瞳いっぱいの微笑みを

中富虹輔

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一章 八月~九月

三 傘

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 久我に、香澄さんとぼくが話しているところを見られてしまってから数日。
「うそだろう、おい?」
 玄関まできて、ぼくはその現実に立ちすくんだ。……いや、それほど大げさなものではないのだけど。
 いつの間に、ふりだしたのだろう?
「昼休みは、ふってなかったぞ?」
 外は、傘をさしてさえ、外に出ることをためらってしまいたくなるくらいの、土砂降りだった。バス停まで、走っても十五分はかかってしまう。どうやら夕立ではないらしいのは、空の、えらく分厚い雲から、簡単に想像できる。
 予報は、晴れるっていってたのになぁ。ぼくは玄関で呆然と、ばしゃばしゃと音をたててふり続く雨を眺めていた。
 雨足が弱くなるのを待って、バス停まで走るか……。ため息とともに思い、しかしいっこうに弱まらない雨足に、ため息をもう一つ。
「弱ったなぁ……」
 そうしている間にも、バスの時間は刻々と近づいている。バスの接続待ちの関係で、このバスを逃すと今度は次のバス停で一時間くらいは待たされてしまうのだ。
 駅から、電車に乗るか? 駅なら、走れば十分でつけるけれども、今度は家まで遠くなってしまう。
 ええい、しかたない!
 バス停まで走ろうと決意を固めたそのとき、
「あら、久保くん」
 後ろからかかった声は、まちがえようもなく、香澄さんのものだった。ぼくは振り返った。「あ、香澄さん」
「どうしたの?」問われるままに、「傘、忘れちゃって。バス停まで走ろうと思ってたんですよ」ぼくは応えた。
「バス停って、三丁目の?」
 ぼくはうなずいた。「あ、なら、ちょうどいいわ。家が、その近くにあるの。入っていけば?」
「……いいんですか?」
「いいも悪いも、この雨じゃ、バス停に着く前に濡れネズミになっちゃうわよ」
「はぁ……」
 ぼくは生返事を返し、「じゃ、決まりね」香澄さんはいって、傘を開いた。地味な、チェックの傘。この柄が香澄さんの趣味で選ばれたものなら、香澄さんはずいぶん渋い趣味だ。
「はい、どうぞ」
 香澄さんの差し出す傘の中に、「すいません」応えて、入る。そうやって並んで立ってみると、ずいぶんと彼女は小さいことに気づく。ぼくの身長がわりと高めだとのもあるのだろうけれども、しかし肩の位置の差は、それだけの理由ではないはずだ。うんと手を上にあげている香澄さんに気づき、「持ちますよ」いってぼくは、香澄さんの持っている傘へ、手を伸ばした。
「あ、ごめんね」
 応えて、香澄さんはぼくに傘を手渡す。身長差が大きいので、雨が香澄さんに届きやしないかと少し冷や冷やしながら、ぼくは香澄さんに歩調を合わせて歩いた。
 少しの間、ぼくらはただ黙々と歩いていたのだけれど、なんとなく、こうして黙って歩いているのも気詰まりな気がして、ぼくは口を開いた。
「ずいぶん、渋い趣味なんですね」
「え?」
「あ……この傘」
「あはは。そう?」苦笑まじりに言葉を返す香澄さん。「ほんとは、もうちょっと女の子女の子した柄のが好みなんだけどね」
 ……じゃあ、どうして香澄さんはこんな柄の傘を使っているんだろう?
「彼氏の好み、ですか?」
 ふと気づいていたら発していた問いは、ぼくにしてはずいぶんと大胆な問いだった。いってしまってから、とんでもないことを問うてしまった、と思ったけれども。
「あはは……」あいまいな笑いで逃げる香澄さん。
 ……そうだよなぁ。こんな、きれいな人なんだもん。彼氏の一人くらい、いない方がおかしいか。
 ……そうだとしたら、もしかして、「失恋確定」というやつなのだろうか? その瞬間、ぼくの胸に小さなナイフが突き刺さる。
 なんだか突然、自分がみじめになったような気がした。彼氏のいるような人と一緒に、歩いていたって……。
「すいません。ぼく、走ります」
「え?」
 香澄さんの返事を待たず、ぼくは香澄さんに傘を渡すと、バス停めがけて走りだした。雨のなかを走りながら、ますますみじめになっていく自分を、ぼくは自覚していた。

「長路、ずぶぬれじゃない!」母さんの言葉を聞き流し、「風呂、はいれる?」ぼくは問うた。母さんはうなずき、「そうね。風呂にはいって、はやく身体をあっためなさい」母さんにいわれ、ずぶぬれの服を脱衣所に脱ぎ捨てて、着替えをとりに、部屋にあがった。
 湯船のなかで、ぼくはため息をついていた。
 自分がばかみたいだった。あの、夏休みのたった一瞬の出来事で、なにかがあるような気になっていたなんて。彼女にとっては、ぼくなどは「その他大勢」の一人でしかないのに。もう一度ため息をついて、ぼくはユニットバスの天井を仰ぎ見た。

