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番外編
伯爵、最後の夜 ③
しおりを挟む五歳までの記憶は曖昧で、ふわふわした綿菓子のように甘い。
あの頃の母は子供を着飾らせて、人形のように周囲に自慢することに熱心だった。酒に溺れてはいなかったし、フローレンスの名前を呼んでくれた。父だって外に愛人はいても、屋敷に毎晩戻っていた。
何より側にはずっと、兄とテオと乳母がいた。
フローレンスと兄ガーシュ、そして数ヶ月年上のテオドール。
三人は、転げる子犬のようにいつだって一緒に遊び、眠った。彼は『テオ』と呼ぶと、いつだって『フロウおじょうさま』と、はにかんだ笑顔で呼んでくれた。
「テオ」
だからかもしれない。
愛称は、口の中で優しい舌触りがする。
甘くて優しい記憶に溺れたくて、何もかも忘れたくて、その名を呼ぶ。
もちろん、本人のいないときに。
一人のときにだけ。
――それは決まって、自らの熱を鎮めたいときに。
・・・・・・・・・・
フローレンスがガーシュとして、王都の大学に籍を置いていた頃。
友人は皆生粋の貴族の子息たちだった。
そこは大学なんて名ばかりで、真の学徒はほんの一握り。そのまま社交界へと続く道筋の一部と言える場所だった。
話題の大半は、覚えたての酒と女。そして馬と賭け事ばかり。
大学の講義を楽しみにしていたのに。これには随分がっかりとさせられた。
けれどこれも、将来の伯爵としての伝手を培う社交の一部。
彼らは漏れなく、先の社交界で深く付き合っていく相手なのだ。友人達の誘いを、毎回断るわけにもいかなかった。
紳士クラブにトランプ賭博、下町の酒場探検までならまだ良かった。
ある日付き合わされたのは、娼館。
フローレンスはこんな場面でも、母の望む完璧な跡取りでなければならない。
ガーシュのふりを――男であるふりをしなければならなかった。
そもそも、女を抱くなんてこと出来るはずがないのに。
けれど、次期伯爵が買った娼婦の部屋の隅で、毎回じっと縮こまっているのも迷惑な話である。悪い噂と評判は、広まるのも早い。
数度目の娼館で、頭を抱えたフローレンスを助けたのは、テオドールだ。
彼はフローレンスに代わって、娼婦を抱いた。
いつも何処に行くにも、フローレンスは彼を連れ歩いていた。貴族の子息ばかりの場所では、それも珍しくはない光景だったのだ。娼婦の部屋に、従者を同室させる事でさえ。
この時からガーシュ・アイロニー次期伯爵は、娼婦と従者を絡ませそれを眺める、若いのに年寄りみたいな青年、ということになった。
或いは娼婦に目隠しをして、テオドールをガーシュと偽ったり。
どちらも随分な変態行為だけれど、王都にはわりとそんな者も多いらしい。場は丸く収まった。あちらだって商売。金が落ちて行為が成されれば文句も出なかった。
彼女たちはテオドールと裸で絡み、妖艶な姿でフローレンスをも誘う。伯爵様もご一緒にと、男に揺すられながらなお、細い腕を伸ばしてみせる。
それを見たテオドールは無言で、欲に濡れた姿を隠しもせずに、フローレンスを黒い瞳で射貫くのだ。そして見せつけるように、さらに激しく娼婦を揺する。
薄闇とランプと、香水と酒。閨事の匂い。
あの場所は人の本能を刺激する。或いは、狂わせる。
いつもはそんなあけすけに、こちらを見つめたりはしないのに。
強すぎる視線に、まるで自分が抱かれているような心地さえした。
フローレンスはその時、まだ十代だった。
お母さまのための完璧な伯爵を目指していた筈なのに、淫靡な小部屋でよく知る青年と、知らない女の営みを見続ける。
間近で目にする生々しい性の在りように、潔癖な乙女の部分で激しい軽蔑を覚える。それなのに、毎夜一人でやり場のない熱を抱え続ける。夜中に帰宅すると、彼女の下着はいつも蜜で汚れていた。
言い表せないどろりとした衝動を抱えて、初めて己の女の部分に触れてみたのは、娼婦をテオドールに抱かせることを繰り返した、何度目かの夜。恐る恐る触れた場所は、寝台の女達がよがるような刺激なんて与えてくれない。それはただの肉体の内側の感触。
けれど『テオ』と、甘い記憶の名前を呟いた途端。
何故かお腹の奥がきゅうと締め付けられるのだ。
若く未熟な身体が初めての快楽に囚われ、大胆に指を這わせるようになるのはすぐだった。
テオドールが女達にいつもするように胸に触れ、テオドールが擦るように秘めた芽をぬるつく指で捏ねる。名を呼ぶほど、快感は増した。
これでは、若い男女を番わせ、その様をみて楽しむ好き者の老人と何も変わらない。
欲とは恐ろしいものだ。
女の快楽の源泉を知って、フローレンスは娼婦と彼の交わりに、言葉や指を割り込ませるようになった。二人の合わせ目に指を滑り込ませたり、達するテオドールに微笑みかけてみたり。
自分はその場で、上着一枚脱ぎもしないくせに。
寝台で交わる男女は、どちらも職務を全うしているだけ。
フローレンスが命令して、抱かせているのに。
テオドールに、労いの言葉をかけられた例しがない。
主人失格だ。
しかも寝室での有り様を、テオドール本人に知られていたなんて。
それを、別れの夜に知らされることになろうとは。
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