衆議院選挙の直前に父が倒れて後援会の会長代行をやることになったら、いけすかない二世候補に振り回されまくっている件

透衣絵ゐ

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第13話 素人に何がわかる

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 選挙戦十一日目。投票日まで、あと二日。

 通勤電車の窓に、自分の顔がうっすら映っている。目の下にうっすらとクマ。唇の色が悪い。——昨夜のことを考えると、頬だけが勝手に熱くなる。

 颯真の指先。低い声。車の中の、狭い空間。息ができないくらい近かった距離。自分の口から漏れた、聞いたことのないような声——

(やめてやめてやめて。通勤中に思い出すな)

 隣に立っているサラリーマンの肩が揺れに合わせてぶつかってくる。満員電車の匂い——柔軟剤と汗と朝のコーヒー。昨夜の柑橘系のコロンの残り香が、まだコートの襟元にほんのかすかに残っている気がして、無意識に鼻を寄せかけて、慌てて手を離した。

 ◇

 事務所のガラス戸を引いた。いつもと同じ、コーヒーとコピー用紙の匂い。壁のスケジュール表には今日の遊説ルートが赤いマーカーで書き込まれていて、電話が一本鳴っている。

 颯真が、奥のデスクにいた。

 目が合った。

 ——二人とも、逸らした。

 ほんの一瞬だった。でもその一瞬に、昨夜のすべてが詰まっていた。あの車内の熱。唇の感触。「颯真でいい」と耳元に落ちた低い声。指先が肌をなぞった軌跡。——全部が、まなざしの中でフラッシュバックして、そして消えた。

 何事もなかったみたいに、颯真は手元の資料に目を落とした。

 私も、いつも通りにコートを脱いで、ハンガーにかけた。手が少しだけ震えている。

 昨日までは自然にできていたことが、全部ぎこちない。コーヒーを淹れても渡すタイミングがわからない。スケジュール表を確認するために並んで立ったとき、肩が近くて、身体が強張った。颯真のほうも、不自然に距離を取っている。資料を手渡すとき、指先が触れそうになって——二人とも、同時に引っ込めた。

 昨日までの阿吽の呼吸が、どこかに消えていた。あの「悪くない」チームワークが、嘘みたいに。

 山田さんが首を傾げている。

「お二人、今日なんだかぎこちなくないですか? 何かありました?」

「ないです。何もないです」

 即答。声が裏返りかけた。

(あったけど。あったんだけど。身体の関係とか言えるわけないでしょ山田さん)

 身体を重ねたのに、むしろ距離が遠くなっている。フィクションなら、ここから一気に甘い展開になるはずなのに。現実は——こんなにもぎこちない。

 ◇

 異変は、昼過ぎに起きた。

 固定電話がひっきりなしに鳴り始めた。一本切れたらすぐ次。スタッフの一人が受話器を置くなり、血相を変えて走ってきた。

「先生! 週刊誌に——」

 スマートフォンの画面を差し出される。ニュースサイトのトップに、大きな見出し。

『御堂颯真、父親の地盤を私物化 元コンサルの二世ボンボン議員候補の素顔』

 記事を読んだ。胃の底が冷たくなった。

 内容はほぼ中傷だった。事実を歪曲して、悪意ある見出しをつけて、読者の感情を煽るタイプの記事。颯真がコンサル時代に関わったプロジェクトを「金持ちの遊び」と歪め、後援会活動を「地盤の私物化」と書き換えている。巧妙だった。「嘘ではないが真実でもない」ラインを、ギリギリで突いている。