 翌日、しっかり熱を出してしまったぼくは、大した熱ではなかったけれども、学校を休むことにした。……別に、学校にいかない……いけない……わけではなかったんだ。「彼女」、香澄さんは三年生なのだから、そうざらに、偶然ばったり、なんてことはないだろうから。ぼくはまた、布団のなかでため息をついた。
 時間がたつのが遅い。昼過ぎには熱は引いてしまい、ぼくは布団のなかで、遅々として進まない時計の針を、ぼうっと見つめていた。
 本棚に目を向ける。本がいっぱいになるたびに買い足し買い足ししていったぼくの本棚は、全部で三つ。あれこれと買った本は、全部で何冊くらいあるのだろう? コミック、雑誌なんかも含めれば、六、七百冊くらいは、あるだろうか? よく、集めたものだ。これほどの数の本を。……小遣いをほとんど、本の購入に当てているのだから、増えるのも当然といえば当然か。ベッドから起きあがり、まだ読んでいない何冊かの本の中から、一冊を抜き出してベッドに戻る。ぱらぱらと本をめくって、ぼくは本の間にはさまっている広告などをまとめて巻頭にはさみこんだ。
 ぼくは、本の一ページ目を開いた。

 いつのまにか、うとうとしていたらしい。本がベッドの下に落ちていた。どこまで読んだっけ? 本をめくりながら、見覚えのあるページをすっとばしていく。
 ちょうど、目的のページらしき場所を見つけだしたときだった。部屋のドアがノックされる。
「長路、女の子が、お見舞いに来てくださったわよ」
 母さんの声。女の子? 誰だろう? ……しばし考えて、やはり見舞いにきてくれるような酔狂をするのは、久我だろうとあたりをつける。
「いいよ、入ってもらって」
 ぼくは応えて、そしてドアが開いた。上半身を起こして、ドアの方に目を向け、
「香澄さん!」
 ぼくは驚いていった。どうして、香澄さんがこんなところに? ぼくは我を失って立ち上がる。同時に母さんは引っ込んでいき、部屋のドアが閉じられた。
「だいじょうぶ? からだ?」
 香澄さんの問いに、「そんな、重い風邪じゃないですから」香澄さんは「でも、寝ていなきゃだめでしょう? 無理しないで」ぼくはうなずいて、ベッドに戻った。
「よく、家、わかりましたね」ぼくの問いに、香澄さんはうなずいた。「クラスの人に聞いたの。いっておきたいことがあったから」
 優しく香澄さんは微笑んだ。……そんなことのためにわざわざ……クラスは教えていなかったのだから、苦労しただろうに。
「……わざわざ来てもらわなくても、明日なら登校してましたよ」
 ぼくの言葉に、香澄さんは小さくうなずいた。「そうね……。でも、早いうちにいっておきたかったから」
 そして彼女は、ゆっくりと息をすって、「えーと、その……」しばし口ごもる。
「……だめね。私、口べただから。どんなふうにいえばいいか、わからなくなっちゃって」弁解するようにつぶやいたあと、香澄さんは、
「あの、傘、ね。……久保くんがいってた、そういうのじゃなくて、……ええと、ああん! もう!」
 最後、かんしゃくを起こしたように香澄さんはいって、そしてきぜんとうなずくと、
「ああいう柄、私が中学生のころの趣味なの。だから、その、彼氏とか、そういうのじゃなくって……ええと、その、だから。……私ね、そういう人は、いないの」
 一息にまくしたてて、彼女ははぁと息をついた。
 ぼくはといえば、呆然とそれを聞いているだけで、そのまましばし、ぼくの思考は停止していた。やがて頭が回転をはじめたころ。
「……本当、ですか?」
「そういうことでうそをついたって、どうにもならないでしょう?」
 香澄さんは、いって笑った。
 ……そうか。違ったのか。あれは、ぼくの勝手な誤解だったんだ。ぼくは胸のなかで安堵のため息をついた。……でも、そんなことをいうためだけにわざわざ?
「香澄さん、わざわざ、そんなこと、いうだけのために?」
「『そんなこと』ってこと、ないでしょう? そんなこといいふらされて、困るのは私なんだから」
「……ぼくが、そんなことべらべらしゃべるように見えますか?」
「見えないけどね。一応のためよ、一応の」
 笑いながら香澄さんは応えて、立ち上がった。ぐるりと部屋を見回して、ぼくの本棚に目をとめる。
「これ、全部久保くんの本?」
「そうですよ」ぼくは応えて、香澄さんはため息をついた。「いっぺんでいいから、私もこんなふうに、本棚に本を山積みにしてみたいなぁ」見上げるようにぼくの本棚を眺めて、
「へぇ。妖精とか、魔法とか、好きなんだ?」
 ははは、と、ぼくはてれ笑いを返した。「おかしいですか?」ううん。香澄さんは首を横にふって、「すてき。私も、小さいころ、そういうのに夢中になってた憶え、あるから。そういう夢、今でも見れる人って、うらやましいな」
「夢、見るのはただだから」
 ぼくは応えて、そして香澄さんはうなずいた。「そうよね。夢を見るのはただだもんね」そして彼女は、淡い、優しげな笑みを浮かべた。
「一年生にそういうこと、いわれるなんて思わなかったな」
 香澄さんの言葉に、なんだかぼくは、悪いことをしたような気になってしまった。
「すいません。変なこと、いっちゃって」
 香澄さんは、首を横にふった。「ううん。気にしないで。久保くんにいわれて、もう一度、私も夢を見てもいいかな、って、思うようになってきたから。じゃ、ごめんね。おじゃましちゃって」
「とんでもない」ぼくは応え、立ち上がった。「あ、気にしないで。ゆっくり休んでね、久保くん」しばらくどうしようか戸惑い、結局ぼくはベッドに戻った。香澄さんは部屋を出ていき、そして部屋のドアが閉まった。
 たぶん、今、ぼくの顔はだらしなくにやけているだろう。こんな顔を誰かに見られたらことだったので、ぼくはどうにかして顔の筋肉を緊張させようと、頬をぺしぺしと叩いてみたり、深呼吸してみたりしていた。
 その夜、ぼくはなぜだか、広い、広いはらっぱを、妖精達が乱舞している夢を見てしまった。

