ。声に感情が乗っているから、聞いているこっちまで気持ちが明るくなる。
 すごい。この人、すれ違うすべてのものに声をかけている。歩いている人にも。自転車のおじさんにも。犬にまで。しかも全部、違う言葉で。
 ——プロだ。こういう人がいるから、選挙は回っているのだ。

 そんな私に、あの男は容赦なかった。

「……チラシの配り方。右手で渡してるだろう」

 朝一番。事務所に戻ったら、颯真が腕を組んで立っていた。

「右手で渡すと受け取る側の動線が逆になる。左手で差し出して、右手で候補者名を指さす。——こんなの基本だろ。どんくさいな」

 は? 今「どんくさい」って言った?

「あと、笑顔で配ってるつもりだろうが、あれは笑顔じゃない。引きつってる。有権者は敏感だぞ。不自然な顔で近づいてくる人間からビラなんて受け取りたくない」

 ほっとけ。

 昼。スケジュール表を確認していたら、背後にいつの間にか立たれていた。気配を消すな。

「午前の遊説ルートと午後の遊説ルート、重複してるの、わかってるか」

「え……」

「わかってない顔だな。同じ通りを二回走って何がしたい? ガソリンの無駄遣いか? ——素人丸出しの仕事だ」

 声は低く、淡々としている。怒鳴られたほうがまだマシだ。この男は怒鳴らない。静かに、正確に、急所を刺してくる。

 夕方。パソコンで後援会の名簿を開いていたら、横から画面を覗き込まれた。近い。柑橘系の匂いがする。——嗅いでる場合じゃない。

「この名簿、いつの時代のものだ? 引っ越した人間がそのままだし、故人の名前まで残ってる。こんなリストで電話作戦やったら、遺族に電話をかけることになるぞ。——想像力がないのか?」

 最後の一言が、いちばん刺さった。

 うるっさい。うるっさいうるっさいうるっさい。
 こっちだって好きでやってるんじゃないのよ。素人だって最初からわかってて引き受けてもらってるんだから、もう少し言い方ってもんがあるでしょうが。

 でも——悔しい。悔しいけど、颯真の指摘はいちいち的確だった。チラシの渡し方も、ルートの重複も、名簿の不備も。全部、こっちのミスだ。言い返せない。それがいちばん腹が立つ。

 ベテランスタッフの山田さんが、困った顔で仲裁に入る。

「颯真先生、もう少し言い方っていうものが……」

「事実を言っているだけだが。直す気があるなら聞けばいい。ないなら帰ってくれ」

「もーーーなんなのあの人!!」

 トイレに駆け込んで、小さい声で叫んだ。ツン通り越してもはや人格否定。帰れって何? 帰れって。お前が帰れ。実家に帰れ。

 鏡に映った自分の顔が、真っ赤だった。怒りで。……怒りで、だと思う。たぶん。

 でも、不思議なことに——私は逃げなかった。
 以前の私なら、こんな面倒な人間関係からは真っ先に距離を置いていたはず。そうやって生きてきたはず。なのに、言い返してしまう。ぶつかってしまう。

 なんでだろう。自分でもわからない。
 わからないけど——この男に負けたくない、とは思った。たぶん、お父さんの代わりとして、じゃなくて、「私」として。そういう感情だったんだと思う。……たぶん。

 ◇

 三日目の朝は、少しだけ手応えがあった。

 証紙貼りのスピードが上がった。おばちゃんたちに「もう手つきがプロだねぇ」と褒められた。百均のノートは二冊目に突入して、選挙用語もだいぶ頭に入ってきた。電話作戦のリストも昨夜のうちに整理しておいた。山田さんが「助かります」と笑ってくれた。
 ——ほら、やればできるじゃん、私。

 昼前、事務所の隅で温かい缶コーヒーを飲みながら、ちょっとだけ息をついた。窓の外では二月の薄い日差しが道路に落ちていて、向かいのコインランドリーの看板がきらきら光っている。
 このまま、なんとかなるかもしれない。