 SNSで、瞬く間に拡散していた。

 コメント欄を開いた瞬間、吐き気がした。「やっぱり二世は二世」「親の金で遊んでるだけ」「庶民の気持ちなんてわかるわけない」——匿名の悪意が、際限なく連なっている。

 支持者から電話が殺到した。

「あの記事は本当なの?」「御堂さん、大丈夫?」「うちの近所でも噂になってるわよ」

 応対に追われた。私も電話を取った。声を震わせないように、「事実と異なります」と繰り返した。何度も何度も。受話器を握る手の指先が白くなっていた。

 情勢調査の速報が入った。支持率が、目に見えて下がり始めている。せっかく「横一線」まで持っていった数字が、たった半日で崩れていく。

 ショート動画でバズった日の高揚感が、嘘みたいに消えていた。大根を持って笑っていた颯真の顔。あの日の事務所は、みんな笑っていたのに。ほんの二日前のことだ。

 ……こんなに簡単に、壊れるんだ。

 ◇

 午後になって、颯真が変わった。

 もともと愛想のいい人じゃない。でも今日は、いつもとは質が違う。冷たいのではなく——凍っている。

 スタッフへの指示が荒くなった。声のトーンが低い。言葉が短い。普段は「悪くなかった」と言えるようになっていた口が、今日は命令しか吐かない。

「スケジュールを前倒しにしろ」「チラシの追加刷り。今日中に」「電話は俺が出る。余計なことを言うな」

 事務所の空気がピリピリと張り詰めていく。スタッフたちが萎縮している。誰も颯真に近づけない。話しかけても、返ってくるのは最低限の単語だけ。デスクの上に広げた地図をにらむ横顔が、石みたいに硬い。

 昨夜——深夜の事務所で、「お前がいなかったら」と笑ったあの人とは別人だった。目が細くなって、頬が緩んで、あのとき初めて見た本物の笑み。その顔は、もうどこにもない。

 山田さんが意を決したように近づいた。

「先生。お気持ちはわかりますが、スタッフの皆さんも動揺しています。少し落ち着いて——」

「落ち着いてる」

 遮るような声だった。顔も上げない。

「……黙って仕事をしろ」

 山田さんが、黙って下がった。先代の正義先生の頃からこの事務所を支えてきた人だ。何十年もの経験がある人が、何も言えなくなっている。

 ——落ち着いてないじゃん。全然落ち着いてない。

 この人、また壁を作っている。深夜の事務所で少しだけ下りた壁が、朝になって、記事が出て、また一気に積み上がった。昨夜まで見えていた「素の颯真」が、分厚い鎧の中に引っ込んでしまった。

 この人は「助けて」って言えない人だ。ずっとそうだった。一人で全部背負おうとして、誰にも弱さを見せられなくて。でも昨夜——ほんの少しだけ、その鎧を脱いでくれたと思ったのに。

 声をかけた。

「颯真さん」

 名前で呼んだ。昨夜、「颯真でいい」と言われたから。

 颯真の肩が、ぴくりと動いた。でも振り向かない。

「あの記事は気にしないほうがいいです。支持者の皆さんは、ちゃんとわかってます。電話でも——」

「君に何がわかる」

 冷たい声が、遮った。

 ——でも。前とは違う。第一話の「素人が来て大丈夫なの」は傲慢だった。あのときの声は見下すような、余裕のある冷たさだった。

 今のは——恐怖だ。

 声の奥に、かすかな震えがある。目の奥に、追い詰められた動物みたいな光がある。

 追い詰められてるんだ。

 でも——どう声をかけていいかわからない。昨夜のことがあって、距離感が全部狂っている。身体はあんなに近かったのに、心がここまで遠い。

 ◇

 決定的な衝突は、その日の夕方に起きた。

 選挙活動の段取りについて、打ち合わせをしていた。投票日まであと二日。残された時間で、何に注力するか。

 私は後援会として、地元の小さな集会を増やすことを提案した。

「村上さんのところの町内会と、駅前商店街の方々に声をかけて、明日の午前中に二か所で座談会を組めます。お父さんが——会長が築いてきた人脈を使えば、三十人規模の集まりを二つ。一人一人に颯真さんの声を届ける。地道ですけど、確実な方法です」