 翌朝。すっかり熱も引き、ぼくは何事もなかったかのように、校門をくぐった。教室に入り、カバンを机の上に放り投げる。
 近くでなにやら話をしている連中のところにいき、会話の合間を見て、「誰でもいいけど、ノート、貸してくれないか?」ぼくはいった。「ん? いいよ。ノート、机の中に入ってるから、勝手に持っていって」
「ん、さんきゅ」ぼくは応え、そいつの机のなかを引っかき回す。と、そのときだった。
「はよ、久保くん」
 後ろからの声は、久我のものだった。ぼくはふりかえって、「あ? おはよ」言葉を返した。
 ……あれ? 考えてみたら、香澄さんにぼくの家を教えたのは誰なんだろう? ぼくの家を知っているのは、それほど多くはないのだけれど。
 一瞬、思考に我を忘れてしまうけれども、ぼくはすぐにもとの作業に戻った。お目当てのノートを捜し当てると、それを持って、席につく。
 いつもの、平凡な授業が、始まろうとしていた。
 ホームルームが終わり、一限目から移動教室。
「……冗談じゃないわよねぇ。うちの担任、ホームルームが長いのに。移動教室なんて」ぶつぶつとつぶやきながらぼくの横を歩く久我。何だっていいと思うけどな。そう思ったけれども、彼女には簡単に苦笑を返した。
 と、
 リコーダーを抱えた香澄さんが、こちらに向かって歩いてくるのが目にはいる。
「久保くんも移動教室?」ぼくらに気づいた香澄さんは、声をかけてきた。「そうなんですよ」ぼくは応えた。
「お隣の人は、彼女さんかしら?」
 香澄さんのとんでもない言葉に、「まさかぁ」応えたのは久我だった。「あ、そうなの?」わずかに驚きの色を見せる香澄さん。そして香澄さんは、
「昨日はありがとう。お名前は?」
 久我に問うて、彼女は、
「久我です。久我……由美香」応える久我に、香澄さんは微笑んだ。
「……そういえば、香澄さん、音楽ですか?」ぼくの問いに、香澄さんはうなずき、
「うん。できれば、音大にいきたいな、って思って」へぇ。ぼくと久我は同時に驚きの声をあげた。あ、でも。なんだか似合っている。「音楽、好きなんですか?」もう一度問うて、香澄さんはうなずいた。
「うん」小さな微笑。「もう一度、夢、見てもいいかな、って思いはじめてるんだ」
 ……あ、昨日のこと。
「すてきですね」久我の言葉に、「そうかな?」香澄さんは小さくはにかんだ。「じゃ」声をかけて歩いていく香澄さん。その後ろ姿を見送りながら、ぼくは久我に問うた。「香澄さんにぼくの家教えたの、久我だったのか」
「うん、そだよ」久我は応え、「どして?」問うた。
「いや、どういうわけ、っていうんじゃないんだけどね。いこう。遅れるよ」ぼくは久我を促し、歩き始めた。
 途中、
「鈴木さんてさ、きれいな人だよね」
 久我のいう「鈴木さん」が誰のことがわからず、しばし当惑するぼくだったけれども、それが香澄さんのことだと気づき、
「うん。きれいな人だね」素直に肯定の言葉を返す。「何年生なの?」問われて、「三年生だって」ぼくは応えた。「三年生……」事実を確認するような意味を込めた言葉。
「三年生なのか、鈴木さん……」
 久我のつぶやきが、やけに大きな声に聞こえていた。
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