 ——そう思った午後に、やらかした。

 選挙カーの遊説ルートで、演説場所を間違えたのだ。

 商店街の入口で演説する予定だった。地図を見て、交差点を確認して、「ここです」とドライバーさんに伝えた。自信があった。
 ——交差点を、一つ読み違えていた。

 選挙カーが停まったのは、住宅街の外れ。シャッターが閉まった元・金物屋と、錆びた自動販売機しかない寂しい交差点だった。電柱に貼られた「粗大ゴミ回収日」の紙が、二月の風にぺらぺら揺れている。
 颯真がマイクを握ったまま、立っている。
 自販機のブゥーンという低い唸りだけが、やけに大きく聞こえた。聴衆はまばらに三人——しかも全員、通りすがりの犬の散歩。犬のほうが多い。

 颯真がスピーカーのスイッチを切った。ブツッ、と音が途切れる。選挙カーを降りてきた革靴が、コツ、コツ、とアスファルトを叩く。私の正面に立つ。長身だから、見下ろされる形になる。

「これだから素人は」

 低い、冷たい声。冬の空気みたいに、容赦がない。

 悔しくて、奥歯を噛んだ。きゅっと締めた唇の内側が痛い。言い返す言葉が出てこない。だって、私のミスだから。

 その日の夜。帰宅して、ジャージに着替えて、ソファに座る。習慣でBL漫画を手に取る。

 ——全然入ってこない。
 ページをめくっても、あのツン野郎の「これだから素人は」がリフレインする。

 悔しい。悔しい悔しい悔しい。

 BL漫画を閉じた。表紙の攻めが、いつもの不敵な笑みでこっちを見ている。——ごめん、今日は推しに癒される余裕がない。

 スマホを開く。あかねにLINE。

瑞希 『今日やらかした。演説場所間違えた』
あかね 『えっ大丈夫?』
瑞希 『大丈夫じゃない。候補者に「これだから素人は」って言われた』
あかね 『うわ、それはキツい。泣いた?』
瑞希 『泣いてない。泣くもんか。悔しいだけ』
あかね 『みずきのその「悔しい」は、たぶん伸びる前兆だよ』
瑞希 『なにそれ。少年漫画?』
あかね 『みずきの人生がいま少年漫画なんでしょ』

 ……あかね、たまにいいこと言うな。

 スマホを置いて、ダイニングテーブルに移動した。ノートパソコンを開く。Googleマップで選挙区の地図を表示して、画面を拡大する。
 遊説ルートを、一から引き直す。
 今日間違えた交差点。ここだ。商店街の入口はもう一本南。ストリートビューで確認する。角にクリーニング屋がある——これを目印にすればいい。
 ルートを赤ペンでノートに書き写す。交差点の名前、目印になる建物、所要時間。一つずつ、丁寧に。字が汚いから、二回目は丁寧に書き直した。
 演説ポイントごとに、通行量の多い時間帯も調べた。颯真がやっていたみたいに——って、なんであの男の真似をしてるんだ。悔しい。でも、あの人のやり方は正しいのだ。それは認める。

 気づいたら、時計の針が午前一時を回っていた。
 テーブルの上には缶チューハイの空き缶が二本と、食べかけの柿ピーの袋。ノートには三ページ分のルート図と、メモがびっしり。
 目がしょぼしょぼする。肩が凝っている。でも——明日の遊説ルートは、完璧だ。一ミリの隙もない。

 ——見てなさいよ、あのツン野郎。




***
【今日の選挙うんちく:遊説ルート】

候補者が選挙カーで選挙区内を巡回するコースを「遊説ルート」と呼ぶ。限られた時間で最大の効果を出すために、人通りの多い場所・支持者の集中地域・対立候補との差別化を考慮して組み立てる。ルートの良し悪しが得票に直結するため、「見えない選挙参謀」とも言われる。地図とにらめっこして一分刻みで計画を練る裏方の仕事——それを深夜一時に缶チューハイを飲みながらやる女子がいるとは、さすがに想定外だが。
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