 颯真は、地図から目を上げなかった。

「効率が悪い。大きな街頭演説で勝負する。数で圧倒するしかない」

「でも、地元の人たちの声を聞くのが大事じゃないですか? お父さんが積み上げてきた——」

「親父の真似をしたいわけじゃない!!」

 颯真が声を荒らげた。

 事務所が静まり返った。

 蛍光灯がジジ、と小さく鳴っている。誰かが机にカップを置いた音が、静寂の中にぽつりと落ちた。壁時計の秒針だけが、カチ、カチ、カチ、と容赦なく時を刻んでいる。スタッフ全員が凍りついている。山田さんが唇を引き結んで、目を伏せた。

「俺は——親父の看板で当選したいわけじゃないんだ。俺の力で、俺の言葉で勝ちたいんだ」

 拳を震わせながら、颯真が私を見た。

 その目が——まっすぐ私を射抜いた。怒りと、恐怖と、焦りと、後悔が全部混ざった目。

「……素人に、何がわかる」

 ——。

 世界が止まった気がした。

 「素人」。

 また、その言葉。

 最初に会ったとき——あの日、事務所に来て、「ああ、会長の代わり? 素人が来て大丈夫なの」って言われた。あのときは怒りで言い返せた。「お互い様じゃないですか」って、啖呵を切れた。初対面の失礼な男に。

 でも今は——もう、あの頃とは全部違うの。

 あの頃の私は、この人のことを何も知らなかった。冷たくて、偉そうで、いけすかない二世候補。それだけだった。

 今は——知ってしまっている。

 深夜の事務所で、一人で演説の練習をしていた姿。「親父の受け売りにしか聞こえない」と、原稿をくしゃくしゃにしていた声。握手で腫れた手を隠していたこと。私が差し入れたオリーブクリームの缶が、いつの間にか半分になっていたこと。コーヒーにミルクを二つ入れること。初めて笑ったときの、目が細くなる顔。

 そして——車の中で、あんなに優しく触れてくれたこと。

 全部知っている。全部知っていて、それでも「素人」って。

 頭ではわかってる。追い詰められてるんだって。ネガキャンで追い詰められて、自分の居場所がわからなくなって、焦ってるんだって。「二世候補」のレッテルが、いちばん触れられたくない場所を抉っていて、本当は助けを求めたいのに、その方法を知らない人なんだって。

 わかってる。わかってるのに。

 ——でも、傷つくものは傷つく。

 あの夜、身体を重ねたのに。「君は君だ」って言ってくれたのに。あの車の中の熱が、まだ肌に残っているのに。

 全部なかったことみたいに、「素人」って突き放すの。

 ひどいよ。ひどい。

 何も言えなかった。言い返す言葉が見つからなかった。あの日の私なら言い返せた。でも今の私は——この人に傷つけられることが、こんなに痛いなんて、知ってしまった。

 涙が出そうで、それだけは嫌で。この人の前で泣くのだけは、絶対に嫌で。

 ——事務所を飛び出した。

 ◇

 事務所の裏手に回った。駐車場と道路に挟まれた、人ひとり分の狭い通路。コンクリートの壁が冷たい。壁に寄りかかった自販機が青白い光を放っていて、缶コーヒーの広告の中の男が、やけに明るく笑っている。自販機のモーター音がブーンと低く唸っている。それだけが、この場所の音のすべてだった。

 遠くから選挙カーのスピーカーが聞こえる。「本日も、お忙しいところ——」。別の候補者のだ。街は選挙の真っ只中なのに、私だけ取り残されたみたいだった。

 二月の夜気が、コートの隙間から入り込んでくる。指先が冷たい。耳が痛い。吐く息が白い。

 泣かない。泣くもんか。泣いてたまるか。

 ——涙がぽたぽたとコンクリートの地面に落ちた。丸い染みが、次々とできていく。冷えた空気を吸い込むと、鼻の奥がつんと痛んだ。

「……泣くな」

 背後から声がした。

 振り向くと——颯真が立っていた。

 追いかけてきた。ワイシャツ一枚、ジャケットも着ないで。二月の夜風に、ネクタイが揺れている。白い息が、一つ、二つと闇に溶けていく。

 気まずそうな顔。眉間に深い皺。腕を組もうとして、やめて、手を下ろして、また組もうとする。居場所のない手。——でも、ちゃんと追いかけてきた。

「さっきは……言い過ぎた」

「……知ってます」

「……すまなかった」

 この人が謝った。あの、フンと鼻を鳴らして「邪魔するな」って言ったあの人が。最初に会ったとき、一言の謝罪もなく踵を返したあの人が——二月の夜風の中、ジャケットも着ないで追いかけてきて、謝っている。

「君がいなかったら、ここまでやれてなかった。それは……わかってる」

 ぶっきらぼうに、でも必死に言葉を紡ぐ。声が低くて、かすれていて、一語一語を喉の奥から絞り出すみたいに。颯真の表情が、壊れそうに見えた。街灯のオレンジ色の光が、この人の頬の影を深くしている。

 ——ずるい。そんな顔で、そんなこと言うの、ずるいよ。
 怒りたいのに、許してしまいそうになる。あの夜の熱がまだ身体に残っていて、怒りと愛しさがぐちゃぐちゃに混ざって、どっちが本当なのかわからない。

 でも——颯真の次の言葉が、私の世界を壊した。

「だから——もう、事務所に来なくていい」

 ……え?

「君をこれ以上巻き込めない。俺の問題だ。俺が一人でやる」

「巻き込むとか、そういう話じゃ——」

「頼むから」

 颯真の声が震えた。今度は隠しきれないほど、はっきりと。

「……これ以上、君を傷つけたくない」

 背を向ける。長い背中が、街灯に照らされて影を作る。ワイシャツの背中に、二月の風が吹きつけている。寒いはずだ。こんな薄着で。でもこの人は、それすら気にしていない。

 ——待って。
 待ってよ。
 私は——

「好きにしろ、って言ったじゃないですか」

 声が震えた。自分の声なのに、どこか遠くから聞こえる。

「最初に。邪魔だけはするなって」

 颯真の背中が止まった。振り向かない。

「……だから、こうするのが一番いいんだ」

 颯真が去った。

 事務所の引き戸が、ガラガラと音を立てて閉まった。その音が、夜の空気を断ち切るように響いた。

 自販機の前に、一人残された。

 ブーン、と自販機のモーター音。缶コーヒーの広告の男が、まだ笑っている。

 追い出された。

 「傷つけたくない」って言いながら、今一番傷つけてるのは——あなたなのに。

 あの夜、身体を重ねた。「君は君だ」って言ってくれた。この手に触れてくれた。名前を呼んでくれた。あの車の中で、私たちは確かに繋がっていた。

 なのに——「もう来なくていい」。

 自販機の青白い光がぼやけた。涙がぽたぽたと、コンクリートに落ちる。冷たい地面に吸い込まれて、染みになって、それだけ。誰にも見えない。誰にも届かない。

 「傷つけたくない」って、あの人、そう言った。

 傷つけたくないから突き放す。それって——逃げてるのは、あの人のほうじゃないの?

 でも、今の私に、それを追いかける力は残っていなかった。

 自販機の光の中に、一人立っている。寒い。指先が冷たい。コートの襟元から、かすかに——昨夜の、あの人のコロンの匂いが、まだする。

 ……ひどいよ。匂いだけ残して、いなくなるなんて。




***
【今日の選挙うんちく:ネガティブキャンペーン】

対立候補の経歴や人格を攻撃する選挙戦術。公選法では虚偽の事実を流すことは禁じられているが、「解釈の違い」として巧みに攻撃する手法は後を絶たない。週刊誌やSNSを使った情報リークもその一種。日本では「品がない」と嫌われがちだが、一定の効果があるからこそなくならない。——そして、攻撃された側の周囲にいる人間が、いちばん心をえぐられる。
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